ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

学校図書館とこども(人間)を知らない維新の会へ(191220)

2019年12月20日 | 文化の目
 日本維新の会が学校司書を制度化してくださいとの要求に、「AIで置き換え可能であり、無駄遣いだから、不要」と主張している。
 暴論過ぎて、何をか言わんやだ。ちょット待て! 学校司書は学校図書館の業務を担う。つまり、学校司書を論じるためには、学校図書館を同時に論じなければならない。図書館とは図書等の資料が集められており、利用者と資料を結びつける業務が司書による図書館業務だ。本棚にモノがあるだけでは、こうした機能を果たせない。このことは公共図書館でも同様だが、まして小中高の学校図書館ではなおさらだ。
 これを機械で代替可能だという思考を私は理解しかねる。機械が応答できることは、「〇〇という本はありますか?」、「〇〇に関する本はありますか?」、「〇〇の著者の本はありますか?」などなら、対応できる。聞きたいことが明確ならば機械でも可能だが、本の勧めとは、その子が何を何を求めているのかなどをしっかりと聞き取り、ひとつひとつ言葉を積み重ねていかなければ出来ないことだ。
 はっきり言えば、「国語能力の向上」などを超えた関心と感度を誘い出すことだ。まして子どもが10人居れば、10通りあり、同じ子でもそのときそのときで気持ちは揺れる。こうした変動をも見ながら対応するのが司書というものだ。
 まして学校図書館の学校における位置づけは、教科学習の補足だけではない。学校の基本的な場はクラス(集団)にあるが、図書館等の場はクラスや教科に拘束されない。ひとりひとりの子どもが直接図書等の資料にあたれる場だ。学校司書は個々の子どもの個性を尊重し、プライバシーを守ることは、基本的な責務だ。
 まして学校全般が管理統制の場として強化されている時代にあって、自由・多様性を公然と認める場として図書館は益々価値あるものでなければならない。図書との出会いは、生きるための哲学を教養を涵養できるものであり、図書館は素敵な場になるはずなのだ。
 
 因みに私自身、中・高校と学校図書館に足を向けて眠れないほどのお世話になった。だからこそ、そこにいた学校司書との出会い、付き合いから受けた影響は大きかった。また、公務員時代には公立図書館で児童書担当を長くやった。読み聞かせを随分やったものだ。
 図書館とは単に図書等の資料の山があるのじゃない。それを探し出し、出会う楽しみを満たすのが図書館だ。だから、学校司書は資料を「はい、これ」と子どもに渡すだけではないのだ。子どもと一緒に考えることも重要な役割なのだ。
 
 人間が社会をつくっているのは、本能によるものではない。学習により、日々新たに創り上げていくものだ。学校図書館は、こうした社会の基礎の基礎を創り上げることにも貢献してほしいものだ。
 
 これは蛇足かもしれないが、人間を知ろうとしない人間(政治集団)が政治を担えるのか? 


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