城ケ島の対岸、三崎南端の北条湾西岸にある高台を歩いてみました。
市街を見下ろす台地に 市役所・市体育館・三崎中学校・市図書館などがあり、その一角に
「三崎城跡」碑
傍らの説明板によると;
この辺り一帯は城山といい、土塁・空堀を幾重にも巡らせた中世の山城が
ありました。 築城年代は不明ですが、戦国時代に三浦氏が築いたともいわれ
1518(永正15)年 三浦義同が北条早雲に敗れ 油壷の新井城で滅んだとき
その背後を守る重要な支城であった三崎城もまた 落城しました。
その後 この城には 北条氏が5代にわたり兵を置き安房・里見氏の侵攻を防いだ
ことから、「北条山」という地名が 今も残っています。 しかし、1590(天正18)年
豊臣秀吉によって小田原北条氏は滅亡し、三崎城は廃城となりました。
(説明パネルより)
さらに、その先の住宅地の片隅に ひっそりと・・
「会津藩士の墓」
説明板によると;
江戸末期 黒船来航後、幕府は江戸の安全を守るため 当時 雄藩の
ひとつであった会津藩に命じて、1811(文化8)年 この城山に陣屋を、
さらに 城ケ島安房崎に大筒・狼煙台を設けて防備に当たらせました。
任務に就いていた長い間に 病などで亡くなった藩士達やその家族も
多く、葬られた墳墓はここに37基を数えたといいます。
墓地の入口近くに、歌碑が1基。
藩士の墓石と共に 見つかったものだそうです。
「 あ里し世乃(ありし世の) 昔し尓(昔に)かはる 三崎地に
吾妻濃人裳(吾妻の人も)恋しかる羅舞(らむ) 」 (詠み人知らず)
城ケ島・三崎を歩いて・・
24,769歩
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