スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

三浦・和田の里

2013-03-05 | 横須賀・三浦


気温が上がって、一気に春がやってきましたね~☆
今度こそ ホンモノでしょう!  わくわく


先週、鎌倉幕府を支えた三浦一族の雄 和田義盛が
活躍の基盤としていた「和田の里」に、その旧蹟を訪ねました。

和田義盛(1147-1213)

三浦大介義明の嫡男 杉本太郎義宗の子。
頼朝に従い平氏追討に活躍の後、幕府の侍所別当に任ぜられる。
1213(建暦3)年 北条義時の策謀による「和田の乱」で死去。



先ずは、義盛ゆかりのお寺へ。

鹿穴山 願生院 来福寺

浄土真宗のお寺。

寺伝によれば;
建永年間(1206~
7)義盛が開基となり、僧祐憲によって
鎌倉名越に建立された天台宗の寺院に始まるといわれます。

 1217(建保5)年 この和田の地に移され、1213(建暦3)年の
和田合戦に敗れて死んだ義盛を供養する菩提寺となりました。


本堂向拝の龍

裏面の刻銘から、房州の名工 「波の伊八」こと武志伊八郎信由(1751-1824)の
作とされますが、1825(文政8)年完成の前年に他界しており、伊八が最晩年に
手がけ、弟子の森久八(嶋村久八郎由勝)が仕上げたのではと言われています。

見事な木彫です!  アップで・・




お寺の裏手に出ると、広々と一面の畑が広がっていました☆



正面遠くには、富士山が今日は霞んで見えます。


「塔の台」と呼ばれるこの辺りには 義盛が信仰する地蔵堂があったそうで、
のちに、和田合戦を生き延びた義盛の孫 朝盛(とももり)が家来らと共に
この地に逃れ、田畑を開墾しながら余生を送ったと伝えられています。
朝盛の法名に因んで、今も「高円坊」という地名が残っています。

朝盛塚



わくり大井戸」跡

塔の台の山裾に湧き水があり、三浦五井のひとつといわれて和田の
里の田畑を潤していました。 僧行基が発見したという説もあるとか。
 
かつて義盛が、地蔵尊参拝の折に立ち寄って身を清めたという
その流れは 「精進(しょうじ)川」という名で呼ばれていました。




大根・春キャベツ・紫キャベツ・ブロッコリーなどの畑を左右に見て、歩いて行きます。
やがて、右手に入った所に石の鳥居。 つんのめりそうに急な石段を51段上ると、

神明白旗神社

祭神: 天照大神 和田義盛

『新編相模国風土記稿』には「和田義盛の霊を祀り その肖像をご神体とす」と。
また、明治以降に編纂された地誌によると、和田合戦から51年後の1263年
(弘長3年)に、里の郷氏が義盛の遺徳をたたえて創建したとしているようです。

社殿の扁額は、横須賀鎮守府長官 上杉彦之丞氏の筆



境内から見下ろすと、鳥居越しに「和田の里」の風景が広がっています。





さらに歩いて、R134 「和田」の信号を跨いだ先に

「天王社(八雲神社)」

祭神: 素戔嗚尊(牛頭天王)
1687(貞享4)年に藤原朝臣大井甚五左衛門が勧請。

素朴な社殿の横に、石碑が建っています。
和田義盛旧里碑

1921(大正10)年に、三浦氏の末裔 三浦英太郎男爵が
先祖の遺徳を偲んで建立したものだということです。


「和田」の信号まで戻ってR134 を北上。 道の左脇に

安楽寺跡

かつて、義盛の舘の鬼門を鎮護するため「仏照山 安楽寺」という
浄土宗のお寺が建立されてありましたが、1943(昭和18)年に
道路拡張工事のため廃され、本尊は近くの天養院に移されました。


五劫山 天養院 宝泉寺

浄土宗のお寺で、本堂は江戸時代の建立といわれます。
   創建: 1559(永禄2)年
 本尊: 阿弥陀如来像
客仏: 薬師三尊像
一木造の薬師如来像は行基作と伝わり、胴部に縦の傷があります。
和田合戦で義盛の受けた刀傷跡と言われる「身代わり薬師」の伝説。
脇侍の日光・月光菩薩像と共に、県指定重要文化財になっています。
 
寄木造の十二神将像(室町時代の作)・和田義盛像(室町時代の作)も。
いずれも撮影不可ですが、拝観することができました。


20,537歩




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