2006/8/28 ㈪ 曇り
囲碁 手どころ
切りによって手が生じ、また切りによって妙機が生まれる。
白先(先手で分断は出来ないかと考える)

これも切断がテーマである。
黒に致命的な打撃を与えたいのだが、俗筋では成功しない。手筋を連発してうまく仕上げていただきたい。
1図

白1のサガリはいかにも無骨で、芸のない感じ。黒2とつながれ、白3、黒4ときかすだけでは、ただ切断したというだけの話である。
2図

白1、と打つのも俗筋である。黒4に連絡されて前図と大同小異。失敗である。
3図

白1のツケはなかなか鋭い。しかし鋭いだけで、手にはならず、黒2のツギで成功しない。白3だと、黒4,6まで、やはり上辺を切断しただけの結果に終わってしまう。
4図(正解)

白1とここへ切りを入れるのがうまい筋であるそして黒2にかかえさせてさらに白3と切り込む。この連続技なくして本題の成功はありえない。
5図

ついで黒1と一子をかかえれば、白2のアテが先手となり、白4にあてこんで上辺の五個を召し取ることができる。
6図

白の切込みに黒1と一子を抜くなら、ここまでにとどめて白2の切断に向かう。次に黒イのワタリは白ロで成功せず、やはり黒五個は逃げたれない。
7図

五個を救うなら、白1の切りのとき黒2とでも打つよりない。白3と抜いて好結果といえよう。3ではイに下がり、黒3白ハ、黒ニ、白ハと一子をかかえることもでき、いずれをとるかは場合によって違ってくる。
8図

白1の切りに黒2とわたるなら、白3,5をきかして7のカカエまでである。隅を大きくえぐって成功であり黒として白イの切断の残るのがいかにも切ない。
驚くべき記事を目にしました。
かの有名な掲示板の書き込みではなく、なんと、日経新聞においてです。
投稿者は、直木賞作家で、映画にもなった「死国」を書いた女流作家です。
18日の日本経済新聞 コラムより。
子猫殺し―――坂東眞砂子
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投
げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死
骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、
もらってくれるところなん
かない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、
子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、
餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。
もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、
子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、
最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、
子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わること
でない限り、
人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、
自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、
社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
断固抗議する。
動物愛護法以前に、この人の人間としての資質を疑います。
「人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。」
といいながら、生まれた子猫を惨殺する自分の行為は何なのか!!
この言葉をそっくりそのままこの作家に返してやりたい。
また、こんな記事を掲載した日経新聞の報道機関としてのモラルを問うとともに、断固抗議します!!

囲碁 手どころ
切りによって手が生じ、また切りによって妙機が生まれる。
白先(先手で分断は出来ないかと考える)


これも切断がテーマである。
黒に致命的な打撃を与えたいのだが、俗筋では成功しない。手筋を連発してうまく仕上げていただきたい。
1図

白1のサガリはいかにも無骨で、芸のない感じ。黒2とつながれ、白3、黒4ときかすだけでは、ただ切断したというだけの話である。
2図


白1、と打つのも俗筋である。黒4に連絡されて前図と大同小異。失敗である。
3図


白1のツケはなかなか鋭い。しかし鋭いだけで、手にはならず、黒2のツギで成功しない。白3だと、黒4,6まで、やはり上辺を切断しただけの結果に終わってしまう。
4図(正解)


白1とここへ切りを入れるのがうまい筋であるそして黒2にかかえさせてさらに白3と切り込む。この連続技なくして本題の成功はありえない。
5図

ついで黒1と一子をかかえれば、白2のアテが先手となり、白4にあてこんで上辺の五個を召し取ることができる。

6図

白の切込みに黒1と一子を抜くなら、ここまでにとどめて白2の切断に向かう。次に黒イのワタリは白ロで成功せず、やはり黒五個は逃げたれない。
7図

五個を救うなら、白1の切りのとき黒2とでも打つよりない。白3と抜いて好結果といえよう。3ではイに下がり、黒3白ハ、黒ニ、白ハと一子をかかえることもでき、いずれをとるかは場合によって違ってくる。
8図

白1の切りに黒2とわたるなら、白3,5をきかして7のカカエまでである。隅を大きくえぐって成功であり黒として白イの切断の残るのがいかにも切ない。
驚くべき記事を目にしました。
かの有名な掲示板の書き込みではなく、なんと、日経新聞においてです。
投稿者は、直木賞作家で、映画にもなった「死国」を書いた女流作家です。
18日の日本経済新聞 コラムより。
子猫殺し―――坂東眞砂子
こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投
げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死
骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。
私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、
もらってくれるところなん
かない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、
子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、
餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。
もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、
子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、
最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、
子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わること
でない限り、
人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、
自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、
社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)
断固抗議する。
動物愛護法以前に、この人の人間としての資質を疑います。
「人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。人は神ではない。」
といいながら、生まれた子猫を惨殺する自分の行為は何なのか!!
この言葉をそっくりそのままこの作家に返してやりたい。
また、こんな記事を掲載した日経新聞の報道機関としてのモラルを問うとともに、断固抗議します!!