夜更けて つらつら思うこと。
母の三回忌だった。
去年の今頃は一周忌をやったというのに、翌年が三回忌。
仏教界の数え方は不思議だ。
昨年末に寺から葉書が届いていた。
主旨は、
来年4月2日は、●●●●(戒名)の命日である。
それより以前に三回忌を行いなさい。
うちのお寺は、この頃とこの頃は多忙だから、
それを避けて、早めに日程を決めて連絡せよ。
一昨年の年末にも、
母の一周忌と父の二十七回忌をやりなさい、と来た。
これはお寺の営業行為だろーねえ。
なんていうか、余計なお世話だわ。
やろうと思う時にこっちの都合に合わせてやるわよ。
去年の一周忌は、父の二十七回忌も兼ねて、
近場の親族に集まってもらい、一応、無難に終えた。
叔母と義理叔父(叔母の夫)は、できるだけ大勢集めてやりたがるが、
亡き母のために集まったようでいて、中身はどうせ親族の親睦会だ。
大勢い集めて嬉しいのは、2人だけ。
従弟の母(義理叔母)の一周忌も、叔母が仕切って20人集めた。
それでも、誰と誰が来なかったとブツブツ言っていた。
なんて面倒くさいんだろう。私には理解しがたい感覚だ。
母の葬儀の時に懲りて、
叔母と義理叔父に仕切られるつもりは、もやはサラサラない。
叔母が挙げた半分の人数に絞り、ささやかな一周忌をした。
母の葬儀の時に、私は心底うんざりした。
喪主の私がNOという事をことごとく撥ね退けて、義理叔父が仕切った。
母の弟である叔父が見るに見かねて、喪主の言うことも聞いてやれよ、
と意見してくれたから、後半はほんの少しだけ私の言い分が通ったが、
地元のやり方を知らない者は黙って従うのが筋、
と思い込んでいるからたまらない。
違うって、そういうの、オジサンの望むやり方だってば。。
母が亡くなる前の2日間寝ていなかった私は、
母の亡骸を自宅に連れ帰ってから数時間後に、4時間ほど眠った。
その間に、家族葬だった予定は、普通の規模の葬儀にかわり、
火葬の日まで義理叔父が決めていた。
こちらでは、なぜか先に火葬し、その後で葬儀を行う。
母が亡くなったのは、4月2日の夜中23時半過ぎ。
母を病院から自宅に運んだのは4月3日の1時ころ。
義理叔父は、母を、3日の夕方か4日の午前に火葬すると言った。
丸4年病院生活を送った母を、
やっと、・・死んでやっと念願の帰宅を果たした母を。。
だいたい死後48時間以上経たないと、火葬はできないはずでは?
私が反論するより先に、
その場に駆けつけていた住職が「それはダメだ!」と一喝したので、
火葬は5日の午前に延びたが、
あと1日家に置きたいという私の言葉を、到底許しがたいと退けた。
住職もあと1日家で寝かせてあげようと説得したのに。
自宅の布団に横たわる母の顔をしみじみながめ、
きちんと別れを伝えた記憶が・・私には残っていない。
ほんとうに慌ただしく過ぎた。
遠方の親類達にも、義理叔父は自分の段取りを伝えてあったので、
それに合わせてやりたかったのだろう。
遠方から来た人に申し訳ないから、延ばせないの一点張りだった。
いや、真実を言えば、
好天の中(それまでの雨模様は、母が亡くなった日から晴れた)、
漁師の義理叔父は、漁に出られないことにヤキモキしていた。
それが火葬を早めたかった本当の理由だ。
無論、私も、さすがにそれは口に出さなかったけど。
漁に出られない日が長引くのが嫌なんでしょう、とは。
そこから、葬儀中はことごとく義理叔父と対立し、
喪主は意見を挟むもんじゃない、お前は地元のやり方を知らない!
いや、そんなやり方は嫌だ。そこは何でそんなふうにをやるの!
連夜口論しながら、数日間の葬式を終えた。
叔母も従弟も、義理叔父の肩を持って敵に回り、
おしゃべりな叔母は、葬儀後もいろんな人に私の悪口を言った。
私を目の前にしても同じ愚痴を飽きるまで繰り返した。
こういうのは毎度のことだ。
脳出血で倒れてから三つ目の、
この世の果て、あの世の入り口に建つ「老人病院」に入院中、
ある日、母の状態が急変し、症状はみるみる悪化した。
そこで私が、医師の診断にはっきりと不満をあらわした時、
叔母と義理叔父と従弟は、病院に従わない私を分別がないと責めた。
ヤブ医者は、自分の範囲ではこれ以上治療ができないとのたまった。
こんなことを平然と言う医者しか、この病院には置いていないのか。
老人病院とはこういう所か。
この程度のヤブを医師とありがたがって、一切逆らうなというのか。
叔母たちは、
どうせ回復しないんだから、病院に任せるべきだと私を怒った。
胃瘻して寝たきりで、どっちみち回復しない者を、
医者がこれ以上治療できないと言うんだから、もういいじゃないか。
なんで、このまま死なせてやろうとは思わないんだ、
こんなに苦しんでいる者をなんで生かしておきたいんだ、と。
病院に任せるとは、
何かの反応で、急に全身紅色に腫れ上がってしまった母を、
このまま放置して看取ってしまおうという意味だ。
物も言えず荒い息で苦しみ続ける母を、
いったい何日放置すれば死なせられるのか。
この症状は死と直結するものなのか。
高熱を出し、まさに真紅!という色に腫れた身体で苦しむ姿を、
ながめていればそのうち死ぬから、黙って見守れ、というのか。
数日で死に至るような状態なのか、・・いや絶対、これは違う。
寝たきりで胃瘻を続けて、いつか衰弱して死んでいくのと、
この状態を放置するのとでは、まったく話が違う。
本人の意に180度反して寝たきりとなった母を、
娘の私が、ずるずると長く生かしておきたいわけがない。
話の次元が違う!
今回は対処しなきゃいけない状況なだけだ。
あの時も、3人は敵になった。
時々彼らは、思考回路がとても似る。
3人はこれを機に、母の・・・
いつ終わるのか先の見えない日々を終わりにしたがっていた。
しかし、結局、
叔母らの猛反対を振り切って転院させると、母の容態は1日で改善した。
原因は、投薬と日光が引き起こしたアレルギーだった。
転院した先の医師はすぐに気づき、その薬を中止し、日差しを遮断した。
非常に低レベルの誤診だった。そんな程度の病院なのだ、あそこは。
・・転院先は、ケガや病気の人が行く普通の総合病院である。
そこに居たひと月は、母は意識がはっきりし、
看護師や見舞い客の弾んだ声が耳に入るのを喜び、顔を輝かせた。
私が聞くことにも、うなづいたり首を横に振って明確に意思を伝えた。
母は自分の状況も理解し、昔のことも、孫や犬もことも懐かしんだ。
身体を動かせないだけで、本当ははっきりと意識も意思もあったのだ。
それなのに、あの老人病院では・・・母は常に薬で眠らされていた。
薬が切れかけた時間にだけ、母は弱々しくかすかに反応し、
私の話に全力で応答しようと、瞼を閉じたり口を動かしてみせた。
老人病院というものの何たるむごさよ。
身体がすっかり回復すると、母はまた元の老人病院に戻された。
娘の判断の方が適切だったと分かっても、
叔母はしばらく文句を言い続けた。
病院のいうことを聞かないで、追い出されるところだった、
追い出されたら、自宅で介護などできないんだから、言うなと。
同じ事を、本人が飽きてしまうまで言い続けた。
毎度のことだ。
たまに私が強く主張すると、彼らは私を頭がイカレてると思うらしい。
譲れないものは譲れないと理屈っぽく反論する女を田舎は好まない。
どんな場合も、上や横に倣って仰せのまま、逆らわない者を好しとする。
あ~ぁ こんなことまで思い出して、ついつい書いてしまった。
とっくに済んだ事なのに、どこかで恨みが残っているらしい。
真夜中に書き始めると、余計なことまで書いちゃうな。
たぶん、どこかで吐き出したかったんだな、わたし、ずっと前から。
今回の三回忌は、私1人でやるからと2ヶ月前から言っといた。
「あげ法事」にした。
それにしても・・あげ法事は奇妙なものだった。やった感がない。
お墓に花を活け、線香をあげ、手を合わせて、
お墓の中にいるのか、仏壇にいるのか、
お空にいるのかどこにいるのか分からない母に、
少しだけ話しかけて、墓参りを終え、
お寺に行って、
アレ何て言う? お寺の中の各家の御位牌が並んだ場所・・の、
我が家の位牌?の前に備えられたお膳や線香立ての前に立って、
供物をそなえ線香を立て、また手を合わせ・・・
母はここにいるの? まさかね。いろいろ拝む場所があるもんだ。
私の様子を見守っていた住職の奥様に、
「もう済みましたか、こちらでお茶でもどうぞ」と奥に通されたので、
まずは御布施と「塔婆の料金」を支払い、お茶をいただき世間話10分。
で、さっとおいとまして車に乗り込んだら、奥様が追いかけて来て、
「ごめんなさぁ~い! 塔婆を渡ししてなかったわ!」だって。
だから、また、お墓に戻って塔婆を立てて、終了。
住職は不在だった。
母の三回忌のためのお経を、
住職はいつあげたんだろう?
目の前で聞いてないから、有り難みがない。
あげ法事って、こうものか。。。
ちっとも「あげ」てもらった感じがしない。
こちらもあちらも簡単な形式を辿っただけ、
の儀式に思われた。住職不在だったから余計に。
世間の言う三回忌ってものを、
周りにああだこうだと言われないように、
とにかく人並みに通過させねばと、
バタバタな生活の延長で簡単に片付けた、
私自身の弔う気持ちの希薄さのためか。
こういうシキタリに沿った事はほんとに苦手。
母への想いは、
私の中で未だに整理できていないものがあり、
お寺やルールや、周囲の思惑に合わせた、
感情のない法事などヤメにして、
本当に自分らしい供養をした方がいいのもしれない。