TVや新聞でも報道されているけれど
阪神淡路大震災から、今年で12年が経った
早いのか、そうでないのか…
神戸に今でも住んでる私
震災当時は神戸市内にある私立大学の4回生で、卒業を間近に控えた身
そして実家の長田に住んでいた
震災前日から、1人暮らしをしている友達の家で新年会
仲間数人とチーズフォンヂュをしながらお酒を飲み
朝方まで桃太郎電鉄をして
うとうとと眠りかけた頃にあの『揺れ』
ドーン!とまるで大型ダンプか何かが建物に突っ込んだような衝撃
居た場所は5階建ての公団(何階だったんだろう?記憶って薄れていくもんだ)
もちろん全員が飛び起きた
その後もずいぶん長い間揺れは続いた
そして何度目かの揺れでテレビが落ちた
こたつの上のグラスや食器棚の中の食器も落ちて散らばった
足の踏み場はない
もちろん停電
情報源がない…
外に出るのもためらった
その時そこにいた学生らは地元っ子は私だけで
岡山・滋賀・京都・大阪・埼玉・東京…
みんな震源がどこなのか?それが気になった
まさか今自分のいるここが、震源地に程近いという発想がなぜかなかった
外が明るくなってきて、ようやく「ここから出ないと…」という気になった
まず向かったのが公衆電話
建物のすぐ前にある公衆電話にはもう人が並んでいた
次に車
カーラジオをつけたら地震の情報が流れていた(ように思う…)
どうやら震源地は神戸らしい
とりあえずみんな実家は無事そうだ
逆に自分達が心配されていそうだということで、家族に連絡をとることに専念した
私は…
実家は…?
家族は…?
状況がわからないまま、家族の安否を知るため
そして自分の無事を知らせるために
車で自宅へ向かうことにした
早朝の街
バスも走っていた
道路はところどころひび割れていたけれど
友人宅から南へ下り、名谷の辺りから、空が真っ赤に染まるのが見えた
山火事?
空からはなにかの灰が舞ってきていた
そして、その辺りから渋滞が始まり、ついに車がすすめなくなった
公衆電話をみつけて電話をかける
自宅にはつながらない
親戚には…つながった!
近くの叔母の家ではテレビで詳細を把握していた
(といってもニュース自体が混乱していてとても正確なものではなかったが)
とりあえず長田までは行けそうもないこと
そして家族は全員無事であること
それを聞いて、叔母の家まで行ってそこでこれからのことを考えることにした
山火事かと思った赤い空は、長田の町を焼く炎だったと
叔母の家についてテレビを見て知った
震災直後に火災に包まれた長田
その炎は、自宅の目の前まで来た
幅2メートルほどの狭い路地の向かいの家は全焼した
江戸時代さながら、植木を切り倒しての消化(防火)活動だったそうだ
水がなかった
ポンプが動かなかった
目の前に消防署が、川があるにも関わらず
その時そこでできたことは、延焼をくいとめるために木を切ることだった
1月の明け方、寒いはず…
でも、皮肉にも火災のお陰で暖かくもあったようだ
おばあちゃん達は、冬の公園で夜を過ごすわけにもいかず
叔母の家に避難し
それから長い避難生活が始まった
私の両親は、路上で夜を明かした
火事が完全に収まってはいなかったし
近隣の住民の安否をたずねて訪れる人が後を絶たなかったから
そして、しばらくすると、不謹慎にも火事場泥棒のようなものが横行し
ますますそこを離れるわけにはいかなくなった
数日後から、近くの避難所で夜を過ごし
日中は自宅の前の路上で番をするという生活
きつかっただろうと思う
私は、そんな両親のもとと祖母のいる叔母の家を行ったり来たり
ずっと自宅の近くにいたい思いが強くあったけれど
年頃の女の子(当時)が避難所にいるのは好ましくなかった
今思えば
あの時自分にできることはいっぱいあったのに
「被災者」という言葉に甘えた
友人、大学の先生達に助けられ、励まされ
すっかり「被災者」の気分になってしまった
確かに自宅を失った
けど、元気だった
家族も無事だった
あの時、すぐそばに、すぐ近くに
もっと困って、もっと大変な思いをしていた人が山ほどいたであろうことに
気付かなかった
目を向けようとしなかった
今でも私の心に残っている後悔
震災後数ヶ月で私は大学を卒業した
けど、すぐには就職はしなかった(できなかった)
半年間、アルバイトをしたりの浪人生活
両親もまだ避難所から知人の仕事の手伝いに通うような生活をしていた
夏になって仮設住宅に移った
両親はようやく震災前の自分たちの仕事を復活させた
私も親戚に紹介してもらった会社の面接を受け
九月から就職することになった
その時入った会社で今の主人とも知り合い
後に結婚することになるのだから
今の私の人生は、震災がなければ全く違うものになっていただろう
「縁」だったり「流れ」だったり
すべてが「運命」で決められているとは思わないけれど
生きていく途中に、なんどか分岐点のようなものがあって
それを選んだり、無意識にどちらかにすすんでいたりして
今があるんだろうなと思う
「震災」は一度に大勢の人の人生に分岐点をつくった
そこで大きく人生を左右されてしまった人は多い
私もそのひとり
でも、パパや子供達に出会うきっかけを生んだのがそこなのだとすれば
私は「震災」に感謝する
今の生活は、私にとってはとても大事でかけがえのないもの
あの日、家を失い、家族がバラバラになってしまって
昨日まで当たり前にあったものをたくさん失った
だから、今、当たり前に毎日があることに
感謝する
そして、ずっと続きますように…と祈る
1・17に思うこと
この当たり前の毎日が、一日でも長く続きますように
そして、あの時の後悔と、今の感謝の気持ちを、忘れずにいたい
震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします
阪神淡路大震災から、今年で12年が経った
早いのか、そうでないのか…
神戸に今でも住んでる私
震災当時は神戸市内にある私立大学の4回生で、卒業を間近に控えた身
そして実家の長田に住んでいた
震災前日から、1人暮らしをしている友達の家で新年会
仲間数人とチーズフォンヂュをしながらお酒を飲み
朝方まで桃太郎電鉄をして
うとうとと眠りかけた頃にあの『揺れ』
ドーン!とまるで大型ダンプか何かが建物に突っ込んだような衝撃
居た場所は5階建ての公団(何階だったんだろう?記憶って薄れていくもんだ)
もちろん全員が飛び起きた
その後もずいぶん長い間揺れは続いた
そして何度目かの揺れでテレビが落ちた
こたつの上のグラスや食器棚の中の食器も落ちて散らばった
足の踏み場はない
もちろん停電
情報源がない…
外に出るのもためらった
その時そこにいた学生らは地元っ子は私だけで
岡山・滋賀・京都・大阪・埼玉・東京…
みんな震源がどこなのか?それが気になった
まさか今自分のいるここが、震源地に程近いという発想がなぜかなかった
外が明るくなってきて、ようやく「ここから出ないと…」という気になった
まず向かったのが公衆電話
建物のすぐ前にある公衆電話にはもう人が並んでいた
次に車
カーラジオをつけたら地震の情報が流れていた(ように思う…)
どうやら震源地は神戸らしい
とりあえずみんな実家は無事そうだ
逆に自分達が心配されていそうだということで、家族に連絡をとることに専念した
私は…
実家は…?
家族は…?
状況がわからないまま、家族の安否を知るため
そして自分の無事を知らせるために
車で自宅へ向かうことにした
早朝の街
バスも走っていた
道路はところどころひび割れていたけれど
友人宅から南へ下り、名谷の辺りから、空が真っ赤に染まるのが見えた
山火事?
空からはなにかの灰が舞ってきていた
そして、その辺りから渋滞が始まり、ついに車がすすめなくなった
公衆電話をみつけて電話をかける
自宅にはつながらない
親戚には…つながった!
近くの叔母の家ではテレビで詳細を把握していた
(といってもニュース自体が混乱していてとても正確なものではなかったが)
とりあえず長田までは行けそうもないこと
そして家族は全員無事であること
それを聞いて、叔母の家まで行ってそこでこれからのことを考えることにした
山火事かと思った赤い空は、長田の町を焼く炎だったと
叔母の家についてテレビを見て知った
震災直後に火災に包まれた長田
その炎は、自宅の目の前まで来た
幅2メートルほどの狭い路地の向かいの家は全焼した
江戸時代さながら、植木を切り倒しての消化(防火)活動だったそうだ
水がなかった
ポンプが動かなかった
目の前に消防署が、川があるにも関わらず
その時そこでできたことは、延焼をくいとめるために木を切ることだった
1月の明け方、寒いはず…
でも、皮肉にも火災のお陰で暖かくもあったようだ
おばあちゃん達は、冬の公園で夜を過ごすわけにもいかず
叔母の家に避難し
それから長い避難生活が始まった
私の両親は、路上で夜を明かした
火事が完全に収まってはいなかったし
近隣の住民の安否をたずねて訪れる人が後を絶たなかったから
そして、しばらくすると、不謹慎にも火事場泥棒のようなものが横行し
ますますそこを離れるわけにはいかなくなった
数日後から、近くの避難所で夜を過ごし
日中は自宅の前の路上で番をするという生活
きつかっただろうと思う
私は、そんな両親のもとと祖母のいる叔母の家を行ったり来たり
ずっと自宅の近くにいたい思いが強くあったけれど
年頃の女の子(当時)が避難所にいるのは好ましくなかった
今思えば
あの時自分にできることはいっぱいあったのに
「被災者」という言葉に甘えた
友人、大学の先生達に助けられ、励まされ
すっかり「被災者」の気分になってしまった
確かに自宅を失った
けど、元気だった
家族も無事だった
あの時、すぐそばに、すぐ近くに
もっと困って、もっと大変な思いをしていた人が山ほどいたであろうことに
気付かなかった
目を向けようとしなかった
今でも私の心に残っている後悔
震災後数ヶ月で私は大学を卒業した
けど、すぐには就職はしなかった(できなかった)
半年間、アルバイトをしたりの浪人生活
両親もまだ避難所から知人の仕事の手伝いに通うような生活をしていた
夏になって仮設住宅に移った
両親はようやく震災前の自分たちの仕事を復活させた
私も親戚に紹介してもらった会社の面接を受け
九月から就職することになった
その時入った会社で今の主人とも知り合い
後に結婚することになるのだから
今の私の人生は、震災がなければ全く違うものになっていただろう
「縁」だったり「流れ」だったり
すべてが「運命」で決められているとは思わないけれど
生きていく途中に、なんどか分岐点のようなものがあって
それを選んだり、無意識にどちらかにすすんでいたりして
今があるんだろうなと思う
「震災」は一度に大勢の人の人生に分岐点をつくった
そこで大きく人生を左右されてしまった人は多い
私もそのひとり
でも、パパや子供達に出会うきっかけを生んだのがそこなのだとすれば
私は「震災」に感謝する
今の生活は、私にとってはとても大事でかけがえのないもの
あの日、家を失い、家族がバラバラになってしまって
昨日まで当たり前にあったものをたくさん失った
だから、今、当たり前に毎日があることに
感謝する
そして、ずっと続きますように…と祈る
1・17に思うこと
この当たり前の毎日が、一日でも長く続きますように
そして、あの時の後悔と、今の感謝の気持ちを、忘れずにいたい
震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします