カズオ・イシグロ氏がノーベル賞の文学賞を受賞したので、彼の代表作の一つである「日の名残り」を再見した。
「日の名残り」 1993年 イギリス
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監督:ジェームズ・アイヴォリー
出演;アンソニー・ホプキンス エマ・トンプソン ジェームズ・フォックス
クリストファー・リーヴ ピーター・ヴォーン ヒュー・グラント
ストーリー
1958年。オックスフォードのダーリントン・ホールは、前の持ち主のダーリントン卿が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイスの手に渡っていた。
かつて政府要人や外交使節で賑わった屋敷は使用人もほとんど去り、老執事スティーブンスの手に余った。
そんな折、以前働いていたミス・ケントンから手紙をもらったスティーブンスは彼女を訪ねることにする。
離婚をほのめかす手紙に、有能なスタッフを迎えることができるかもと期待し、それ以上にある思いを募らせる彼は、過去を回想する。
1938年、スティーブンスはミス・ケントンをホールの女中頭として、彼の父親のウィリアムを副執事として雇う。
スティーブンスはケントンに、父には学ぶべき点が多いと言うが老齢のウィリアムはミスを重ねる。
ダーリントン卿は、第二次大戦後のドイツ復興のため非公式の国際会議をホールで行う準備をしていた。
会議で卿がドイツ支持のスピーチを続けている中、病に倒れたウィリアムは死ぬ。
1936年、卿は反ユダヤ主義に傾いてユダヤ人の女中たちを解雇し、ケントンはそんな卿に激しく抗議した。
2年後、ユダヤ人を解雇したことを後悔した卿は、彼女たちを捜すようスティーブンスに頼み、彼は喜び勇んでこのことをケントンに告げ、彼女は彼が心を傷めていたことを初めて知り、彼に親しみを感じる。
ケントンはスティーブンスへの思いを密かに募らせるそんな折、屋敷で働くベンからプロポーズされた彼女は、スティーブンスに結婚を決めたことを明かすが、彼は儀礼的に祝福を述べるだけだった。
20年ぶりに再会した2人だが、孫が生まれるため仕事は手伝えないと言うケントンの手を固く握りしめたスティーブンスは、彼女を見送ると、再びホールの仕事に戻った。
寸評
執事としてストイックにその職務を遂行するアンソニー・ホプキンスの姿が目に焼き付く作品だ。
かれは主人であるダーリントン卿を尊敬しており、身を粉にして彼に尽くしている。
その献身ぶりは僕などにはとてもまねできないもので、重要な会議に居合わせてもその会話の内容に聞き耳を立てるようなことはしない。
主人であるダーリントン卿のいう事には無条件に従う、卿にとっては忠実な執事なのである。
しかしそれは彼の保身からくるものではなく、執事と言う対場と職務に対する忠実さから来ているのである。
その為には父親のプライドを気にしながらも副執事から掃除係に降格を告げることもいとわない。
そのストイックな姿が印象深い。
物語はミセス・ケントンからの手紙を読むことから始まり、そのことで過去の出来事を回想する形をとっている。
この家には社交界、政界の名士たちが集まって来て、大戦前夜のヨーロッパ状況が話し合われるのだが、ダーリントン卿はナチス・ドイツの指示者であることが含みを持たせている。
後世の我々はヒトラーの率いるナチス・ドイツがどんなにひどかったのかを知っているが、当時のヨーロッパの人々にはここで描かれたような考えが交錯していたのだろう。
ダーリントン卿は人格者の様でもあるし、独善的な行為を取る人でもなさそうだ。
第一次世界大戦ごのドイツへの対処があまりにも過酷だったことから、なんとかドイツの再興を助けようとしているのだが、そのドイツとはナチス・ドイツであることでダーリントン卿の人格とのギャップが全体構成を覆っている。
イギリス、フランス、アメリカ、ドイツを巻き込んだ政治的な会合が行われているのだが、執事が各国の要人をもてなす姿が興味本位的に僕を引き付ける。
イギリス貴族の生活とはこのようなものなのだと。
ストイックなスティーブンスに対してメイド頭のケントンはひるむことなく意見もする。
そんなケントンにスティーブンスは好意を持っていそうなのだが、その感情を表すことはない。
自分を引き止めてほしいような言いようをされても、スティーブンスは素直な言葉を返せない。
僕も経験があるが、極めて冷静を装う精一杯の強がりなのである。
過去を振り返るところから、ケントンに会いに行く現実シーンが展開されるが、この現実は切ないものだ。
おそらく離婚も視野に入れている彼女はメイド頭として復職つもりだったのだろうが、孫が誕生したことで娘と孫のためにとどまることを選択する。
スティーブンスは彼女に「努力して幸せになってほしい」と告げる。
幸せな結婚生活は我慢と努力で得られるものなのだ。
お互いに愛する気持ちを持っていても、それを口に出すことはなく、二人は強く握手した手を放さねばならない現実を受け入れざるを得ない。
スティーブンスは新しい主人の執事として戻るのだが、その間の彼の心情を描き込んで欲しかった気持ちは残ったのだが、ケイトンとの別れは彼の一生における最後の思い出となったのかもしれない。
「日の名残り」 1993年 イギリス
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監督:ジェームズ・アイヴォリー
出演;アンソニー・ホプキンス エマ・トンプソン ジェームズ・フォックス
クリストファー・リーヴ ピーター・ヴォーン ヒュー・グラント
ストーリー
1958年。オックスフォードのダーリントン・ホールは、前の持ち主のダーリントン卿が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイスの手に渡っていた。
かつて政府要人や外交使節で賑わった屋敷は使用人もほとんど去り、老執事スティーブンスの手に余った。
そんな折、以前働いていたミス・ケントンから手紙をもらったスティーブンスは彼女を訪ねることにする。
離婚をほのめかす手紙に、有能なスタッフを迎えることができるかもと期待し、それ以上にある思いを募らせる彼は、過去を回想する。
1938年、スティーブンスはミス・ケントンをホールの女中頭として、彼の父親のウィリアムを副執事として雇う。
スティーブンスはケントンに、父には学ぶべき点が多いと言うが老齢のウィリアムはミスを重ねる。
ダーリントン卿は、第二次大戦後のドイツ復興のため非公式の国際会議をホールで行う準備をしていた。
会議で卿がドイツ支持のスピーチを続けている中、病に倒れたウィリアムは死ぬ。
1936年、卿は反ユダヤ主義に傾いてユダヤ人の女中たちを解雇し、ケントンはそんな卿に激しく抗議した。
2年後、ユダヤ人を解雇したことを後悔した卿は、彼女たちを捜すようスティーブンスに頼み、彼は喜び勇んでこのことをケントンに告げ、彼女は彼が心を傷めていたことを初めて知り、彼に親しみを感じる。
ケントンはスティーブンスへの思いを密かに募らせるそんな折、屋敷で働くベンからプロポーズされた彼女は、スティーブンスに結婚を決めたことを明かすが、彼は儀礼的に祝福を述べるだけだった。
20年ぶりに再会した2人だが、孫が生まれるため仕事は手伝えないと言うケントンの手を固く握りしめたスティーブンスは、彼女を見送ると、再びホールの仕事に戻った。
寸評
執事としてストイックにその職務を遂行するアンソニー・ホプキンスの姿が目に焼き付く作品だ。
かれは主人であるダーリントン卿を尊敬しており、身を粉にして彼に尽くしている。
その献身ぶりは僕などにはとてもまねできないもので、重要な会議に居合わせてもその会話の内容に聞き耳を立てるようなことはしない。
主人であるダーリントン卿のいう事には無条件に従う、卿にとっては忠実な執事なのである。
しかしそれは彼の保身からくるものではなく、執事と言う対場と職務に対する忠実さから来ているのである。
その為には父親のプライドを気にしながらも副執事から掃除係に降格を告げることもいとわない。
そのストイックな姿が印象深い。
物語はミセス・ケントンからの手紙を読むことから始まり、そのことで過去の出来事を回想する形をとっている。
この家には社交界、政界の名士たちが集まって来て、大戦前夜のヨーロッパ状況が話し合われるのだが、ダーリントン卿はナチス・ドイツの指示者であることが含みを持たせている。
後世の我々はヒトラーの率いるナチス・ドイツがどんなにひどかったのかを知っているが、当時のヨーロッパの人々にはここで描かれたような考えが交錯していたのだろう。
ダーリントン卿は人格者の様でもあるし、独善的な行為を取る人でもなさそうだ。
第一次世界大戦ごのドイツへの対処があまりにも過酷だったことから、なんとかドイツの再興を助けようとしているのだが、そのドイツとはナチス・ドイツであることでダーリントン卿の人格とのギャップが全体構成を覆っている。
イギリス、フランス、アメリカ、ドイツを巻き込んだ政治的な会合が行われているのだが、執事が各国の要人をもてなす姿が興味本位的に僕を引き付ける。
イギリス貴族の生活とはこのようなものなのだと。
ストイックなスティーブンスに対してメイド頭のケントンはひるむことなく意見もする。
そんなケントンにスティーブンスは好意を持っていそうなのだが、その感情を表すことはない。
自分を引き止めてほしいような言いようをされても、スティーブンスは素直な言葉を返せない。
僕も経験があるが、極めて冷静を装う精一杯の強がりなのである。
過去を振り返るところから、ケントンに会いに行く現実シーンが展開されるが、この現実は切ないものだ。
おそらく離婚も視野に入れている彼女はメイド頭として復職つもりだったのだろうが、孫が誕生したことで娘と孫のためにとどまることを選択する。
スティーブンスは彼女に「努力して幸せになってほしい」と告げる。
幸せな結婚生活は我慢と努力で得られるものなのだ。
お互いに愛する気持ちを持っていても、それを口に出すことはなく、二人は強く握手した手を放さねばならない現実を受け入れざるを得ない。
スティーブンスは新しい主人の執事として戻るのだが、その間の彼の心情を描き込んで欲しかった気持ちは残ったのだが、ケイトンとの別れは彼の一生における最後の思い出となったのかもしれない。
まず思うのは、こういう恋愛映画は、非常に貴重だということです。
というのは、この映画は、若い観客をターゲットにしているとは、とうてい思えないからです。
この映画を観ていいと思うのは、若い人ではなく、人生の折り返し地点を過ぎた人たちに違いありません。
ジェームズ・アイヴォリー監督と言えば、英国の上流社会をすぐに連想します。
この映画も英国のオックスフォードにある名門貴族の館を舞台に、職務を何より重んじる有能な執事長スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)の数奇な生き方を淡々と描いていきます。
1936年、次第にヨーロッパに戦雲が近づく頃。
しかし、スティーヴンスは、主人のダーリントン侯爵(ジェームズ・フォックス)が親ナチスであることにも無関心で、若く勝ち気なメイドのミス・ケントン(エマ・トンプソン)への恋心も抑えながら、ひたすら自らを律するばかりでした。
この映画は、ダーリントン侯爵の屋敷の執事スティーヴンスが主人公で、執事という裏方の仕事と、彼のストイックな性格とが相乗効果になって、とても地味な映画に仕上がっています。
ただ、地味なんですが、物語の中身は、しっとりとした大人の世界が描かれており、人生を振り返ったりしながら考えさせられてしまいます。
また、セリフのひと言、ひと言に深みや含蓄があり、実に素晴らしいんですね。
ダーリントン侯爵は、戦争中はナチスに加担していました。
一方、スティーヴンスは、ミス・ケントンというメイドと両思いになるにもかかわらず、彼女を拒絶するのです。
こうして、この映画は、政治と恋愛という二つの「過ち」のエピソードが語られていくのです。
やがて時はめぐり、1957年。今や主人も変わった。
もうじき孫も生まれるというミス・ケントンを再びメイドとして屋敷に招くため、スティーヴンスは、慣れぬ車を走らせている。
ハンドルを握りながら、静かにこれまでの来し方を思う時、彼の胸に去来するものは--------。
恐らく、「あの時は、ああするしかなかった。他には考えつかなかった---」ということなんだろうと思います。
毎日を必死で生きていると、自分自身のことが案外よく見えていなかったり、先のことも全く考えなかったりするものです。
確かに、そういうことってあるよねえ、と思わず頷いてしまいます。
稀代の名優アンソニー・ホプキンスが、「執事」とはまさにこういう人なんだろうなあと思わせるキャラクターを、実に見事に演じています。
そして、メイド役のエマ・トンプソンも、相変わらず芸達者なところを見せていて、これもまた素晴らしい。
恋愛映画というと、カップルのひとりが、不幸な死に方をするパターンが多いものですが、こういうドラマもありなんだなと思わせてくれます。
不変の真理として、人間には「後悔すること」がつきものだということです。
明るいか暗いかで分ければ、間違いなく暗い映画なのですが、映像が美しいのでさほど気にはならず、久しぶりに観た奥の深い人間ドラマの秀作で、物語の強さを感じた作品でした。
自分の人生を投影できる作品でした。