2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。
2020/8/11は「私が棄てた女」で、以下「私の男」「わたしは、ダニエル・ブレイク」「笑う蛙」「悪い奴ほどよく眠る」「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT」「あゝ結婚」「愛がなんだ」「愛されるために、ここにいる」「愛情物語」と続きました。
「終着駅」 1953年 アメリカ / イタリア
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監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ジェニファー・ジョーンズ モンゴメリー・クリフト
リチャード・ベイマー ジーノ・チェルヴィ パオロ・ストッパ
ストーリー
米国人の若い人妻メアリー・フォーブスは、断ち切りがたい想いを残してローマの中央駅にやって来た。
彼女は妹の家に身を寄せて、数日間ローマ見物をしたのだが、その間に1人の青年と知り合い、烈しく愛し合うようになってしまった。
青年はジョヴァンニ・ドナーティという米伊混血の英語教師で、彼の激しい情熱にメアリーは米国に残してきた夫や娘のことを忘れてしまうほどだったが、やはり帰国する以外になすすべもなかった。
妹に電話で荷物を持って来るよう頼み、午後7時に出発するミラノ行の列車にメアリーは席をとった。
発車数分前、ジョヴァンニが駆けつけた。
彼はメアリーの妹から出発のことを聞いたのだ。
彼の熱心なひきとめにあって、メアリーの心は動揺した。
彼女はその汽車をやりすごし、ジョヴァンニと駅のレストランへ行った。
ジョヴァンニの一途な説得に、メアリーは彼のアパートへ行くことを承知したかに見えたが、丁度出会った彼女の甥のポール少年にことよせて、彼女は身をかわした。
ジョヴァンニはメアリーを殴りつけて立ち去った。
メアリーとポールは3等待合室に入って、次の8時半発パリ行を待つことにした。
そこでメアリーは妊娠の衰弱で苦しんでいる婦人の世話をし、心の落ち着きを取り戻した。
ジョヴァンニは強く後悔して、メアリーを求めて駅の中を歩きまわった。
プラットホームの端に、ポールを帰して1人たたずむメアリーの姿があった。
彼は夢中になって線路を横切り、彼女のそばに駆け寄ろうとした。
そのとき列車が轟然と入ってきた。
一瞬早くジョヴァンニは汽車の前をよぎり、メアリーを抱きしめた。
2人は駅のはずれに1台切り離されている暗い客車の中に入っていった。
しばらく2人だけの世界に入って別れを惜しむのも束の間、2人は公安委員に発見され、風紀上の現行犯として駅の警察に連行された。
8時半の発車時刻も間近かに迫り、署長の好意ある計らいで2人は釈放された。
いまこそメアリーは帰国の決意を固めて列車に乗った。
ジョヴァンニは車上で彼女との別れを惜しむあまり、列車が動き出したのも気づかないほどだった。
慌てて列車を飛び降りた彼はホームの上に叩きつけられた。
メアリーを乗せた列車は闇の中に走り去っていった。
寸評
この映画は、ローマ中央駅の雑踏を背景に旅のアメリカ夫人とローマの青年との恋と、数日の情事のあとの別れを描いたものだ。
作品の進行と上映時間が一致しているのは「真昼の決闘」などと同じだが、オール・ロケーションであることで生々しく思えるし、映像は活気に満ち溢れている。
イタリアの青年をモンゴメリー・クリフトが演じているが、イタリア男性は女性に超積極的だというのは知られたことで、ジョヴァンニの執拗なまでの引き留めにメアリーが予定列車を延ばしてしまうのも納得である。
平凡な主婦であるメアリーだったが、情熱的な愛撫に動揺し理性を失ってしまい男の胸にしがみついてしまう。
たぶんメアリーは家庭的な主婦で、夫と子供の為だけに生きてきた女性だったのだろう。
長い間の夫婦生活では、恋だの愛だのの燃えるような感情は失われていく。
刺激はないが不満のない平和で幸せな生活だ。
忘れていた情熱をジョヴァンニによって呼び起こされたのだろう。
忘れていた青春が蘇ったに違いない。
立場が逆だったら僕だって動揺する。
粋な駅長さんが「子供さんの所へお帰りなさい、奥さん」と言われメアリーはアメリカへ帰っていく。
男女のかりそめの出会いと別れのはかなさを描いているのはヴィットリオ・デ・シーカらしいと思うし、「ひまわり」に通じるものを感じる。
テーマ曲の”ローマの秋”のやるせない旋律が流れ、秋深いローマ駅の黄昏の風景の中で、激しい恋の最後の炎が燃える。
かなり通俗的な設定だが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の演出は、ドキュメンタリーのように、リアルに時間を追い、オール・ロケの効果と共に、緊迫した映画的空間を創り出している。
段々と暮れてくる駅の様子と、恋の終わりを上手く溶け合わせたところ等、憎い演出で、秋の冷気と別離の淋しさを感じさせるラストが、実に秀逸だ。
それにしても、この「終着駅」という映画は、モンゴメリー・クリフトという俳優のナルシスティックな一面が全開した映画として、実に印象深い。
ローマに旅行中のアメリカの夫人ジェニファー・ジョーンズに恋をしてしまい、帰国しようとする夫人をローマ駅まで追って来る、イタリア青年を演じているが、恋というよりは、年上の女にすがろうとする、孤独な青年のドラマという感じで、フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」を思わせるものがある。
発車する列車から飛び降り、ホームに転んでしまうクリフトの姿は、まさに淋しい少年そのものだ。
この甘さ、このやるせなさは、演技で出せるものではないと思う。
ジェームズ・ディーンがそうであったように、この男の少年性は、クリフト本人が持っているものに他ならない。
最後の会話を交わすシーンで、クリフトの見せる表情と、列車が発車してしまってからの表情のデリケートな違いに、私はいつもこの映画の、いやクリフトの謎を見る。
すがりつこうとする弱さと、それを振り切ってしまう強さ。
クリフトは、この二つの表情の間で、実にセクシーに揺れているのだった。