「華氏451」 1966年 イギリス / フランス
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監督 フランソワ・トリュフォー
出演 オスカー・ウェルナー
ジュリー・クリスティ
シリル・キューザック
アントン・ディフリング
ジェレミー・スペンサー
アレックス・スコット
ストーリー
これは未来の国の物語である。
すべてが機械化されたこの時代は、あらゆる知識や情報はすべてテレビによって伝達され、人々はそのとおりに考え、行動していれば平和な生活ができるのである。
そこでは読書は禁止されており、反社会的という理由で、本は見つけ次第、消防士たちによって焼かれた。
モンターグ(O・ヴェルナー)はその消防士の一人でる。
ある日彼は妻のリンダ(J・クリスティ)にうりふたつの若い女クラリス(J・クリスティ・二役)と知り合う。
無気力なリンダとの生活にひきかえ、クラリスは本に熱意を持っていて、モンターグにはとても刺激的だった。
そこでモンターグは生まれてはじめて本を読み、その魅力にとりつかれてしまった。
それを知ったリンダは、夫が読書をしていることを手紙にかいて密告した。
モンターグは消防士を辞職する旨を消防隊の隊長に申し出たが、とにかく今日だけは、ということで出動した。
ところがなんと行く先は意外にも彼自身の家だったのである。
庭につまれた自分の本を焼きすてるように命じられたモンターグは、本ばかりか家そのものまで焼こうとした。
そんな彼を制止し、逮捕しようとした隊長にモンターグは火焔放射器を向け、殺してしまった。
殺人犯としておわれたモンターグは逃走し、淋しい空地にたどりついた。
そこはいつか、クラリスが話してくれたことのある「本の人々」が住む国だった。
寸評
華氏451度は摂氏だとおおよそ233度になり、紙が燃え出す温度である。
映画は人々が文字を読むことを政府から禁止されている世界を描いている。
そのため、映画の冒頭に通常表示されるタイトルやクレジットは一切表示されず、タイトルや配役はナレーションによって説明されている。
このオープニングは、観客にこの映画はちょっと違った趣向なのだと感じさせる趣向となっている。
政府によって本の所持が禁止されているのだが、本だけではなく文字そのものを禁止されているようで、モンターグが読む新聞も絵ばかりであった。
そのような世界なので消防士は火を消すのではなく、本を燃やすことを第一目的としている。
クラリスが消防士のモンターグに「かつては火を消していたこともあるのでしょ」と語り掛けたり、消防車を見つけた少年が「消防車だ、火をつけに行くよ」と叫んだりしている。
本作はSFの部類に入ると思われるが、未来社会にしてはその描き方は画一的な家だったり、モノレールだったり、空飛ぶ警察官だったりするだけで、SF嫌いのトリュフォーらしい。
燃やされる本は「ダリ画集」だったり、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」だったり、「チャップリン自伝」だったりで、その書物に特別な意味合いはなさそうだが、燃えるシーンは美しく悲しい。
僕は蔵書を処分したことがあるのだが、読んでいた頃が思い出され手放すときは少し淋しくなった。
本を燃やしたこともあったが、ページがめくられる様に燃えていく様は胸に来るものがあったことを思い出す。
劇中で紹介される本は、スタンダールの「アンリ・ブリュラールの生涯」、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」、マキャベリの「君主論」、プラトンの「国家」、サルトルの「ユダヤ人」などで、燃やされた本よりは馴染があるものだった。
文字のない世界の話は面白かったのだが、ジュリー・クリスティが演じた二人の女性とモンターグの間に起きる変化の描き方は希薄で物足りなさを感じた。
モンターグと妻のリンダは破綻をきたしていくが、その過程に視点は行っていない。
同様にモンターグがクラリスの影響を受けていく過程も深く描かれていない。
愛情問題は横に置いておいたような描き方で、この作品を軽いものにしてしまっているような気がする。
モンターグが消防士の隊長を焼き殺して”本人”が住む場所に向かってからがこの映画一番の見どころだ。
そこではそれぞれが本を丸暗記していて、暗記された本は処分されている。
記憶された本は親から子や孫へと語り継がれていく。
文字を持たなかった民族が伝承によって物語を語り継いでいたのと似ている。
老人が孫らしき子供に語り継いで亡くなっていくシーンは荘厳だ。
雪の降る中、書物を暗記することに集中しながら人々が行きかうラストシーンは印象的である。
このシーンの為に映画は長い長い序章を描いてきたような気がした。
フランソワ・トリュフォーは好きな監督の一人で、それが理由でこの作品も僕の記憶の中にある。
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監督 フランソワ・トリュフォー
出演 オスカー・ウェルナー
ジュリー・クリスティ
シリル・キューザック
アントン・ディフリング
ジェレミー・スペンサー
アレックス・スコット
ストーリー
これは未来の国の物語である。
すべてが機械化されたこの時代は、あらゆる知識や情報はすべてテレビによって伝達され、人々はそのとおりに考え、行動していれば平和な生活ができるのである。
そこでは読書は禁止されており、反社会的という理由で、本は見つけ次第、消防士たちによって焼かれた。
モンターグ(O・ヴェルナー)はその消防士の一人でる。
ある日彼は妻のリンダ(J・クリスティ)にうりふたつの若い女クラリス(J・クリスティ・二役)と知り合う。
無気力なリンダとの生活にひきかえ、クラリスは本に熱意を持っていて、モンターグにはとても刺激的だった。
そこでモンターグは生まれてはじめて本を読み、その魅力にとりつかれてしまった。
それを知ったリンダは、夫が読書をしていることを手紙にかいて密告した。
モンターグは消防士を辞職する旨を消防隊の隊長に申し出たが、とにかく今日だけは、ということで出動した。
ところがなんと行く先は意外にも彼自身の家だったのである。
庭につまれた自分の本を焼きすてるように命じられたモンターグは、本ばかりか家そのものまで焼こうとした。
そんな彼を制止し、逮捕しようとした隊長にモンターグは火焔放射器を向け、殺してしまった。
殺人犯としておわれたモンターグは逃走し、淋しい空地にたどりついた。
そこはいつか、クラリスが話してくれたことのある「本の人々」が住む国だった。
寸評
華氏451度は摂氏だとおおよそ233度になり、紙が燃え出す温度である。
映画は人々が文字を読むことを政府から禁止されている世界を描いている。
そのため、映画の冒頭に通常表示されるタイトルやクレジットは一切表示されず、タイトルや配役はナレーションによって説明されている。
このオープニングは、観客にこの映画はちょっと違った趣向なのだと感じさせる趣向となっている。
政府によって本の所持が禁止されているのだが、本だけではなく文字そのものを禁止されているようで、モンターグが読む新聞も絵ばかりであった。
そのような世界なので消防士は火を消すのではなく、本を燃やすことを第一目的としている。
クラリスが消防士のモンターグに「かつては火を消していたこともあるのでしょ」と語り掛けたり、消防車を見つけた少年が「消防車だ、火をつけに行くよ」と叫んだりしている。
本作はSFの部類に入ると思われるが、未来社会にしてはその描き方は画一的な家だったり、モノレールだったり、空飛ぶ警察官だったりするだけで、SF嫌いのトリュフォーらしい。
燃やされる本は「ダリ画集」だったり、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」だったり、「チャップリン自伝」だったりで、その書物に特別な意味合いはなさそうだが、燃えるシーンは美しく悲しい。
僕は蔵書を処分したことがあるのだが、読んでいた頃が思い出され手放すときは少し淋しくなった。
本を燃やしたこともあったが、ページがめくられる様に燃えていく様は胸に来るものがあったことを思い出す。
劇中で紹介される本は、スタンダールの「アンリ・ブリュラールの生涯」、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」、ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」、マキャベリの「君主論」、プラトンの「国家」、サルトルの「ユダヤ人」などで、燃やされた本よりは馴染があるものだった。
文字のない世界の話は面白かったのだが、ジュリー・クリスティが演じた二人の女性とモンターグの間に起きる変化の描き方は希薄で物足りなさを感じた。
モンターグと妻のリンダは破綻をきたしていくが、その過程に視点は行っていない。
同様にモンターグがクラリスの影響を受けていく過程も深く描かれていない。
愛情問題は横に置いておいたような描き方で、この作品を軽いものにしてしまっているような気がする。
モンターグが消防士の隊長を焼き殺して”本人”が住む場所に向かってからがこの映画一番の見どころだ。
そこではそれぞれが本を丸暗記していて、暗記された本は処分されている。
記憶された本は親から子や孫へと語り継がれていく。
文字を持たなかった民族が伝承によって物語を語り継いでいたのと似ている。
老人が孫らしき子供に語り継いで亡くなっていくシーンは荘厳だ。
雪の降る中、書物を暗記することに集中しながら人々が行きかうラストシーンは印象的である。
このシーンの為に映画は長い長い序章を描いてきたような気がした。
フランソワ・トリュフォーは好きな監督の一人で、それが理由でこの作品も僕の記憶の中にある。
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