シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「アンダーカレント」(2023年 日本映画)

2023年10月18日 | 映画の感想、批評
 2005年に発行された豊田徹也の漫画「アンダーカレント」の映画化作品。原作本は残念ながら未読だが、今泉力哉監督をはじめ、出演者の顔ぶれに惹かれて選んだ一作である。冒頭にアンダーカレントの説明として「表面の思想や感情と矛盾する暗流」とテロップが出るが、心の奥底に沈めていた思いが徐々に浮かびあがってきた時、人はその抱えきれない思いとどう付き合っていくのだろうか。
 かなえ(真木よう子)は亡き父親のあとをつぎ夫婦で銭湯を経営していた。しかしある日、夫の悟(永山瑛太)が突然失踪する。途方に暮れるかなえだったが、何とか銭湯を再開すると、堀(井浦新)と名乗る男が働きたいとやって来る。資格を沢山もち、銭湯組合からの紹介で来たという謎の男との共同生活が始まる。
 銭湯を営む女主人と蒸発した夫と言えば「湯を沸すほどの熱い愛」(中野量太監督、2016年)を思い出す。薪が赤々と燃え、その炎の暖かさと湯の温もりが感じられる作品。一方この作品は、銭湯が舞台ではあるが、湯気が立ちのぼる温もりが感じられない。それよりもタイルの冷やかさ、水の冷たさが忍び寄る。死のイメージに全体が覆われている。
 大学時代の友人の菅野(江口のりこ)の紹介でかなえは探偵の山崎(リリー・フランキー)に会い、夫の調査を依頼する。カラオケボックスや遊園地で調査報告をする、いかにも胡散臭い山崎だが、調査期間内に悟の居場所を突きとめ、かなえは悟と会うことになる。リリー・フランキーがまさにはまり役で、チャーミングに演じている。やがて、悟の思いがけない半生や堀の素姓、かなえが水中に沈んでいく悪夢の正体が徐々に明らかになっていく。
 堀を演じる井浦新はメッセージ性の強い作品に出演しているとの印象が強い。直近では「福田村事件」(森達也監督)があり、遡れば「かぞくのくに」(ヤンヨンヒ監督、2012年)を思い出す。舞台挨拶ではいつもゆっくりと言葉を選び、力強いメッセージを発信していく。堀は無口で誠実そうに見えるが、一方で何を考えているのか分からないミステリアスな人物。かなえに亡き妹の姿を重ねているようだが、かなえに寄り添い支えていく。一見して熱量の少ない演技に見えるが、繊細で緻密な演技の出来る俳優だ。作業着のような服装でも格好良く、さまになっている。井浦新には大人の色気がある。
 物語は終盤に向かうにつれて死のイメージが払拭されていくが、それとともにアンダーカレントな深みは希薄になっていく。
 ラストシーンの構図は印象的だ。かなえと堀が距離を置き前後してスクリーンの上方に向かって歩いていく。二人の向かう方向は、新しい世界にちがいない。(春雷)

監督:今泉力哉
脚本:澤井香織、今泉力哉
原作:豊田徹也
撮影:岩永洋
出演:真木よう子、井浦新、永山瑛太、リリー・フランキー、江口のりこ、中村久美、康すおん、内田理央

「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」(2023年 アメリカ映画)

2023年07月19日 | 映画の感想、批評


 ハリウッドスターの中でお気に入りは誰?と聞かれると、最初にあげられるのが「ブリット」や「栄光のル・マン」がかっこよかったスティーブ・マックイーン。その後「明日に向かって撃て」を観てロバートレッドフォードのファンになり、「スター・ウォーズ」シリーズでハン・ソロ役に注目した後、「インディ・ジョーンズ」シリーズが決定打となってハリソン・フォードに落ち着いた。それから後は“ファン”だといえるスターに出会うことはなくなったが、(それだけ年をとったということか・・・)そのインディ・ジョーンズが15年ぶりにスクリーンに帰ってきた。すでに本年度カンヌ国際映画祭でワールドプレミアが行われた時、「エブ・エブ」で主演男優賞を受賞したキー・ホイー・クアン(第2作「魔宮の伝説」で共演)をハリソンが祝福に駆けつけるというサプライズシーンが話題になり、公開が待ち望まれていたのだが、ファンにとって大満足のできだったか、否か??
 今回の舞台はまず、第二次世界大戦真っ只中の1944年に始まる。その時インディは宿敵ナチス・ドイツの城に囚われていたのだが、ハリソン・フォードがとてつもなく若い、若い!!どのようにして撮ったのだろう?特殊メイクでもしているのだろうかと思ったが、その動きや声は明らかに本人。後から知ったのだが、この若きインディの再現は最新のデジタル技術で実現できたそうで、ルーカスフィルム社が保有する「インディ・ジョーンズ」「スター・ウォーズ」出演当時の数百時間分の映像を検索して、撮影当時79歳のフォードが演じた映像をもとに、角度や明るさが一致するショットを探し出して活用したそうだ。これが今.ハリウッドの俳優組合が問題視して、ストライキにまで発展しているAI技術のことかと納得。もちろん、今回ハリソンはその発想に驚かされると共に、非常に魅力的に活用されたと判断してOKを出したとか。
 その後舞台は25年後の1969年に。インディも70歳、今や定年退職を迎える身に。この設定なら、ハリソンも現実の姿で大丈夫だ。しかし、世の中は彼をゆっくりさせてはくれなかった。旧友の娘ヘレナ・ショウが現れ、亡き父親の人生を狂わせた歴史を変える力を持つ”運命のダイヤル”を一緒に探し出してほしいというのだ。ところがこの“運命のダイヤル”を探していた人物が他にもいたから面白くなってくる。ナチス崩壊後にアメリカに渡り、NASAのエンジニアとして活躍中のユルゲン・フォラーが、ヒトラーが犯した失敗を修正し、歴史を変えようとしていたのだ。このような人物は、実際にもいたようで、優秀な頭脳が有効活用されるのは非常にいいことなのだが、”よりよい世界”とはいかなるものかを冷静に考えて行動してほしいもの。
 この“運命のダイヤル”、時空を越えるにしてはいささかちゃちな物に見え、また行った先も予想外でびっくりなのだが、考古学者にとって、時空を越えた実際の姿を自分の目で確かめることができるというのは夢のまた夢、ついに望みが叶った瞬間だったに違いない。
 今回は監督を降り、製作総指揮に回ったスティーヴン・スピルバーグをはじめ、1作目から製作総指揮を務めるジョージ・ルーカス、音楽担当のジョン・ウィリアムズと、そうそうたるレジェンド達に見守られ、大役を任されたジェームズ・マンゴールド監督、これがインディ・ジョーンズの最後の冒険とばかりにノンストップで山場をいくつも用意。中にはこれまでの作品を思い起こさせる場面も巧みに入れて、ファンには特盛りの大サービス!!
 インディ、お疲れ様です。これからは愛する人とゆっくり人生を楽しんで・・・おっと、インディの冒険は終わっても、ハリソンの俳優としての冒険はまだまだ続く。これからも楽しみにしてます、往年のファンより!!
 (HIRO) 

原題:Indiana Jones and the Dial of Destiny
監督:ジェームズ・マンゴールド
脚本:ジェームズ・マンゴールド、ジェズ・バターワース、ジョン=ヘンリー・バターワース、デヴィッド・コープ
撮影:フェドン・パパマイケル
出演:ハリソン・フォード、フィービー・ウォーラー=ブリッジ、マッツ・ミケルセン、ジョン・リス=ディヴィス、アントニオ・バンデラス、カレン・アレン

「波紋」(2022年 日本映画)

2023年06月14日 | 映画の感想、批評
 筒井真理子と言えば「よこがお」(2019年)が記憶に新しい。内面が読みとりにくい印象のある俳優の一人である。最近はTVの俳句番組「プレバト」で見かける機会が増えた。彼女の句の中では「向日葵の波に逆らひ兄逝きぬ」が好きだ。
 須藤依子(筒井真理子)は一軒家でひとり穏やかに暮らしていた。ある日、長い間失踪し行方がわからなかった夫の修(光石研)が突然帰ってくる。自分の父親の介護を押しつけたまま失踪し、今度は癌に侵され高額の治療費を出してほしいと彼女にすがってくる。修はずるずると家に居ついてしまう。そこへ、依子から逃げるように九州の大学に進学した息子の拓哉(磯村勇斗)が、聴覚障碍のある恋人・珠美(津田絵理奈)を連れて来る。珠美は妊娠していて、二人は結婚を考えていると言う。久々の家族団欒の食卓は緊迫感にみちている。
 依子には唯一の心の拠り所があった。緑命会という水を信仰する新興宗教団体である。家には御神水が溢れ、依子が外から帰る度にその水を頭から吹きかけるシーンは儀式のようだが滑稽でもある。会の代表を演じるキムラ緑子は適役だ。高額商品を押しつける場面には有無を言わせぬ圧がある。信者仲間達(江口のりこ、平岩紙)の良い人ぶりも空々しい。この団体の中にこそ同調圧力がある。集団の怖さは正常な判断や思考力を奪っていくことだ。それは自分の人生を丸投げしてしまうことでもある。
 以前は草花の咲きほこる庭だった所は、今は砂を敷きつめた枯山水の庭になっている。依子はそこに熊手で波紋を描いていく。この庭は依子の心象風景のようだ。時々隣家の猫が侵入し波紋を乱していく。眉間にしわを寄せ猫を追い出そうとする依子からは、他者の侵入を許さず、心の平安を保とうとする切ない思いが伝わってくる。
 荻上直子監督のオリジナル脚本作品である。依子という一人の女性を通して社会の縮図を描いている。主婦の立場から見た夫の身勝手な行動、親の介護、息子の結婚相手への障碍者差別、宗教依存…‥etc。更年期の症状に悩まされながらも、何もかも投げ出したい気持ちをおさえて現実を生きている。依子が息子の結婚相手の珠美に投げかける視線は冷やかだ。パート先の同僚(木野花)から「あんたストレートに差別するね」と指摘されるが、彼女は自らの中に巣食う悪意を隠そうとしない。珠美が強い女性として描かれているのが救いである。
 ラストシーンは強烈な印象を残す。色彩の対比があざやかだ。ブラックコメディとして観たのだが、クスッと笑えるところがなかったのが残念。(春雷)

監督・脚本:荻上直子
撮影:山本英夫
出演:筒井真理子、光石研、磯村勇斗、安藤玉恵、江口のりこ、平岩紙、津田絵理奈、花王おさむ、柄本明、木野花、キムラ緑子

「ノベンバー」(2017年 エストニアほか)

2023年01月11日 | 映画の感想、批評
 私は、できるだけ話題作の陰に隠れた佳作、秀作を取り上げることにしてきた。それで、今年の最初に選んだのが2017年のエストニア映画(モノクロ作品、本邦初公開)である。ライナル・サルネット監督はドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダーという鬼才を敬慕するエストニアのエースだという。ファスビンダーは私が好きな映画作家でもあるが、きわめてクセが強く、人によっては好き嫌いのわかれる巨匠である。したがって、サルネットも一筋縄ではいかないところのある異才だ。
 まず冒頭から「鬼面人を驚かす」の図である。
 釜とか枝とかそういうものの合体した「クラット」と呼ばれる得体の知れない生き物が一頭の牛を空中高く舞いあげて、主人の家までさらってくる。いったいこれは何なのだ。公式ホームページの解説によれば、“古いエストニアの神話に登場する「クラット」という使い魔は、悪魔と契約を交わし手に入れる生意気な精霊である”と説明している。クラットは想像上の産物といえる。人工的に作られた妖怪のようなものといえばよいか。あまり真剣に考えないほうがよい。
 ところはエストニアの寒村。バルト海に面したバルト三国のひとつであることは知っていても、あまり馴染みのない国である。ロシア革命後一時的に独立するもソ連邦に組み込まれたあと、ソ連崩壊によって再び独立したという国だ。
 時代背景がもうひとつよくわからないのだが、ドイツ帝国の男爵とその令嬢が登場するので、ロシア帝国の支配下から脱したロシア革命直後の古き良き時代の話だと想像される。
 題名の“ノベンバー(11月)”はもともと9番目の月であったが、カエサルとオクタヴィアヌスが自分の名前を7月、8月に加えたために順番が11番目に繰り下がった。年に一度、11月に死者(霊魂)が家に帰ってくるという風習をモチーフのひとつとしている。日本では8月のお盆にお精霊(しょらい)さんを迎える。11月が本来9月だとすれば、ひと月遅れだということになる。こういう風習がキリスト教を信仰するエストニアにも存在することを知っておもしろく思った。キリスト教といっても国民の半数は無宗教というから土着的な、ある意味先祖に対する日本人に近い宗教的心象があるのかもしれない。
 先祖の霊が舞い降りる季節に、年頃の娘リーナは村の若者ハンスに一目惚れする。ところが、ハンスはお城に静養のためか一時的に滞在することとなった男爵令嬢に恋い焦がれる。これにリーナは激しく嫉妬する。この三角関係が主軸となって物語が展開されるのである。
 村には呪術を操る老女がいて、村人のさまざまな願いごとを聞いてやる。のみならず、森の奥深くには悪魔も住んでいる。悪魔はメフィストフェレスさながらに村人の魂と引き換えに悪事をかなえてやる。それが、おとぎ話のような結末を迎えるのである。ただし、めでたしめでたしとはならないところが、グリム童話的な残酷さを併せ持つのである。
 荒涼たる大自然、素朴な農村の生活風景、一面の銀世界、神秘の森、清流、雪原にたわむれる狼。そうした風物がモノクロ撮影の墨絵のような効果と相まって、民話的で幻想的なイメージの造形に成功している。不思議な映画だ。(健)

原題:Rehepapp(November)
監督:ライナル・サルネット
脚本:ライナル・サルネット
原作:アンドルス・キヴィラフク
撮影:マート・タニエル
出演:レア・レスト、ヨルゲン・リーク、アルヴォ・ククマギ、カタリナ・ウント

「在りし日の歌」(2019年 中国)

2020年12月30日 | 映画の感想、批評


 1986年、中国の地方都市。同じ国有企業で働くヤオジュン&ユーリン夫婦とインミン&ハイイエン夫婦には同じ生年月日の息子がいて、互いの子供と義理の両親の契りを交わしていた。ある時ユーリンが第二子を妊娠したことが発覚し、計画生育事務局にいたハイイエンは一人っ子政策に基づき堕胎を迫る。強制的に中絶手術を受けさせられたユーリンは妊娠できない体になってしまう。数年後、リーユンは工場の人員整理の対象となり、さらに長男のシンが水難事故で死亡するという悲劇に見舞われる。いたたまれなくなったヤオジュンとリーユンは逃げるように住み慣れた街から姿を消す・・・
 1976年に毛沢東が亡くなると、最高指導者となった鄧小平は毛沢東の権力闘争と言われた文化大革命を終結させ、改革開放政策や一人っ子政策を打ち出して社会主義市場経済を推進した。軍事的、経済的に目覚ましい発展を遂げ、今や超大国アメリカを脅かすほどの強国へと成長した中国だが、1980年代から現在へ至る激動の時代に国の施策の犠牲になった人は数知れない。この映画の主人公も苛酷な運命に翻弄され、2人の子供を亡くしている。第二子は一人っ子政策の犠牲になったが、第一子(長男)は不慮の事故により命を落とした。その真相が20年後に明らかになる。インミンとハイイエンの息子であるハオが、ヤオジュンとリーユンにシンの死の経緯を語る場面がこの作品の最大の山場になっている。
 物語は三つの時代を行き来する。 
① 1980年代~90年代 ②1990年代~2000年代 ③2010年代(現代)
時間軸は①と②の間を頻繁に移動し、最終的に③の時代に到着して終焉を迎える。プロットの展開が込み入っているのは単調さを避けるためだろうか。重要なエピソードをロングショットで見せたり説明的な場面を省いたり、映像や音楽、演出に映画的センスを感じる。完成度の高い作品だとは思うが、作品のテーマにはいささか疑問を感じる。
 「在りし日の歌」の原題「地久天長」は永遠の友情を意味するらしい。日本人にもなじみの深い「蛍の光」が劇中で何度も流れるが、この曲の中国名が「地久天長」であり、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne」が原曲になっている。原曲の歌詞は<旧友と思い出話をしつつ酒を酌み交わす>という内容で、どちらかというと「蛍の光」より「地久天長」の歌詞に近い。この映画のテーマが<友情>であることを端的に示している。
 ハイイエンはリーユンを堕胎させ、更に長男の死にハオが深く関わっていることを隠し続けた。シンの死の真相を聞いた後でも、ヤオジュンとリーユンはハオやハイイエンを恨むことなく変わらぬ友情を抱いている。それどころかハイイエンの夫インミンが「倅を殺してくれ。命で償わせる」と包丁を持って現れたとき、「絶対にハオハオを責めるんじゃない。シンシンは死んだ。ハオハオを守らないと」と友人の息子をかばう。
 とても感動的な場面だがヤオジュンとリーユンは本当に友人を赦したのだろうか。友情や義理の両親という美名のもとに、悲しみや苦しみ、憎しみ、絶望を押し殺してしまったのではないか。忌憚なく感情をぶつけあうのが本当の友情ではないか。インミンとハイイエンを責めることは長男の死の責任を追及するだけではなく、第二子を堕胎させたハイイエンの社会的責任を問うことにもなりかねない。そうすると一人っ子政策を推進した共産党批判につながってしまう。批判をカムフラージュするために運命の苛酷さや友情の美しさをクローズアップさせた、と考えるのはひねくれた見方だろうか。子供を死に至らしめた者への怒りは友情という大義の前に打ち消されてしまった。
 中国では映画製作は当局の監視下にあるため政府批判は容易ではない。文化大革命は批判できても、現政権につながる鄧小平の施策を公然と批判することはむずかしい。天安門事件に至っては話題にすることすらタブーだ。自由な製作環境の中であれば、この映画は違った展開になっていたかもしれない。感情を吐き出してこそドラマは深化する。かの国に表現の自由が訪れるのはいつのことだろうか。(KOICHI)

原題:地久天長
監督:ワン・シャオシュアイ
脚本:ワン・シャオシュアイ  アー・メイ
撮影:キム・ヒョンソク
出演:ワン・ジンチュン ヨン・メイ  アイ・リーヤ  チー・シー

「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(2019年 アメリカ映画)

2020年09月02日 | 映画の感想、批評
 NYの裕福な家庭で育ったギャッツビー(ティモシー・シャラメ)は、母の勧めでアイビーリーグに進学するも脱落。現在は片田舎のヤードレー大学に籍を置いている。同じ大学に通う恋人のアシュレー(エル・ファニング)はアリゾナの銀行家の娘で、学生新聞の取材でNYにいる映画監督にインタビューすることになった。ギャッツビーはアシュレーに地元マンハッタンを案内しようと張り切っているが、アシュレーはホテルに着くやいなや出かけてしまい、約束の時間になっても帰ってこない。不安になったギャッツビーが電話すると、特ダネを取るために今すぐは帰れないと言う。一方、ギャッツビーは街で学生映画を撮影中の友人に偶然出会い、役者が足りないからと出演を頼まれる。そこでかつてのガールフレンドの妹、チャン(セレーナ・ゴメス)といきなりキスシーンを撮影することになる。
 天真爛漫なアシュレーは監督や脚本家に誘われるままついて行き、人気イケメン俳優のフランシスコ・ヴェガと知り合いになる。酒を飲むと酩酊状態になり、興奮するとしゃっくりが止まらなくなるアシュレー。ヴェガに誘惑されて舞い上がってしまい、「私の子宮を唸らせる」と欲望を隠さない。自宅に連れていかれ、服を脱がされ、下着姿になってしまうのだが・・・シリアスな役の多いエル・ファニングが無邪気な女の子のドタバタをかわいく演じている。
 ピエール、カーライル、セントラルパーク、メトロポリタン美術館とNY観光の定番のような場所が出てくるが、どれもアッパー・イースト・サイドの高級住宅地ばかりで、庶民が行くタイムズ・スクウェアやダウンタウンは出てこない。つまりここで描かれているのは、ウディ・アレンの行きつけのNYスポットなのだ。登場人物もみんな高級住宅地に住むセレブばかりで生活感がない。
 ジャズのスタンダード・ナンバー「everything happens to me」の弾き語り、雨のNY、メトロポリタン美術館のデート、時計台の下の待ち合わせ・・・状況設定は類型的だが、通俗性を逆手にとって既視感を楽しむ映画になっている。パーティ会場で掲げられていた往年の映画スターの写真、古風なクレジットタイトル、40年代の映画への言及・・・作品全体が古き良き時代へのオマージュになっている。昔を知らない人には古色蒼然とした世界が逆に新鮮に見えることだろう。ドニ・ド・ルージュモンやホセ・オルテガ・イ・ガセットといった思想家の名前がポンポン飛び出してくる、ユーモアとウイットに富んだ会話はスノビッシュだがイヤミではなく、ひとつひとつの場面がコントのようで楽しい。この軽やかさが魅力的だ。
 愛の痛みがないわけではないが、三角関係のドロドロはないし、修羅場があるわけでもない。近作の「ブルージャスミン」や「女と男の観覧車」のような嫉妬、苦悩、狂気はなく、70年代の「アニーホール」や「マンハッタン」と比べてみても、恋愛を掘り下げて描いているわけではない。恋愛映画というよりはむしろ青春映画か教養小説に近い。
 ギャツビーは親が決めたコースを進むことに抵抗があり、大学生活に身が入らない。人生の目標が見いだせないままである。ピアノの弾き語りが得意で、ヘビースモーカーでギャンブル好き。NYへ来てもポーカーで大金を稼いでいる。教育ママの母親にアシュレーを紹介する約束をしたが、彼女が帰って来ないので仕方なく娼婦を雇い、アシュレーの代役をしてもらうことにした。母親はすぐに本物のアシュレーではないことを見破るが、その際に初めて若かりし日の秘密を打ち明ける。ここがこの映画の最大の山場かつ転機となっていて、その後ギャツビーは大学に戻るのを止め、アシュレーに別れを告げる。母親のダークサイドを垣間見た息子は、NYに留まり、心の思うままに生きることを決意する。自分の中にある暗部が母親譲りであり、それが自分のアイデンティティーであることを認識したギャッツビー。アシュレーよりもチャンが好きになったというよりも、晴れの日に生きるアシュレーとは住む世界が違うことに気づいたのだ。自分には曇天のNYがふさわしいと。(KOICHI)

原題:A Rainy Day in New York
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
出演:ティモシー・シャラメ  エル・ファニング  セレーナ・ゴメス


マリッジ・ストーリー(2019年アメリカ映画)

2020年04月29日 | 映画の感想、批評
 今のアメリカを舞台に、中年カップルの離婚闘争を描いた作品で、先日のアカデミー賞では、作品賞をはじめ主演女優、主演男優、助演女優、脚本、作曲と6部門にノミネートされた。惜しくも、今回は「パラサイト 半地下の家族」に話題を持っていかれたが、私は、本作はもっと注目されてもよいと感じたので、昨年の公開だが、今回、取り上げた。
 女優と舞台監督という立場で知り合い結婚し、子供を一人授かった夫婦が、ニューヨークとロサンゼルスを拠点に仕事をしながら、人生を歩んできた。しかし、結婚生活がうまくいかなくなり、離婚に向かうことを決意するところからこの物語が始まる。最初は、二人で話し合って協議離婚を目指していたが、それもうまくいかなくなり、弁護士を立てての争いに発展してしまうのである。その辺りから、「離婚」というものが、一度は愛し合った二人が痛みを伴いながらも、次の人生をスタートさせるという人間の感情的な部分は排除され、離婚をひとつのビジネスとして捉える人達によって牛耳られ、肝心の二人の気持ちはどこかにいってしまうのである。裁判で勝利を掴み取るにはどうすれば良いのかの1点に集中するのである。その部分は特に今の時代を表していると感じた。お金という物差しで測る、勝ち負けをはっきりさせる最近の風潮であろうか。
 何が正解で、何が間違いか。何事にも「ずばり正解!」を私も自然と求めてしまっているし、世間もそれを追求する時代。効率を優先し、間合いや譲り合いは後回しする。「〇〇ファースト」もその一環だろうか。声が大きい人の意見に皆が偏り、それ以外の存在自体がかき消される。でも、実際の人生はそうではない。分かろうとするが、何か掴めない、そういったモヤモヤした気持ちを抱えながらも、人は走っていく。ラストシーンがそれを示している。少し救われた気持ちになった。決して、ハッピーエンドではない、完璧ではないが、それが人間である。どういう結果が出ようが、お互いに気持ちが吹っ切れて、新しい形を模索する可能性が感じられて良かった。
 賞レースでは、本作で唯一アカデミー賞を獲得したローラ・ダーン(助演女優)は、とても印象に残った。前述の離婚をビジネスに捉える弁護士役で、テンションが高く高圧的で嫌味っぽく話す難しい役柄だが、「こんな人必ず居るね」と感じた。他の助演女優賞候補作をすべて観ていなかったが、獲得の可能性は一番高いのではと思った。賞は逃したが、スカーレット・ヨハンソンとアダム・ドライバーの微妙な表情や、話し合いながら、徐々に気持ちが高ぶってしまうシーン等も良かった。
 また、1979年米映画「クレイマー、クレイマー」との比較がよく取り上げられていたので、急遽、観なおした。40年前以上の映画なので、時代背景はあるものの、何が夫婦にとって良いのか?何が家族にとって良いのか?何が子供によって良いのか?を問い掛ける意味では同じと感じた。その当時は、まだまだ男尊女卑の意識が色濃く残る時代(多分!)に「離婚」というテーマを性別関係無く取り上げた意味では画期的だったのかもしれない。なので、アカデミー賞作品賞を受賞したのだろう。私は85年頃に観たと記憶しているが、最初の印象は、女性が子供を捨てて出ていくことが衝撃だった。私も男尊女卑の気持ちがあるのかもしれない。それと、変な題名だなという印象だった。原題は、「Kramer vs.Kramer」、クレイマーさんとクレイマーさんとの闘い。その後、この作品は、それまで私が観てきた(数年程度だが)ハッピーエンドのハリウッド映画とは違うなと感じたことが記憶に残っている。今、観なおすと、時代を先取りした映画だったように思う。今回観なおして、テーマ曲の旋律に改めて聞き入ってしまったのと、ファーストシーンのメリル・ストリープの演技と監督の演出には身震いした。
 以下2つの情報は、映画評論家の町山智浩さんの番組で見た内容だが、本作は監督の実体験をベースにした作品とのこと。元妻は「ヘイトフル・エイト」のジェニファー・ジェイソン・リーでその離婚協議の際に、相手側(相手側というのが面白い!)の弁護士だったのが今回のローラ・ダーンが演じた役のモデルだった!真に迫る演技が生まれたのは当然だった?しかも、その彼女は、ブラッド・ピットとアンジョリーナ・ジョリーが離婚調停する際にも弁護士として活躍していたとのこと。ちなみに、そのアンジョリーナ・ジョリーの元夫はビリー・ボブ・ソーントンという人で、ローラ・ダーンの元恋人。ハリウッドは狭い中でくっついたり離れたりしている。何とも複雑。
 また、本作はNetflix配給である。昨年のアカデミー賞受賞(外国語映画賞)「ROMA/ローマ」に続き、「アイリッシュマン」、そして本作とかなりの勢いである。公開対象が広いので、ハリウッド(所謂スタジオ系)より会社規模は大きいらしい。映画が映画館で観る時代が変わろうとしている。最近の新聞記事では、コロナウィルス感染を防ぐため家庭で過ごす人が増え、全世界でかなり契約件数が伸びているそうだ。今は、映画館が厳しい状況だが、コロナ収束後は、ハリウッドにも頑張ってほしい。そういう意味では、授賞式が2月よりもう少し遅かったら、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」が受賞していたかも・・・。
(kenya)

原題:Marriage Story
監督・脚本:ノア・バームバック
撮影:ロビー・ライアン
出演:スカーレット・ヨハンソン、アダム・ドライバー、ローラ・ダーン、アラン・アルダ、レイ・リオッタ他

「雨の午後の降霊祭」(1964年 イギリス映画)

2020年04月22日 | 映画の感想、批評
 英国スリラー・サスペンスの名作として知られるこの映画を最初に見たのは、もうずいぶん昔の自主上映会だったろうか。カルトムービーのひとつとして名高いこの映画は、英国映画の新しい潮流を担ったひとり、ブライアン・フォーブスの代表作だ。フォーブスといえば「キングラット」という捕虜収容所を扱った秀作もあるが、やはり英国伝統のスリラーとして完成度が高いこちらを私は強く推す。今回改めてDVDで見直してみて感心した。
 アクターズ・スタディオ出身のアメリカの舞台女優キム・スタンレーが難役の霊媒師の女性を演じ、のちに巨匠の風格を示す名監督となるリチャード・アッテンボローが製作を兼ねて、その夫役に扮した。
 子どものころから霊能力が備わっているマイラは病弱の夫ビリーとふたり住まいで、霊媒師として定期的に降霊祭を催し、生計をたてている。
 マイラは繊細な神経の持ち主で、いささか精神が不安定な傾向にある。夫はそんな彼女にガラス細工の品物を扱うかのようにこわごわ接している。
 かれらの会話に登場するアーサーという幼くして亡くなったらしい男の子の存在が意味ありげだ。子ども部屋がそのままの状態で残されていて、マイラはアーサーの霊をときどき感じる。妻がアーサーを話題にすると夫がその話題を避けたいような悲痛な表情をするところが、のちに重要な伏線となるのだ。
 マイラは自分の霊能力が正当に評価されてしかるべきだと不満を抱いていて、もっと世に知らしめるために狂言誘拐を計画する。実直そうで気の弱い夫は妻に逆らった例しがないらしく、妻の指示どおり実行犯を担うのである。そうして、裕福な家庭の少女を誘拐してアーサーの部屋に監禁し、身代金目的の誘拐事件と見せかける。
 それが報道されたのを機に、妻が被害者宅に出向き、「私は霊媒師で少女の夢を見た。その居所を言い当てられるかも知れない」と売り込むのだ。むろん、少女の父親はハナから信じず追い払おうとするが、母親はそんな胡散臭い話でも何とかすがろうとするのである。
 後戻りができないところまで来てしまったけれど、いまなら少女を返して知らんぷりできるとビリーはマイラを諭すが、彼女はもはや聞く耳を持たない。ビリーは仕方なく身の代金の受け渡しに出向く。この場面が圧巻で、指定された場所に大金を持って現れる父親、その動向を近くで見守る複数の刑事、受け渡しのタイミングを見計らって右往左往しながら周囲をうかがうビリー。セミドキュメンタリ・タッチの演出が冴え渡り、英国のお家芸であるスリラーの手本となる名場面だ。
 もちろん、計画は思いどおりに行かない。段取りを間違って致命的なミスを犯してしまい、少女も身の代金も無事に返る計画が大きく狂って、ビリーの予期しなかった結末に至ろうとするのである。
 フォーブスのキレのいい演出もさることながら、ふたりの主演男女優の名演がみごとである。(健)

原題:Seance on a Wet Afternoon
監督:ブライアン・フォーブス
脚色:ブライアン・フォーブス
原作:マーク・マクシェーン
撮影:ジェリー・ターピン
出演:キム・スタンレー、リチャード・アッテンボロー、パトリック・マギー、ナネット・ニューマン

「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」 (2020年 日本映画)

2020年04月08日 | 映画の感想、批評


 世界中が新型コロナウィルスの脅威にさらされ、ついに我が国でも「緊急事態宣言」が発令されるまでになった。映画館も休業やむなしの感なのだが、そんな中、感染のリスクを負ってまでも見に行きたい映画として話題になっているのが本作「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」である。
 三島由紀夫が壮絶な死を遂げて今年でちょうど50年。その1年半前の1969年5月13日、三島は東大駒場キャンパスの900番教室で1000人を超える学生たちとの討論会に出席していた。迎えたのは東大全共闘のメンバーたち。この年の1月には学生たちが占拠していた安田講堂に機動隊が出動。瓦礫と火炎瓶で抵抗した学生たちだったが、催涙弾と放水攻撃を浴びせられ敗北。しかし、自分たちの手で国を変えようとする全共闘運動を再び盛り上げていこうと「東大焚祭委員会」なるものを設立し、その目玉となる討論会に、自分たちとは全く違った政治的思想を持つ、ノーベル文学賞の候補にもあがった世界的文豪を呼び、言葉を使って闘い合おうというのだ。
 まずは、TBSによくぞこの映像が残っていて、目の前で見られるということに感動した。今回企画プロデュースを行ったTBSの関係者たちには本当に感謝したい。この討論会の模様は翌6月に早速「討論 三島由紀夫VS東大全共闘 美と共同体と東大闘争」という本にまとめられ、その全貌が明らかにされたのだが、やはり文章と映像では伝わるものが違う。三島の放つオーラの凄さ、そして当時の学生たちの政治や社会に真剣に向き合う姿がリアルに伝わってくる。最初はどんなバトルが繰り広げられるのだろうと思っていたのだが、会場いっぱいの学生たちは三島の話を意外なほど静かに聞き、変なヤジも飛ばさない。(今の国会とは大違いだ)それどころか、途中から三島のことを「三島先生」と呼んで対応したり、ユーモアのある返答に笑顔で応えたりして、お互いに尊敬の念を持ちながら自分の考えを主張する姿に好感を覚えてしまった。しかしさすがに東大生同士、難解な言葉や概念を用いて高度な哲学や歴史観を滔々と述べる姿には異次元の知性を感じ、偉大な「敵」を論破することに言いようのない快感を味わっているようにも思えた。
 50年を経た今、TBSのプロデューサーから依頼を受けた豊島圭介監督は、4時間近くある当時の映像とともに、元東大全共闘や元楯の会のメンバー、討論の場にいた報道関係者、親交があった人々、三島を論じる文化人たちにインタビューを行い、三島の人物像と各人のその後の生き方に迫る。しなやかに、したたかにこの半世紀を生き抜いた人々もまた、魅力に溢れている。
(HIRO)

監督:豊島圭介
撮影:月永雄太
出演:三島由紀夫、芥正彦、木村修、橋爪大三郎、篠原裕、宮澤章友、原昭弘、平野啓一郎、内田樹、小熊英二、瀬戸内寂聴、椎根和、清水寛、小川邦雄
ナビゲーター:東出昌大

「シェイクスピアの庭」(2018年、イギリス)

2020年04月01日 | 映画の感想、批評
新型コロナウィルス感染予防策を十分に身に着けたうえで、それでもいささかおっかなびっくりで京都シネマへ。この作品への期待度はマックス、小さなホールで満杯だったら、それはそれで嬉しい。でも・・・・このご時世、感染したらシャレにならない!どこまでも自己責任を自覚しながら。なんとも罪作りな新型コロナウィルスである。
作品中の言葉でも語られるが、「疫病は短剣のひと刺しではない、草刈り鎌で薙ぎ払われる如く 数多の死がもたらされるのだ」というセリフは、時代を超えて今に語り掛けてくる。

シェイクスピアが生きた時代も数々の伝染病で劇場は封鎖され、都市の機能は奪われ、そして何よりも多くの命が奪われた。あれから400年。現代の世界は・・・・・


グローブ座の火事を機に、断筆したシェイクスピア(ケネス・ブラナー演)は故郷に20年ぶりに帰って来るが、家族は「あなたは客人、だから最高のベッドでお休みを」と、冷たい対応。400年前も現代の単身赴任のお父さんも変わらないか!妻の側に立てばむべなるかな。「どれほどの名声と富を上げたか知らないが、20年も音沙汰なしでは。」しかも、華麗なる愛の言葉のソネットのモデルであったサウサンプトン卿の訪問を一緒に喜べったって!
文盲の妻は「その陰で私はどれほどつらい思いをしていたと思っているの!」
8歳上の妻アン・ハサウェイ(ジュディ・デンチ演)の恨み節は、思わず「よう言うた!」

サウサンプトン卿(イアン・マッケラン演)とのやり取りも深みがある。たった二人で対峙する意味深なシーンに、ソネット集を読んでいない私でもぞくぞくする。

一貫して、あの時代を彷彿とさせる、室内の暗さ、ろうそくの明かりだけが頼りの、「あなたは今どこにいるの?」と目を凝らしてしまうが、その緊張感も、新鮮。時代の重さを感じさせる。

シェイクスピア家はカトリック、いろいろ宗教がらみの対立も複雑だし、資産を作った義父の遺産の行方も気になる娘婿の清教徒の割には俗っぽさもあって面白い。相続できるのは男子のみ。遺産相続のためには男の子を生まなければならない、当時の相続制度の壁。
長女は文字が読み書きできる。だからなのか、父を客観視でき、寄り添う力があり、家族の気持ちを代弁もできる。そして父はこの長女をスキャンダルから見事に守ってみせる。
しかし、家に残っている次女と妻は文字が書けない、読めない。その苛立ちは胸に迫る。
とくにまだ独身の次女には、屈折した感情が渦巻いている。早世した双子の兄を愛してやまなかった父に、「かわりに私が死ねば良かったと思っているでしょ!」
11歳で疫病で死んだ息子ハムネットはすばらしい詩を書いていたという。
しかし、息子の死の真相と、詩を書いたのは本当は誰なのか。

「私の死後、妻には2番目に良いベッドを!」という遺言は、夫婦仲の悪さの証拠として有名な語り草だったが、どうやら真相は違うらしい。実は愛の証なのだと。
今作品では、父が息子の死の真相を突き止め、語り合う中で家族の再生が図られる、愛と希望にあふれた結末であった。その過程で、真相がわかってもなお、アンの「息子は疫病で死んだ!」は、全てをのみ込み、娘を守ろうとする母の愛の強さ。名優ジュディ・デンチに泣かされた。

シエイクスピアが「世の中の総てを知り尽くした特別な人」と外から言われても、生身の悩めるお父さんであったし、夫であったし、彼の残した作品ともどもに、どの時代にも通じる普遍性のある人間物語として、監督は描きたかったし、描き切っている。
シェイクスピアに精通し、時代背景を様々に置き換えて表現してきた監督ならではの、シェイクスピア愛に溢れた作品として、ケネス・ブラナーの代表作になった。私自身、監督のファンだし、読みつくしたとはおくびにも言えない似非シェイクスピア・マニアだが、本作は十分に堪能させてもらった。人間シエイクスピアがますます好きになった。
音楽を担当したパトリック・ドイルは監督の盟友ともいえる存在。エンドロールの楽曲が心地よい。歌詞の日本語訳がなかったのが哀しいが、ドイルの娘さんが歌っているとのこと。全編通じての音楽も素晴らしかったので、DVDの発売を早くも心待ちにしている。

マイナー作品故、ただでさえ少ない上映館と上映日数。新型コロナウィルス感染予防で映画館も厳しくなっている。奇跡的に見ることが出来た事にも感謝している。感染症にかからないためには、心にたっぷりと栄養をあたえて心身ともに免疫力を高めることに尽きる!と思っている。その意味でも、私は自信があるわ!笑
(アロママ)

原題:ALL IS TRUE
監督:ケネス・ブラナー
脚本:ベン・エルトン
撮影:ザック・ニコルソン
出演:ケネス・ブラナー、ジュディ・デンチ、イアン・マッケラン、キャスリン・ワイルダー、リディア・ウィルソン