シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「隠し砦の三悪人」(1958年 日本映画)

2021年09月29日 | 映画の感想・批評
 この映画を見るのは3回目だが、私見では黒澤の時代劇の中でランクをつけると、「七人の侍」が傑作、「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」が秀作とすれば、佳作という位置づけだろうか。1958年のキネマ旬報ベストテンで2位というのはちょっとほめすぎという気がしないでもない。
 冒頭、敗残兵と思しきふたり組の雑兵が「お前のせいでこんなことになった」と罵り合いながら荒涼たる道を行く。結局、喧嘩して別々の方向へ立ち去るのだが、途中で敵の山名軍の捕虜になり再会する。捕虜たちは落城した秋月家の埋蔵金を発掘する過酷な労役に耐えられず暴動を起こし、その騒動のすきにふたりは逃亡するのである。
 戦国時代は、兵農がまだ分離されていなくて、いくさになると領地の百姓が報償を餌に、にわか仕立ての鎧兜を着せられ、鑓や刀を持たされて戦闘に狩りたてられた。指揮をとるのは武士だけれど、末端の兵士は素人集団だった。戦国の世が平定されて、天下人となった秀吉は百姓が反抗しないように刀狩りを行い、ここに兵農分離が確立され、身分の固定化がはじまる。
 さて、このいかにも頼りなくて不甲斐ないふたり組が男勝りの姫君と腕っぷしの強そうな侍大将に遭遇する。実はこの姫君は秋月家の世継ぎで、お家再興を願う侍大将と潜伏しながら大量の金塊を抱えて味方の領地に脱出する機会をうかがっているのだ。
 姫に新人の上原美佐が、侍大将には三船敏郎が扮し、ふたり組を千秋実と藤原釜足が好演した。周知のように、この四人は「スター・ウォーズ」のキャラのモデルとなった。
 金塊に目がくらんだふたり組は敵地からの脱出を企図する姫と侍大将の手助けをする。そこへ秋月軍の残党を追う山名軍が絡んで、果たして、かれらは無事に金塊ともども目的地にたどり着くことができるのか。こうした登場人物が右往左往するおかしさとスリルがこの映画の見どころである。つまり、あくまで明るい活劇というスタイルが本領であって、こちら側を三悪人といっているぐらいだから「用心棒」のような征伐すべき極悪人は出て来ない。おそらく、そこが迫力を欠いている点だろう。
 黒澤の処女作「姿三四郎」でタイトルロールを演じた藤田進が山名方の武将に扮し、終盤で処刑場に引き立てられる姫君の意気にほだされて、姫君と侍大将、従者の若い女を逃すという快挙に出る。その藤田が、味方の陣営に「裏切り御免!」と言い放つ寝返り場面には、初めてこの映画を見たとき思わず吹き出してしまった。これは日本映画史上の名セリフのひとつである。当時、京一会館(全国的に名を知られた一乗寺の名画座)の場内はワッと沸いた。あの重厚な藤田(もともとこの役は八代目松本幸四郎、のちの初代白鸚が演じる予定だったという)が演じるからおかしいのである。いま見てもやっぱり笑ってしまう。こういうユーモアのセンスが黒澤の持ち味のひとつだ。
 ただ、私がどうも気恥ずかしく思うのは火祭りの場面。あの演出はいくら世界の黒澤でもいただけなかった。案外、この場面をほめている人もいて、私にはほめている人の感覚が理解できない。あれはどう見たって日本の土着の踊りではない。他民族か新興宗教、または前衛舞踏にしか見えなかった。
 午前十時の映画祭で上映中(グループAは10月1日から)なので興味のある方はどうぞ。(健)

監督・脚本:黒澤明
脚本:菊島隆三、小国英雄、橋本忍
撮影:山崎市雄
出演:三船敏郎、千秋実、藤原釜足、藤田進、志村喬、上原美佐

「2001年 宇宙の旅」(1968年 イギリス アメリカ)

2021年09月22日 | 映画の感想・批評
 400万年前(小説では300年前)の地球ではホモサピエンスの祖先であるヒトザルの群れが飢えと渇きに苦しんでいた。ある時どこからともなく黒い直方体の板(=「モノリス」)が現れ、ヒトザルの群れのリーダーに動物の骨を武器として使う方法を教えた。ヒトザルはイボイノシシを倒して肉を食べるようになり、水場を巡って対立していた別のヒトザルの群れを蹴散らして飢えと渇きを克服した。ヒトザルは武器を手にすることにより生存競争に打ち勝ち、やがて地球の覇者である人類へと成長していく。
 本作が難解と言われているのは監督のキューブリックが意図的に説明を省いたからだ。アーサー・C・クラークの小説版を読むと作品の骨格とテーマが見えてくる。以下、小説版を参考にしながら全体像を考えてみたい(コンピューターHALの反乱は興味深いエピソードであるが、ここでは異星人とのコンタクトを中心に話を進めていくことにする)。
 時代は太古から一挙に人工衛星が飛び交う21世紀へと変わる。人類が月の軌道上に宇宙ステーションを浮かべ、月面にある前進基地では探索・調査が続けられていた。400万年前の月の地層から磁場に変化をもたらす黒い厚板「TMA・1」(=「モノリス」)が発見された。「モノリス」は縦・横・高さが1:4:9の比率で作られており、人類が誕生する以前に月に人工物が埋められたという事実は、地球外知的生命体の存在を証明している。「モノリス」から発信された電波を追って、宇宙船ディスカバリー号のボーマン船長は木星(小説では土星)を目指した。ボーマンは木星の軌道上にある「巨大モノリス」に導かれ、スターゲイトを抜けて、ヒトザルを人類へと進化させた異星人(姿は見せない)と遭遇する。肉体をもたないエネルギーだけの生命体である異星人は、時空間を超え、永遠の生命を有している。異星人はヨーロッパ調の白い部屋でボーマンを歓待するが、やがてボーマンは急速に年老いていき、「モノリス」によって人類を超越した存在であるスターチャイルドに生まれ替わる。
 異星人は肉体をもたないエネルギーだけの生命体であり、ボーマンが生まれ替わったスターチャイルドも同じように精神だけの存在である。これは古代エジプトやギリシア哲学の影響を受けた、肉体と精神は独立して存在するという心身二元論に基づく発想であると思われるが、心身一元論の立場からは受け入れ難い未来予測になるであろう。最後の審判の時に復活し神の国で永遠に生きるのは肉体をもった人間で、魂だけが永遠に生き続けるわけではない。SF小説によく出てくる精神だけの存在というものが、未来において本当に実現するかどうかは議論の分かれるところである。
 異星人はヒトザルを人間に進化させたのだから言わば創造主であり、人間は異星人による被造物と言えなくはない。つまり異星人とは一種の神であり、キューブリックは「人類が神と呼んできたものは、実は高度に進化した異星人だった」と述べている。小説をよく読んでみると、異星人がボーマンを歓待した豪華な部屋は精巧にできた作りもので、テレビ番組をモニターして地球の生活を不完全に再現したものであることがわかる。電話帳を開けばどのページも真っ白だったり、缶ビールを開ければビールではなく青い物質が出てきたり・・・ちぐはぐな取り合わせがおかしい。聖書の神ヤハウェとは違い、キューブリックの神は全知全能ではないようだ。
 異星人は何のためにヒトザルを人類へ、人類を更なる上位の存在へと進化させたのか、その理由は小説でも映画でも明らかにされていない。ただ小説ではスターチャイルドが地球を核戦争から守ろうとしているのがわかる。地球の軌道上に並ぶ、核兵器を搭載した軍事衛星を破壊しているのだ。武器を与えられて地球の覇者となった人類は、長い生存競争の末に悪魔の兵器を作ってしまった。人間の闘争本能に限界がないことを異星人は予期できなかったようだ。
 興味深いのは異星人が武器の使用を教えるときに、ヒトザルをマインドコントロールしたことだ。映画ではヒトザルを教育するプロセスは描かれていないが、小説では単に武器を与えるだけではなく、催眠術を使って結び目を作る練習をさせたり、モノリスの上に幾つもの同心円の模様を描き、それを的にして石を投げさせたりと丁寧に根気強く指導している。仲睦まじい別のヒトザル一家の映像を夜ごと脳内に送り込んで、羨望やいらだちの感情を起こさせ、飢餓感を高めて、荒野の生存競争に勝ち抜く知恵と力と闘争本能を植えつけた。
 異星人がもし地球の平和を真に願うなら人類を逆の手法でマインドコントロールして、戦争を志向する感情を消滅させればいいのではないか。世界の為政者の脳に悲惨で残酷な戦争の映像を流し続ければ、厭戦気分が生まれて愚かな戦争は防げるだろう。平和を最優先するように心を誘導すれば、人類は自ら大量破壊兵器を捨てるだろう。異星人はヒトザルがこんな好戦的な生き物に進化するとは予想しなかったのだろうか。「こんなはずではなかった」と400万年前の行為を振り返っているかもしれない。(KOICHI)

原題:2001: A Space Odyssey
監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック
   アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース
   ジョン・オルコット
出演:キア・デュリア  
   ゲイリー・ロックウッド


「テーラー 人生の仕立て屋」(2020年 ギリシャ・ドイツ・ベルギー映画)

2021年09月15日 | 映画の感想・批評


 ギリシャで父親が長年テーラーを営んできたが、時代が移り変わったのか、倒産の危機に陥ったところから、物語が始まる。更に、父親の体調も優れない中、子供の頃からスーツの仕立てを教え込まれてきた息子が、後は任してくれと意気込んだものの、全く売上が上がらない。さあどうするか・・・?
 そこで、他の人を見て思いついたのが、移動式(屋台方式)での服の販売である。が、スーツは良品質だが、高いので全く売れない。物が良いとアピールするが、ターゲットが違うので響かない。プライドもあるのか、値段を下げられない。そんな状況の中で、「ウェディングドレスは作れるの?」と聞かれ、一度は断ったものの、背に腹は代えられない状況なので、「作ります」と応えてしまったところから、転機が訪れる・・・。
 ピリッとスーツを着込んで店頭に立つが、お客さんは皆無。お店の雰囲気は、お客様一人ひとりにきめ細かく接してきた個人経営の老舗衣料店。本作では、コロナは出てこないが、現実の世界では、毎日のように、コロナで影響を受ける個人経営の飲食店をテレビで見るので、飲食店とテーラーが結びついてしまい、何とも複雑な気持ちになった。
 上映時間はかなり長くなるかもしれないが、エピソードがもう少し深堀していればもっと良かったと思う。生き残る為に店舗を飛び出す時の気持ちや、ウェディングドレスを作る為に、女性服を勉強しようとする努力、父親から「ウェディングドレスを売っているらしいな」と見下したように言われた時に反論するシーンも、もっと色々な気持ちがあったと思うので、そのシーンをじっくり観たかった。特に、仕事のパートナーとなる隣家の婦人やその家族との関係もどうなったのか気になった。
 ファーストシーンは良かった。軽快な音楽と接写が多い細かいカット割り。これぞ映画の醍醐味。さあ始まるぞーというワクワク感があった。一方、ラストシーンは、仕事が大きくなっていく夢と期待に膨らむシーンなので、ファーストシーンの勢いが欲しかった。
(kenya)

原題:Tailor
監督:ソニア・リザ・ケンターマン
脚本:ソニア・リザ・ケンターマン、トレイシー・サンダーランド
撮影:ジョージ・ミヘリスGSC
出演:ディミトリ・イメロス、タミラ・クリエバ、タナシス・パパヨルギウ、スタシス・スタムラカトス、ダフネ・ミチョプールー

「街の上で」(2021年 日本映画)

2021年09月08日 | 映画の感想・批評
 若葉竜也という俳優をスクリーンの中に発見したのは「葛城事件」という作品。殆どセリフがなく、ラスト近くで無差別殺傷事件を起こす。無言で淡々と人を殺めていく姿は強烈だった。この時若葉竜也という名前が私の中に刻まれた。幼少の頃より大衆演劇の世界で活躍していたことはうっすらと記憶にあったが、同一人物とは結びつかずにいた。20年余りのキャリアがあるわけで、それがどのように熟成されていたのかは知る由もなかった。
 近年は出演作が続き、今作が初主演と知り、期待が高まる。公開が延び、映画館へ行くという日常が揺らぎ諦めかけていた頃に、京都の出町座でロングラン上映されていると知り、ようやく観ることができた。気づいたら身を乗りだしていた。いつもは座席に身を沈めているのに。作品に流れるあたたかな空気に引きよせられたようだ。「海辺の映画館」の若者達はスクリーンの中に入っていったが、残念ながらそれは叶わない。
 全編オール下北沢ロケの作品である。主人公の荒川青(あお)は古着屋で働く青年。客もちらほらで、青はいつも店番をしながら静かに本を読んでいる。その佇まいが際立って魅力的だ。表通りから奥まった店の一角に、何ともいえない心地よい空気を醸しだしている。その心地よさは作品全体を包みこんでいく。
 特別な事件が起こるわけでもなく、小さなエピソードが綴られていく。スナックのマスターやカフェの店主との会話、パトロール中の警官とのほのぼのとしたやりとり...。ある日、大学生の卒業制作映画への出演依頼がまいこむ。ここからは、青のコミカルな動きが見ものだ。撮影当日、渡された衣裳がその時の私服と全く同じ物で、衣裳を抱えながら部屋中をうろうろし、なかなか着替えられずにいる。いざカメラが回ると、何度も練習してきたのに緊張のあまりNGの連続である。普段とは別人のよう。若葉竜也のセリフのない場面での表情や動きは的確だ。表現者としての長い歴史の中で培われてきたものと改めて納得する。
 ラストは観客へのちょっとした謎解きになっている。青が自室の冷蔵庫に入れておいた食べ残しのバースデーケーキを、戻って来た恋人が食べようとする。止める青にかまわずケーキを口にした彼女は平気な様子で、青にも食べさせようとし、観念した青も口にするのだが...。実はこのケーキは冒頭のシーンからラストまで、ずっと冷蔵庫に入ったままであった。果してこの作品は下北沢の何日間を描いているのだろうか?時間経過を甘いケーキに委ねて、最後もちょっぴり甘く終わっていく。監督の遊び心が洒落ている。
 今泉監督作品を全て観ているわけではないが、この作品が一番好きと答えたい。若葉竜也と監督はきっと相性がいいに違いない。作品が証明してくれている。
 今日も下北沢のあの古着屋の一角で、青は静かに本を読んでいる、はずだ。(春雷)

監督:今泉力哉
脚本:今泉力哉、大橋裕之
撮影:岩永洋
出演:若葉竜也、穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚、成田凌


「竜とそばかすの姫」 (2021年 日本映画)

2021年09月01日 | 映画の感想・批評


 オリンピックが終了し、現在パラリンピックの真っ最中。様々な障害を持ちながらも懸命にプレイする選手の姿に、オリンピックとは少し違った心の琴線に触れる感動を毎日味わわせてもらっている。また、その感動をSNSを通じ、全世界からたくさんのメッセージが送られ、すぐに視聴者や競技者に届けられるようになり、新たな感動を呼び起こしてくれる。インターネットのおかげで不可能が可能になることがずいぶん増えてきた。まさにインターネット様々なのだが、このインターネットの世界に入り込んだ少女を主人公にしたアニメ作品がこの夏一番のヒット作となっている。「竜とそばかすの姫」だ。
 すずは自然豊かな田舎町に住む17才の高校生。幼い頃、目の前で起こった水難事故で母を亡くし、それまで好きだった歌を歌うことができなくなってしまっていた。そんな彼女を心配するネットが大好きな親友に誘われ、ネット上の仮想世界「U(ユー)」に参加することに。そこでは「AS(アズ)」と呼ばれる自分の分身を作り、全く別の人生を送ることができるのだ。すずは「ベル」という歌姫になり、世界中の人気者になっていく。しかしそこはネット社会、いいことばかりではない。ベルの大規模コンサートの日、突然「竜」と呼ばれる侵入者が現れ、コンサートは台無しに。だが、竜もまたベルと同じように、大きな心の傷を負っている誰かの分身であることは確か。果たしてその正体とは?!
 手元の資料によれば、細田守監督はこれまでにも2000年に「デジモンアドベンチャー/僕らのウォーゲーム」、2009年には「サマーウォーズ」と、インターネットを題材にした作品をおよそ10年の周期で作っているが、どんどん進化していくネットの世界、自分たちの生活に関わる内容もずいぶん変化してきている。もはやネットと共に生きているといえる現在を、映画という媒体の中で表現するために、今回世界各国のクリエイターたちが集結。今までにないダイナミックで煌びやかな世界が目の前に広がった。これはアニメーションだからこそ実現できた技だろう。
 現実世界の舞台になったのは、大きな川にかかる「沈下橋」の出現で気づいた。そう、高知だ。日本の中でも人口減少が著しく、「限界集落」という言葉もこの地から最初に発せられたそうだが、どんな田舎からでも仮想世界には入れる。廃校となった学校が主人公たちの発信の場となっていて、仮想世界と現実世界のギャップが、何とも面白い。東映動画に入社したばかりの頃、ディズニー版の「美女と野獣」を観て感銘を受けたという細田監督、アニメでミュージカル映画を作ることが夢だったそうで、まさに今回の歌姫「ベル」(「美女」と同じ名)は夢の実現となった。ベル役には京都出身のミュージシャン、中村佳穂を起用。数々の歌はもちろん、すずとベルという違ったキャラクターを見事に演じきった。また、心に傷を持つ竜には佐藤健、すずの同級生には成田凌や染谷将太、玉城ティナ、幾田りらと、今をときめく若手スターが多数登場し、若者の心をつかむにはもってこいのキャスティングとなっている。
 煌びやかなUの世界とともに、現代社会が抱えている問題にもしっかり目を向け、日本アニメのクォリティの高さを証明してみせた細田監督、カンヌ映画祭での14分間のスタンディングオベーションも納得のいくところである。
 (HIRO)

監督:細田守
脚本:細田守
撮影:李周美、上遠野学、町田哲
声の出演:中村佳穂、佐藤健、成田凌、染谷将太、玉城ティナ、幾田りら、森山良子、清水ミチコ、坂本冬美、岩崎良美、中尾幸世、石黒賢、役所広司