シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「AIR/エア」(2023年・アメリカ映画)

2023年04月26日 | 映画の感想・批評


 「今持っている運動靴のメーカーは何ですか?」と聞かれたら、若者なら「ナイキ」と答える人が多数いることだろう。そして、バスケットボールシューズに限って言えばナイキの“エア”シリーズが有名。現在NBAプレイヤーの3人に2人はナイキ&ジョーダンブランドのシューズを履いているそうだが、自分が若い頃はミズノやオニツカタイガー等の国産が主流。ドイツから来たアディダスのシューズを履くのが一つのスティタスとなっていたが、ナイキの名前が出てきたのはずいぶん後。それもそのはずで、資料によるとナイキのスタートは何とオニツカタイガー(現アシックス)のアメリカにおける総合代理店として設立された1968年だそうで、初めてランニングシューズで知った「NIKE」という文字に、“ニケ”ってどこのメーカー?!なんて友達に聞いて笑われたことが思い出される。
 前置きが長くなったが、そんなナイキが大発展を遂げるきっかけとなった伝説のシューズ“エア ジョーダン”の誕生秘話を、高校時代から親友だったというベン・アフレックとマット・デイモンのコンビが映画化。スポーツの枠を越えてファッションや音楽、アートの世界にまで大きな影響を与えた“エア ジョーダン”シューズは、一体どのようにした生まれたのかが今作で明らかにされる。
 1980年代、ライバルのコンバースやアディダスに大きく水をあけられ、不振が続くナイキのバスケットボールシューズ。好調のランニングシューズとは対照的で、役員会ではたびたび廃止案が出る始末。そんなバスケット部門のスカウト担当のソニーは、来季にスポンサー契約をする選手選びに四苦八苦していた。いかにインパクトのある選手を宣伝に使うかで、業績は大きく左右されるのだ。与えられた予算は限られていて、3人分で25万ドル。これで有力選手を得るのは至難の業。
 ある夜、ソニーはNBA入りが予定されている新人マイケル・ジョーダンのビデオを見ていて、その素晴らしい才能を確信する。そこでソニーは3人分の予算をマイケル一人に絞って契約することを提案。代理人に問い合わせてみると何と25万ドルは最低ライン。そしてマイケルの心は大好きなアディダスに傾いていると知らされる。(やっぱり・・・)さあ、ここからが勝負とソニーは猛反対の上層部と掛け合い、ルール違反も覚悟でマイケル獲得作戦を開始する。
 ソニーを演じるのは88年「ミスティック・ピザ」でデビューして以来、長年にわたり不動の人気を誇るマット・デイモン。ずいぶん太ってしまったが、その体型もキャラクターに活かしてしまうところが何とも粋。監督を務めたベン・アフレックはナイキの創設者フィル・ナイト役で登場。二人の息の合った演技は見ていて気持ちがいい。若き日のマイケル・ジョーダンの姿を正面からまともに映さないのもいい手法だと思ったが、その母デロリスが「エア ジョーダン」誕生のキーパーソンとして登場するのが印象深い。何しろそれまでスポーツ界にはなかった契約方法を愛する息子のために生み出してしまったのだから。
 実話とわかる資料映像の使い方も技あり。ここでは本物のマイケルとも会える。そして「Just Do It」等、章のタイトルには『ナイキの企業理念』が使われた。わずか半世紀足らずで世界の企業へと飛躍の一途をたどった“攻め”の姿勢がうかがえるが、これはこの時期新しく社会人となった人たちをはじめ、お腹まわりが気になりだしたベテランの皆さんにも、新たな情熱がわいてくるピッタリの作品かも。それにしてもいかにも職人気質のピーター・ムーアが、こだわって、こだわり抜いてデザインした『エア ジョーダン1』、やっぱりカッコいいんだわあ!!履かずに飾っておきたくなる気持ち、ワカル!
(HIRO) 

原題:AIR
監督:ベン・アフレック
脚本:アレックス・コンベリー
撮影:ロバート・リチャードソン
出演:マット・デイモン、ベン・アフレック、ジェイソン・ベイトマン、マーロン・ウェイアンズ、クリス・メッシーナ、クリス・タッカー、ヴィオラ・デイヴィス

「生きる LIVING」(イギリス、2022年)

2023年04月19日 | 映画の感想・批評


ノーベル文学賞受賞作家のカズオ・イシグロが子どもの頃に観た、黒澤明監督の「生きる」をイギリスの同時代を舞台にして、イギリスの名優ビル・ナイを念頭に置いて脚本を書いた。
ビル・ナイは今年度のアカデミー賞でも主演男優賞にノミネートされた。
「ラブ・アクチュアリー」や「パイレーツ・ロック」でぶっ飛んだロック歌手ぶりが楽しかったし、歌のうまさも知っていたし、好きな俳優さんの一人。
役所勤めの渋いイギリス紳士を演じるにはこの人しかない!というのは大いに納得。

カズオ・イシグロの「日の名残り」は原作も映画も大好きな作品。ノーベル賞受賞後初作品の「クララと太陽」を執筆中に、この「生きる」のリメイク版を製作する話が持ち上がったという。ちなみに、「クララと太陽」も映画化の準備が進んでいるらしく、原作ファンとしては見逃せない。カズオ・イシグロの作品世界はまだ彼自身が生まれる前の日本やイギリスを描くものから、近未来まで幅広いし、イギリスと日本をつなぐ架け橋のような存在。

余命宣告を受ける、受けないに限らず、残された時間をいかに生きるか。世界共通の永遠のテーマなのだ。先月末に観た「オットーという男」(トム・ハンクス主演)も、「生きる」のリメイクと言えなくもない。こちらはアメリカらしく、周囲を巻き込みながら、にぎやかに、どこかユーモラスなお話しでもあった。

イギリス版「生きる」は若い世代に託された、希望の感じられるエンドに思えた。
若い娘とのかかわりの中で、残りの時間で何をなすべきかを見つけていく主人公。
余命宣告を受けたことをマーガレットにのみ告げる。そしてこのマーガレットがなかなかに思慮深く、ウィリアムズの気持ちを受け止め、葬儀の席でも息子に礼節を尽くしているのがいい。やがて、新人職員のピーターと共に、ウィリアムズをしっかりと伝えていく立場になる。イギリス版はこの若い二人を通して、未来を見せてくれる。
私は小田切みきの「若い娘」よりもマーガレットに好感を持ったが、主人公の気づきの舞台背景そのものは日本版がいい。にぎやかな誕生日パーティーとの対比は泣かされた。

小ネタ集ができるのではと思えるくらい、黒澤版へのリスペクトとともに、今作品にはユーモアが感じられる。
1950年代のイギリスにも「UFOキャッチャー」があったのか。ウサギのおもちゃがここにも登場。
妻を見送る霊柩車の思い出も、帽子を奪われるシチュエーションも同じ!もちろん、役所の仕事ぶり。山のように積まれた書類の数!部署をたらいまわし!
遊び場ができ、子どもたちが楽しそうに駆け回る、夕飯だよと呼ぶ母親の声も。昨年の「ベルファスト」の冒頭にもあった、世界共通の夕方の街角。

「生きる」といえば、♪命短し、恋せよ乙女~♪の「ゴンドラの唄」!
ではなく、スコットランド民謡の「ナナカマドの木」が取り上げられた。ビル・ナイはロック歌手を演じたくらい、歌もうまい。亡き妻との楽しかった日々を思い、朗々と歌い上げる酒場、そして完成した遊び場で雪の舞い散る中、ブランコを揺らしながら楽しそうに歌う。
志村喬が最初に歌う「ゴンドラの唄」はやはり自らの命の短さを思い、悲しい響きで歌う。だから、ふざけて膝に乗っていたホステスも不気味さを感じて離れていってしまった。

雪の降る夜ふけ、ブランコの主人公を見かけた巡査の告白は、通夜の席ではなく、若い新人職員のピーターにだけ語られる。「とても楽しそうだったから、声をかけるのをやめてしまったが」と後悔する巡査。ピーターは「彼は幸せだったのです。声をかけなくて良かったのですよ」と語り、巡査は安心して去っていく。そして、「THE END」、久しぶりに観た。これぞ映画だわ!

黒澤明版の「生きる」は実はラストシーンくらいしか印象がないまま、リメイク版を観賞したのだが、1週間後、日本映画専門チャンネルで黒澤版を観る事ができた。字幕が無いし、セリフが聞こえにくい欠点はあったが、放送してくれたことに感謝である。午前中にテレビで観た直後、リメイク版をもう一度観たいと火がついてしまい、夕方急遽車を走らせた。

名作は過去のものでなく、リメイクされ、新しい命が吹き込まれる。そうやって、古典になっていくのであろう。黒澤版も原案はトルストイにあるという。新旧の両方を見られたことも良かった、いや、この文章を書くにあたっては、かえって重荷になったことは事実。正直に告白しとこうっと。
(アロママ)

原作作品:黒澤明「生きる」(1952年)
監督:オリヴァー・ハーマナス
脚本:カズオ・イシグロ
撮影;ジェイミー・D・ラムジー
出演:ビル・ナイ、エイミー・ルー・ウッド、アレックス・シャープ

「ザ・ホエール」(2022年、アメリカ)

2023年04月12日 | 映画の感想・批評
 

 いかにも舞台劇の映画化という佇まいである。知性派ダーレン・アロノフスキーの演出はいつになく抑え気味でオーソドックスだ。
 舞台ではよくドアが重要な役割を担うが、この映画でも主人公チャーリー以外の登場人物が安アパートの玄関ドアから登場しては去るという動作を繰り返す。チャーリーはあたかも鯨のごとき巨体だからひとりで歩行も出来ず、もっぱら居間のソファに身体をうずめたまま動くこともままならず、お菓子などをだらだら食いしながらテレビを見るかノートパソコンをたたいている。したがって、キャメラは原則としてこの部屋を出ない。
  部屋を一歩も出ようとしない頑固なキャメラはアルフレッド・ヒチコックの「裏窓」を想起させる。「裏窓」が観客に仕掛けたトリックは、足を骨折して動けない冒険写真家が息を潜めて殺人鬼の来訪を待ち受けるラストで観客もまた部屋から逃げられない錯覚に陥るという恐るべきヒチコック流心理誘導にかかってしまう魔法だ。いっぽう、この映画の場合はもちろん舞台劇の制約ということもあるだろうが、主人公はやはり簡単には動けない設定である。
 チャーリーは大学で双方向のオンライン授業を受け持っていて、ライティング(著述法)を教えている。ひとり暮らしのかれが心臓発作に見舞われたところにたまたま若者が新興宗教の勧誘に訪れる。若者の助けでなじみの看護師リズに連絡がついて一命をとりとめる。
 チャーリーが瀕死の状態で若者に紙を渡して朗読してくれと頼む場面がある。誰が書いたか知れないメルヴィルの「白鯨」の感想文だ。鯨の説明部分はうんざりするほど退屈だという感想に、私は100%同意する。その部分を端折ってモービー・ディックとエイハブ船長の対決に終始したジョン・ヒューストンの映画化作品の方が原作よりはるかにおもしろい。
 この感想文も映画の重要な小道具としてあとあと意味をもつ。映画の題名はこれにも大いに関係するのである。
 やがて駆けつけたリズはチャーリーに入院を勧めるが健康保険に加入していないのでそんな大金はないと拒む。それよりも、なぜそこに若者がいるのかリズは怪しむが、かれの訪問目的を知ってさらに態度を硬化させる。彼女の親も兄も信者であったらしく少女時代に苦い想い出があるようだ。統一教会問題で揺れたわが国の観客にも関心が深いであろうテーマだ。
 チャーリーには離婚した妻との間に17歳になるひとり娘がいて、彼女は8歳のときに家を出て行った父親がいまだに許せない。金目当てにぶらっと訪れた娘に悪態の限りをつかされてもチャーリーは娘がかわいい。リズはチャーリーが娘と会っていることを知って「二度と関わるな」と叱る。そのうち、また現れた例の若者は、意外やチャーリーがその宗教を詳しく知っていることに驚く。このようにして、主要な登場人物、リズ、若者、ひとり娘、別れた妻が次々に登場しては、チャーリーのこれまでの人生や、かれとかれらの関係が徐々に暴かれてゆくのである。
 あえて、最後まで伏せておいたが、この映画にはもうひとり重要な人物が登場する。すでに故人となっているためとうとう姿を現すことのないアランという人物を源泉として、物語が構成されているところに、この戯曲の巧妙さがある。そうして、親娘の終わりの見えない確執が果たしてどのような経路をたどるのか。繰り返される両者の激しい衝突、口論の果てに何があるのか。そこがこの映画の見どころである。
 末尾ながら、ブレンダン・フレイザーの渾身の演技に拍手を送りたい。(健)

原題:The Whale
監督:ダーレン・アロノフスキー
原作・脚本:サミュエル・D・ハンター
撮影:マシュー・リバティーク
出演:ブレンダン・フレイザー、セイディー・シンク、サマンサ・モートン、ホン・チャウ、タイ・シンプキンス

「ティファニーで朝食を」   (1961年 アメリカ映画)

2023年04月05日 | 映画の感想・批評
 1943年のニューヨーク。ホリー・ゴライトリー(オードリー・ヘップバーン)は夜な夜なカフェ・ソサエティに出没する高級娼婦で、取り巻きの男性からお金や高価なプレゼントをもらって気ままに暮らしている。自宅で盛大なパーティを開き、部屋があふれかえるほど人を招待し、金持ちの男性を見つけて結婚することを夢見ていた。同じアパートに引っ越してきた作家の卵のポール(ジョージ・ペッパド)は自由奔放なホリーに興味を抱き、親しくなるが、彼には有閑マダムの愛人がいた。ホリーはホセという大富豪のブラジル人の恋人ができ、結婚のためにブラジルへ旅立とうとするが、麻薬密売事件に巻き込まれて結婚は取りやめになってしまう。一方、ホリーを真剣に愛するようになったポールは、有閑マダムと別れ、作家としての自立を目指す。

 主題歌の「ムーン・リバー」があまりにも有名で、ジバンシーの黒いドレスに身を包んだヘップバーンはこの時代のファッションアイコンそのものだ。古き良き時代のハリウッドのロマンティック・コメディとして、ヘップバーンの代表作の一つとして、興行的にも成功した作品だが、映画はトルーマン・カポーティの原作とはかなり違っている。原作と脚本が異なるのは珍しいことではないが、ストーリーの改変は単なる商業上の理由ではなく、時代の制約のようなものが影響している。
 原作ではホリーは語り手(本名は明らかにされない)と恋愛関係に陥らず、ラストもハッピーエンドとは言えない。原作の語り手にはカポーティ自身が反映していて、はっきりとは書かれていないが、ゲイであることが示唆されている。またホリーがレズの子と同棲していたと語るシーンもあるが、ヘイズコード(アメリカ映画の自主規制条項)がまだ機能していた時代なので、同性愛を描くことはできなかったようだ。
 ホリーはしばしば<いやったらしい赤>と称する幻覚の出現に苦しんでいて、この苦しみから逃れるために酒や薬物に溺れたり、恋人を作ったり、ティファニーに逃げ込んだりしている。ホリーは幼い頃に両親を相次いで亡くし、兄のフレッドと共に悪い大人達に引き取られ、そこで性的虐待を含む児童虐待を受けている。<いやったらしい赤>というのは、フラッシュバックした時に現れる過去の忌まわしい記憶のことで、子供時代の苛酷な体験が原因だと考えられる。
 PTSDという病名がアメリカの精神医学会で正式に認められたのはベトナム戦争終結後の1980年のことであり、この映画が作られた1960年前後には流布していない言葉であるが、現在の視点から見れば、この原作はPTSDに苦しむ女性の物語だ。ホリーの成育歴には両親の愛情に恵まれなかったカポーティの子供時代が反映していると思われる。またカポーティはホリー役にマリリン・モンローを望んでいたそうだが、これはモンローの苛酷な少女時代がホリーの幼少期と重なるものがあったからだろう。映画では、当然のごとく、虐待のことには全く触れられていない。

 原作でも映画でも「ティファニーで朝食を」というタイトルの意味は明らかにされていない。周知の通りティファニーは世界的な宝飾品のブランドであり、飲食業とは関係がなく、店の中にレストランがあるわけでもない。映画の冒頭で早朝にタクシーで五番街に乗り付けたホリーが、ジバンシーの黒いドレスを着て、ティファニーのショーウィンドウを見ながらパンをかじる場面がある。徹夜のパーティが終わった後なのだろうか、ホリーのライフスタイルが典型的に表れているとも言えるが、タイトル回収のための苦肉の策という感が強い。原作にはないシーンだ。
 原作の中に「自分は映画スターなんかにはなれない」というホリーの台詞がある。「映画スターはエゴイストのように思われているが、実際にはそうではない」と続け、「自分はリッチな有名人になってもエゴを持っていたい。いつの日か、ティファニーで朝ごはんを食べるようになっても、このままの自分でいたい」と主張している。ティファニーで朝食を食べるというのは非現実的な願望であり、わがままであるが、わがままを大切にしたい、エゴを失いたくない、自分らしく生きたいとホリーは訴えているのだろう。自由奔放に生きるためには確固とした信念が必要なのだ。タイトルにはそんなホリーの心の叫びが隠されているような気がする。(KOICHI)

原題: Breakfast at Tiffany’s
監督:ブレイク・エドワーズ
脚本:ジョージ・アクセルロッド
撮影:フランツ・プラナー フィリップ・H・ラスロップ
出演:オードリー・ヘップバーン ジョージ・ペパード パトリシア・ニール