シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「グレース・オブ・ゴッド  告発の時」(2018年 フランス=ベルギー映画)

2020年07月29日 | 映画の感想・批評


 フランスのカトリック教会を混乱に陥れたプレナ神父事件を題材にしたこの映画は、フランソワ・オゾンのことだから一筋縄ではいかない問題をわれわれに突きつけている。
 若いながら銀行の要職にある主人公アレクサンドルは、リヨンで愛妻と5人の子どもたちに恵まれて暮らしている。その彼のボーイスカウト時代の思い出したくもない嫌な思い出を幼なじみから話題にされる。彼らはともに指導者であったプレナという神父に性的な悪戯をされたのである。ずっとそのことがトラウマであったアレクサンドルはプレナがいまだにパリで神父の職にあることを知って地区の枢機卿宛に過去の事件を告発する。
 枢機卿の計らいでプレナ神父と直接会うことになり、性的虐待を認めることは認めたが、ついに謝罪のひと言もなく会見は終わる。それで、アレクサンドルは枢機卿に面談を求め、じかに真相を話す。枢機卿は善処を約束するが、一向に動く気配がない。業を煮やしたアレクサンドルはローマ教皇に直訴の手紙を出す。それでも事態は動かない。
 教会の不誠実な対応に怒ったアレクサンドルは過去の出来事を知る両親に相談する。両親は「むかしのことだ。蒸し返してもしようがない」と、にべもない。そうした中で支えてくれたのがカトリック系の学校教師の職にある妻である。ついに警察に告訴することを決意する。
 やがて、プレナ神父事件の噂がじわじわと広がり、実は自分も犠牲者であると名乗り出る者があとを絶たず、被害者の会が結成され、彼らも警察に告訴するのである。
 被害者のひとりが警察で弁護士立ち会いのもと神父と会う。神父は素直に事実を認め、被害者の苦悩を理解し、謝罪の言葉をはじめて口にする。のみならず、教会の上層部に自分の「病気」を告白し、何とかしてくれと懇願した、と。しかし、教会はそれを無視し、事件を隠蔽したというのだ。加害者も深く傷つき苦悶しているのである。
 この映画が過去の幼児性愛告発映画と大きく違うのはここである。加害者が悪いのは当然としても、幼児性愛もまたLGBT同様に生来の資質である可能性を秘めている以上、アルコール中毒や麻薬常習のような後天的悪習と同じようには扱えない微妙な問題があるのだ。幼児性愛になぜ犯罪性があるかといえば、異性愛者が異性の同意なく性行を強いることが犯罪であるのと同じであるからだ。意思能力のない相手に性的行為を強要することに違法性がある。ここを勘違いしてはいけない。
 したがって、幼児性愛者が自らの行為を忌避して、自分では抑制できない欲望を阻止するため、その申し出を受けた者(教会上層部)は彼らを年少者のそばに近寄らせないとか、何らかの措置を講じる義務があった。この映画の主張である。
 同じことをテーマにした日本映画が阪本順治監督「闇の子供たち」である。これほど誤解された映画はなく、多くは子どもの臓器売買をテーマだといい、真のテーマである幼児性愛の深刻さを無視した。幸せな人びとである。
 このところ、復調の勢いのあるオゾン作品の中でも上位に位置する秀作であり、その問題意識の高さをさすがだと思わせる力作である。ベルリン国際映画祭銀賞。(健)

原題:Grâce à Dieu
監督:フランソワ・オゾン
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:マニュエル・ダコッセ
出演:メルヴィル・プポー、ドゥニ・メノーシェ、スワン・アルロー、エリック・カラヴァカ、フランソワ・マルトゥーレ

「めまい」(1958年  アメリカ映画)

2020年07月22日 | 映画の感想・批評
 回転する渦巻と刻々と変化していく光のパターン。機械的な音楽が不安感をあおり、女性の瞳が赤く染まる。コンピューター・グラフィックを使ったオープニングは一気に観客を画面に引き込んでいく。原作はボワロ=ナルスジャックの「死者の中から」。戦時中のフランスを舞台にした推理小説であるが、映画は現在(1950年代)のサンフランシスコが舞台になっている。
 スコッティ(ジェームス・ステュアート)は仕事中のアクシデントが原因で高所恐怖症になり警察を辞めた。大学時代の友人から妻の行動を調べてほしいという依頼を受けたスコッティは、マデリン(キム・ノヴァク)の尾行を始める。マデリンは不遇の死を遂げた曾祖母カルロッタの幻影に取りつかれ、希死念慮を抱いていた。海に飛び込んだマデリンをスコッティが救出し、やがて二人は愛し合うようになる。壊れゆくマデリンを必死で救おうとするスコッティ。憂いを帯びた音楽が素晴らしく、映画の前半はゴシック・ロマンスを想わせるような幻想性と神秘性を漂わせている。マデリンは夢の中で見たスペイン風の村にスコッティを連れていき、修道院の鐘楼の上から身を投げる。高所恐怖症のスコッティは階段を昇ることができず、マデリンの自殺を止めることができなかった。
 生きる気力を失ったスコッティはマデリンの影を追うようになる。ある日、街でマデリンに似た女を見つけ、声を掛けると女はジュデイと名乗った。髪形も服装もマデリンとは違うが容姿は瓜二つだ。ヒッチコックはここでスコッティには知らせずに、観客にだけジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを明らかにする。トリックの詳細は省略するが(トリック自体はそれほど秀逸ではない)、原作では最後に解明される謎を映画では後半早々に明らかにしている。その理由をサプライズよりサスペンスを重視したからだとヒッチコックは述べているが、むしろこの作品はここから稀有な恋愛映画に変貌したように思える。
 原作ではスコッティ(原作の名前は異なるが、あえて映画と同じ名前で統一する)は最初からマデリンに入れあげていて、妄想と言ってよいほど一方的な愛情を傾けている。原作のマデリンには高貴で神秘的な魅力はあまりなく、男性関係もルーズでスコッティを愛しているようにも思えない。スコッティはジュデイとマデリンを同一視し、「おまえがマデリンだろう」と激しく問い詰めて、堪えきれなくなったジュデイが真相を告白する。スコッティは自分を愛してくれないことに逆上し、ついにはジュデイ=マデリンを絞殺するという通俗的な展開になっている。
 映画のスコッティも病的なほどマデリンに心を奪われているが、その妄想は純粋で神秘的である。スコッティはジュデイが死んだマデリンと同一人物であることを知らず、ジュデイの服や髪の色、髪形をマデリンと同じものに変えていく。この場面は女性蔑視であるという批判をよく聞くが、着せ替え人形のようにジュデイの外見を変えていくのは支配欲や性的フェティシズムのためではない。自分(スコッティ)を愛している女性に無理難題を押し付けて支配しようとか、自分好みの女にしようという願望ではなく、あくまでもマデリンのイメージを再現するためである。ジュデイにマデリンになって欲しいと思っているわけではなく、ジュデイを通してマデリンを感じたいだけである。スコッティはマデリンしか愛していない、マデリンしか愛せないのだ。ジュデイが寸分違わずマデリンと同じ外見になったとしても、ジュデイはジュデイでありマデリンにはなれない。
 トリックが明らかにされジュデイがマデリンを演じていたことを知ったとき、スコッティはマデリンが生きていたことを喜ぶのではなく、マデリンが実在しなかった事実に絶望した。映画の最後でジュデイは自分を愛してくれと懇願するが、スコッティは
「もう遅い、彼女は戻らない」
と言って拒絶する。相思相愛であっても愛は成就せず、虚像を愛し続けることをやめないスコッティ。ここにこの映画の真の悲劇がある。(KOICHI)

原題:Vertigo
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:アレック・コペル  サミュエル・テイラー
撮影:ロバート・バークス
出演:ジェームス・ステュアート  キム・ノヴァク

「MOTHER マザー」(2020年 日本映画)

2020年07月15日 | 映画の感想・批評

 
まずは、映画館がコロナ対策を講じながら再開したのは素直に嬉しい。やはり、映画が映画館で観たい。私も久し振りに映画館に出向いた。ただ、まだ不安もあったので、混雑していたら遠慮しようと思っていた。蓋を開けると、幸か不幸かガラガラだった。ソーシャルディスタンスが保てた一方、封切1週間の土日の午後でこの状況かと、これからも映画が観られるのか心配になるという複雑な気持ちであった。
 長澤まさみが初の汚れ役の「MOTHER マザー」を観た。その場しのぎの生活を送るシングルマザーの秋子(長澤まさみ)と、その息子・周平(奥平大兼)と内縁の夫でホストの遼(阿部サダヲ)を中心に物語は展開する。2014年に実際に起こった殺人事件を元に製作された。
 秋子のダメ母親振りが凄まじい。全く働かない。生活保護はパチンコ代へ。ゆきずりの男を家に入れて、周平に夕食を買いに行かせる。留守番をさせて、自分は旅行へ。因みに、家の電気ガスは止められている。周平を使って、親類や周平の勤め先から借金をする。もちろん、返す気はない。遼と組んで恐喝をする等々。
 そんな生活をしていると当然行き詰ってくる。そこで、秋子が周平に最後の指示を出す。「殺してでもお金を取って来い」と。但し、劇中でははっきりと明言はしない。でも、それを忠実に実行する周平。向かった先は、祖父母の家。何も知らずに家に招き入れる祖父母。響き渡る悲鳴。その後の静寂。返り血を帯びた周平。それを見た秋子の怪訝で不満に満ちた目。
 唯一の救いだったのは、周平が殺人に手を染める前に、児童相談所の亜矢(夏帆)がこの家族に救いの手を差し伸べるシーンである。が、秋子には響かない。亜矢の行動が周平を秋子から離れようと思わせたが、それも秋子と遼によって、閉ざされてしまう。落胆の気持ちだけが大きくなる。
 そして、ラストシーン。留置所で秋子が弁護士に言う。「私の子供ですから、どう育てようが勝手」。周平が亜矢に言う。「お母さんが好き」。周平は秋子からの指示はなく、自分の意志で殺害をしたと主張し実刑が下る。手を下したのは周平なので、刑期は周平の方が長い。秋子は指示していないと主張し、刑期が短く執行猶予付き。歪んだ親子の愛情劇というだけでは足りないと感じるが、何が足りないのか分からない。また、何故、題名が『MOTHER マザー』なのか。「MOTHER」でもなく「マザー」でもないのか。各々が求める母親が違うからなのだろうか。兎に角、分からないことばかりで、共感は出来ずに、最初から最後まで後味の悪い映画だった。
 長澤まさみの怒り狂った顔は歪んでいて印象的だった。「素晴らしい汚れ役」とも云うべきか。また、息子役の奥平大兼の自然体で良かった。大物俳優に囲まれながらも、堂々としていた。監督の演出が良かったのでは。出番は少ないが夏帆も存在感があった。
(kenya)

監督:大森立嗣
脚本:大森立嗣、港岳彦
撮影:辻智彦
出演:長澤まさみ、阿部サダヲ、奥平大兼、夏帆、皆川猿時、仲野太賀、木野花他

「カセットテープ・ダイアリーズ」(2019年 イギリス)

2020年07月08日 | 映画の感想・批評
 かつては世界中に殖民地をつくり「太陽が沈まない国」と言われたイギリス。第二次世界大戦後は植民地から独立した国や地域から、イギリスに渡れば稼げるし家族も養えると、故国を離れてきた移民たちがコミュニティを作っていった。映画の舞台となったルートンは、原作者で脚本にも参加しているサルフラズ・マンズールが育った町で、パキスタン移民が多く住む町だった。本作が描く1987年は、1979年から90年まで続いたサッチャー政権の新自由主義政策のもと、工場閉鎖や失業者も多かった。その原因を移民の責任にしたがる連中は、移民への人種差別を煽った。ナショナリズムが台頭していた時代だった。
 親とは子どもには成功した人生を掴んでほしいと願うものだが、過剰な干渉と指図をする特に父親ほど、息子にとって鬱陶しいものはない。作家になりたいと願い音楽と詩を書くのが好きなパキスタン移民の少年ジャベドは、父親への反発や、近所の住民の嫌がらせや、政治や経済問題への不満などを題材に詩を書いているが、まだ自分の言葉を見つけられずに呻吟していた。
 そんな時、クラスメイトのループスが貸してくれた米国のロックシンガー、ブルース・スプリングスティーンのカセットテープを聴いたジャベドは衝撃を受けた。まるで自分の気持ちを代弁してくれているような歌詞と力強い音楽の虜になってしまった。ブルースの父親も自動車工場の労働者だったが解雇され、母親が働いて家庭を支えていたことなど、似たような境遇の中から生まれたブルースの音楽に打ちのめされた。
 『ベッカムに恋して』で最初はデヴィッド・ベッカムに憧れていただけだったが、やがて女性のフットボールチームでプレーすることに夢中になっていくインド系の少女を描いたグリンダ・チャーダ監督。本作ではブルース・スプリングスティーンの音楽に出会い夢中になるが、やがてジャーナリストになるため大学に進学していくパキスタン系の少年を描いた。きっかけを与えてくれたそれぞれのヒーローを眺めているだけでなく、その向こうに自分自身のやりたいことを見つけて一歩を踏み出そうとする若者たちを応援する青春映画だ。
 実はこの映画で初めてブルース・スプリングスティーンを聴いた。1987年、ジャベドは彼の歌に衝撃を受けたが、社会の矛盾をパワフルに歌い続ける彼の歌は、閉塞感が漂う2020年を生きる現代の若者の心をもガッチリと掴むことだろう。(久)

原題:Blinded by the Light
原作:サルフラズ・マンズール『ベリー・パークからの挨拶』
監督:グリンダ・チャーダ
脚本:サルフラズ・マンズール、グリンダ・チャーダ、ポール・マエダ・バージェス
撮影:ベン・スミサード
出演:ヴィヴェイク・カルラ、クルヴィンダー・ギール、ミーラ・ガナトラ、ネル・ウィリアムズ、アーロン・ファグラ、ディーン=チャールズ・チャップマン、ロブ・ブライトン、ヘイリー・アトウェル、デヴィッド・ヘイマン


「世界でいちばん貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ」 (2018年 アルゼンチン・ウルグアイ・セルビア映画)

2020年07月01日 | 映画の感想・批評

 
 2012年、ブラジルのリオデジャネイロで開催された国連「持続可能な開発会議」で最も注目を浴びたのは、南米の小国ウルグアイの大統領が行ったスピーチだった。それは、「世界の環境危機を引き起こしている真の原因は、消費至上主義であり、経済発展は必ずしも人類の幸福に結びついていない。本当の幸せとは一体何なのか、しっかり考えていくことが大切だ。」というもの。それ以来彼は、「世界でいちばん貧しい大統領」と呼ばれ、翌年の2013年、14年と連続してノーベル平和賞の候補となり、日本のTVでもその暮らしぶりが何度となく紹介された。
 彼の名はホセ・ムヒカ。“貧しい”の根拠は、国民のよりよい生活のためには自己犠牲をいとわず、給料の9割を貧しい人たちのために寄付したり、共和制の国で選ばれし者は、上流階級のようにではなく、大多数の人々と同じように暮らすべきだと考えているため。そのような考えは一体どこから生まれてきたのだろう。資料によれば、1973年ウルグアイで軍事クーデターが発生し、軍事独裁政権が始まったとき、政府に反対する非合法政治組織「トゥパマロス」に参加していたムヒカは、人質に取られて全国の刑務所を転々とさせられ、1985年に軍事政権が倒れ解放されるまで13年近くも苦しい刑務所生活を送ってきた。その中でたくさんの書物とも出会い、農業の大切さを知り、「人は好事や成功よりも、苦痛や逆境からより多くの物を学ぶ物だ。」と悟る。また、妻となるルシアとの出会いも大きい。彼女もゲリラ組織の一員であり、同じように逮捕され、長い獄中生活を送った同士なのだ。現在の穏やかな表情の二人からは想像もできないが、長い間権力と戦って生きてきたからこそ、大統領になった後も、庶民と共にあろうという信念を持ち続けられたのだろう。酒場でタンゴの生演奏に合わせて二人が寄り添いながらしみじみと唄うところでは、その絆の深さが見てとれた。
 職務の合間にトラクターに乗って農場を耕している大統領がいることを知り、世界で腐敗していない唯一の政治家のドキュメンタリー映画を撮ろうと決心したのは、「パパは出張中!」(’85)でカンヌ国際映画祭パルム・ドール賞を受賞したエミール・クストリッツア監督。旧ユーゴスラビア出身で、ボスニア紛争の際には自宅の略奪や父親の死に直面し、自国の状況を知らせるために「アンダーグラウンド」(’95)を制作。2度目のパルム・ドール賞受賞の経歴を持つ。そんな監督だからこそ、ムヒカ大統領も安心して迎え入れたのだろう。ちょっぴり苦いマテ茶と共に。
(HIRO)


ムヒカを紹介する本