シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「ウエスト・サイド・ストーリー」(2021年 アメリカ映画)

2022年02月23日 | 映画の感想・批評
 

 手元の資料によれば、1957年にブロードウェイで上演されたミュージカルが、ロバート・ワイズ監督によって映画化されたのが1961年。作品賞を含むアカデミー賞10部門を受賞した名作「ウエスト・サイド物語」を、60年の年月を経て、映画界の巨匠スティーブン・スピルバーグがリメイクに挑戦した。
 舞台はオリジナル版と同じニューヨーク。マンハッタンのリンカーン・センターから始まる画面から、時代は現代に変わったかと思いきや、よく見るとこれは完成予想図。時も同じく1950年代後半、あたりはスラム街の再開発の真っ最中というわけだ。そして登場したのがそこに住む若者たちの集団、ジェッツとシャークス。この構図も前作と同じで、なぜか安心感が。さらに流れる楽曲が聞き慣れたあの名曲の数々。「ジェット・ソング」「ダンス・アット・ザ・ジム」そして「マリア」「トゥナイト」「アメリカ」「クール」等々。スピルバーグはリメイクに当たって原作をこれほどまで大切にしているのかと思えるほどで、今回の製作に当たっては時間をかけて原作者のアーサー・ローレンツや音楽を担当したレナード・バーンスタインなどの遺作管理者からリメイクの権利を取得したそうだ。もちろん、誰もがスピルバーグが監督するなら喜んで、という結果だったらしいが・・・。
 縄張り争いをするシャークスとジェッツ、シャークスはプエルトリコからの移民たちの集団で、日常会話は英語ではなくてスペイン語。これでリアル感がグンと高まった。使われている曲や踊りのナンバーもラテン系の明るい曲が多く、衣装もカラフル。対するジェッツはヨーロッパ系移民の若者たちの集団。「クール」という言葉がまさにぴったりなのだが、どちらが勝っても下町の再開発に従い、いずれここを去らなければならないところが何とも皮肉。今も変わらず存在している人種や移民、貧困等がもたらす問題を色濃く描き出すことにも成功している。
 主人公のトニーを演じているのは「ベイビー・ドライバー」で注目を浴びたアンセル・エルゴート。ジェット団にいるのだが、色白で背が高く、いかにもポーリッシュの代表って感じ。マリアにはプエルトリコ出身の新人レイチェル・ゼグラーが選ばれた。前作のナタリー・ウッドよりグンとラテン色が強まった感じで、恋に落ちるトニーとの対比が鮮やか。二人とも歌が上手く、精一杯演じる姿に好感が持てる。さらに前作ではマリアの兄の恋人アニータを演じていたリタ・モレノが、トニーが働くドラックストアの女主人で登場。歌まで披露してくれて、往年のファンには嬉しい限り。唯一残念だったのは、前作で主役のリチャード・ベイマーより人気の出たジョージ・チャキリスを越える魅力的なシャークスのメンバーがいなかったこと。これはあくまで自分だけの感想なのかもしれないが・・・。
 エンドタイトルで『For DAD』という言葉を発見した。また新たな名作を作りあげたスピルバーグ監督には、きっと「ウエスト・サイド物語」に関わる父親との忘れられない思い出があるに違いない。どうしてだろう、悲劇であるにもかかわらず心はわくわく、見終わった後は指をパッチン鳴らしながら、今聴いた曲を次々口ずさんでいる自分がいた。
(HIRO)

原題:WEST SIDE STORY
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:トニー・クシュナー
撮影:ヤヌス・カミンスキー
原作:アーサー・ローレンツ
出演:アンセル・エルゴート、レイチェル・ゼグラー、アリアナ・デボーズ、デビッド・アルバレス、マイク・フェイスト、リタ・モレノ
 

「浮雲」(1955年 日本映画)

2022年02月16日 | 映画の感想・批評


 太平洋戦争の最中、農林省のタイピストとして仏印(ベトナム)へ赴いたゆき子(高峰秀子)は、農林技官の富岡(森雅之)と恋に落ちる。終戦を迎え、妻との離婚を約束して富岡は一足先に帰国するが、ゆき子が訪ねると離婚の意志はなくなっていた。終戦直後の混乱の中、ゆき子は生きていくために米兵の情婦になったり、いかがわしい新興宗教を始めた義兄に囲われながら食いつないでいく。
 富岡は伊香保温泉で飲み屋の若妻おせい(岡田茉莉子)と関係ができてしまう。妊娠に気づいたゆき子が富岡の新しい住居を訪ねると、夫から逃げ出したおせいが同居していた。失意のうちに中絶したゆき子は、病院のベッドでおせいが夫に絞殺されたことを知る。
 病死した正妻の葬儀費用を借りるために富岡はゆき子を訪ねた。これまでの修羅場が嘘であったかのようにゆき子の心に富岡への愛情が蘇ってくる。富岡が辺境の地、屋久島に単身赴任することが決まると、自分も連れて行って欲しいと懇願する。二人は屋久島に向かって旅立つが、鹿児島でゆき子は体調を崩して寝込んでしまう。富岡はゆき子を医療設備の乏しい屋久島へ連れて行くことをためらうが、ゆき子の気持ちは変わらない。やがて辺境の地へ辿り着いた二人に永遠の別れが待っていた・・・
 原作は林芙美子。成瀬巳喜男の代表作であり、映画史上に残る名作だと言われて久しいが、意外なことに「浮雲」には成瀬らしいユーモアやあいまいさがない。原作がシリアスなためにユーモアをはさむ余地がなかったのだろうか。成瀬は劇的な破局や悲劇を嫌い、結末をあいまいで不安定なままにしておくことが多いが、この作品のラストは極めて劇的でドラマチックである。これには脚本を担当した水木洋子の意向が反映していると言われている。鹿児島港を船が出る場面をラストシーンにするつもりだった成瀬に対して、水木は屋久島の場面まで描くように主張した。結末を明らかにすることにより、ゆき子の悲劇性が高まり、「浮雲」は恋愛映画として印象づけられることになった。
 原作では屋久島の場面の後に最終章があり、鹿児島に戻った富岡は<浮雲>のような己の姿を述懐する。主人公は富岡であり、タイトルの「浮雲」は富岡自身を指している。原作のテーマは富岡の人生そのものなのだが、水木は最終章を削り、ゆき子を主人公とする女性映画に作り替えたのだ。
 この作品を「男女の腐れ縁、道行、究極の恋愛映画」と論じる評論家が多いが、むしろ愛の不毛、愛の不可能性を描いた映画ではないか。富岡はかつてはゆき子を愛していたが、今は愛していない、いや愛せないのだ。ここにこの映画の隠されたテーマがある。富岡は伊香保温泉でゆき子に次のように語っている。
「君と僕の間が昔通りの激しさに戻るわけでもないし、そのくせ僕は女房にも昔のような愛情をもっているわけでもないんだよ。まったくどうにもならない魂のない人間ができちゃったものさ」
 富岡は妻にもゆき子にもおせいにも愛情を注ぐことができない。価値観を喪失した虚無主義者であり、あえて言うなら第一次世界大戦後に登場したロスト・ジェネレーションの作家達が描く主人公に近い。女とアルコールに溺れ、心に病をかかえたニヒリストであり、3人の女を破滅させたHomme fatal(オム・ファタル/運命の男)でもある。なぜ生きる気力を失ってしまったのかははっきりと描かれていないが、戦争が少なからぬ影響を及ぼしていることは想像するに難くない。
 愛や人生に意味を見出し得ない男と、どのような困難があっても生きることを疑わない女のコミュニケーション・ギャップの悲劇。これが作品の根底にある。富岡が屋久島に渡ろうとしたのは一種の遁世であり、ゆき子は最果ての地まで世捨て人を追いかけて行ったのである。富岡は何度も別れたいという意思表示をしているのに、ゆき子は諦めきれない。騙されても裏切られてもついていく。不可解で愚かとも思えるゆき子の行動に人々は驚き、悲しみ、魅了される。谷崎潤一郎の言う「愚かと云う貴い徳」を持っているゆき子に観客は感情移入してしまう。
 ゆき子と富岡は林芙美子の心が生み出した、相反する二つのキャラクターではないか。幼少の頃より貧しさの中で懸命に生きてきた林は、満たされぬ愛情を求め続ける情念の人でもあった。苦労の末に作家として認められ、特派員として南京や武漢に赴いたときには、皇軍を手放しで賛美する軍部寄りの従軍記を書いている。その一方で累々と横たわる馬や人間の死骸に感覚が麻痺していく心境を吐露し、戦争の苛酷な現実に無力感を抱き続けていた。<情念と虚無>という矛盾した感情が林の中で共存するようになり、それがゆき子と富岡の人物造形に反映したのではないか。
 ゆき子が鹿児島で病に伏せるのはいささか唐突であるが、これによって葛藤が生まれ、終盤に向けて緊張感が高まっていく。ラストシーンで富岡は仏印時代の幸福に満ちたゆき子を回想し、遺体に取りすがって号泣する。ゆき子を失って初めて彼女への愛情に気づいた、と多くの観客は思うかもしれないが(まるでフェリーニの「道」のように)、これは一時的な感傷にとらわれただけで、富岡の深層は変わっていないのではないかと思う。それよりもゆき子が病に倒れず、最果ての地で二人が末長く暮らせたら、富岡の病は徐々に癒されたかもしれない。時間と環境が空虚感を埋めてくれるからだ。ゆき子が生き続けたら、愛が虚無を乗り越える瞬間が来たかもしれない。惜しむらくは花の命のみじかさである。(KOICHI)

監督:成瀬巳喜男
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
出演:高峰秀子 森雅之 山形勲 岡田茉莉子 加藤大介


「コーダ あいのうた」(2021年 アメリカ映画)

2022年02月09日 | 映画の感想・批評


Coda コーダとは、「聾の親を持つ健聴者の子ども」という意味だと初めて知った。
アメリカのとある海岸の漁師の一家。高校生の娘ルビーは朝3時から起きて、父と兄の漁を手伝い、着替える間もなく登校する。同級生たちからは「魚臭い」と嘲笑されるだけでなく、手話が第一言語になっているからか、幼いころから言葉の表現も普通ではないと思われている。
ひそかに思いを寄せる同級生マイルズと同じ部活動をという理由でコーラス部に入部するが、人前で歌う恥ずかしさから一度は逃げ出してしまう。それでも試しに声を出してみると先生が目を見張る。コーラス部の指導者はメキシコからの移民らしく、巻き舌で自己紹介。とてもまねできそうにないので、「V先生とよんでくれ!」
文化祭のステージで、あこがれのマイルズ少年とデュエットをすることに決まった。ある日、マイルズと自宅で歌の練習をしていると、隣室から両親のあられもない声がひびきわたってくる。

両親のあけっぴろげな暮らしぶりもおかしいのだが、ルビーは両親の性生活のお悩みを医者に通訳するなど、思春期の少女にはとてもつらい体験をしている。
マイルズはルビーの両親の開放的な様子にあこがれも手伝って、学校でルビーの家族について語るのだが、それはあらぬ方向に。ルビーはますます学校に居づらさを感じる。

音楽の楽しさを知ったルビーはV先生の指導の成果もあり、音大への道を夢見始める。しかし、一家にとって、漁の売上高の管理を自分たちでやろうと協同組合も作ったばかりで、通訳者であるルビーが居ないと交渉事はできない、漁船の操業の安全は確保できない、テレビの取材にも応じられない。
両親は娘に音大進学よりも家業を手伝うことを望み、ルビーも葛藤の末、それを受け入れる。兄だけは乱暴な言葉をかけながらも不器用な愛情表現で、妹の自立と旅立ちを応援してくれるのだが。

いよいよ文化祭。母は娘の為に真っ赤なドレスを用意し、家族そろって会場へ。
でも、彼らには娘の歌う声は全く聞こえない。周囲の観衆が体でリズムをとり、うっとりしている姿を眺めまわしながら、娘の歌声がどんなに感動を与えているかを感じ始める。
このシーンが本当に素晴らしい。一切の音を消して、私たちも聾の体験をすることになる。

その夜、父親は娘に「お父さんの為に歌ってくれ」と、娘の喉元に手をあて歌を聴こうとする。そして、娘の才能を感じ取り、新しい世界へと背中をおす決心をする。
音楽大学の入学オーディションははたして・・・・・

ルビーを演じたエミリア・ジョーンズの歌が本当に素晴らしい。
両親と兄は現実の聾唖の俳優さんたち。母親役のマーリー・マトソンがジュリア・ロバーツに見えてしばらく戸惑う。
日本でようやく話題になってきたヤングケアラーのことも頭をよぎり、一緒に観た息子を「夫の介護の為に縛ってはいやしないか」、ふと横顔を見てしまった。障害のある家族という切り口だけではない、家族の物語として普遍性のある作品と思えた。サントラ盤のCDが今ドライブのお供、心地よい時間を過ごせている。
(アロママ)

原題:Coda 
監督:シアン・ヘダー
脚本:シアン・ヘダー
撮影:ポーラ・ウイドプロ
出演:エミリア・ジョーンズ、トロイ・コッツアー、マーリー・マトリン、ダニエル・デュラント、フェルディア・ウォルシュ=ピーロ


「さがす」(2022年日本映画)

2022年02月02日 | 映画の感想・批評
 この映画のチラシを見たとき、いの一番に「空白」が頭をよぎったのだけれど、それは娘役がともに伊東蒼であることと父親役がそれぞれ古田新太と佐藤二朗であることの相似性だった。しかし、「空白」では娘がコンビニで万引きを疑われ交通事故に至るという設定に対して、この映画ではこともあろうに父親(智)が万引きをして捕まり、中学生の娘(楓)がそこに呼び出されるという倒錯した状況が描かれる。
 母親は難病の果てに自殺していて、父ひとり子ひとりの環境の中で、楓はグレもせず健気に明るく生きている。問題はロクに仕事もしていない智のほうにある。
 連続殺人の指名手配犯を電車で見かけたと娘に話す智は、それが本人なら300万円の懸賞金が手に入ると浮き足立ち、翌朝から忽然と姿を消すのである。その指名手配犯が、重要なテーマと見られる「自殺幇助」に関係しているのだ。
 そうして、父親に遺棄された楓はボーイフレンドを伴って父親探しに奔走し、西成の日雇い労務の派遣斡旋所で父の居場所を突き止める。そのごみ処理施設に居たのは父の名前をかたる若い男だった。果たして父親はどこに消えてしまったのか?
 ここから物語はミステリ仕立てと変貌し、どうにもやりきれないテーマをおもしろおかしく語りだすのである。まじめな観客は怒り出し、私のようなブラックジョーク好きは身を乗り出すことになる。
 新型コロナ感染症蔓延の鬱々とした世情では、職を失うという経済的な困窮ばかりか、過度のストレスによって追いつめられた精神状況を生み出した。
 それ以前から、自殺志願者がSNSを通じて自殺幇助を求めるという歪んだ実態が社会問題となり、あまつさえ、それもかなわぬ自殺志願者がまったく無関係の人びとを巻き添えにして国家の死刑制度を悪用しようという自己中心的な企てとか、自分だけがこの世の不幸のすべてを背負い込んでいると錯覚し、幸せそうな他人を妬んで無差別に凶行に及び、ついでに死んでやろうという反社会的衝動が引きも切らぬのは、目下の逼塞感と無縁ではないようにおもわれる。
 一昨年には京都でALSに罹患して生きる希望を失った女性がSNSで知り合った医師ふたりに安楽死を依頼し、亡くなるという事件が報道された。この事件は金銭がからんでいなければ患者の苦痛を和らげるために施された人道的な措置とみることもできたものを、あとから発覚した医師のこころの闇を見るような過去の疑惑によって単なる犯罪に貶めてしまった。この映画の着想はこんなところからきているようにおもう。
 そこで、考え出されたのがこの映画のブラックユーモアだろう。黒い笑いと、サイコホラー風に語られる自殺幇助「屋」の物語は、まじめな観客にはふざけているとしか映らないかもしれない。しかし、対象を正視することから目線をはずした描き方が、むしろことの本質をみごとに抉り出すこともあるのだ。
 ただ、ここで安楽死や自殺幇助を求めた人びとが果たして望みどおりに死ねたかというと、きわめて疑問だと、この映画はいっているようにおもった。
 なかには依頼した仕事が成就され満足に死んでいった人びともいたかもしれない。しかし、むしろ多くの人がその死ぬ間際に「しまった」と後悔してしまうような瞬間があったとすれば、それはまた大きな禍根であるといわなければならないだろう。(健)

監督:片山慎三
脚本:片山慎三、小寺和久、高田亮
撮影:池田直矢
出演:佐藤二朗、伊東蒼、清水尋也