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「気張ったら何か出た」独身女が居酒屋トイレで出産して…「便器に上が足の状態」凄惨現場と“父親”の行方

2023年09月04日 23時03分20秒 | 事件と事故

「気張ったら何か出た」独身女が居酒屋トイレで出産して…「便器に上が足の状態」凄惨現場と“父親”の行方


9/4(月) 6:32配信



週刊女性PRIME
事件現場は、立ち飲み居酒屋のトイレ(SNSより、編集部で一部加工)


「彼女が妊娠していると誰も気づかなかったようで……」


 容疑者を知る飲食店関係者はそう証言するーー。


【写真】トイレで事件が起きた居酒屋の店内、容疑者は「ちゃんと仕事をする」人だが…


 大阪府警阿倍野署は8月18日、同府大阪市生野区に住むアルバイト従業員の小関菜津美容疑者(34)を殺人の疑いで逮捕した。16日の午後、容疑者が勤務先の飲食店のトイレで嬰児(えいじ)を産み落とし、救護せずに殺害したというもの。


「嬰児は男の子で身長49センチ、体重2865グラムで、妊娠30~40週だったといいます。司法解剖では死産ではなく、便器内で泡沫が気道に詰まったことによる溺死。容疑者が出産後、嬰児を長時間、放置して死亡させたとして殺人での逮捕となった」(捜査関係者)


 警察の取り調べに対して小関容疑者は、「出産したことは間違いないが、放心状態で助けられなかった。殺すつもりはなかった」と容疑を一部否認している。


 小関容疑者は約2年前から、同市阿倍野区の商業施設内にある立ち飲み居酒屋で働いていた。


「きちんと出勤してちゃんと仕事をする、何も問題のない人だったと聞いています」(冒頭の飲食店関係者)


 彼女は職場から2キロメートル強離れた築36年、6階建てマンションの、家賃月2万7000円ほど、間取り1Kの部屋で独り暮らしをする“独身”。同マンションの住民を取材するも、容疑者の存在を知る人は皆無だった。


トイレに呼びかけると「無理や! 出ていかれへん!」
 犯行当日、午後2時ごろに出勤した容疑者は4時30分ごろから体調不良を訴えて休憩室へ。その後、仕事場になかなか戻ってこなかったため、ほかの従業員が店長に相談。6時20分ごろ、店長が心配して休憩室をのぞくも姿はなく、どうやらトイレに閉じこもっていることが判明。


「どうしたんや?」


 店長がドア越しに声をかけたが、中にいる気配はあったものの返事はない。


「困惑した店長は、容疑者の母親に連絡。午後7時ごろに到着した母親が幾度となく“どうしたの?”と呼びかけて出てくるように促したが、本人は何度も“無理や! 出ていかれへん!”と言うばかりで、説得に応じなかったようです」(全国紙社会部記者、以下同)


「気張ったら、何か出てきた」衝撃の現場
 午後8時過ぎ、店長が119番通報。到着した救急隊員がドアを開けるように要請したが、容疑者は「帰ってもらって! 病院には行かへん!」と応じなかった。


「9時前にようやくみずからドアを開けて出てくると、倒れ込むようにストレッチャーに乗って運ばれた」


 救急車内で血圧、体温、脈拍を測るも、異常なし。すると小関容疑者は、


「気張ったら、何か出てきた。赤ちゃんやと思う」


 と驚くべき言葉を発した。救急隊員が急いでトイレに向かい、閉じていた洋式トイレのふたを開けると、


「便器内で足が上、頭が下の状態になった嬰児を発見。すでに心肺停止状態で、搬送された病院で死亡が確認された」(捜査関係者、以下同)


 容疑者は我が子の死を知らされても、


「愛情も罪悪感もない感じで飄々としていた。一度も産婦人科に行っておらず、両親や友人に相談した様子もない」


 嬰児の父親については、


「妻子ある男なのか、一夜限りのゆきずりの男なのか……。容疑者はまだ供述していないが、親にも言えない相手だったんでしょう」


 小さな命が身勝手な母親によって無惨にも奪われた。




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関東大震災で壊滅した吉原遊郭:死者で埋もれた弁天池跡、100年の節目に整備

2023年09月04日 22時03分14秒 | 歴史的なできごと

関東大震災で壊滅した吉原遊郭:死者で埋もれた弁天池跡、100年の節目に整備(nippon.com) - Yahoo!ニュース 


遊女が行き交う写真に彩色した絵はがき『東京名所 新吉原公園』(大正時代 個人蔵)。左手前から橋の右側へと広がるのが弁天池(写真=個人蔵)




絵はがき『新吉原の全滅(大門付近)(東京都立中央図書館蔵)』。震災当日夕方、大門の門柱のみが立っており、至る所で煙が立ち上っている(写真=東京都立中央図書館)



老朽化により漏水が起きていたという改修前の弁天池 写真:浮世写真家 喜千也(写真=浮世写真家 喜千也) 


関東大震災で壊滅した吉原遊郭:死者で埋もれた弁天池跡、100年の節目に整備
9/1(金) 14:05配信

nippon.com
浮世写真家 喜千也


1923年の関東大震災で、多くの死者で埋もれた東京・吉原の弁天池。発生から100年の今年、その跡地で大幅な改修工事が行われた。新たな名所の誕生によって、華やかだった江戸吉原の文化を発信しようと奮闘する現在の吉原の町の取り組みを紹介したい。


関東大震災で多くの命が失われた吉原・弁天池
関東大震災から約2カ月後、瓦礫が撤去された大門付近。左奥にぽつんと営業しているバーが見える(1926年刊『東京震災録 地図及写真帖』より 東京都立中央図書館蔵)


10万5000人もの死者・行方不明者を出した関東大震災が発生したのは、1923(大正12)年9月1日11時58分。今年で100年となる。


震源地は相模湾北部でマグニチュード7.9、最大震度は7相当。東京も震度6の強い揺れに襲われ、住宅の全半壊は20万戸以上で、そのうち焼失したのが17万6500戸に上る。発生時刻が煮炊きする昼時だったため、火災が多発したのだ。


当時、首都・東京の惨状の写真が全国に報じられた。中には、頭が落ちた上野公園の大仏や、「浅草凌雲閣」(通称・浅草十二階)の倒壊のように、絵はがきにまでなった場所もある。上野・浅草は東京を代表する観光地だっただけに、被災の傷痕がより際立ったのだろう。


同じ台東区(当時は浅草区)の遊興地で、震災の脅威を伝えるのに欠かすことができないのが、奥浅草の吉原遊郭(現・台東区千束4丁目)である。


堀で囲まれた郭内に、遊女屋(当時は貸座敷)がひしめいていたのだから、当然大きな被害が出た。倒壊した建物から出火し、炎は瞬く間に町中を包みこんだ。圧死を免れた人たちは熱風を避けようと、花園公園(新吉原公園)の弁天池に殺到。しかし、炎や煙が容赦なく襲いかかったため、次々と池に飛び込み、500人以上が折り重なるように息絶えたという。


池を改修し、華やかな吉原文化の発信地に
老朽化により漏水が起きていたという改修前の弁天池 写真:浮世写真家 喜千也


浮世写真家を名乗る筆者は、数々の浮世絵の舞台となった吉原とは縁が深い。撮影や調査で何度も訪れ、作品を発表するうちに、吉原関連のイベントなどからお声が掛かかるようになった。


今では吉原の歴史や文化の調査・普及を推進する有志団体「燈虹塾」で理事を務め、吉原商店会発行のガイドブック『吉原細見』の編集や、吉原神社が奉賛者へ授与する御朱印のデザインも担当している。


弁天池は現在、吉原神社の奥宮・吉原弁財天の境内にかなり小規模になって残っている。そして今年、100年目の法要に合わせて弁天池の改修工事を進めている。


吉原神社総代会や、吉原地区町会連合会などの会長も務める吉原達雄さんは「新たな吉原の名物にしようと、弁天池に小さな滝を設置する。これまでの吉原の行事や企画の多くは、震災や戦災、そして遊女らの供養のつもりでやってきた。震災から100年がたったのを機に、今後は暗いイメージを払拭(ふっしょく)し、江戸時代のような華やかさを発信していきたい」と語る。


近年は、アニメ『鬼滅の刃』の舞台になったこともあり、国内外の若い観光客が増加中。町会や商店会でも4月の花魁(おいらん)道中や9月の吉原俄(にわか)を復活させるなど、往時のにぎわいを少しずつ取り戻している。この機会に吉原と弁天池の歴史や、関東大震災の被害、現在の取り組みについて紹介したい。


江戸文化の源泉だった吉原遊郭
江戸で唯一、幕府公認の遊郭だった吉原が誕生したのは1617年。当初は現在の中央区人形町付近にあったが、人口増加による江戸拡張計画の一環で1657年、「浅草田んぼ」(現在の台東区千束4丁目)に移転した。当時の江戸っ子には不便な場所ながら、太平の世が続き、芝居の舞台などにもなったことで、江戸で最もにぎやかな街へと発展していく。


現代の感覚では、遊郭は一人でこっそりと訪れる場所だと思われがちだが、吉原は男の社交場で、文化人が集うサロンでもあった。宴席を盛り上げたのが、教養教育を受けた遊女や芸能の担い手だった男女の芸者衆。吉原生まれの芝居や音楽、本、ファッションは、江戸の町を席巻した。


明治・大正になっても東京名所であり続けた
遊女が行き交う写真に彩色した絵はがき『東京名所 新吉原公園』(大正時代 個人蔵)。左手前から橋の右側へと広がるのが弁天池


華やかだった新吉原も、明治に入ると様子が変わる。欧米の思想に影響され、新政府は1872(明治5)年に芸娼妓解放令を発布。表向きは自由業の「娼妓」となった遊女らは、「芸妓(芸者)」と明確に区別され、宴席で芸を披露することが減り、名物の花魁(おいらん)道中も廃れていく。芸妓が活躍する芳町、新橋、柳橋などの花街が発展し、吉原の独壇場だった社交場の機能も各地に分散してしまう。


弁天池は明治の中ごろ、遊郭の南西に隣接する土地に開設された花園公園内に誕生。吉原で働く人々や、近隣住人の憩いの場となった。


大正時代に入ると人権意識が高まり、客が格子越しに遊女を選ぶ吉原名物の張見世(はりみせ)が禁止され、洋風建築が増えたことで町並みも変貌。それでも江戸時代から続く吉原ブランドは健在で、当時の東京名所絵はがきには数多く登場した。


被災時の吉原の惨状と流言
絵はがき『新吉原の全滅(大門付近)(東京都立中央図書館蔵)』。震災当日夕方、大門の門柱のみが立っており、至る所で煙が立ち上っている


関東大震災は、吉原を壊滅させた。当時の東京でも珍しい3階建ての建物が密集していたのだから、多数の人々が下敷きとなったことは想像に難くない。多くが木造建築だったので、火の手はあっという間に広がって犠牲者を増やした。


ただ、吉原の被災については間違った情報が少なくない。よく見聞きするのが、「吉原唯一の出入り口・大門(おおもん)が閉ざされていたため、郭外に逃げられず、490人の遊女が弁天池で犠牲となった」というもの。実際には、当時の大門に門扉はなく、6カ所の非常門も開放していた。そもそも、地震が発生した昼前は、江戸時代でも門が開いている時間帯。弁天池も郭外に位置するので、「大門が閉じていて、郭外に逃げられず…」というのはおかしい。


遊女の死亡者数も大げさだ。当時の管轄警察署は、弁天池での犠牲者は「五百数十名」と発表しているので、遊女の比率が高すぎる。より詳しいのは、地元組合が掲示した「郭内の者155名(楼主家族38、娼妓88、芸妓8、雇人21)、郭外の者490名の犠牲者」という数字。つまり、遊女の犠牲者は100人未満だったのに、「郭外の者」の数字とすり替えて、非業の死をより印象付けようとした作り話であろう。同掲示にも「種々の流言、郭内の迷惑のこと多大なり」と書かれている。


当時の絵はがきを見比べると、震災による吉原の被害の大きさを思い知らされるが、「さすが吉原」という写真も残っている。


震災から2カ月足らずの10月23日撮影のもので、焼け野原の中に建つバラック小屋に「本郷バー」というのぼりが立っているのだ。どんな状況でも遊び心を忘れない吉原ならではの1枚で、被災者のたくましさも伝えている。


関東大震災から約2カ月後、瓦礫が撤去された大門付近。左奥にぽつんと営業しているバーが見える(1926年刊『東京震災録 地図及写真帖』より 東京都立中央図書館蔵)(写真=東京都立中央図書館)


震災から100年、にぎわいを取り戻しつつある吉原
弁天池と共に移設された観音像 写真:浮世写真家 喜千也


吉原では震災の翌年9月1日、弁天池で犠牲者を弔う法要を執り行った。3年後の大正15年には弁天池のほとりに、犠牲者を供養するための観音像を建立。その後は毎年、慰霊法要を続けている。


吉原さんは「私が子どもの頃は大きな弁天池が残っていたが、1959(昭和34)年に埋め立てられた。吉原神社の敷地に再現したのが、今の小さな弁天池」と教えてくれた。


太平洋戦争の空襲でも大きな被害を受けた吉原は、1958(昭和33)年に売春禁止法の罰則が施行されたこともあり、東京名所というほどの華やかさを取り戻すことはなかった。しかし近年は、江戸文化の源泉として再評価が進み、散策する観光客も増え、2024年3月には東京藝術大学美術館で「大吉原展」が開催される。


吉原さんは弁天池の改修に続き、「名物だった大門や、お盆の時期、仲之町にずらりと飾られた『玉菊灯籠』を復活させたいと思っている。町の中心に位置する吉原町会会館を拠点に、大勢の人が吉原の歴史や伝統を理解し、観光を楽しんでもらえる企画も進めてゆきたい」と意気込む。東京を壊滅させた関東大震災から100年を経て、新たなにぎわいが生まれつつある吉原に、ぜひ注目してほしい。


【Profile】
浮世写真家 喜千也
1961年生まれ、東京都港区白金台育ち。慶応義塾大学法学部卒。2013年より、歌川広重「名所江戸百景」を題材にした今昔比較写真の撮影をスタートし、「浮世写真家 喜千也」を名乗る。17年12月に、ニコンプラザ新宿「THE GALLERY 2」にて初の個展を開催。19年には「名所江戸百景」全119景の撮影を完了。現在、和紙にプリントした作品を展示・販売する他、大学の講義や講演、トークライブの開催、各種メディアへの執筆活動などを行っている。



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「ヒトラーは薬物中毒だった」 ドイツ人作家が描く新たなナチス像

2023年09月04日 21時03分43秒 | 歴史的なできごと
「ヒトラーは薬物中毒だった」 ドイツ人作家が描く新たなナチス像 



 47NEWS (nordot.app) 



「ヒトラーは薬物中毒だった」 ドイツ人作家が描く新たなナチス像
2019/06/05

ベルリン五輪の開会式で開会を宣言するアドルフ・ヒトラー=1936年8月1日

 ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーは薬物に依存していた。ビタミン注射に始まり、鎮痛薬や覚醒剤。会議前に1本、気分が優れず1本…。第2次大戦で旧ソ連との戦闘が激しくなると、ほぼ毎日注射した。依存度が高まるにつれ手の震えもみられる。やがて統率力を失い、ナチスは内部崩壊した―。そんなドイツ史の知られざる一面を描いた歴史書が2015年、ドイツで刊行され、話題を呼んだ。30カ国以上に翻訳され、映画化も企画されている。日本では『ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存』(須藤正美訳、白水社)として出版された。著者はベルリン在住の小説家ノーマン・オーラー氏で、薬物を処方したヒトラーの主治医テオドール・モレルのカルテなど史料数千点をドイツや米国の公文書館で調べ、史実を掘り起こした。3月下旬、来日したオーラー氏にナチス・ドイツの薬物依存の実態や著書に込めた思いを聞いた。




(共同通信=外信部・平野雄吾)


 ―ヒトラーと薬物の関係を調べ始めたきっかけは?


 直接のきっかけはディスクジョッキー(DJ)をしている友人の勧めです。彼の友人がベルリンで1940年代に建てられたアパートから覚醒剤の錠剤を偶然見つけたらしく、DJの彼が実際に飲んでみたらとてもハイになったと教えてくれました。この話を聞いて調べたくなりました。友人が飲んだのはペルビチンという商標名の覚醒剤で、1錠に約3ミリグラムのメタンフェタミンが含まれています。1錠飲むとコーヒー100杯分の効果があり、2~3日間眠らなくても問題なく、エネルギーも湧き出て多幸感が得られるとされています。




 実は、ドイツは覚醒剤の大量生産を始めた世界で最初の国家です。メタンフェタミンを初めて合成したのは日本の薬学者、長井長義ですが、ドイツ人科学者がペルビチンの生産手法を確立しました。その結果、気分を高揚させるとしてペルビチンは社会に広く出回り、主婦は服用して家をもっときれいにしたし、労働者はさらに働くようになりました。生産性が高まるので、ナチス政権にとっては非常に好都合でした。余談ですが、食欲が減退するのでダイエット効果があるとしてチョコレートにさえメタンフェタミンが混ぜられ、女性たちに飲まれました。友人のDJが飲んだのはこの時代に製造された錠剤です。


 ―薬物の危険性を誰も指摘しなかったのか。


 当時の保健大臣レーオ・コンティは一時のメリットの後に悪影響があり、国民がまひしていくと指摘しています。彼は1939年11月、ペルビチンを購入時に処方箋が必要な薬剤に指定しましたが、実際には多くの薬局で処方箋がなくても購入できました。




 疲労と眠気を克服できるペルビチンは当然、ドイツ軍で重宝されました。軍は兵士にペルビチンを服用させ戦闘に向かわせます。特に1940年のフランス侵攻(いわゆる電撃戦)では効果が絶大でした。戦車を運転する兵士は昼夜を問わず進軍できたのです。フランス兵は眠るが、ドイツ兵は眠らない。薬物による戦略的アドバンテージがドイツ軍にはありました。その結果、フランス軍は敗北。フランス人はドイツ人を超人だと思ったようですが、単なる薬物効果でした。


ヒトラーの薬物依存を暴いた「ヒトラーとドラッグ―第三帝国における薬物依存」(左) 著者のドイツ人作家ノーマン・オーラー氏(右)
 ―調査の経緯は?


 テオドール・モレルというヒトラーの主治医の名前は多くのドイツ人に知られています。ただ『変わり者の医者』として扱われ、何をしたのかについてはほとんど分かっていませんでした。ドイツ連邦公文書館のサイトでモレルに関する史料が西部コブレンツの公文書館にあると分かり、訪ねてみるとモレル手書きのカルテなどが大量にありました。これらを見つけられたのは大変幸運でした。史料の閲覧記録を見ると、私の前は約20年前に1人見ただけで、この50年間にも2~3人しかいません。主治医というヒトラーをよく知る立場だったにもかかわらずモレルの記録が軽視されていた証しで、歴史家たちの怠慢だと思っています。


 モレルはベルリンの開業医でしたが、ビタミン剤を患者に注射する診療所として人気でした。ヒトラーの友人で写真家のハインリヒ・ホフマンがここの患者だった関係でモレルはヒトラーに出会い、1936年以降、主治医になります。ほぼ連日のようにヒトラーの診療に当たり、「患者A」という名前の記録を付け続けました。注射した薬物の名前やヒトラーの容態などを書いています。なぜなら、ヒトラーに何かあった場合にゲシュタポ(秘密国家警察)から追及されるのを恐れ、証拠を残しておく必要があったのです。




 連合国軍のドイツへの空爆が激しくなると、生産工場が破壊され薬物が入手できなくなります。注射を打てなくなったモレルは1945年4月に解雇され、ドイツ南部バイエルン州の小さな村に疎開しますが、書き続けた記録は常に持っていたのです。ドイツ降伏後、米軍に発見され2年間にわたり尋問を受けました。記録は米軍が押収、その後、一部がドイツ政府に引き渡され、最終的に公文書館に移されます。私は米首都ワシントンの公文書館にも行き、合計数千点の史料を渉猟しました。


 ―ヒトラーの薬物効果は?


 ヒトラーは、より健康になるためにビタミン剤を注射するようになりました。ヒトラーは菜食主義者で酒も飲まず、健康のイメージを作り上げていましたが、薬物に依存していきます。独ソ戦が始まっていた1941年8月、重いインフルエンザにかかり戦況会議を欠席しました。ビタミン剤よりも強い薬が必要となり、ホルモン剤や新陳代謝の促進剤、ペルビチン、ついにはオイコダールと呼ばれるアヘン系鎮痛薬を日常的に使用するようになります。1943年7月の独伊首脳会談で、気分が優れなかったヒトラーはオイコダール注射で乗り切ります。イタリアの独裁者ムッソリーニは戦況悪化から同盟関係の見直しを模索していましたが、ヒトラーは薬物効果で多弁になり3時間ぶっ通しで話したのです。ムッソリーニを圧倒し、戦線離脱の話をさせませんでした。言わばドーピングのヒトラーとしらふのムッソリーニです。モレルは「閣下は私に、今日の成功は君のおかげだとおっしゃった」と記録しています。




―この著書で訴えたいことは?


 ヒトラーは薬物に依存し、ドイツ軍にもドイツ国民にも薬物がまん延していた。いずれも重要な話です。ナチス・ドイツは薬物で妄想的になり、現実を理解できない非理性的な社会に陥ったと言えます。ナチス・ドイツは人種イデオロギーを掲げましたが、そのイデオロギーを浸透させる手段として薬物も利用したのです。そして自ら内部崩壊しました。


 この本の直接の執筆動機は友人らが見つけたペルビチンの話ですが、もともと私はナチス・ドイツについて本を書きたいと思っていました。私が10代だった1980年代、祖父がナチスやヒトラーを賛美していました。「ナチス時代は社会に秩序や規律があった」と言うのです。戦争中、鉄道技師だったという祖父はドイツ東部出身で、ソ連軍の侵攻からドイツ西部へ逃げた経験もあって、反共主義者だったのですが、戦後40年以上たってもヒトラーを支持していました。私は祖父の姿勢に疑問を持ち、ナチス・ドイツにはずっと関心を抱いていました。




 ヒトラーは酒を飲まず菜食主義者の健康的なイメージを作り上げる一方で、薬物に依存。社会には秩序や規律があるように思い込ませる一方で、覚醒剤がまん延する。ナチス・ドイツはうそで塗り固められていたのです。こうしたナチス神話のようなものを脱構築するというのが今回の私の挑戦でした。多くの歴史家は薬物については詳しくなく、これまで調べなかったのでしょう。もしナチス時代に薬物がなかったら?そうしたら1940年の段階でドイツ軍は英仏軍との戦いに負けていたでしょう。これはあくまで推測に過ぎませんが、そういう小説を書くのも面白いかもしれません。


インタビューに答えるノーマン・オーラー氏
○ノーマン・オーラー氏 1970年2月4日、ドイツ西部ツバイブリュッケン生まれ。北部ハンブルクのジャーナリズム学校やベルリン大で学ぶ。米ニューヨークなどでジャーナリストとして活動した後、ミステリー小説「クォータマシーン」(未邦訳)で1995年、小説家としてデビューした。


© 一般社団法人共同通信社






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岸田内閣支持率上昇にSNS大荒れ!《支持している人って何者?》

2023年09月04日 16時38分40秒 | 政治のこと
庶民生活は青息吐息なのに…岸田内閣支持率上昇にSNS大荒れ!《支持している人って何者?》(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース 

https://news.yahoo.co.jp/articles/fe72dcfced8d7760d1453f24e73d7f0166d0ae87


庶民生活は青息吐息なのに…岸田内閣支持率上昇にSNS大荒れ!《支持している人って何者?》
9/4(月) 15:10配信



日刊ゲンダイDIGITAL
上がる要素なし(1日、防災服姿で首相公邸を出る岸田首相)/(C)共同通信社


《マジか?これ。ちょっと信じられないんだけれど》《はあ?支持する人の頭の中をのぞいてみたいわ》


岸田政権が画策「サラリーマン増税」なら…家計負担「年間47万円増」衝撃の試算結果


 ネット上では大荒れの状態となっている。JNNの最新の世論調査で、岸田内閣の支持率が8月の前回調査から1.6ポイント上昇し、38.7%だったことだ。


 不支持率は前回から0.6ポイント下落し、58.1%。政党支持率では、自民党が前回調査から1.9ポイント上昇し、32.4%だった一方、急激に支持を広げつつある日本維新の会は6.1%で、0.6ポイント下落。立憲民主党は0.3ポイント上昇し、4.9%だった。


 維新や立憲などの野党が依然として支持を広げられていない状況はともかく、SNS上で驚きの声が広がったのが岸田内閣の支持率上昇だった。


「令和の所得倍増」などを掲げて発足した岸田政権だが、退職金や通勤手当への課税といった「サラリーマン増税」の報道に加え、高止まりするガソリン価格に対しても1リットル当たり25.1円の特例税率の課税見直し(トリガー条項発動)といった抜本策を取らず、ズルズルと補助金を支給する場当たり的な手法に怒りの声が噴出。


■否定的なコメントが殺到


 物価高の影響で実質賃金は15カ月連続でマイナスとなるなど、庶民生活は青息吐息の状態だ。


 このため、ネット上では《岸田政権の支持率が上がる要素は今あるのか。何もないだろ》《国民生活にちっとも向き合わず、米国の言いなりで武器爆買いの政権だよ。支持している人って何者?》《そもそも支持率3割台が眉唾。2割あるかないかだろ》といった否定的なコメントが殺到する事態となった。


 投稿では、自民党の麻生太郎副総裁(82)が講演で「支持率はあてにならない」などと発言し、傲慢だ、などと顰蹙を買っていたことに触れ、《麻生氏の言う通り、確かにあてにならないかも。世論調査そのものがね》との皮肉の声もあった。

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「火葬場不足」に直面する日本…遺体の保管は個人で行う未来も…「超多死社会」で起きる「ヤバすぎる現実」

2023年09月04日 13時03分11秒 | 医療のこと


「火葬場不足」に直面する日本…遺体の保管は個人で行う未来も…「超多死社会」で起きる「ヤバすぎる現実」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース 


「火葬場不足」に直面する日本…遺体の保管は個人で行う未来も…「超多死社会」で起きる「ヤバすぎる現実」


9/4(月) 8:03配信


現代ビジネス
写真提供: 現代ビジネス


 超多死社会を迎えた日本では、想像もしてこなかった問題が次々と生じている。遺体安置所不足はその最たるものだ。亡くなってなお安らかな瞬間を迎えられない。それがこの国の悲しい現実だ。


死者数年間168万人



 〈世の中は 食うて屎して寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ〉


 室町時代を生きた臨済宗大徳寺派の僧・一休宗純は、人生の摂理を31文字で言い表した。人生、食べて用を足して寝て起きれば後は死ぬだけ。儚くもあるが「死んでしまえば何も思い悩むことはないのだから、それまでを懸命に生きればよいのだ」と諭し、心を楽にしてくれる歌でもある。


 しかし、現代日本においては「死ねばそれですべて終わり」とはいかなくなってきた。亡くなってからお墓に入るまでの間に、もうひとつの問題が現れたからだ。それは「自分の亡骸がいつ焼かれるのかわからない」という問題だ。


 年間156万人が死亡する超多死社会日本。いま、亡くなる人の数が増えすぎて、都市部を中心に「火葬場不足」に直面していることをご存じだろうか。一体の遺体を焼くのに1時間強を要する。一日に火葬できる数に限界がある中で死亡者が年々増えているために、火葬場の処理能力が追いつかなくなっているのだ。


 たとえば東京。現在、東京都では年間約13万人が亡くなるのに対して、火葬場の数は26ヵ所しかない。離島を除けば18ヵ所、23区内に限れば9ヵ所とさらに少なくなる。区内には980万人もの人が住んでいるというのに、だ。


 人口380万人を擁し、年間約4万人が亡くなる横浜市の状況も同様だ。「ラステル新横浜」などの民営斎場を運営する、株式会社ニチリョク取締役の尾上正幸氏が明かす。


20年後には死者数がピークに
写真:現代ビジネス


 「横浜市には公営の火葬場が4つありますが、近年の横浜市の居住者増加と死者数の増加に伴い、火葬場が足りなくなっています。


 どれだけ足りないかといえば、一般的に友引の日は火葬場は休業するのですが、横浜では友引でも火葬場のひとつを稼働させているほど。古くからの慣習をも変えなければならないぐらいなのです。実際、火葬場が空くまで1週間以上かかることも珍しくはなくなっています」


 さらに恐ろしいことに、日本の年間死亡者数は年々増えており、ピークの2040年には年間168万人にも達してしまうのだ。


 ならば急いで火葬場を増やせばよいかといえば、そう単純な話ではない。都市部では火葬場に必要な大きさの土地を確保するのが困難なうえ、住民の反対などに遭うため、新しい火葬場をつくるには15~20年はかかるといわれている。過去には「東京湾に火葬の機能を備えた船を浮かべて、火葬場不足を解消しよう」という計画が浮上し、具体的な研究も進められたが、結局行政が運用するにはコストがかかりすぎるとの結論に至り、立ち消えになったという。


 いまから火葬場の建設準備を進めても、建設が終わった頃には年間死亡者数はピークアウトする。高いコストをかけた割には、無駄骨となってしまうのだ。


 問題は「火葬場不足」にとどまらない。火葬を待つまでの間、どこかに遺体を安置しておく必要があるのだが、これまでは、火葬場か葬儀社などに設置されている安置所に預けられてきた。ところが、死亡者が増加し、「火葬待ち遺体」の数が増え続けた結果、それらの施設のキャパシティーを超えてしまい、安置を請け負えない地域が出てきているというのだ。


遺体安置所も不足
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 「遺体を安置する場所が不足すれば、今後、火葬までの期間、遺体を自宅に安置しなければならないケースが急増することになります」


 こう警鐘を鳴らすのは、公益社団法人全日本墓園協会の横田睦理事だ。日本全国の墓地や納骨堂などについて調査・研究を行う横田氏は、近年「遺体を安置する場所が不足している」という声を葬儀事業者から聞くようになった。そこで、全国の葬儀事業者を対象にアンケート調査を実施、771の事業者から回答を集めたところ、「遺体安置所不足」の実態が浮き彫りになったという。


 横田氏が説明する。


 「現状でも都市部では火葬場が不足しており、3日や4日、あるいは一週間以上の火葬待ちは当たり前になっている。今後、死亡者数は増えるので、さらに火葬までの待機時間は長くなります。


 そんな超多死社会を迎えるにあたり、遺体安置施設の数は足りているのかを知るために一斉調査を行った結果、全国の27%の事業者が『不足している』と答えたのです。


 少なく感じられるかもしれませんが、これはあくまで全国平均。東京や横浜、相模原、大阪や神戸といった都市部に顕著で、決して放置していい問題ではありません」


 「火葬待ち」の遺体が増え続けることで、火葬場や葬儀業者の安置所がパンクすれば、遺体を自宅に安置しなければならなくなる。しかし、すべての家庭がそれを許容できるかといえば、疑問があると横田氏は言う。


自宅保管は困難
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 「昔は遺体を自宅に安置するのが当たり前でしたが、いまは住宅やご家庭事情も違います。1日や2日なら、ご遺族が交代で見ることはできるかもしれませんが、火葬場が空くまで1週間近くも自宅に安置しなければならないとなると、家族の負担は格段に重くなります」


 どれだけ大切な人であれ、遺体を1週間近くも自宅に安置することができるだろうか。


 管理の方法や器材については葬儀業者がフォローしてくれるが、手順ややり方を間違えれば、腐敗が始まり、臭いが立ちこめる。そもそも仕事などの用事がある中で、1週間もの期間、遺体に付き添うことは困難なはずだ。前出の尾上氏が説明する。


 「病院でご家族をみとられた方は、長く病床にいた故人を可能な限りご自宅でお寝かせしたいという心情があります。しかしながら、火葬場の空きを待つまでの日数を考えると、安全に安らかな状況を維持するのはとても大変です。


 何しろ生身のお体ですので、その変化は想像を超える場合もありますし、ドライアイス等での低温処理に頼りますから、時間の経過でお体を凍らせたりして、健やかな状況でのお別れがかなわないこともあります」


 ある葬儀業者は「自宅での遺体管理がうまくいかず、葬儀の時には遺体の顔色が土気色になって、耳は触ると落ちてしまいそうになるほど腐敗していたという事例もありました。特に夏場の管理は難しく、5日間以上安置する場合だと、ご遺体が悲惨な状態になることがほとんどです」と明かす。それほど、自宅安置は難しいことなのだ。


 「週刊現代」2023年8月26日・9月2日合併号より


 後編『自宅で「遺体」を管理できるのか…知らないと大変なことになる「火葬場不足」を乗り切るための方法』はこちら。












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