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中学校の「理科室」から身元不明の人骨「推定年齢10~20代の女性」 鹿児島であいつぐ謎を追う

2023年09月29日 22時03分40秒 | 社会のことなど
中学校の「理科室」から身元不明の人骨「推定年齢10~20代の女性」 鹿児島であいつぐ謎を追う











鹿児島市の中学校で10~20代とみられる若い女性の頭蓋骨が、昨夏に発見されていたことがわかった。今年7月に入って、その情報が公開された。 2016年にも県立高校で人骨が見つかり、全国に驚きが広がった鹿児島で、なぜまた新たに骨が見つかるのか。 その謎を解明すべく取材をすすめる中で「院内学級のつながり」というキーワードが浮上した


 ●2016年以来、5つの中学高校で人の骨が見つかっていた 7月11日に発行された官報の「行旅死亡人」欄では、鹿児島市の市立中学校から、推定年齢10代~20代前後とみられる女性の頭蓋骨が見つかったとし、事情を知る人がいないか呼びかけている。 


官報によると、2021年8月5日、鹿児島市立甲東中学校の1階倉庫で発見された。性別と推定年齢以外、氏名など身元はわからない。すでに頭蓋骨は火葬され、市営墓地に埋葬されているという。 鹿児島随一の繁華街「天文館」からもほど近い、「都会の学校」で人の骨が見つかったことになる。 頭蓋骨といえば、2016年には県立鶴丸高校でも生物室から発見されて、複数のメディアに大きく報じられた。 この「事件」を受けて、各地の教育委員会も「学校の人骨」について調査をすすめ、大阪府などいくつかの学校で、「本物の人間の骨」が複数見つかっている。 鹿児島県教育委員会も、県内の学校で人骨が見つかったケースをピックアップ。鶴丸高校のケース以降、今回の甲東中学校を含めて計4件が示された。 


「鶴丸高校の発見以降、教育委員会で学校の骨について調査がおこなわれ、鹿児島県の県立高校で3校ありました」(県教委) そのうちの1校、甲南高校(2018年6月発見)では、美術室で30~40歳の女性と推定される頭蓋骨が見つかった(鹿児島市が回答) また、南九州市の川辺高校(2018年12月)、指宿市の指宿高校(2019年1月)でそれぞれ人骨が発見されたという。 川辺高校では美術室から頭蓋骨が出てきたという。指宿高校では生物室から人骨が出たそうだ。時間が経っているため、当時のことを知っている職員も少なくなったが、各高校が回答してくれた。 

いずれも、性別や年代、学校にあった経緯など詳細は不明だった。 県の教育委員会でも、学校から人骨が見つかった背景は「結局のところ、わからなかった」という。 

●病院からやってきた? そんな中、甲東中学校では人骨が学校で見つかった経緯の「ヒント」のようなものがもたらされた。 甲東中の人骨は、官報には「1階倉庫」から見つかったという説明だったが、校長によると、「2階の理科室から出たと聞いています。用途は理科の標本だと思いますが、実際に使っていなかったのではないかと思います」とのこと。 段ボールのような箱の中で、新聞紙にくるまれていたという。 

ほかに経緯を示すようなものは出なかったそうだ。ただ、心当たりはあるという。校長は「ここから先は推測になってしまいますが」との前置き付きで話を聞かせてくれた。

●院内学級でうまれた職員同士の交流から骨が流れてきた? 甲東中学校の建物の前には、かつて鹿児島市立病院があったことから、学校に通えない子どものための「院内学級」に教師を派遣していたという。

 病院が2015年に別の場所に移転するにあたって、院内学級を担当していた学校職員と病院職員のつながりから、病院から骨がわたったのではないかという情報があるそうだ

 学校で見つかる人骨の扱いについて、文部科学省が法的な考え方を説明する。 もしも学校で人体模型が見つかって、あとで本物の人骨と判明した場合、そのまま保存できるのかというと、法的には可能だという。 

死体解剖保存法(19条)にもとづき、遺族の承諾を得たうえで、かつ、都道府県知事や市長などの許可を得た場合であれば、保存できるそうだ。 鹿児島県の学校で見つかった人骨は身元不明のため、「遺族」の承諾は得られない。ただし、そのような場合でも、同法では遺族の所在が不明の場合は承諾を必要としないと定められているため、知事らの許可さえ取り付ければ、そのまま保存できることになる。 

(この法律がつくられた1949年より前から保存されている骨に関しては、そのまま保存が可能だ) ただ…。 「私見ですが、あえて新たに本物の人骨を使う必要性もあまり考えられず、骨が見つかったときにそのまま保存し続ける学校はなかなかないのではないでしょうか」(文科省教育課程課の担当者

 ●病院史にも載っていない情報だった さて、『病院から中学校に頭蓋骨が渡った説』について、鹿児島市立病院に問い合わせると、担当者は「骨を外部に提供するケースはなかなかないんですが…」と言いながらも、後日、編集部に回答を寄せてくれた。

「公文書として信頼性のある『鹿児島市立病院史』を調査いたしましたが、鹿児島市立病院から甲東中学校に骨が渡った事実は確認できませんでした。この件につきまして、何か、進捗がございましたら、改めて、お知らせいたします」 謎が深まる学校の人骨について心当たりがある読者がいたら、ぜひ情報を寄せてほしい。


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万博建設費1850→2300億円上振れに「おかしい」>立民・泉代表

2023年09月29日 19時03分56秒 | 政治のこと
立民・泉代表 万博建設費1850→2300億円上振れに「おかしい」 夢洲を推した大阪府・市の負担に言及 (msn.com) 




立民・泉代表 万博建設費1850→2300億円上振れに「おかしい」 夢洲を推した大阪府・市の負担に言及

© よろず~ニュース
立憲民主党の泉健太代表が29日、国会内での定例会見で、2025年開催予定の大阪・関西万博の建設費が現行の1850億円から2300億円に膨らむ見通しについて「おかしいと思いますね。ちゃんと検証し国民に説明すべき。国民が納得するかどうかってのはまた別の問題」と述べ、450億円程度の上振れに異を唱えた。


泉氏は、誘致当初の建設費が1250億円だったとして「1250億円が1・5倍になって、1850億円になった時があった。2018年ぐらいの時にも、当時の大阪府の松井知事が『今後の様々な物価の高騰とかもあえて厳しく見積もっている』と。去年の年末にも、大阪市長になった松井さんが徹底的に1850億円のラインを守ってやっていきたいと。それが1年も経たずに、なぜこんなことになっているのか。経費増で、単に認めれば国民の負担が高まる」と批判した。


物価高は2022年から進んでいたとし「何も想定外のことがそれ以降に起きたという話ではない。おかしいなと思うのは、なぜ計画通りにさまざまな手続きや建設が進んでいないのか。段取りのまずさがあったのではないか」として、発注などの手法ミスが資材などの価格高騰を招いた可能性を指摘した。


泉氏は「とにかく1250(億円)から1850になり、2300億円になるというのをただ許容していくということでは、いけないんじゃないでしょうかね。政府だって、ちゃんと予算の管理をしなければいけませんし、運営側の課題についても今から修正をしていかなければいけませんし、経費で削れるところが何かないか検討をするべき」と主張した。


日本維新の会の馬場伸幸代表は28日の会見で、万博建設費の増額分を国が主体的に負担するべきとの考えを示している。泉氏は「そもそも増額が、果たして妥当なものなのかということがいま問われていますから、まずそちらを問うところが先」とけん制した。


大阪市の人工島・夢洲(ゆめしま)を万博開催地にしたことが、建設費の上振れを招いたのではとの記者団からの問いに「あの場所を選んだのは、大阪側の意向もかなり強かったと聞いている。場所を選んだことによる経費負担があったとすれば、それは当然、その場所を推した方々の責任」と話し、大阪府・市の負担に言及した。


(よろず~ニュース・杉田 康人)




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赤木雅子さんが私に送った「決意のメール」古賀茂明: 国に忖度して森友事件を隠蔽する裁判所の愚 

2023年09月29日 15時03分09秒 | 事件と事故
国に忖度して森友事件を隠蔽する裁判所の愚 赤木雅子さんが私に送った「決意のメール」古賀茂明(AERA dot.) - Yahoo!ニュース 




国に忖度して森友事件を隠蔽する裁判所の愚 赤木雅子さんが私に送った「決意のメール」古賀茂明
9/26(火) 6:32配信

 森友学園問題は、時間の経過とともに真実に近づくどころか、全てが闇のまま、国民の関心も薄れつつある。
 実は、雅子さんが恐れているのはその点だ。頼れるものがどこにもない彼女にとって、国民が関心を持ち、頑張れと励ましてくれることが心の支えになっている。それがなくなったとき、この戦いは、本当に彼女と天国の俊夫さん二人だけの戦いになってしまう。

AERA dot.
古家茂明氏


 森友学園事件のことを思い出す機会が減った。そう言われると、そうだなと思う人は多いのではないか。


【写真】「1億円を支払うべき」と指摘された元官僚はこの人


 そもそもの発端は、森友学園に財務省が国有地を不当な安値で販売したことだった。その過程で安倍晋三元首相の夫人昭恵氏が財務省に対して、森友側に便宜を図るように働きかけた疑いが濃厚なのだが、

安倍元首相は、国会で、「私や妻が関係していたということになれば(略)間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」と答弁した。


 この答弁により、財務官僚は、安倍元首相夫妻の関与を徹底的に否定せざるを得なくなった。認めれば安倍氏辞任、政権崩壊に直結するからだ。


 そこから、昭恵夫人の名前などが記された公文書の改ざんが始まった。その陣頭に立ったのが当時の理財局長の佐川宣寿氏だ。


 佐川氏の責任は、財務省の調査報告書でも認められたが、具体的にどのような形で改ざんが行われたのか、財務省や政権幹部の関与があったのかなどは一切明らかにされていない。


 組織ぐるみの犯罪なのだが、財務省は近畿財務局職員の赤木俊夫さん一人に責任を負わせようとした。赤木さんは、本件に関わった数十人の財務官僚の中で、唯一、改ざんに異を唱えて上司に直訴した。しかし、他の官僚は同調せず赤木さんは孤立。結局、改ざんを強要された。深い自責の念に囚われてうつ状態に陥った赤木さんを追い詰めたのは、財務省と結託した検察当局だった。本件を小さな事件で終わらせるという政権の意思が明確に働いた。主治医が止めたのにもかかわらず、検察は赤木さんに接触し、その結果、赤木さんは、自分が全ての責任を負わされるのだと悟り、「最後は下部がしっぽを切られる」というメモを残して命を絶った。


 財務省の望み通りの展開だ。改ざんに唯一反対した赤木さんがいなくなれば、死人に口なしで、好きなように口裏合わせができる。財務省が流したのは、赤木さんが非常に心の弱い人間だったこと、そして改ざんに手を染めた罪の意識で勝手にうつになり命を絶ったというシナリオである。


 私は、経済産業省の官僚時代に会計課や経済産業政策局の課長などの立場で財務省主計局の官僚と嫌になるほど折衝を行った。同年代の主計局の官僚との「懇親会」などにもよく参加した。佐川氏もよく見かけた。


 私がそこで得た財務官僚のイメージは、「鉄の規律を守る軍隊組織」である。ただし、この規律を支えるのは高邁な使命感ではなく、出世と他の官僚たちが羨む退官後に用意された高級天下り生活への期待である。決済文書をときの首相のために改ざんするという「犯罪行為」を行えという上からの指示に抵抗した者が、赤木さんただ一人しか出なかったのは、この鉄の規律によるところが大きい。


 改ざんが行われた当時だけでなく、赤木さんという尊敬すべき同僚が命を絶った後でも、さらには、安倍元首相が凶弾に倒れた後でさえ、なお、口を開く人が出ない。鉄の規律がいかに強力なものかを物語る。逆に言えば、それに立ち向かった赤木さんがいかに勇敢だったのかもわかる。


 こうした背景を知れば知るほど、なんとかして鉄の規律を打ち砕き、真相を明らかにして欲しいと思う国民は増えるはずだ。民主主義がどうのこうのと言う前に、人間ならこんな不公正をそのままにしておくわけにはいかないという気持ちが湧き上がってくるだろう


 ましてや、公文書改ざんを行ったという汚名だけを着せられ、トカゲのしっぽ切りという政権の意図によって、夫を「殺された」赤木雅子さんが「真実を知りたい」と心の底から思うのは当然のことだ。国民のほとんどは雅子さんの思いを実現してあげたいと思うだろう。


 そこで、最も期待がかかるのが司法である。


 雅子さんが、いくつかの訴訟に一縷の望みをかけ続けてきたのも、自民党が牛耳る国会や内閣には期待できず、司法しか頼るところがないからだ。


 しかし、司法は、か弱き雅子さんに味方することをせず、巨大な権力の側につく姿勢をとり続けている


 雅子さんは、公文書改ざんを強要して俊夫さんを死に至らしめた国(財務省)の責任を問い、損害賠償請求訴訟を起こした。しかし、国と裁判所は驚くような対応をした。


 当初、責任を全面否定していた国がある日突然1億700万円の損害賠償請求の支払いに全面的に応じた(認諾という)。国が自ら責任を認めて1億円もの損害賠償に応じることは異例中の異例である。


 では、どうしてそんなことをしたのか。


 実は、審理が本格化して佐川氏や他の財務官僚への証人尋問により、様々な事実関係が明るみに出るタイミングだったので、それを防ぐために訴訟を終わらせたのだ。


 このとき私は、政府の卑劣な仕打ちを批判するツイートをした。すると、雅子さんから「心にぽっかり穴が開いたみたいです。一つ終わりましたが肩の荷は一層重くなった気がします」というショートメールが入った。彼女がどれだけ落胆したのかが伝わってきた。


 国が責任を認めたということは、誰かその責任者がいたということになる。責任者不明だが、責任があるというのはおかしい。そして、その責任者に対して、国は雅子さんに支払った1億円を請求して然るべきである。


 国家賠償法第1条第1項では、「公務員が職務で他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が賠償責任を負う」という内容の規定がある。公務の執行にあたり、ちょっとした過失で他の人に損害を与えた場合に大きな賠償義務を課すのでは、公務員が安心して職務を執行できないからという趣旨である。


 しかし、一方で、同じ法律の第1条第2項には、「故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する」と書いてある。公務員に故意や重大な過失があれば、国がとりあえず払った賠償額を本当に責任がある公務員に弁償させる(求償)という意味だ。「わざと悪いことをしたのなら、国ではなく、そいつに払わせろ!」という自然な国民感情を表した条文である。


 公文書改ざんには、明確な「故意」それも重大な犯罪行為の故意がある。財務省の報告書では、当時の理財局長だった佐川氏に責任があることを事実上認めている。だとすれば、国は、赤木さん側に支払った1億700万円を佐川氏に求償すべきだ。その求償権が行使されなければ、赤木さん側の被害者感情を著しく損なうことになる。したがって、これほどの例外的な悪質事例では、赤木さん側が直接損害賠償請求をする道を認めるべきだと考えられる。そこで、雅子さんは、佐川氏に対しても損害賠償訴訟を起こしていた。もちろんお金のためではない。訴訟で佐川氏に真実を語ってもらいたいという願いがあるからだ。

しかし、大阪地裁は、佐川氏への尋問を行うことを認めず、何も明らかにしないまま、雅子さんの訴えを全面的に退けた。真相を隠したいと考える国に忖度した訴訟の進め方だった。雅子さんは再び落胆した。それでも気を取り直して、控訴したが、高裁でも厳しい戦いが予想される。


 そんな状況にある雅子さんだが、最後の望みとも言えるもう一つの裁判がある。


 公文書改ざんは犯罪だ。検察庁はその捜査の過程で財務省に大量の文書を提出させた。そこで、雅子さんは情報公開法に基づいてその文書の開示を請求したが、財務省は、どういう文書があるのかも含めて開示できないと答えた。これに対して、雅子さんが開示を求めて訴訟を起こしたのだ。


 これは十分勝てる訴訟だと思われた。雅子さんが求めたのは、捜査当局が作った供述調書などではなく、財務省の通常の行政文書であり、そもそも公開が原則である。政府側は、どのような文書があるかを答えるだけでも今後の犯罪捜査に支障があるという理由を挙げて拒否したのだが、そんな理由で文書の存否すら隠せるのであれば、刑事事件に関わる可能性がある行政文書は全て出せないと言っているに等しい。そんな理屈が通るはずはない。したがって、全面開示は無理でも、部分開示が認められるだろうというのが大方の見方だった。


 ところが9月14日、大阪地裁は、国側の主張を全面的に肯定する判決を出した。赤木さん側完全敗訴だ。


 この判決を聞いた雅子さんは、聞いているうちに耳に膜がかかったようになり、判決後、床に倒れ込んでしまった。それほどショックだったのだ。


 心配になった私がその夜メールすると、こんな返信があった。


〈もー本当に酷い判決でした。傍聴席から抗議の声がすごく上がりましたが、裁判長は判決文を無理やり読み上げて、傍聴席を静止することもなく退廷しました。
でも私は負けません。
控訴審に向けて委任状にサインしてきました。
もう先に進んでいます!〉


 床に倒れ込むほどのショックを受けても、すぐに心を立て直して再び戦いに挑む。雅子さんの凄まじいと言っても良いこの闘争心。一人の戦いのように見えるが、彼女にとっては、夫の俊夫さんとの二人の戦いだから決して折れることがないのだろう。いつもながら感服してしまう。


 それにしても、日本の司法はどうなっているのか。


 9月12日の本コラムに書いたとおり、最高裁は、国の重要な政策について、国の主張が間違っている場合でも必ず政府の側についてきた。最高裁は、そういう機関である。そして、その最高裁の姿勢は、末端の地方裁判所のレベルにも蔓延しているということが、森友関連の訴訟にも表れている。


 森友学園問題は、時間の経過とともに真実に近づくどころか、全てが闇のまま、国民の関心も薄れつつある。


 実は、雅子さんが恐れているのはその点だ。頼れるものがどこにもない彼女にとって、国民が関心を持ち、頑張れと励ましてくれることが心の支えになっている。それがなくなったとき、この戦いは、本当に彼女と天国の俊夫さん二人だけの戦いになってしまう。


 雅子さんの戦いは、日本の民主主義を守る戦いでもある。彼女が負けたとき、それは我々国民の敗北でもあるのだ。


 それを心にしっかり留めて、雅子さんの戦いを応援していこうではないか。


古賀茂明





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コロナウイルスは一本鎖RNAをゲノム(遺伝子)とするRNAウイルスです

2023年09月29日 11時03分32秒 | 感染症のこと 新型コロナウイルス
RNAウイルス>の起源は謎ですが、おそらく原初生命体(一番初めの生物)の世界、RNAワールドの時代から存在している最も古い偽生命体と思われます。

すなわち、30億年くらいまえから地球上に住んでいる、人類なんて影も形もない時代からの大先達なので、これを退治しようというのは人減の驕りのように感じますね。


6・17・2022

          新型コロナウイルス感染症について                   

2020年2月10日
日本ウイルス学会
理事長 松浦 善治
群馬大学大学院医学系研究科生体防御学分野
教授 神谷  亘

 中国湖北省武漢市で2019年12月に発生が報告された新型コロナウイルス感染症は、世界各地に感染の広がりをみせておりますが、国内では医療施設、行政等の関係機関により懸命な対策が進められております。

 日本ウイルス学会は新型コロナウイルス (2019-nCoV)について正確な情報を提供し、医療施設、一般市民の皆様の予防、対策に役立てていただくことを願っております。

1.ウイルス学的な特徴:

  コロナウイルスはプラス鎖一本鎖のRNAをウイルスゲノムとして有するエンベロープウイルスです。ウイルス粒子は直径 約100-200 nmで、S (スパイク)、M (マトリックス)、E (エンベロープ)の3つの蛋白質で構成されています。S蛋白質は細胞側の受容体(ウイルス蛋白質を鍵とするとその鍵穴)と結合して、細胞内への侵入に必要な蛋白質です。コロナウイルスのゲノムRNAは約3万塩基とRNAウイルスの中で最長なのが特徴です。

 ヒトに感染するコロナウイルスとしては、風邪の原因ウイルスとしてヒトコロナウイルス229E、OC43、NL63、HKU-1の4種類、そして、重篤な肺炎を引き起こす2002年に発生した重症急性呼吸器症候群 (SARS)コロナウイルスと2012年に発生した中東呼吸器症候群 (MERS)コロナウイルスの2種類が知られています。

 今回発生している新型コロナウイルスは、SARSコロナウイルスと同じベータコロナウイルス属に分類され、新型コロナウイルスの遺伝子はSARSコロナウイルスの遺伝子と相同性が高く(約80%程度)、さらに、SARSコロナウイルスと同じ受容体 (ACE2)を使ってヒトの細胞に吸着・侵入することが最近の研究で報告されています。

  すなわちSARSコロナウイルで得られた科学的知見を新型コロナウイルスに応用することで、基礎・応用研究を迅速に行うことができ、新型コロナウイルスのウイルス学的特徴を素早く明らかにすることができます。

2.症状:
                   この新型コロナウイルスにより、現在(2月8日)までに、全世界で34,896人が感染(その内、724人が死亡)したと報告されています。臨床症状は、頭痛、高熱、倦怠感、咳などのインフルエンザ様症状から、重症例では呼吸困難を主訴とする肺炎に進行します。新型コロナウイルスの致死性は現時点では約1-2%と低いようですが、SARSコロナウイルスの致死率は約10%前後です。もっとも新型コロナウイルスは発生から1か月余りで、SARSコロナウイルスの総感染者数を超えるほど感染が拡大していますので、引き続き厳重な感染防御対策が必要です。

3.治療薬やワクチン:
                   ウイルス感染症ですから抗生物質(抗菌薬)が無効ですが、まず、解熱や呼吸補助などの対症療法がとられます。そして、ウイルスの感染を抑える抗ウイルス剤として、新型コロナウイルスに有効であると承認された薬剤、そして、もちろんワクチンはありません。先日、本学会員の国立感染症研究所竹田誠部長と松山州徳室長らの研究グループにより、日本で新型コロナウイルスが分離できたことから、今後この分離ウイルスを用いて治療薬やワクチンの開発が飛躍的に進むことが期待されます。

4.検査体制:
                   新型コロナウイルスの検査はウイルス遺伝子を増幅するPCR法、あるいは定量的PCRにより陽性サンプルの検出が行われています。現在、臨床現場でそのまま使える迅速診断試薬の開発が急ピッチで進められています。
5.自然宿主:
                   新型コロナウイルスの遺伝子配列は、SARSコロナウイルスに近く、さらにコウモリ由来のSARS様コロナウイルスにも相同性があることから、おそらくコウモリがこの新型コロナウイルスの起源となったウイルスを保持していると考えられています。しかし、この新型コロナウイルスがコウモリから直接ヒトに感染するようになったのか、あるいは、その間に別の宿主がいるのかどうかはまだ不明です。
6.予防:
                   新型コロナウイルスはエンベロープウイルスですのでアルコールなどで感染力を失うことが知られています。必要以上に恐れる必要はありませんが、手洗い・うがい・マスクなどの基本的な感染症予防を行うことが公衆衛生上重要です。
7.コロナウイルスの今後:
                   コロナウイルスは様々な動物でその感染が報告されています。SARSコロナウイルス、MERSコロナウイル、新型コロナウイルスのように、約10年ごとに突如出現し、大混乱を引き起こします。今後も新たなコロナウイルスが出現してくる可能が十分考えられますので、本学会としましても引き続きコロナウイルスに関する研究、情報収集に取り組んで参ります。


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若き軍医中尉が見た『人間魚雷』 回天特攻作戦の実態

2023年09月29日 03時03分03秒 | 歴史的なできごと
【戦場秘話】若き熱血軍医が見た「人間魚雷」回天特攻作戦の悲劇

8・10・2020


大戦末期、海軍の軍医でありながら、自ら進んで「人間魚雷」と呼ばれる特攻兵器「回天」の操縦訓練を受けた人がいた。かつて慶大ボート部で主将を務め、「早慶レガッタ」でも勇名を馳せた梶原貞信さんである。 「回天の搭乗員が病気になったら、代わりに俺が出る」

――東京大空襲で家族を失い、回天作戦の潜水艦に乗組んで出撃した梶原さんは、若者に「死」を命じる極度の重圧から惑乱した潜水艦の艦長に代わって操艦を指揮、無事に内地に帰投させた。異色の「熱血軍医」が特攻作戦を通じて見たものとは? 

---------- 回天特攻作戦の「悲劇をめぐるアルバム」はこちら


慶大医学部卒業と同時に海軍の軍医中尉に

回天一型。一人乗り、操縦可能な「目のある魚雷」である

 「回天特攻隊の潜水艦に、軍医長として乗組んで出撃する前、何度か艦長のお供をして上陸し、料亭で一緒に酒を飲んだんですが、艦長は周囲を気にしながら、『俺はあんな立派な若者たちを殺すことはできない。艦隊の水雷参謀は、回天を長距離魚雷のつもりで扱え、と言うが、彼らはモノじゃない。俺は苦しいんだ! 』と、しばしば本音を漏らされていました」  と、梶原貞信さんは回想する。  

「人間魚雷」とも呼ばれる回天は、日本海軍の誇る九三式三型魚雷(酸素魚雷=通常の魚雷のような白い航跡が出ない)を改造、直径を1メートルに拡大し、一人乗りの操縦席と、通常の魚雷の約二倍におよぶ1.5トンもの炸薬を装備した特攻兵器で、操縦席には特眼鏡と呼ばれる小型の潜望鏡を装備している。  

人間の操縦で敵艦に突入する、いわば「目のある魚雷」で、命中すれば、搭乗員の命と引き換えに、いかなる大型艦も撃沈できると考えられていた。  

梶原さんは大正8(1919)年、東京生まれ。慶應義塾大学医学部の学生時代はボート部の主将を務め、毎年4月に開催される「早慶レガッタ(対抗エイト)」でも勇名を馳せた。  

昭和15(1940)年4月29日、梶原さんが選手として初めて参加した、隅田川の尾竹橋-梶原渡間3200メートルのコースで競われた第12回早慶レガッタでは慶應が勝ち、  「もし、この年の秋に開催するはずだった、幻の東京オリンピックが開催されていれば、慶應ボート部が代表に選ばれた」  と、梶原さんは言う。




自ら第一線への転勤を直訴

回天の訓練風景

 戦争で大学生の卒業が6ヵ月繰り上げられ、昭和18(1943)年を最後に早慶レガッタの公式戦は休止、梶原さんは昭和18年9月、大学を卒業すると同時に海軍に入り、軍医中尉に任官した。  

「というのは、当時は『依託学生』という制度があって、卒業後、海軍に入る約束で、学費を援助してもらえたんです。それで、私のように実家が裕福でない者でも医学部に進むことができた。医学部を卒業して海軍に入ると、その日から軍医中尉です。大学ではなく医学専門学校を卒業した者は、軍医少尉からのスタートでした」 

 軍人としての基礎教育を3ヵ月受けたあと、昭和19(1944)年1月より、東京・築地の海軍軍医学校(跡地は現在、国立がん研究センター中央病院)で軍陣医学の講習を受け、同年3月、横須賀の野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)に配属される。 

 「松林と砂浜に恵まれた、海辺の静かな病院でしたが、間もなくサイパン島玉砕のニュースなどが入ってきて、焦りというか、こんな平和な病院にいていいのかと心苦しいような気がしていました。  

そのうち、仲間の軍医中尉が一人、割腹自殺をした。彼は病弱で、前線勤務に堪えられないことを悲観したようです。私もしだいに思い余って、病院長に第一線への転勤を直訴しました。


――この気持ちは、いまの若い人には理解してもらえんでしょうなあ」  

そして、昭和19年11月7日、広島県の呉に本拠を置く第六艦隊(潜水艦部隊)司令部附となり、伊号第三百六十八潜水艦に乗艦を命じられる。この艦は、基準排水量1440トン、もとは物資輸送のために建造された「潜輸大型」と呼ばれる12隻の潜水艦のうちの一隻だったが、梶原さんが着任したときには、特攻兵器「回天」の母艦として使用されることが決まり、そのための訓練が始まっていた。  


ここで梶原さんは、軍医でありながら、自ら進んで回天の操縦訓練を受ける。軍医は本来、直接兵器を扱うことはないから、これはきわめて異例のことだった。  「ボート部の血が騒いだのと、私もこの戦争で死ぬつもりでいましたからね……。『もし搭乗員が病気になったら誰が行くんだ。そのときは、代わりに俺が乗って出るから』と、回天の操縦法を勉強し、訓練させてもらいました」



最前線の島で見た衝撃の光景
 だが、梶原さんはわずか10日で、乗艦が伊三百六十八潜の同型艦、伊号第三百六十七潜水艦に変更される。伊三百六十七潜は、中部太平洋で孤立しているウェーク島守備隊に、食糧や医薬品を届けるため、12月4日に横須賀を出港することになっていた。単艦での長期航海となるため、軍医が必要だったのだ。 

 「急遽、横須賀に向かって着任すると、甲板上にも艦内にも、物資を詰め込んだゴム袋が山積みになっていて、異様な感じがしました。この潜水艦は輸送用だから、亀の子のようにずんぐりした形をしていて、物は積めるが速力は出ない。敵艦に発見されたら逃げようがありません。  

昼間は潜航し、夜間の数時間、浮上して充電と酸素補給をするんですが、夜、艦橋に上がると、艦は夜光虫の航跡を残しながら波に揺られているように見える。波に向かうときは後退するような気がするし、波を越えると前へ進む気がする。  


艦長・武富邦夫少佐に、『艦長、この艦は一進一退していますなあ』と言うと、艦長に『軍医長、馬鹿を言うな。これでも進んでいるのだぞ』と叱られました」  


艦内に病人が出なければ、航海中、軍医にはやることがない。しかし、酸素の浪費を防ぐため、用のない者は狭い寝台で静かにしていないといけない。敵艦の音波探知機(ソナー)に探知されるのを防ぐため、潜航中は物音を立てたり、大声で話したりするのもご法度である。  


「仕方なしに鏡を出して自分の顔をまじまじと眺める。舌を出したり、目を大きくしたり細くしたり、鼻の穴を膨らませてみたり。これでもいくぶん、退屈がしのげるんです」  

横須賀港からウェーク島まで約3200キロ、平均時速約10キロ(約5.5ノット)で航行し、13日をかけて無事に物資を届けることができたが、そこで見た、栄養不足で骨と皮ばかりに痩せ衰えた日本軍将兵の姿は、梶原さんに衝撃を与えた。 

 「私は主計兵に命じて飯を炊かせ、大量の握り飯をつくらせて、島の兵隊に配りました。そして、帰りは俺たちは食わんでいいだろうと、艦の食糧も陸揚げしました。島の司令官や軍医長がお礼に来られましたが、我々より一回り小さく見えて、かわいそうでしたよ」 

 帰途、敵艦に発見され、執拗な追尾を受けるが、潜航してひたすらじっとしていることで、なんとかやり過ごすことができた。

  50時間におよぶ潜航で、艦内の二酸化炭素濃度は、当時致死量とされていた3パーセントを超え、5パーセントに達したという。横須賀に帰還したのは昭和20年1月1日。1ヵ月近くにおよぶ酸素不足と高温下の航海で、乗組員の体には浮腫が出て、別人のように青白くなっていた。


東京大空襲で父と姉妹を亡くす
 伊三百六十七潜は、ふたたびウェーク島へ補給に向かうべく準備を始めたが、やがて任務が変更になり、特攻兵器「回天」を搭載、出撃することになった。これで、ウェーク島への補給の道は絶たれたことになる。 

 「回天搭載の工事には時間がかかりました。潜水艦の内殻(水圧に耐えるよう厚い鉄板でできた内側の壁)に穴をあけ、甲板上に積む回天の下部とつなぐ交通筒を5つ、それに艦内と回天の連絡用の電話線、固縛バンドとそれを艦内から脱着する装置の取り付けなど、かなり手のかかる作業でしたね」 

 艦の工事中、3月10日未明、東京は米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による大空襲を受け、10万人ともいわれる住民が猛火のなかで命を落とした。なかでも、梶原さんの家があった本所区(現・墨田区)の被害は壊滅的だった。 

 「横須賀から駆けつけると、家は跡形もなく焼け、そこにいた父と姉妹3人が亡くなっていました。艦長が厚意で、部下を自由に使って片付けをしてもよいと言ってくれましたが、全て焼けてしまって片づけるものさえないありさまでした。 

 田舎の疎開先から戻ってきた妹と会い、近所の焼け出された人の協力で、ようやく亡くなった姉妹の遺体を見つけ、妹と二人でこれを荼毘に付しました。周りには、片づける人もいない老人や女の人、子供の焼け焦げた死体が路傍に転がっていて、それはもう、地獄のような光景でしたよ。 

 そのときの気持ちはね、私は自分の家族や街の人たちが戦禍に遭わないようにするために海軍に入ったんじゃないのか、と。守るはずだった人々を守れなかった自責の念、そして、自分の命はどうあれ、絶対に敵に一矢を報いてやる、という復讐心でした」  

伊三百六十七潜は、4月末に改装工事を終えると、回天の訓練のために瀬戸内海に向かった。 


 「このとき、艦内の雰囲気はなんとなく湿っぽくて、私に悔やみを言ってくれる乗組員もいましたが、私は、出撃を控えてこれじゃダメだと思った。  

たまたま前年6月、私の誕生日に母が疎開先の甲府で亡くなったことを思い出し、乗組員たちに、『俺の母は、俺の身代わりに、昨年の俺の誕生日に死んだのだ。だから俺は絶対に死なないぞ。皆も、俺の周りにいれば死なない、俺についてこい! 』……半分虚勢ですけどね、 

 そうしたら兵隊たちは歓声を上げて喜んじゃって。『俺は軍医長の側を離れないぞ』という者もいたり、それで艦内は明るさを取り戻したような気がしました



日本海軍始まって以来の「軍医兼操舵手」

 徳山沖の大津島に、回天の基地がある。伊三百六十七潜は、ここで回天5基と搭乗員5名、整備員5名を積み込み、さっそく訓練が始められた。 

 搭乗員が、交通筒を通って、母艦の潜水艦から回天に乗り込み、回天と潜水艦両方の交通筒ハッチを閉める。両端を密閉された交通筒内へ海水を注入、交通筒内の空気は艦内に取り入れる。艦長は潜望鏡で目標を視認しながら、回天へ、敵までの距離、進行方向、速力を電話で知らせ、回天の針路、潜航時間を指示する。  

次に、回天の機関を発動し、「バンド外せ、発進!」の号令で電線を切断、回天は母潜から切り離される。回天の搭乗員は、定められた潜航時間ののち浮上し、特眼鏡で目標を確認して突撃針路を計算し、突入する。 

 回天の発射訓練は、瀬戸内海で二日にわたって行われた。ところが、この訓練中に、掌帆員(操舵手)が発熱する。症状は次第に悪化し、梶原さんの診たところ、肺炎の兆候がみられた。だが、潜水艦は必要最小限の人員で動かしていて、重要配置の者に代わりなどいない。出撃を目前に控えて、交代員の発令も間に合いそうにない。  

困り果てている艦長に、梶原さんは、「艦長、私が代わりに舵をとります」と申し出た。  「私は学生時代、こんな鈍重な艦ではなく、非常に軽く敏感なボートの選手だったので、こんな艦の操舵ぐらい、お安い御用です」 

 はじめは懐疑的だった艦長も、訓練中、梶原さんに操艦を任せてテストし、ついにOKを出した。ここに非公式ながら、日本海軍始まって以来の、「軍医兼操舵手」が誕生した。  

梶原さんは、訓練の合間にしばしば、艦長の供をして街に出て、料亭で酒を飲んだ。回天搭乗員に発進を命じる苦衷を艦長が語ったのも、この頃のことである。 

 伊三百六十七潜艦長・武富少佐は、海軍兵学校を昭和13(1938)年に卒業した六十五期出身で、このとき29歳。海軍中将武富邦鼎を祖父に、海軍少将武富邦茂を父に持ち、兵学校時代はラグビーのバックスとして鳴らした。 

 昭和14(1939)年には陸戦隊小隊長として海南島攻略作戦に参加、のち潜水艦に転じたが、これまで、二度にわたって病気で長期休養したことがあり、芯から体が丈夫なほうではなかったのかもしれない。何ごとにも慎重、細心、緻密で、軍人らしからぬ繊細な人であったという。 

 艦長は艦の最高責任者だが、

潜水艦の軍医長は、上部組織である第六艦隊司令部附という立場で、そこから乗艦を指定されるので、指揮系統上、軍医長は艦長の部下ではない。

直属の部下ではなく、本来なら戦闘員でもない軍医長が相手だからこそ、艦長も、  「彼らはモノじゃない。俺は苦しいんだ」  と、人間的な胸の内を明かすことができたのだ。

若き回天搭乗員たちの意外な素顔

振武隊出撃前。前列左から、岡田一飛曹、吉留一飛曹、武富艦長、第六艦隊長官醍醐中将、藤田中尉、小野一飛曹、千葉一飛曹。後列左から、板倉参謀、末廣艦隊主計長、長井司令官、有近参謀、揚田司令、鳥巣参謀

 伊三百六十七潜に搭載された「回天」は、「回天特別攻撃隊振武隊」と命名され、昭和20年5月5日、第六艦隊司令長官・醍醐忠重中将以下の見送りを受けて、大津島を出撃した。サイパンと沖縄を結ぶ線上、沖ノ鳥島周辺海域で、沖縄へ増援に向かう敵船団を待ち伏せ、攻撃するのがその任務である。  

「ちょうど端午の節句で、潜望鏡に鯉のぼりを掲げて出港しました。このとき私は、さほどの悲壮感も覚えなかった。学生時代、長く苦しい合宿練習を終え、ボートレースで先輩、後輩、友人たちに見送られてオールを握りしめ、台船を離れる瞬間に似て、よし、やってやるぞ、見ていてくれ! と、軽いサバサバした気持ちでした。 


 もはやこの戦争に勝つとは思えないが、せめて一矢を報いたい。死ぬとか生きるとかよりも、目の前にある任務と敵愾心のほうがまさっていたと思います。艦は、夜間は浮上し、昼は潜航し、一時も気を抜くことなく見張りを厳重にしながら、予定海域に向かいました」  

航行中、乗組員は三直交代で配置につく。2時間配置につき、4時間休憩することを繰り返すのだ。梶原さんは、航海長・桑原義一中尉、砲術長兼通信長・相馬修中尉と交代で、操艦にあたった。2人とも梶原さんより若く、戦闘航海の経験は浅い。自然と、軍医の梶原さんが、艦長の次の先任士官のような立場になった。 

 「目的地に到着したものの、敵の影すら見えない日が続きました。敵と遭えば死ぬ運命の回天の搭乗員はどうしているかと思って見に行くと、ほかの乗組員と雑談したり、寝台に寝そべって雑誌を読んだり、ふだんと全く変わらない様子でした。皆、朗らかで謙虚な、非の打ちどころのない若者でした」 

 回天搭乗員は、藤田克己中尉(兵科予備学生三期、福岡高等商業学校〈現・福岡大学〉卒)を隊長に、千葉三郎一飛曹、小野正明一飛曹、岡田純一飛曹、吉留文夫一飛曹(いずれも甲種飛行予科練習生13期)の5名。

なかでも、藤田中尉の人柄は、梶原さんに強い印象を残した。 

 「優しい兄貴、といった感じで、部下の面倒をよく見ていました。郷里には両親と妹さんがいて、男の兄弟には恵まれなかったが、いま立派な弟4人を持って幸せだと言っていました。  特に妹さんへの思いやりの言葉を聞いていると、『こんな優しい人がどうして回天のような恐ろしい兵器に』と不思議に思うほどでした。

戦争は、ほんとうの愛に満ちた優しい男たちに、無限の力と勇気を与える、そんな気がしましたよ


奇跡の敵発見。回天発進するも…
 敵船団を求めて航海するうち、何度かかすかなスクリュー音を探知、その都度、「回天戦用意」が下令され、艦内に緊張が走ったが、いずれも距離が遠すぎて捕捉できなかった。  潜航、浮上を繰り返す航海が長くなると、回天の故障が多発する。そのため、5月26日、伊三百六十七潜に、第六艦隊から帰投命令が発せられた。  だが、回天搭乗員たちは、「明日は海軍記念日(5月27日。日露戦争で日本の聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破った日)だから、必ず敵に遭うような気がする」と言い、艦長もそれを了承した。潜水艦には風呂もシャワーもないが、搭乗員たちの願いで、26日には貴重な真水を盥に汲んで、狭い通路で3週間ぶりの沐浴をさせている。 

 「霊感というか、命を懸けた予感は当たるもので、5月27日未明、敵船団を発見しました。潜水艦の乗組員も、回天搭乗員も、鉢巻をキリっと締めて立ち上がる。艦長の『総員配置ニ就ケ』の号令がかかる。艦長が潜望鏡で確認したところによると、敵は、駆逐艦数隻に護られた、戦車揚陸艦をふくむ10数隻の輸送船団とのことでした。  

ただちに『回天戦用意』『回天搭乗員乗艇』が命じられ、藤田中尉は私に、『軍医長、お世話になりました。では行ってまいります』と言うやいなや、交通筒をくぐって回天に乗り込み、ほかの搭乗員もそれに続きます。交通筒のハッチを閉める音が胸にこたえました」  

交通筒の空間に海水が充填されると、「回天機械発動」が下令される。しかし、一号、二号、四号艇は、長期にわたる航海のためか、故障して始動できない。敵船団は刻々と移動している。艦長は始動した三号艇、五号艇に発進を命じた。千葉一飛曹と小野一飛曹、いずれも10代の若者だった。 

 「回天のスクリュー音が遠ざかっていき、やがて聴こえなくなった。発進できなかった回天の交通筒の海水を艦内に落とし、ハッチを開いて3人の搭乗員を収容しました。皆、青ざめた顔で、男泣きに泣いていましたよ。特に藤田中尉の落胆ぶりは、気の毒で見ていられなかった。『俺の艇はなぜ動かないんだ! 

俺は真っ先に行くんだ。小野、千葉、すまない! 』……彼は顔を伏せ、上げようとはしませんでした。艦の乗組員もみんな、涙を流していました」  


回天発進後約40分、遠くに爆発音が聴こえた。続いてもう一回。乗組員たちは、千葉一飛曹、小野一飛曹は伊三百六十七潜が退避した頃を見計らって突入してくれたのだ、と囁き合ったが、この日、回天の戦果を裏づける米軍史料は見つかっていない。おそらく、敵船団への突入を果たせないまま、航続力が尽きて自爆したものだと推測される。  


(これについては、回天搭乗員だった小灘利春大尉が戦後、艦長が慎重すぎ、海中で無駄な動きをしたためにタイミングを逃し、回天にとって不利な態勢での発進になったという趣旨の論考を発表している



艦長が惑乱し、艦内は反乱寸前
 武富艦長は出港後、回天戦の重圧からか、次第に精神の平衡を失い、しばしば部下を怒鳴りつけ、当たり散らした。部下たちは、陰で艦長のことを「艦スケ」と呼び、反発を露わにするようになっていた。  

梶原さんは折に触れ、そんな艦長を慰め、激励してきたが、回天を発進させてからというもの、艦長の精神状態はいよいよ不安定になり、ウイスキーをあおっては惑乱し、士官にまで手を上げた。そして苦しそうに一点を見つめて、痛みをこらえるように手で腹を押さえ、顔をしかめるのだった。  「ついに下士官兵たちが、『俺たちはもう、艦スケの言うことなど聞かない! 』と騒ぎだした。若い桑原中尉、相馬中尉が兵員室に飛んで行きましたが、彼らは聞く耳をもたない。下士官上がりのベテランの掌水雷長が、張り倒さんばかりの強い言葉で説得しても、彼らはひるまず、艦長不信を叫びました。 

 もはや、サボタージュやストライキの域ではなく、暴動寸前です。そこで私が出て行き、『黙れ! お前たち、ここをどこだと思ってる! 』とやったんです。日頃、大声を出さない私が怒鳴ったので、皆一瞬、静まり返りました。  

そして、『この攻撃の最高責任者である艦長の気持ちがどんなものか、わからないのか! 

ただ、艦長は健康を害されている。艦長のことは俺が引き受けた、お前たちはとにかく命令に従え! 』と。最後は先任下士官が、『わかりました。軍医長、お願いします』と言って任せてくれました」  

 梶原さんは、艦長を、極度の神経衰弱のため航海の指揮は不可能と診断し、軍医の職権で艦長室での静養を指示した。艦長を、いわば軟禁したのである。これは、「司令部附」で、艦長直属の部下ではないからこそできたことだった。  

そして、復路の数日間、梶原さんが事実上の指揮をとり、伊三百六十七潜は6月3日、大津島を経て、4日、呉軍港に帰還した。 


 「さっそく艦長を呉海軍病院にお連れすると、十二指腸潰瘍が見つかり、即刻入院となりました。そのうちに新しい艦長が着任し、私も後任の軍医長が来て、追い出されるように伊三百六十七潜を降りたんです。 


 85名の乗組員と回天整備員の命を預かって、回天に出撃を命じる艦長の重圧はとてつもなく大きかったんでしょう。錯乱状態になったことを責める気持ちにはならなかった。艦はまもなく、新艦長のもと、また回天を搭載して出撃していきました」



広島の被爆者の診療にあたる
 陸に上がった梶原さんは、司令部の将兵の診療や、新しくできた小型潜水艦「波号第二百一型(潜高小型)」の換気の問題を研究したりしていたが、7月24日には呉軍港が壊滅的被害を受けた空襲に遭い、危うく難を逃れている。 

 8月6日――。  

「この日は朝からカラッと晴れていました。潜水艦隊司令部では、いつも通りに朝食を済ませ、午前8時に軍艦旗を掲揚、課業開始の整列をしていた。そこに、空襲警報が鳴ったんです。お客さんはグラマンか?

 B-29か? などと言いながら、横穴防空壕にある診療室に駆け込みました。  

敵機はB-29が2機とのことで、間もなく警報は解除になったんですが、そのうち、壕の中でもはっきりわかるほど、外が急に輝いた。大量のマグネシウムでも焚いたように思えましたよ。しばらくして、ズーンと、鼓膜を圧するような爆風が伝わってきました。  

診療を終えて外に出ると、晴れ渡った空に黒々とした入道雲のような雲が見える。確かなことはわからないが、広島が大損害を受けたらしい。夜になって、司令部の情報将校のアメリカ生まれの中尉が、米軍の日本向け短波放送で、今日、広島に落とした爆弾は、『Atomic bomb』だと言っている、と教えてくれました。それで、あ、ついにやられたな、これは原子爆弾だぞ、と。  

日本でも研究しているとうすうす聞いてはいましたが、敵に先を越されてしまった。絶望的なあきらめが、重く胸にのしかかるようでした」 

 梶原さんは翌朝、衛生兵2人を率いて広島に向かうが、市内の惨状は、3月の東京大空襲の再現のようであった。さらに8月9日には、長崎に原爆が投下される。  

「呉にも広島の被爆者が運び込まれてきましたが、たいした火傷もないのに出血がひどく死ぬ人がいたり、母親に抱かれた無傷の赤ちゃんが急に死んだり、私たち医者の目から見ても不可解な症例が次々と見られ、原爆の恐ろしさを実感したものでした」

戦後は下町の「赤ひげ先生」となる

梶原貞信さん(2009年1月18日。NHK戦争証言アーカイブス『軍医が見た回天作戦』より)

 やがて、終戦。梶原さんは、満州からの引揚船の船医となり、その後、墨田区で小さな医院を開業した。情に厚い梶原さんは、地元の人たちから、「赤ひげ先生」と呼ばれ、長く慕われていたという。4月の早慶レガッタには必ず応援に駆けつけ、また、戦友会や慰霊祭にも熱心に参加を続けた。  

筆者が梶原さんと初めて会ったのは1998年。東京・青山の伊藤忠本社の地下レストランで、毎月第四木曜日に行われていたネイビー会だった。ここには、慶應義塾大学出身者を中心に、旧海軍の学徒士官が集い、昔話に花を咲かせていた。  


梶原さんはこの会に欠かさず出席して、回天やボート部の思い出を語ったり、趣味のお茶を点てて仲間にふるまったりしていた。約10年、毎月のように会って話を聞くなかで、特に心に残った言葉がある。回天特攻隊でともに戦った戦友たちが高齢となり、訃報が続いた頃のこと。  「死ぬときは一緒、と誓い合った仲間が、寄る年波で次々と死んでいく。約束が違うじゃないか、といつも思う……寂しいよね」 


 ――空襲で家を焼かれ、家族を失い、戦いで辛酸をなめ、忌まわしい思い出も多いはずなのに、青春の日、戦場で生死をともにした者同士の友情と結びつきは特別だった。その絆の強さは、平和な世で育った私たち戦後世代には想像もつかないものなのかもしれない。その梶原さんも、いまは亡い。  


(※梶原さんの回天作戦中の貴重な証言は、NHKの戦争証言アーカイブスでも公開されています。 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi? das_id=D0001100507_00000)
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