【戦場秘話】若き熱血軍医が見た「人間魚雷」回天特攻作戦の悲劇
8・10・2020
大戦末期、海軍の軍医でありながら、自ら進んで「人間魚雷」と呼ばれる特攻兵器「回天」の操縦訓練を受けた人がいた。かつて慶大ボート部で主将を務め、「早慶レガッタ」でも勇名を馳せた梶原貞信さんである。 「回天の搭乗員が病気になったら、代わりに俺が出る」
――東京大空襲で家族を失い、回天作戦の潜水艦に乗組んで出撃した梶原さんは、若者に「死」を命じる極度の重圧から惑乱した潜水艦の艦長に代わって操艦を指揮、無事に内地に帰投させた。異色の「熱血軍医」が特攻作戦を通じて見たものとは?
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慶大医学部卒業と同時に海軍の軍医中尉に
回天一型。一人乗り、操縦可能な「目のある魚雷」である
「回天特攻隊の潜水艦に、軍医長として乗組んで出撃する前、何度か艦長のお供をして上陸し、料亭で一緒に酒を飲んだんですが、艦長は周囲を気にしながら、『俺はあんな立派な若者たちを殺すことはできない。艦隊の水雷参謀は、回天を長距離魚雷のつもりで扱え、と言うが、彼らはモノじゃない。俺は苦しいんだ! 』と、しばしば本音を漏らされていました」 と、梶原貞信さんは回想する。
「人間魚雷」とも呼ばれる回天は、日本海軍の誇る九三式三型魚雷(酸素魚雷=通常の魚雷のような白い航跡が出ない)を改造、直径を1メートルに拡大し、一人乗りの操縦席と、通常の魚雷の約二倍におよぶ1.5トンもの炸薬を装備した特攻兵器で、操縦席には特眼鏡と呼ばれる小型の潜望鏡を装備している。
人間の操縦で敵艦に突入する、いわば「目のある魚雷」で、命中すれば、搭乗員の命と引き換えに、いかなる大型艦も撃沈できると考えられていた。
梶原さんは大正8(1919)年、東京生まれ。慶應義塾大学医学部の学生時代はボート部の主将を務め、毎年4月に開催される「早慶レガッタ(対抗エイト)」でも勇名を馳せた。
昭和15(1940)年4月29日、梶原さんが選手として初めて参加した、隅田川の尾竹橋-梶原渡間3200メートルのコースで競われた第12回早慶レガッタでは慶應が勝ち、 「もし、この年の秋に開催するはずだった、幻の東京オリンピックが開催されていれば、慶應ボート部が代表に選ばれた」 と、梶原さんは言う。
自ら第一線への転勤を直訴
回天の訓練風景
戦争で大学生の卒業が6ヵ月繰り上げられ、昭和18(1943)年を最後に早慶レガッタの公式戦は休止、梶原さんは昭和18年9月、大学を卒業すると同時に海軍に入り、軍医中尉に任官した。
「というのは、当時は『依託学生』という制度があって、卒業後、海軍に入る約束で、学費を援助してもらえたんです。それで、私のように実家が裕福でない者でも医学部に進むことができた。医学部を卒業して海軍に入ると、その日から軍医中尉です。大学ではなく医学専門学校を卒業した者は、軍医少尉からのスタートでした」
軍人としての基礎教育を3ヵ月受けたあと、昭和19(1944)年1月より、東京・築地の海軍軍医学校(跡地は現在、国立がん研究センター中央病院)で軍陣医学の講習を受け、同年3月、横須賀の野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)に配属される。
「松林と砂浜に恵まれた、海辺の静かな病院でしたが、間もなくサイパン島玉砕のニュースなどが入ってきて、焦りというか、こんな平和な病院にいていいのかと心苦しいような気がしていました。
そのうち、仲間の軍医中尉が一人、割腹自殺をした。彼は病弱で、前線勤務に堪えられないことを悲観したようです。私もしだいに思い余って、病院長に第一線への転勤を直訴しました。
――この気持ちは、いまの若い人には理解してもらえんでしょうなあ」
そして、昭和19年11月7日、広島県の呉に本拠を置く第六艦隊(潜水艦部隊)司令部附となり、伊号第三百六十八潜水艦に乗艦を命じられる。この艦は、基準排水量1440トン、もとは物資輸送のために建造された「潜輸大型」と呼ばれる12隻の潜水艦のうちの一隻だったが、梶原さんが着任したときには、特攻兵器「回天」の母艦として使用されることが決まり、そのための訓練が始まっていた。
ここで梶原さんは、軍医でありながら、自ら進んで回天の操縦訓練を受ける。軍医は本来、直接兵器を扱うことはないから、これはきわめて異例のことだった。 「ボート部の血が騒いだのと、私もこの戦争で死ぬつもりでいましたからね……。『もし搭乗員が病気になったら誰が行くんだ。そのときは、代わりに俺が乗って出るから』と、回天の操縦法を勉強し、訓練させてもらいました」
最前線の島で見た衝撃の光景
だが、梶原さんはわずか10日で、乗艦が伊三百六十八潜の同型艦、伊号第三百六十七潜水艦に変更される。伊三百六十七潜は、中部太平洋で孤立しているウェーク島守備隊に、食糧や医薬品を届けるため、12月4日に横須賀を出港することになっていた。単艦での長期航海となるため、軍医が必要だったのだ。
「急遽、横須賀に向かって着任すると、甲板上にも艦内にも、物資を詰め込んだゴム袋が山積みになっていて、異様な感じがしました。この潜水艦は輸送用だから、亀の子のようにずんぐりした形をしていて、物は積めるが速力は出ない。敵艦に発見されたら逃げようがありません。
昼間は潜航し、夜間の数時間、浮上して充電と酸素補給をするんですが、夜、艦橋に上がると、艦は夜光虫の航跡を残しながら波に揺られているように見える。波に向かうときは後退するような気がするし、波を越えると前へ進む気がする。
艦長・武富邦夫少佐に、『艦長、この艦は一進一退していますなあ』と言うと、艦長に『軍医長、馬鹿を言うな。これでも進んでいるのだぞ』と叱られました」
艦内に病人が出なければ、航海中、軍医にはやることがない。しかし、酸素の浪費を防ぐため、用のない者は狭い寝台で静かにしていないといけない。敵艦の音波探知機(ソナー)に探知されるのを防ぐため、潜航中は物音を立てたり、大声で話したりするのもご法度である。
「仕方なしに鏡を出して自分の顔をまじまじと眺める。舌を出したり、目を大きくしたり細くしたり、鼻の穴を膨らませてみたり。これでもいくぶん、退屈がしのげるんです」
横須賀港からウェーク島まで約3200キロ、平均時速約10キロ(約5.5ノット)で航行し、13日をかけて無事に物資を届けることができたが、そこで見た、栄養不足で骨と皮ばかりに痩せ衰えた日本軍将兵の姿は、梶原さんに衝撃を与えた。
「私は主計兵に命じて飯を炊かせ、大量の握り飯をつくらせて、島の兵隊に配りました。そして、帰りは俺たちは食わんでいいだろうと、艦の食糧も陸揚げしました。島の司令官や軍医長がお礼に来られましたが、我々より一回り小さく見えて、かわいそうでしたよ」
帰途、敵艦に発見され、執拗な追尾を受けるが、潜航してひたすらじっとしていることで、なんとかやり過ごすことができた。
50時間におよぶ潜航で、艦内の二酸化炭素濃度は、当時致死量とされていた3パーセントを超え、5パーセントに達したという。横須賀に帰還したのは昭和20年1月1日。1ヵ月近くにおよぶ酸素不足と高温下の航海で、乗組員の体には浮腫が出て、別人のように青白くなっていた。
東京大空襲で父と姉妹を亡くす
伊三百六十七潜は、ふたたびウェーク島へ補給に向かうべく準備を始めたが、やがて任務が変更になり、特攻兵器「回天」を搭載、出撃することになった。これで、ウェーク島への補給の道は絶たれたことになる。
「回天搭載の工事には時間がかかりました。潜水艦の内殻(水圧に耐えるよう厚い鉄板でできた内側の壁)に穴をあけ、甲板上に積む回天の下部とつなぐ交通筒を5つ、それに艦内と回天の連絡用の電話線、固縛バンドとそれを艦内から脱着する装置の取り付けなど、かなり手のかかる作業でしたね」
艦の工事中、3月10日未明、東京は米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29による大空襲を受け、10万人ともいわれる住民が猛火のなかで命を落とした。なかでも、梶原さんの家があった本所区(現・墨田区)の被害は壊滅的だった。
「横須賀から駆けつけると、家は跡形もなく焼け、そこにいた父と姉妹3人が亡くなっていました。艦長が厚意で、部下を自由に使って片付けをしてもよいと言ってくれましたが、全て焼けてしまって片づけるものさえないありさまでした。
田舎の疎開先から戻ってきた妹と会い、近所の焼け出された人の協力で、ようやく亡くなった姉妹の遺体を見つけ、妹と二人でこれを荼毘に付しました。周りには、片づける人もいない老人や女の人、子供の焼け焦げた死体が路傍に転がっていて、それはもう、地獄のような光景でしたよ。
そのときの気持ちはね、私は自分の家族や街の人たちが戦禍に遭わないようにするために海軍に入ったんじゃないのか、と。守るはずだった人々を守れなかった自責の念、そして、自分の命はどうあれ、絶対に敵に一矢を報いてやる、という復讐心でした」
伊三百六十七潜は、4月末に改装工事を終えると、回天の訓練のために瀬戸内海に向かった。
「このとき、艦内の雰囲気はなんとなく湿っぽくて、私に悔やみを言ってくれる乗組員もいましたが、私は、出撃を控えてこれじゃダメだと思った。
たまたま前年6月、私の誕生日に母が疎開先の甲府で亡くなったことを思い出し、乗組員たちに、『俺の母は、俺の身代わりに、昨年の俺の誕生日に死んだのだ。だから俺は絶対に死なないぞ。皆も、俺の周りにいれば死なない、俺についてこい! 』……半分虚勢ですけどね、
そうしたら兵隊たちは歓声を上げて喜んじゃって。『俺は軍医長の側を離れないぞ』という者もいたり、それで艦内は明るさを取り戻したような気がしました
日本海軍始まって以来の「軍医兼操舵手」
徳山沖の大津島に、回天の基地がある。伊三百六十七潜は、ここで回天5基と搭乗員5名、整備員5名を積み込み、さっそく訓練が始められた。
搭乗員が、交通筒を通って、母艦の潜水艦から回天に乗り込み、回天と潜水艦両方の交通筒ハッチを閉める。両端を密閉された交通筒内へ海水を注入、交通筒内の空気は艦内に取り入れる。艦長は潜望鏡で目標を視認しながら、回天へ、敵までの距離、進行方向、速力を電話で知らせ、回天の針路、潜航時間を指示する。
次に、回天の機関を発動し、「バンド外せ、発進!」の号令で電線を切断、回天は母潜から切り離される。回天の搭乗員は、定められた潜航時間ののち浮上し、特眼鏡で目標を確認して突撃針路を計算し、突入する。
回天の発射訓練は、瀬戸内海で二日にわたって行われた。ところが、この訓練中に、掌帆員(操舵手)が発熱する。症状は次第に悪化し、梶原さんの診たところ、肺炎の兆候がみられた。だが、潜水艦は必要最小限の人員で動かしていて、重要配置の者に代わりなどいない。出撃を目前に控えて、交代員の発令も間に合いそうにない。
困り果てている艦長に、梶原さんは、「艦長、私が代わりに舵をとります」と申し出た。 「私は学生時代、こんな鈍重な艦ではなく、非常に軽く敏感なボートの選手だったので、こんな艦の操舵ぐらい、お安い御用です」
はじめは懐疑的だった艦長も、訓練中、梶原さんに操艦を任せてテストし、ついにOKを出した。ここに非公式ながら、日本海軍始まって以来の、「軍医兼操舵手」が誕生した。
梶原さんは、訓練の合間にしばしば、艦長の供をして街に出て、料亭で酒を飲んだ。回天搭乗員に発進を命じる苦衷を艦長が語ったのも、この頃のことである。
伊三百六十七潜艦長・武富少佐は、海軍兵学校を昭和13(1938)年に卒業した六十五期出身で、このとき29歳。海軍中将武富邦鼎を祖父に、海軍少将武富邦茂を父に持ち、兵学校時代はラグビーのバックスとして鳴らした。
昭和14(1939)年には陸戦隊小隊長として海南島攻略作戦に参加、のち潜水艦に転じたが、これまで、二度にわたって病気で長期休養したことがあり、芯から体が丈夫なほうではなかったのかもしれない。何ごとにも慎重、細心、緻密で、軍人らしからぬ繊細な人であったという。
艦長は艦の最高責任者だが、
潜水艦の軍医長は、上部組織である第六艦隊司令部附という立場で、そこから乗艦を指定されるので、指揮系統上、軍医長は艦長の部下ではない。
直属の部下ではなく、本来なら戦闘員でもない軍医長が相手だからこそ、艦長も、 「彼らはモノじゃない。俺は苦しいんだ」 と、人間的な胸の内を明かすことができたのだ。
若き回天搭乗員たちの意外な素顔
振武隊出撃前。前列左から、岡田一飛曹、吉留一飛曹、武富艦長、第六艦隊長官醍醐中将、藤田中尉、小野一飛曹、千葉一飛曹。後列左から、板倉参謀、末廣艦隊主計長、長井司令官、有近参謀、揚田司令、鳥巣参謀
伊三百六十七潜に搭載された「回天」は、「回天特別攻撃隊振武隊」と命名され、昭和20年5月5日、第六艦隊司令長官・醍醐忠重中将以下の見送りを受けて、大津島を出撃した。サイパンと沖縄を結ぶ線上、沖ノ鳥島周辺海域で、沖縄へ増援に向かう敵船団を待ち伏せ、攻撃するのがその任務である。
「ちょうど端午の節句で、潜望鏡に鯉のぼりを掲げて出港しました。このとき私は、さほどの悲壮感も覚えなかった。学生時代、長く苦しい合宿練習を終え、ボートレースで先輩、後輩、友人たちに見送られてオールを握りしめ、台船を離れる瞬間に似て、よし、やってやるぞ、見ていてくれ! と、軽いサバサバした気持ちでした。
もはやこの戦争に勝つとは思えないが、せめて一矢を報いたい。死ぬとか生きるとかよりも、目の前にある任務と敵愾心のほうがまさっていたと思います。艦は、夜間は浮上し、昼は潜航し、一時も気を抜くことなく見張りを厳重にしながら、予定海域に向かいました」
航行中、乗組員は三直交代で配置につく。2時間配置につき、4時間休憩することを繰り返すのだ。梶原さんは、航海長・桑原義一中尉、砲術長兼通信長・相馬修中尉と交代で、操艦にあたった。2人とも梶原さんより若く、戦闘航海の経験は浅い。自然と、軍医の梶原さんが、艦長の次の先任士官のような立場になった。
「目的地に到着したものの、敵の影すら見えない日が続きました。敵と遭えば死ぬ運命の回天の搭乗員はどうしているかと思って見に行くと、ほかの乗組員と雑談したり、寝台に寝そべって雑誌を読んだり、ふだんと全く変わらない様子でした。皆、朗らかで謙虚な、非の打ちどころのない若者でした」
回天搭乗員は、藤田克己中尉(兵科予備学生三期、福岡高等商業学校〈現・福岡大学〉卒)を隊長に、千葉三郎一飛曹、小野正明一飛曹、岡田純一飛曹、吉留文夫一飛曹(いずれも甲種飛行予科練習生13期)の5名。
なかでも、藤田中尉の人柄は、梶原さんに強い印象を残した。
「優しい兄貴、といった感じで、部下の面倒をよく見ていました。郷里には両親と妹さんがいて、男の兄弟には恵まれなかったが、いま立派な弟4人を持って幸せだと言っていました。 特に妹さんへの思いやりの言葉を聞いていると、『こんな優しい人がどうして回天のような恐ろしい兵器に』と不思議に思うほどでした。
戦争は、ほんとうの愛に満ちた優しい男たちに、無限の力と勇気を与える、そんな気がしましたよ
奇跡の敵発見。回天発進するも…
敵船団を求めて航海するうち、何度かかすかなスクリュー音を探知、その都度、「回天戦用意」が下令され、艦内に緊張が走ったが、いずれも距離が遠すぎて捕捉できなかった。 潜航、浮上を繰り返す航海が長くなると、回天の故障が多発する。そのため、5月26日、伊三百六十七潜に、第六艦隊から帰投命令が発せられた。 だが、回天搭乗員たちは、「明日は海軍記念日(5月27日。日露戦争で日本の聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破った日)だから、必ず敵に遭うような気がする」と言い、艦長もそれを了承した。潜水艦には風呂もシャワーもないが、搭乗員たちの願いで、26日には貴重な真水を盥に汲んで、狭い通路で3週間ぶりの沐浴をさせている。
「霊感というか、命を懸けた予感は当たるもので、5月27日未明、敵船団を発見しました。潜水艦の乗組員も、回天搭乗員も、鉢巻をキリっと締めて立ち上がる。艦長の『総員配置ニ就ケ』の号令がかかる。艦長が潜望鏡で確認したところによると、敵は、駆逐艦数隻に護られた、戦車揚陸艦をふくむ10数隻の輸送船団とのことでした。
ただちに『回天戦用意』『回天搭乗員乗艇』が命じられ、藤田中尉は私に、『軍医長、お世話になりました。では行ってまいります』と言うやいなや、交通筒をくぐって回天に乗り込み、ほかの搭乗員もそれに続きます。交通筒のハッチを閉める音が胸にこたえました」
交通筒の空間に海水が充填されると、「回天機械発動」が下令される。しかし、一号、二号、四号艇は、長期にわたる航海のためか、故障して始動できない。敵船団は刻々と移動している。艦長は始動した三号艇、五号艇に発進を命じた。千葉一飛曹と小野一飛曹、いずれも10代の若者だった。
「回天のスクリュー音が遠ざかっていき、やがて聴こえなくなった。発進できなかった回天の交通筒の海水を艦内に落とし、ハッチを開いて3人の搭乗員を収容しました。皆、青ざめた顔で、男泣きに泣いていましたよ。特に藤田中尉の落胆ぶりは、気の毒で見ていられなかった。『俺の艇はなぜ動かないんだ!
俺は真っ先に行くんだ。小野、千葉、すまない! 』……彼は顔を伏せ、上げようとはしませんでした。艦の乗組員もみんな、涙を流していました」
回天発進後約40分、遠くに爆発音が聴こえた。続いてもう一回。乗組員たちは、千葉一飛曹、小野一飛曹は伊三百六十七潜が退避した頃を見計らって突入してくれたのだ、と囁き合ったが、この日、回天の戦果を裏づける米軍史料は見つかっていない。おそらく、敵船団への突入を果たせないまま、航続力が尽きて自爆したものだと推測される。
(これについては、回天搭乗員だった小灘利春大尉が戦後、艦長が慎重すぎ、海中で無駄な動きをしたためにタイミングを逃し、回天にとって不利な態勢での発進になったという趣旨の論考を発表している
艦長が惑乱し、艦内は反乱寸前
武富艦長は出港後、回天戦の重圧からか、次第に精神の平衡を失い、しばしば部下を怒鳴りつけ、当たり散らした。部下たちは、陰で艦長のことを「艦スケ」と呼び、反発を露わにするようになっていた。
梶原さんは折に触れ、そんな艦長を慰め、激励してきたが、回天を発進させてからというもの、艦長の精神状態はいよいよ不安定になり、ウイスキーをあおっては惑乱し、士官にまで手を上げた。そして苦しそうに一点を見つめて、痛みをこらえるように手で腹を押さえ、顔をしかめるのだった。 「ついに下士官兵たちが、『俺たちはもう、艦スケの言うことなど聞かない! 』と騒ぎだした。若い桑原中尉、相馬中尉が兵員室に飛んで行きましたが、彼らは聞く耳をもたない。下士官上がりのベテランの掌水雷長が、張り倒さんばかりの強い言葉で説得しても、彼らはひるまず、艦長不信を叫びました。
もはや、サボタージュやストライキの域ではなく、暴動寸前です。そこで私が出て行き、『黙れ! お前たち、ここをどこだと思ってる! 』とやったんです。日頃、大声を出さない私が怒鳴ったので、皆一瞬、静まり返りました。
そして、『この攻撃の最高責任者である艦長の気持ちがどんなものか、わからないのか!
ただ、艦長は健康を害されている。艦長のことは俺が引き受けた、お前たちはとにかく命令に従え! 』と。最後は先任下士官が、『わかりました。軍医長、お願いします』と言って任せてくれました」
梶原さんは、艦長を、極度の神経衰弱のため航海の指揮は不可能と診断し、軍医の職権で艦長室での静養を指示した。艦長を、いわば軟禁したのである。これは、「司令部附」で、艦長直属の部下ではないからこそできたことだった。
そして、復路の数日間、梶原さんが事実上の指揮をとり、伊三百六十七潜は6月3日、大津島を経て、4日、呉軍港に帰還した。
「さっそく艦長を呉海軍病院にお連れすると、十二指腸潰瘍が見つかり、即刻入院となりました。そのうちに新しい艦長が着任し、私も後任の軍医長が来て、追い出されるように伊三百六十七潜を降りたんです。
85名の乗組員と回天整備員の命を預かって、回天に出撃を命じる艦長の重圧はとてつもなく大きかったんでしょう。錯乱状態になったことを責める気持ちにはならなかった。艦はまもなく、新艦長のもと、また回天を搭載して出撃していきました」
広島の被爆者の診療にあたる
陸に上がった梶原さんは、司令部の将兵の診療や、新しくできた小型潜水艦「波号第二百一型(潜高小型)」の換気の問題を研究したりしていたが、7月24日には呉軍港が壊滅的被害を受けた空襲に遭い、危うく難を逃れている。
8月6日――。
「この日は朝からカラッと晴れていました。潜水艦隊司令部では、いつも通りに朝食を済ませ、午前8時に軍艦旗を掲揚、課業開始の整列をしていた。そこに、空襲警報が鳴ったんです。お客さんはグラマンか?
B-29か? などと言いながら、横穴防空壕にある診療室に駆け込みました。
敵機はB-29が2機とのことで、間もなく警報は解除になったんですが、そのうち、壕の中でもはっきりわかるほど、外が急に輝いた。大量のマグネシウムでも焚いたように思えましたよ。しばらくして、ズーンと、鼓膜を圧するような爆風が伝わってきました。
診療を終えて外に出ると、晴れ渡った空に黒々とした入道雲のような雲が見える。確かなことはわからないが、広島が大損害を受けたらしい。夜になって、司令部の情報将校のアメリカ生まれの中尉が、米軍の日本向け短波放送で、今日、広島に落とした爆弾は、『Atomic bomb』だと言っている、と教えてくれました。それで、あ、ついにやられたな、これは原子爆弾だぞ、と。
日本でも研究しているとうすうす聞いてはいましたが、敵に先を越されてしまった。絶望的なあきらめが、重く胸にのしかかるようでした」
梶原さんは翌朝、衛生兵2人を率いて広島に向かうが、市内の惨状は、3月の東京大空襲の再現のようであった。さらに8月9日には、長崎に原爆が投下される。
「呉にも広島の被爆者が運び込まれてきましたが、たいした火傷もないのに出血がひどく死ぬ人がいたり、母親に抱かれた無傷の赤ちゃんが急に死んだり、私たち医者の目から見ても不可解な症例が次々と見られ、原爆の恐ろしさを実感したものでした」
戦後は下町の「赤ひげ先生」となる
梶原貞信さん(2009年1月18日。NHK戦争証言アーカイブス『軍医が見た回天作戦』より)
やがて、終戦。梶原さんは、満州からの引揚船の船医となり、その後、墨田区で小さな医院を開業した。情に厚い梶原さんは、地元の人たちから、「赤ひげ先生」と呼ばれ、長く慕われていたという。4月の早慶レガッタには必ず応援に駆けつけ、また、戦友会や慰霊祭にも熱心に参加を続けた。
筆者が梶原さんと初めて会ったのは1998年。東京・青山の伊藤忠本社の地下レストランで、毎月第四木曜日に行われていたネイビー会だった。ここには、慶應義塾大学出身者を中心に、旧海軍の学徒士官が集い、昔話に花を咲かせていた。
梶原さんはこの会に欠かさず出席して、回天やボート部の思い出を語ったり、趣味のお茶を点てて仲間にふるまったりしていた。約10年、毎月のように会って話を聞くなかで、特に心に残った言葉がある。回天特攻隊でともに戦った戦友たちが高齢となり、訃報が続いた頃のこと。 「死ぬときは一緒、と誓い合った仲間が、寄る年波で次々と死んでいく。約束が違うじゃないか、といつも思う……寂しいよね」
――空襲で家を焼かれ、家族を失い、戦いで辛酸をなめ、忌まわしい思い出も多いはずなのに、青春の日、戦場で生死をともにした者同士の友情と結びつきは特別だった。その絆の強さは、平和な世で育った私たち戦後世代には想像もつかないものなのかもしれない。その梶原さんも、いまは亡い。
(※梶原さんの回天作戦中の貴重な証言は、NHKの戦争証言アーカイブスでも公開されています。 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi? das_id=D0001100507_00000)