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「売春しながら生活する中で客の男に妊娠させられた」生後間もない赤ちゃんをコインロッカーに遺棄 遺体を約2か月間持ち歩いた

2023年09月19日 23時03分59秒 | 事件と事故



「売春しながら生活する中で客の男に妊娠させられた」生後間もない赤ちゃんをコインロッカーに遺棄 遺体を約2か月間持ち歩いた


2022/09/13(火) 10:17:27.


「売春しながら生活する中で客の男に妊娠させられた」生後間もない赤ちゃんをコインロッカーに遺棄 遺体を約2か月間持ち歩いた母親「申し訳ない…罪悪感あった」

MBSNEWS 9/13(火) 8:48

 駐車場のコインロッカーに生後間もない赤ちゃんの遺体を遺棄した罪に問われている母親の裁判が始まり、母親は起訴内容を認めました。

 起訴状などによりますと、吉田絵里佳被告(28)は、今年6月大阪・日本橋の駐車場にあるコインロッカーに自身が出産した赤ちゃんの遺体をポリ袋に詰めて遺棄した罪に問われています。

 9月12日の裁判で吉田被告は起訴内容を認め、被告人質問で吉田被告は「売春をしながら生活する中で客の男に妊娠させられた」と話し、出産から約2か月間遺体を持ち歩いていたことを問われ、「子どもに申し訳ないとか罪悪感がありました」と答えました。

 弁護側は「望まない妊娠をさせられたことを考慮すべき」だとして執行猶予付きの判決を求めましたが、検察側は「遺体を適切に埋葬しなかったことを正当化する事情はない」として懲役1年6か月を求刑しました。





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勤の部屋を見てくれればわかる」宮崎勤逮捕直後、両親は息子の無実を訴えた…やがて取材で浮かび上がった宮崎家の歪んだ家族関係とは

2023年09月19日 22時03分13秒 | 事件と事故

勤の部屋を見てくれればわかる」宮崎勤逮捕直後、両親は息子の無実を訴えた…やがて取材で浮かび上がった宮崎家の歪んだ家族関係とは #2
9/17(日) 18:03配信


集英社オンライン
昭和・平成 闇の事件簿1~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件発生から35年~
宮崎勤・元死刑囚


昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、逮捕直後に訪れた宮崎勤の部屋、宮崎家の歪んだ家族関係について、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。


【画像】写真誌記者(当時)が撮影した宮崎勤・元死刑囚の自室ほか


「息子はあんな事件を起こすような男ではない」
「八王子市内でわいせつ事件を起こした五日市町の男が、Dちゃん殺害を自供」


平成元年、1989年8月10日。この日から所属していた編集部の夏休みが始まり、わたしは家族を車に乗せて奥多摩湖に向かっていた。


奇妙な縁だが、4人目の被害者Dちゃんの頭部が発見された杉林脇の吉野街道を走行していたときに、カーラジオから臨時ニュースが流れた。心臓がばくついた。わたしは車を急転回させて、西多摩郡五日市町(現・あきる野市)へ急いだ。


自供した男の名前も住所もわからない。とりあえず五日市警察署へ向かうと、署員全員がテレビの画面を見つめていた。名刺を出すと、「うちの署は事件とは関係がないので何もわからないが、自宅はあそこだよ」と清流・秋川の対岸を指した。


Dちゃん殺害を自供した宮崎勤の実家は週刊「秋川新聞」を発行している印刷会社だった。 炎天下の昼すぎ、すでに数人の報道陣が勤の両親を囲んでいた。


家族旅行中だったわたしはランニングに短パン、サンダル姿だった。裏口から入ると、「こいつは誰だ」という視線が一斉に飛んできた。旧知の新聞記者が手招きしてくれたお陰で、なんとかマスコミと認知された。


印刷機が並ぶ工場奥の居間で、頭髪をポマードで固めた艶っぽい父親(当時59歳)と小柄な老婦人がちょこんと座って、記者からの質問に答えていた。わたしが勤のおばあさんだと思ったその女性は、母親(当時55歳)だった。それほど夫妻の見た目には差があった。


「子供のころはコツコツやるタイプで努力家だった。他人との付き合いに欠けていたので町の消防団を勧めたのだが……。息子は物静かで大人しい性格。あんな事件を起こすような男ではない。夜、出歩くこともないし外泊もない」


父親は勤の人柄を語った。記者たちは“今田勇子”が被害者宅に送ったメモについて質問した。


「私のワープロ、コンピューターに勤は手をつけていない。インスタントカメラやビデオカメラもない」


わたしは「家族で幼女殺害事件が話題にならなかったのか」と聞いた。


「一切ない」


苛立った表情の父親は、きっぱり答えた。


「趣味はアニメのビデオ収集。勤の部屋を見てくれればわかる」

マスコミ的に“おいしいブツ”がまったくなかった
母屋の裏に、渡り廊下でつながった子供部屋があった。部屋は3室あり、西側の角部屋が勤の部屋だった。父親の了解を得た記者たちは、勤の部屋に足を踏み入れた。続々と取材陣が集まっていた。


大型テレビと4台のビデオデッキ。8畳の部屋の窓と壁がビデオテープで覆いつくされていて薄暗い。『リボンの騎士』『ゲゲゲの鬼太郎』など、さまざまなジャンルのアニメ作品が並んでいた。


記者たちのあいだでビデオテープの数を「2000本ぐらい」と見積もったが、その後、6000本近くあったことが判明した。


敷きっぱなしの布団の甘酸っぱい臭気が鼻をついた。積み重ねられた段ボール箱には「メンコ」「カード」と書かれていた。のちに「オタク」と表現されたが、わたしは26歳にもなる男の収集の子供っぽさに唖然とした。


床には少女雑誌やビデオ雑誌などが多数散乱し、その下にエロ漫画『若奥様のナマ下着』があった。それをひょいと抜き出したテレビカメラマンは、散乱した雑誌の上に乗せ撮影した。


性犯罪者の“いい画”を撮るための演出である。マスコミ的に“おいしいブツ”が、ほかにはまったくと言っていいほど部屋にはなかったのだ。


唯一、幼稚園の入園案内パンフレットがロリコンを連想させたが、部屋の中には女性が写っているテニスクラブのパンフレットもあった。この男は幼女だけでなく、“オンナ”に興味があるのだ、とわたしは確信した。


工場にはドイツ製ハイデルベルクの印刷機や活版印刷機があり、インクの油っぽいにおいが漂っていた。勤が生まれる前から働いているという工場長に話を聞いた。


「仕事中に『この事件の犯人は極刑だな』と勤くんに話しかけたら、なんの反応もなく聞き流していた。彼が関係あるのが、信じられない」


わたしは「このなかに勤が写っているか」と宮崎家の家族写真を工場長に確認したが、「いない」と言下に否定された。


「勤のおじいさんは女工さんに手を付け……」
「おまえたち、何をやっているんだ!」


ほどなくして駆けつけた警視庁の捜査官に報道陣全員が追い出されるまでの60分間は、重大事件の容疑者の自宅を捜査前に取材するという奇跡に近い体験だった。


家族旅行中だったわたしは、何度か利用したことのあったバンガローに家族を押し込め、ランニングと短パン姿で2日間にわたって五日市町を駆け回った。偶然だが、そのバンガローのオーナーの長男は勤の中学の同級生だった。バンガローの目と鼻の先には、勤の母親の実家もあった。


取材で浮かび上がったのは、宮崎家の歪んだ家族関係だった。祖父の代から宮崎家は絹織物業を営み、最盛期には女性従業員が十数名働いていたという。近所の主婦が内情を語ってくれた。


「勤のおじいさんは女工さんに手を付け、孕ませた子が何人もいました。おばあさんはおじいさんの悪口を近所に触れ回り、いがみ合うふたりの仲は有名でした。PTA会長をやっていた勤のお父さんも役員の女性と噂になっていて、奥さんと喧嘩が絶えなかった」


印刷業が忙しくなった両親は、従業員や祖父に勤を預け、生まれつき障害があった勤の手の治療も行わなかった。


慕っていた祖父が1988年5月に他界すると、勤は祖父の愛犬ぺスの鳴き声を録音したテープレコーダーを祖父の遺体の耳元に近づけ、スイッチを入れた。のちに勤はこう供述している。


「眠っている感じなので目を覚まそうと思った。おじいさんは見えなくなっただけで、姿を隠しているのだ」


火葬場から持ち帰った祖父の遺骨を、勤は食べた。逮捕後の取り調べでDちゃんだけでなく、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃんの殺害も自供した勤は、最初の被害者Aちゃんの遺骨を食べた理由を「焼いて食べて、おじいさんに送って、蘇らせたい」と語っている。


骨を食べる行為は蘇生の儀式だったのだろうか。大好きな祖父の死によってスイッチが入った、とわたしは見る。一連の幼女殺害事件が始まるのは、祖父の死から3か月後のことである。


#3に続く






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1500万円の退職金を元手に居酒屋経営。1年で破綻したワケは「客の意識の低さ」

2023年09月19日 20時03分28秒 | 雇用と職のこと
1500万円の退職金を元手に居酒屋経営。1年で破綻したワケは「客の意識の低さ」――転職のその後トップ5

https://nikkan-spa.jp/1941648?cx_clicks_pickup=1_title#cxrecs_s





山田剛志(清談社)
バックナンバー


早期退職やリストラに倒産……40代50代で人生が激変した人がいる。今回は50歳前後で転職した人たちのその後を取材、反響の大きかった記事ベスト5を発表する。第2位はこちら!(集計期間は2018年1月~2022年12月まで。初公開日2021年9月14日 記事は取材時の状況です)

 *  *  *


上場企業の管理職を捨て、居酒屋経営に




居酒屋
大手企業を脱サラ後、趣味の居酒屋巡りが高じて居酒屋経営へ。オープン時、こだわりぬいて仕上げた自らの店の前で


 上司の顔色を窺い、部下のパワハラ糾弾に怯える毎日。そんな生活からの脱出は、全サラリーマンの悲願だ。47歳のときに上場企業の管理職を捨て、居酒屋経営に飛び込んだ児玉謙次さん(仮名・54歳)は嘆く。


「もともと居酒屋巡りが好きで、日に日に自分の店を持ちたい思いが強まっていくなかで人事異動があり、傘下の集客施設内に新しい店を立ち上げるプロジェクトを任されたんです。『脱サラの練習をせよ』と神様がプレゼントしてくれたように感じましたね」






退職金1500万円+借入金1000万円で開業




 張り切った児玉さんは、地方の名酒を取り寄せるなど、個性的な店づくりに励み、好調な売り上げを残した。この成功体験で、飲食店を切り盛りする才能を確信。知人の居酒屋で2か月修業し、退職金1500万円と銀行融資1000万円を元手に、東京都下に約16坪の大衆居酒屋を構えた。


居酒屋
スケルトンの店を借りると、外装、内装とも手を抜かずに一から作り上げた


「融資はすべて内外装費につぎ込み、食材にもこだわったため、損益分岐点は月商170万円。ところが初月は120万円しか売れず、さらに翌月は100万円を割る始末。虎の子の退職金がみるみる減っていくのは本当にツラかった」




なにより負担だったのが……




居酒屋
児玉さんの郷土料理「いるかのたれ焼き」。物珍しすぎたのか注文する客は、偵察に訪れた同業者ばかり


 そしてなによりの負担が接客だ。


「おいしい料理でお客さんを笑顔に、なんて思っていましたが、来る客は今までの大企業サラリーマン人生では接したことのないような人ばかりで、大変なストレスでした。


『お前、こんな店やめてラーメン屋をやれよ』とか、とにかく説教をしたがる客が多い。故郷から取り寄せた珍しい食材を使ったこだわりの料理は見向きもされず、フライドポテトや焼き鳥のようなありふれたメニューばかり注文が入る現実にもうんざりでしたよ」


居酒屋
郷里の漁港から仕入れた「まぐろのしっぽ焼き」を出すと客からは「店頭でまぐろの頭を焼け」と散々



1650万円の赤字とともに幕を閉じた脱サラ




 心が折れた児玉さんは、1年ほどで閉店を決意。退職金のうち800万円を溶かしていた。1000万円をかけた店の造作は、買い手はついたが足元を見られてわずか150万円での処分。結局、児玉さんの脱サラは、1650万円の赤字とともに幕を閉じた。


 会社にいたほうが楽だったか。


取材・文/山田剛志(清談社)







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宮崎勤によって人生を狂わされた人々の“その後”。「あの事件以来、家族関係がゴタゴタして…。こうなったのは誰のせいですか?

2023年09月19日 11時03分21秒 | 事件と事故

宮崎勤によって人生を狂わされた人々の“その後”。「あの事件以来、家族関係がゴタゴタして…。こうなったのは誰のせいですか?」#3(集英社オンライン) - Yahoo!ニュース 




宮崎勤によって人生を狂わされた人々の“その後”。「あの事件以来、家族関係がゴタゴタして…。こうなったのは誰のせいですか?」#3
9/18(月) 18:02配信


集英社オンライン
昭和・平成 闇の事件簿1~東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件発生から35年~
集英社オンライン


昭和から平成にかけて日本中を震撼させた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の発生から35年が経った。4人の幼い少女の命を奪い、“日本犯罪史上最悪の殺人鬼”とも言われた宮崎勤・元死刑囚とは何者だったのか? 本稿では、公判での宮崎勤の言動、死刑執行までの被害者家族の苦悩などを、写真週刊誌記者として事件を追い続けた小林俊之氏が振り返る。(全3回の第3回)


【画像】写真誌記者(当時)が撮影した宮崎勤・元死刑囚の自室ほか


初公判で繰り返した不可解な言動
1990年3月30日、東京地裁で初公判が開かれた。注目の裁判は毎回、一般傍聴席を求めて長蛇の列となる。わたしは親交のある週刊誌や地方紙の記者から余った券を譲り受け、宮崎勤の公判を何度か傍聴した。


勤は初公判で捜査段階での供述を一転させ、不可解な言動を繰り返した。


「覚めない夢の中にいた気がする」


「ネズミ人間が現れて何がなんだかわからなくなり、気がついたらマネキンのようなものが落ちていた」


小太りの青年は突然、「ネズミ人間」の出現を語った。わたしの頭は混乱した。公判中、勤は鉛筆をくるくる回し、時には居眠りをしているようにも見えた。


――遺体にシーツを掛けた理由は。
「おじいさんの復活の儀式をやった。周りをゆっくり歩いて、じいさんを蘇らせたかった」


――現場で遺骨を舐めたか。
「ええ」


――添い寝したか。
「はい」


――どのように。
「脇に仰向けになった」


――時間は。
「3分」


――なぜしたのか。
「わからない」


小声のロボットと対話をしているような単調な繰り返しで、リアリティが欠落していた。


「『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました」
公判は2度目の精神鑑定のため中断されたが、1995年2月2日、1年11か月ぶりに再開された。


その頃、被害女児Aちゃんの父親が心中をわたしに語ってくれた。


父親は若い頃は銀座で油絵の個展を開くほどの才能の持ち主だったが、プロにはならずに設計士の道を歩んだ。その彼を十数年ぶりにキャンバスへと向かわせたのは、夢の中のAちゃんだった。


「平成元年1989年の暮れ、Aの誕生日前後に『お父さん、私の絵を描いて』と夢の中で懇願されました。初めは4歳当時の肖像でしたが、その後、絵を描くたびに娘はどんどん成長していくのです。叶うなら、亡くなった4人の子供たちの写真を借りて、『四姉妹』というタイトルで大きなキャンバスに絵を描いてみたい」


それまで淡々と心情を吐露していた父親は、荒ぶる心を抑えきれなくなったのか、語気を強めた。


「宮崎は逃げていると思う。あれだけの文章が書けるんですよ、1から10まで狂っているということはない。原因はやはり家庭なのです。当時は死刑を願っていたが、今はなんとも言えない。もちろん宮崎を許すわけではないし、対面したら私はどうなるかわかりません。しかし、私も歳をとって白髪頭になってしまいました」


1997年4月14日、東京地裁は第一審で死刑判決を言い渡した。勤は月刊誌に心情を綴った手紙を送った。


「(死刑は)何かの間違い。(4人の幼女は)今でも夢に出てきて『ありがとう』と言って喜んでいる」


死刑判決が出た後、わたしは事件関係者を訪ね、彼らの“その後”を取材した。被害女児Bちゃんの父親が心境を語ってくれた。


「死刑の判決は出たが、まだ調べることがあると聞いていたので、長くなるのは覚悟している。世間は事件を忘れているかもしれないが、当事者にとっては(宮崎勤が)死ぬまで終わらないのです。来年は娘の十三回忌。生きていれば成人式を迎える歳になるのです。


あの事件以来、家族関係がゴタゴタして3年前から女房とは別居しています。こうなったのは誰のせいですか。家庭が壊れても誰も補償してくれないでしょう。あれ以来、新聞(購読)もやめて事件を忘れようとしているのです」


もうそっとしておいてほしい――。父親の心の叫びだった。



周囲の人間が語る“その後”の宮崎家
勤が住んでいた西多摩郡五日市町は事件後、あきる野市に名称が変わったが、勤の実家の裏を流れる秋川は変わらず清く澄んでいた。近所の主婦の話。


「(宮崎勤の)お母さんは事件後、2、3年はここに来て、『迷惑をかけた』と近所を一軒ずつ回っていました。いつだったか、(宮崎勤の)お父さんが家に来て、いきなり玄関のたたきに土下座して、『申し訳ない』と泣いていました」


宮崎家と親しかったという男性が取材に応じてくれた。


「宮崎さんの噂はここ数年まったく聞かないね。事件から2年が経った頃に老人ホームに入っていたおばあさんが亡くなったし、お父さんは自殺。その弟(宮崎勤の叔父)も五日市町で印刷業を営んでいて、事件後に勤の家族を支えていたが、数年後に亡くなった」


勤の父親は1994年11月、地上32メートルの青梅市の橋から多摩川に身を投げて自殺した。享年65歳。働き者と評判だった母親は病気で倒れ、体が不自由になったが、勤に面会するため東京拘置所に通っていたという。


2000年から翌年3月まで東京拘置所で雑役係をしていた上地勝彦さん(仮名)が塀の中の勤を語ってくれた。


「私の仕事は食事の配膳や掃除が主ですが、頼まれた本なども運んでいました。宮崎はロリコン雑誌が多かった。舎房で読める本は何冊か決まりがあるが、宮崎は優遇されていたと思う」


勤はぶくぶく太り、頭は禿げ上がって、残っていた髪もボサボサだったという。


「メガネをかけていて、いつもトレーナーを着ていました。毎日牛乳が差し入れされていたから、週に一度はお母さんが面会に来ていたと思います」


死刑確定から2年4か月が経った2008年6月17日、刑が執行された。


精神鑑定で多重人格と判断された勤の言動を“詐病”だという識者もいる。勤は逮捕後、2冊の本を上梓しているが、それらは責任逃れの遁辞かもしれない。


しかし、その言葉は犯罪解明の第一級の資料ではなかったか。“宮崎勤事件”以後に起きた神戸連続児童殺傷事件、京都小学生殺害事件、秋葉原通り魔事件など、“理解困難な殺人”を解明するための原資――勤が次に語る言葉を抹殺する死刑執行は、少し早すぎたのではとわたしは思う。


2023年8月、わたしは10年ぶりに旧・五日市町を訪ねた。勤の実家の跡地は、以前は川遊びに来る人たちの車の駐車場として1日1000円で近所の住民が管理していた。現在、駐車場はきれいに整地され、「和み広場」の看板が立てられていた。近所の住民に話を聞いた。


「3、4年前に勤のお母さんが税金を払えなくなって、あきる野市に物納したんだ。今は老人のゲートボール場だよ。墓も荒れ放題で、いずれは墓じまいになるのでは。勤の遺骨をお母さんが引き取ったという話は聞いたことがない」


勤の逮捕直後、母屋での囲み取材に対応したのは父親で、母親は下を向いたまま何も語らなかった。最後に消え入るような声でぽつりとつぶやいた母親の言葉が、今も忘れられない。


「早く結婚してほしかった」


終わり


取材・文・撮影/小林俊之



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古い記事ですね!>日本のコロナは11月以降に消滅、第3波も来ない」説の根拠>2020

2023年09月19日 03時03分18秒 | 感染症のこと 新型コロナウイルス
>9/28/2020

3年前から改善?どころか、
確実にコロナ禍は悪化してますよね

どこもかしこも人、人、人──新型コロナウイルスが蔓延して以降、全国各地で久々の賑わいとなったシルバーウイーク4連休。新規感染者数も落ち着き、安心感さえ漂っている。

しかし、「第3波」が来るといわれる秋、冬はもう目前。感染再々拡大は本当に来るのか、それとも……。 【写真】9月10日、耳には2cmほどの金色のピアス、「防ごう重症化」「守ろう高齢者」のフリップを持つ小池都知事


 日本人はすでに新型コロナウイルスを克服した──。京都大学大学院特定教授の上久保靖彦さんが、吉備国際大学教授の高橋淳さんと3月に発表した、新型コロナウイルスに関する論文が、話題となっている。その内容を要約するとこうなる。 

「すでに多くの日本人は免疫を獲得しているので、新型コロナウイルスを恐れる必要はない」 「日本人は新型コロナを克服した説」の最大のポイントは「集団免疫の獲得」である。ウイルスに感染すると、体内の免疫システムが働いて「抗体」ができ、その後、同じウイルスに感染しにくくなったり、重症化を防いだりする。そうした抗体を持つ人が人口の50~70%を占めるとウイルスが人から人へ移動できなくなり、やがて流行が終息する。それが集団免疫だ。

  日本は各国と比べて新型コロナの感染者、重症者、死者が極めて少ない。「日本の奇跡」──世界からそう呼ばれる背景に集団免疫があると指摘するのが、感染症・免疫の専門家でもある前出の上久保さんだ。


 「新型コロナは最初に中国で弱毒のS型が発生し、その後に弱毒のK型、強毒のG型の順に変異しました。中国人観光客の入国によって昨年12月にS型が日本に上陸し、今年1月中旬にはK型がやって来た。しかも日本は3月8日まで中国からの渡航を制限しなかったため約184万人の中国人観光客が来日し、S型とK型が日本中に広がりました。それにより、日本人は知らない間に集団免疫を獲得したのです」  弱毒のS型とK型にセットで罹ることにより、その後に流入した強毒のG型の免疫になった──という理屈である。一方、2月初頭から中国人の渡航を厳しく制限した欧米では、K型が充分に広まらなかった。 


「そのため、中国・上海で変異した強毒性のG型が欧米に流入した際に防御できず、同地で重症者が激増しました。対する日本は集団免疫ができていたため、G型が流入しても被害が少なかった。私たちの試算では現在、日本人の85%以上が免疫を持っています」(上久保さん・以下同


上久保理論」を後押しするのが、免疫を獲得したことを示す「IgG抗体」を保有する人たちだ。 「私たちの共同研究チームが10~80代のボランティア約370人の抗体検査をしたところ、全員がIgG抗体を持っていました。ちなみにIgG抗体を持つ人でも、喉にたまたまウイルスがいればPCR検査で陽性になりますが、免疫があるため症状はほとんど出ません。最近目立つようになった無症状の感染者は、そうしたケースであると考えられます」  


この秋以降、新型コロナとインフルエンザの「ダブル流行」を心配する声もある。上久保さんが説明する。 「インフルエンザに感染したら、コロナウイルスには感染しません。逆もまたしかりで、この逆相関関係を『ウイルス干渉』と呼びます。実際、昨年末に新型コロナが流入してから、インフルエンザの流行はストップしました。 

 しかも、人間の細胞にくっついて影響を与えるウイルスの突起(スパイク)の変異可能な数は最大12~14回で、頻度は月1回ほど。新型コロナのS型が発生したのは昨年12月なので、早ければ11月にも最後の変異を終えて、普通のコロナウイルスに戻るとみられます。それはコロナウイルスの原則的なメカニズムと考えられることなのです。新型インフルエンザが流行しない場合は、新型コロナが11月以降に消滅して、第3波が到来することはないでしょう」  新型コロナは打ち止め間近だというのだ。


「ブースター効果」で免疫を強化する
 集団免疫のほかにも「コロナ克服」を示唆するさまざまな研究が出ている。アメリカと中国、香港の研究機関が9月に公表した共同研究では、世界各国における新型コロナ第1波と第2波の致死率を比較した。すると53か国のうち43か国で致死率が低下していた。医療経済ジャーナリストの室井一辰さんが説明する。 

「致死率低下の理由として、第1波で免疫力が低い人が亡くなったので第2波で亡くなる人が少なくなったという『弱者刈り取り効果』や、医療体制の整備、ウイルスの変異、若い世代の感染者増などがあげられています。論文は新型コロナの状況が明らかに変化したことを示唆しています」 


 注目は「ウイルスが変異した」という点だ。 「現在、流行しているのは、感染力が強い新タイプのウイルスです。一般的にウイルスは“覇権争い”をすることがあり、あるウイルスが流行すると、ほかのウイルスが圧倒される。現状、新しいタイプの新型コロナウイルスが広まったことで、致死率の高さが見られた旧タイプのウイルスが減り、致死率が全体的に下がった可能性が指摘されています」(室井さん)


国立国際医療研究センターの調査でも、6月5日以前は19.4%だった重症者の死亡割合が6月6日以降は10.1%に低下。特に50~69才は10.9%から1.4%に、70才以上は31.2%から20.8%と激減した。 「重症化しそうな患者に対する医療現場の対応力が向上したことも、致死率低下の一因でしょう」(血液内科医の中村幸嗣さん)  

日本では、1人の感染者がうつす平均人数を示す「実効再生産数」も低い。この数値が1以下になると感染が終息に向かっていくとされ、現在の実行再生産数は、東京以外は1を下回っている(9月22日時点)。米カリフォルニア大学アーバイン校准教授で公衆衛生学を専門とするアンドリュー・ノイマーさんが言う。 

「過信は禁物だが、日本の主要都市で実効再生産数が1を下回ったということは、日本は最高レベルの警戒が必要な状態ではなく、第2波のピークが過ぎたと言っていい。日本が諸外国と感染者数、死者数が抑えられているのはマスク使用率の高さにあると私は考えています。今後もしっかり感染予防を続けていけば、合併症による死亡例も抑えられるはずです」 

 アメリカのラ・ホーヤ免疫研究所が注目したのは「ヘルパーT細胞」だ。同研究所が世界的なライフサイエンス雑誌『セル』で発表した論文では、新型コロナ未感染者の血液の半数から、新型コロナを撃退する「ヘルパーT細胞」が検出された。簡単にいうと、既存のコロナウイルス、つまり普通の風邪に感染したことがある人も、新型コロナに対する免疫を獲得している可能性があるということだ。 「ほかにもBCG接種による自然免疫の増強や、実際に感染したことによる免疫の獲得などが絡み合うことで、新型コロナに感染する可能性が低下し、感染しても重症化しない割合が高まっています。引き続きマスク、手洗い、3密回避を行えば安心です」(中村さん) 

 最近は時短営業の終了やイベント制限緩和が進み、人の動きが活発化することを懸念する声もあるが、上久保さんは「ウイルスとの共存が必要」と指摘する。 

「何度も新型コロナに感染すると、免疫機能が強化される『ブースター効果』を得られます。抗体は時間とともに減少するので、一度感染しても隔離状態でいると免疫が薄れ、逆効果になります。高齢者や持病を持つなどリスクの高い人との接触には注意しつつ、普通の経済活動を再開することが、社会にとっても個人にとっても有益です」  

新型コロナウイルスを正しく理解すれば、恐ろしくないのだ。 ※女性セブン2020年10月8日号


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