緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

真夏の浜離宮庭園:大手門から延遼館跡地まで

2012年08月31日 13時07分13秒 | 城南・港区全域


8月中旬の真夏の平日、JR新橋駅の銀座口から海へ向かって道なりに進んでいきます。汐留シオサイトの高層ビル群の中を抜けて、首都高速都心環状線の高架橋の下を通ると、目の前に「浜離宮庭園」の広大な緑地帯の敷地が見えてきます。この日は東京都心部の気温は34度、日焼け対策や水分補給など万全の対策で散策していきます。




今回の浜離宮庭園の散策は、首都高速都心環状線汐留出入り口前の「大手門橋」を渡って敷地内に入り、芝生広場、お花畑、汐入の池・回遊式庭園の順に散策していきます。南門橋の銀座側には「古刹名勝及び特別史跡 旧浜離宮庭園入口」という、立派な石造りの案内板が設置されていました。




築地川に架かっている「大手門橋」を渡って敷地内へ進みます。この橋は浜離宮庭園の観光客を乗せた観光バスの駐車場になっているそうですが、この日は一台も止まっていませんでした。この橋は関東大震災後の大正15年(1926年)に、震災復興として新たに架け直されました。




大手門橋の橋上から築地川・下流側を撮影してみました。やはり、この季節は夏特有の匂いが立ち込めているので、先へ進むことにします。




「特別名勝」と「特別史跡」として国からダブル認定されている「浜離宮庭園」は東京都によって管理されています。一般300円、65歳以上150円で園内を散策することができます(小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)。




大手門橋を渡って枡方地形となっている門前広場を抜けると目の前に「大手門」が建っています。石造りの重厚な雰囲気の大手門の先には緑地帯の緑が広がっていて、セミの泣き声が至る所から聞こえてきます。橋から門にかけての枡方地形といい、江戸時代の城郭技術に共通した部分が多く見受けられます。




緑の住んでいる千葉県北西部の東京のベッドタウンでもあまり聞かなくなったセミの鳴き声に圧倒されながら敷地内に入っていきます。




振り返って大手門を撮影してみると、大きな石垣が門に沿って広がっています。「大手門」という名前は皇居にも同じ名前の門がありますが、この浜離宮庭園は徳川家宣が6代将軍になった際に、将軍家の別邸にして江戸城を守る役割でもある出城として造成されました。また、徳川家の「軍港」としての性格もあり、大名庭園がベースの割には城郭技術が多用されているのも、そのためなのです。




大手門の石垣の脇にあった管理事務所で300円を払って散策していきます。順路に沿って「迎賓館跡地」へ向かいます。




江戸時代初期のこの地は日比谷入江に程近い芦原でした。1654年(承応3年)に甲府藩主の徳川綱重がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てます。その後は甲府藩の下屋敷として使用されました。このため「甲府浜屋敷」、「海手屋敷」と呼ばれるようになります。




振り返ると汐留シオサイト「電通本社ビル」の巨大な建物がそびえ立っています。




綱重の子である徳川家宣が6代将軍になると、将軍家の別邸とされます。浜御殿と改称して大幅な改修が行われ、茶園、火薬所、庭園が整備されました。とくに徳川家斉と家慶の頃は、将軍の鷹狩の場でした。幕末には幕府海軍伝習屯所でもあったそうです。慶応2年に着工した石造洋館が明治2年に外国人接待所「延遼館」として竣工しました。




もともとは徳川の海軍の中枢として建設された「延遼館」は、明治維新後に迎賓館としての役割を担うことになります。明治時代にお雇い外国人として来日した「ジョサイヤ・コンドル氏」の設計によって改修された西洋風石造建築物で、面積1380平方メートルのコの字型建物だったと言われています。




現在はその跡地には芝生広場として整備されています。その奥には「汐留シオサイト」の高層ビルやタワーマンションが密集して建っています。




首都高速都心環状線の「汐留JCT」の文字の南側に架かっているのが「大手門橋」です。地図の中心点は「延遼館跡地」に設定してあります。

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真夏の東京駅:東京駅丸の内周辺の散策(4)

2012年08月30日 21時40分37秒 | 東京駅周辺


引き続き行幸通りの東端部から丸の内オアゾ前を経由して丸の内中央改札口へ向かいます。戦前の東京と下関・関門海峡を経由して朝鮮半島・満州を結ぶ高速鉄道計画「弾丸列車」の正式な後継者である「東海道新幹線」が、1964年(昭和39年)10月1日に開業し、東京駅が始発駅となります。その後、東海道新幹線ホームは順次増設されていくことになります。




1966年(昭和41年)に営団地下鉄東西線大手町駅開業に伴い、徒歩連絡を開始します。ただし同駅は1956年から丸ノ内線の駅として開業しており、東西線の駅の開業までは当駅から大きく離れていました。JRの東京駅から丸ノ内線の大手町駅まで歩くとなると、15分くらいは余裕でかかると思います。




撤去工事中のプレハブ小屋の奥には丸ノ内駅舎の妻切部と背後のグラントウキョウノースタワーが目立ちます。




1972年(昭和47年)7月15日に総武本線地下ホームが開業します。現在の「東京地下駅」と呼ばれている地下5階に位置している2面4線ホームです。これによって通勤ラッシュが激化していたJR総武快速線と横須賀線が直通運転を行うようになりました。




自動車輸送へのモーダルシフトなどの鉄道の輸送環境の激変、国鉄の慢性的な赤字体質解消にむけて分割民営化が議論され始めた1980年代、そして1987年(昭和62年)4月1日に国鉄分割民営化に伴い、東海道新幹線の駅はJR東海が、その他の国鉄線の駅はJR東日本が運営を継承します。丸の内駅舎はJR東日本が保有することになります。




日生丸の内ビル前から撮影した「JPタワー」です。逆光によって丸の内駅前広場側に貼り付けられている高性能遮熱断熱ガラスが真っ青になっていました。




1991年(平成3年)6月20日、それまで上野駅発着であった東北・上越新幹線が東京駅まで延伸し、東京駅が東北方面の長距離列車の始発駅となります。前年の1990年には京葉線の東京駅延伸工事が完成するなど変化がありました。




1998年の長野オリンピックの開会に合わせ1997年(平成9年)の暮れまでに長野新幹線を開業させることが決定します。1995年(平成7年)に中央快速線専用高架ホームが完成、山の手・京浜東北・東海道線のホームを丸の内側へ一列づつ移動させ、空いたスペースに長野・上越新幹線ホームを建造しました。




丸の内オアゾ前に戻ってきました。このあと中央改札口へ向かいます。




東京ステーションホテルの正面玄関脇にある「丸の内中央改札口」です。工事用資材置き場のエリアを工事用の仕切り板で区切った歩行者用通路を歩いて入場することができます。




創建当時の装飾が見事に復元されてる北・南ドームと比較すると、内部は「普通」といった雰囲気ですね。




宇都宮線「湘南新宿ライン」において遅延が発生していたとのことでした。千葉方面は異常なし!でした。




東海道山陽・東北・上越の各新幹線の案内表示版もフルカラーLED方式で表示されています。




照明が幾分暗すぎやしませんでしょうか?




天下の東京駅の中央改札口!!! その自動改札機の数は何と3台!!! ・・・まぁ、こんなものなのかもしれませんね。通勤ラッシュの時間帯でもここの改札口を利用する人の数は本当に少ないそうです。駅から丸の内のオフィス街へ向かうビジネスマンの人たちは、北口や南口、地下の丸の内地下中央改札口を使う割合が多いそうです。



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上野の森美術館「ツタンカーメン展」の入場者数が100万人を突破したそうです。

2012年08月29日 15時32分37秒 | 台東・上野周辺


2012年8月3日 東京ウォーカーより引用

3月17日より大阪天保山特設ギャラリーで公開され、記録的な動員となった「ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」。関西ではあまりの人気に会期が予定より約1か月延長され、来場者数93万3130人を記録したという“お化けイベント”だ。同展がいよいよ8月4日(土)より、東京・上野の森美術館に上陸!オープニングセレモニーでは「東京は、日本美術史上最多の記録を作るのでは」と株式会社フジテレビジョン代表取締役会長日枝久氏も力を込めた。早速、編集部では、ひとあし先にプレス内覧会へ。その人気の秘密を探ってきた。

同展は、2004年スイス・バーゼルを皮切りにボン、ニューヨーク、ロンドン、メルボルンなど世界各都市を巡回し、1000万人以上という驚異的な入場者数を記録した話題の展覧会。この世界的な巡回も、いよいよ東京が最後となり、さらなる注目が集まっている。

「今回、世界各国を巡回してきて、日本の東京・上野の森美術館がラストとなります。東京で開催されるのは、1965年に開催され、日本美術展史上・最多入場数を記録した“ツタンカーメン展”から47年ぶり。この後は、エジプト考古学博物館(カイロ博物館)へ戻り、新設されるグレートクエロミュージアムに返却されるため、今後、貸し出しされることはないと思われます」と同展スタッフ。日本では、もう一生見ることはできない(!?)展覧会なのだ。歴史的にも貴重であり、まさに一生に一度見られるかどうかという展示品の数々は見逃せない。

また、世界最大のミステリーに触れることができるというのもポイントが高い。古代エジプト第18王朝のツタンカーメン王は、なんと9歳で即位し、19歳の若さで死亡したと推定されており、ほかの王墓が盗掘されていたにもかかわらず、ツタンカーメン王墓はほとんど完全な形で副葬品が残っていたこと、発掘にかかわった人々が次々と謎の死をとげたことなどから“20世紀最大のミステリー”と呼ばれ、注目されているのだ。

近年、この少年王ツタンカーメンの謎が、科学と考古学の融合によって解き明かされているとのことだが、世界的なエジプト考古学者ザビ・ハワス博士は、CTスキャンやDNA鑑定によって、ツタンカーメン王の健康状態、死因、死亡年齢、親子関係など、今まで仮説の域を出ることがなかった真実が明らかにすることに成功。今回の展覧会も、3000年以上のミステリーが解き明かされて行く面白さを加えた、斬新で画期的な内容となっている。

今回、展示されるのは「ツタンカーメンの黄金のカノポス」(ツタンカーメンの内蔵が保管されていた器)をはじめ、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、ツタンカーメン王墓から見つかった副葬品約50点など、日本未公開の展示品を含むエジプト考古学博物館(カイロ博物館)所蔵の122点。是非ともお見逃しのないよう!【東京ウォーカー】


2012年8月14日 東京ウォーカーより引用

東京が“エジプト”ブームに沸いている。上野の「ツタンカーメン展」と六本木の「大英博物館 古代エジプト展」が同時期に開催され、いずれも多くの来場者で盛り上がっているのだ。この夏の東京のアートシーンを牽引する“2大エジプト展”の魅力を紹介しよう。

まずは上野の森美術館にて開催されている「ツタンカーメン展」。12月9日(日)まで開催中の同展覧会は、先に開催された大阪では会期中に93万人が来場した行列必至のイベントだ。東京でも初日となる8月4日には、開場前に500人を越える行列ができ、開場時間を早める措置が取られた。また、公式HPで会場の様子をつぶやく“イマつぶ”サービスでも、8月13日は15時前後に当日券販売の終了が告げられるなど、ますますの盛り上がりが見て取れる。

それもそのはず、この展覧会、東京での開催は47年ぶりとなるのだが、前回1965年には今なお日本美術展史上・最多入場数となる約295万人の来場者数(東京、京都、福岡を合わせた総入場者数)を記録している、まさしく“黄金の展覧会”なのだ。

もちろん内容もゴージャス。元エジプト考古大臣のザヒ・ハワス博士監修のもと、「ツタンカーメンの黄金のカノポス」(ツタンカーメンの内蔵が保管されていた器)をはじめ、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、日本未公開の展示品を含む122点の遺物や最新の研究結果を惜しげもなく公開。3300年前に存在した古代エジプトの少年王・ツタンカーメンのなぞに迫っている。長さ2m以上の黄金の棺など美術品としても優れた展示物が多く、行列覚悟で“一見の価値アリ”だろう。

次に六本木。こちらは森アーツセンターギャラリーにて9月17日(祝)まで「大英博物館 古代エジプト展」が開催中なのだが、こちらも8月8日(水)に来場者数が10万人を超える人気ぶりとなっている。

同展の見どころは、大英博物館の所蔵品約180点によってひも解かれる、古代エジプトの人々が信じた「死後の世界」。来世への旅路に役立つようにと作られたさまざまな「死者の書」など、貴重な遺物が公開されている。

この「死者の書」は、死者が来世へたどり着けるように作られたいわゆる“ガイドブック”。なんと約37m(!)もある世界最長の死者の書「グリーンフィー ルド・パピルス」などを通じて、古代エジプトの人々の想像していた“死後の世界”について学ぶことができるのが、同展の魅力だろう。

骨太な内容で東京に“エジプトブーム”を巻き起こしている2大展覧会。この夏は東京で3300年前の古代エジプトミステリーに触れてみてはいかがだろう。【東京ウォーカー】


2012年8月18日 東京ウォーカーより引用

東京・上野の森美術館にて開催されている「ツタンカーメン展」。先に開催された大阪会場では会期中に93万人が来場した行列必至のイベントだ。開幕以降、来場者は伸び続け、8月13日から15日までのお盆期間中も3日連続で1万人超えを記録、入場まで最大5時間待ちという盛況っぷり。こうくると、暑いなかの行列は辛いと思ってしまうが、ご安心あれ。同展では、混雑状況により入場整理券を発行。屋外で長時間の待ち列に並ばず、入館までの待ち時間を有意義に過ごせるのだ。

【写真を見る】「チュウヤの人型棺」。あまり見つめると吸い込まれるほどパワーがある!?

お盆シーズン平日初日の8月13日にも、8時25分のオープン直後より瞬く間に長蛇の列が伸び、8時45分より整理券の配布を開始。30分につき450枚配布した整理券は、僅か10分程のペースでさばけて、昼過ぎには最大5時間先の整理券を配布する状況だったそうだ。また、お盆期間中に開館時間が延長されていたが、あまりの人気で(!?)、8月中は9時から18時(最終入場17時)までとその後の延長も発表されている。夏休み中に予定している方は是非ともオープン時間を狙ってみよう!

この展覧会、東京での開催は47年ぶりとなるが、前回の1965年には今なお日本美術展史上最多入場数となる約295万人の来場者数(東京、京都、福岡を合わせた総入場者数)を記録、まさしく“黄金の展覧会”だ。

今回は、元エジプト考古大臣のザヒ・ハワス博士監修のもと「ツタンカーメンの黄金のカノポス」(ツタンカーメンの内蔵が保管されていた器)をはじめ、ツタンカーメンのミイラが身にまとっていた黄金の襟飾りや短剣など、日本未公開の展示品を含む122点の遺物や最新の研究結果を公開している。3300年前に存在した古代エジプトの少年王ツタンカーメンの謎を迫っているので、ミステリー好きも見逃せない!【東京ウォーカー】




インターネットのニュースで現在上野の森美術館で開催されている「エジプト考古学博物館所蔵 ツタンカーメン展」の入場者数が100万人を突破したというニュースが先日見ました。その時は「へぇ、そうなんだ」と流したきりでしたが、先日東京へ出かけた帰りに上野による機会があったので、その時に写真を撮ってきました。




以前に特別展を観覧した時には無かった案内板が新たに設置されていました。確かに上野の森美術館周辺は散策道や広場が入り組んでいるので、初めて来たお客さんたちは迷ってしまうことが多いと思いますので、これがあると便利ですね。




緑が8月中旬に観覧した時はもっと人の出が多かったと記憶していますが、この日も結構な混み具合でした。当然のように入場整理券の配布が実施されていました。

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真夏の東京駅:東京駅丸の内周辺の散策(3)

2012年08月29日 14時46分38秒 | 東京駅周辺


工事用の資材置き場の仕切り板に沿って造られている歩行者用通路を中央改札口方向へ向かって歩いていきます。正面に見える北ドームの建屋の中には「びゅうぷらざ」や「JR EAST TRAVEL SERVICE CENTER」などの施設が入る予定となっていて、現在内装工事が行われています。




工事用仕切り越しに撮影した中央改札口が入っている建屋です。「東京ステーションホテル」の正面玄関も併設されます。1889年(明治22年)に神戸まで全通した官営東海道本線の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決されます。




1907年(明治40年)3月15日に基礎工事が着手され、3年後に現在の東京駅の北側に仮駅としての「呉服橋駅」が開業します。 この駅は4年間使われていましたが、中央停車場(東京駅)の開業とともに廃止されました。




北ドームをズームで撮影してみると、丁度背後に「サピアタワー」が映っていました。日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月18日に開業しました。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され「東京駅」と名付けられます。




開業当時の東京駅は新橋駅から始発駅として延伸された東海道本線と、後の京浜東北線となる京浜電車の起点駅となりました。その後の大正時代の内に中央本線と東北本線が乗り入れることになります。




タクシープール前から撮影した「行幸通り」ですが、相変わらず人通りが少ないです。




昭和時代に入った1929年(昭和4年)には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していきます。明治時代の東京駅周辺は「三菱が原」と呼ばれるような荒地でしたが、東京の都心部としてビジネス街の雰囲気を持つようになります。




大平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内本屋の降車口付近に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われます。




行幸通り脇から撮影した丸ノ内駅舎、グラントウキョウノースタワーが背後にそびえ立っています。




同年8月の終戦直後から修復体制を整えて計画を立案し、年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事を行ったので、ほぼ現在の外観になりました。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原、南北両ドームは丸型から台形に変更、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などは2階建てになっても忠実に復元、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更、といった内容でした




横断歩道を渡って行幸通りを突っ切っていきます。




丸ノ内駅舎の焼失ばかりが話題になりますが、八重洲口側も焼失被害を受けています。1948年(昭和23年)にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工しましたが、翌1949年(昭和24年)に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)に駅舎が建て替えられ、八重洲本屋が完成しました。八重洲口はその後も順次改築されて百貨店が出店し、地下街が拡がるなど賑やかになってゆきますが、丸の内側はレンガ造りのままでした。




行幸通りの東端部から撮影した丸の内駅舎です。丸の内駅前広場周辺は意外と交通量が多く、車列が途切れた瞬間に撮影してみました。




1988年(昭和63年)、政府は学識者の委員会による東京駅周辺地区再開発構想を取りまとめ、赤レンガ駅舎の現在地での形態保全の方針を決定し、JR東日本などの検討により1999年(平成11年)、本来の形態に復原することとなりました。また、2003年(平成15年)には国指定の重要文化財に指定された。この駅舎を保有しているJR東日本にとっては、この駅舎の復元工事は、旧国鉄時代の総決算の意味もあるのだと思います。




7月に撮影した「夏日の東京駅」の記事と同じようなアングルの写真が多いですが、今回の散策で一番大きな変化が工事用プレハブの撤去されたことです。工事用プレハブ小屋の南側部分が鉄骨のみ残されている状態になっていました。



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真夏の東京駅:東京駅丸の内周辺の散策(2)

2012年08月28日 22時13分25秒 | 東京駅周辺


丸の内南口交差点から丸の内駅前広場前の高層ビル群を撮影してみました。左側のビルが2007年4月に開業した「新丸の内ビル」、右側のビルは2004年9月に竣工した「日本生命丸の内ビル」です。その北側は大手町の地域の高層ビル群が密集していて、現在でもタワークレーンが林立するなど工事が進められています。




最近東京駅の丸の内の駅前広場へ行くと、資材置き場となっている広場の中でクレーン車が起動している様子をよく見かけます。駅舎自体がない走行時に行こうし、いよいよ駅前広場の整備が本格的に始まったのかもしれません。




「東京中央郵便局」「ゆうちょ銀行」の新しい看板が設置してありました。




JPタワー前の路線バス乗り場から撮影してみました。丸の内の南口前の乗り場からは豊洲埠頭や晴海埠頭、等々力駅前方面などへ路線バスが運行されています。




交差点前から撮影した丸ノ内駅舎の南ドームです。新しく付け替えられた軒下の屋根がほぼ完成しかかっていて、周囲を歩いている歩行者たちと比較すると、その大きさがわかります。




新丸ビルと日生丸の内ビルの間をズームで撮影すると大手町の「三菱UFJ信託銀行本店ビル」と「丸の内永楽ビル」の高層ビルが見えます。




真正面から撮影した「日本生命丸の内ビル」です。「丸の内1丁目1街区開発計画」の中では一番高異高層ビルで160メートルあります。




丸の内駅舎全体を撮影してみました。




ズームで撮影してみると、大正時代の創建当時のモダンチックな雰囲気を味わうことができます。




見事に再建された南ドームです。ドーム内の装飾なども当時の資料をもとに復元されています。




ズームで撮影してみると、ちょうど背後に「グラントウキョウノースタワー」の頭頂部が映りました。




横断歩道を渡ってもう一度南ドーム前へ戻ってみます。駅前周辺の道路もきれいに整備されています。




南ウイング部方向を見てみると、八重洲口側に建っている「グラントウキョウサウスタワー」が見えました。




再び資材置き場に沿った散策道を歩いて中央改札口方向へ向かいます。この位置からよく見えた工事用のプレハブ小屋が解体されかかっています。




プレハブ小屋がなくなると、やはり駅前広場全体が広々としたように感じられます。



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