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日本に逃れてきた難民の人権を守れ!

2018年11月09日 | 社会・経済

難民は犯罪者ではない、施設に長期間収容していいのか?

樫田秀樹  (ジャーナリスト)

  imidas時事オピニオン2018/11/09

 

   ここは刑務所以下です。刑務所なら何年収監されるか予めわかりますが、ここではそれが一切わかりません。私は何か悪いことをしたのでしょうか。ただ難民認定申請をしただけなんですよ」――もう2年11カ月も収容されているイラン人のMさんのアクリル板の向こうから訴える声は悲痛だ。

   今年(2018年)10月3日、私は茨城県牛久市にある法務省の「東日本入国管理センター」を訪れ、長期にわたって収容されている数人の外国人にアクリル板越しの取材をした。

 

日本へ難民認定を申請した人の置かれた状況とは

 日本にはこのような難民申請中の人や在留資格のない人などを収容する施設が、牛久のほかに長崎県大村市に大村入国管理センターがあるほか、短期に収容する施設は15カ所(入国管理局8カ所とその支局7カ所)ある。

  ここ東日本入国管理センターには、不法滞在とされる342人の外国人男性が収容され、うち難民認定申請者は242人(2018年2月26日時点)。そのほとんどが年単位で収容され、いつ放免されるかはまったくわからない状態に置かれている.

 Mさんはイラン人。母国で反政府運動をしていたが、自分の身に危険が迫っている情報を得ると、すぐにヨーロッパへ逃げた。そこで落ち着き先を考えたときに思い浮かんだのが「日本」だった。

 「中東ではいつも戦争や内紛、弾圧があります。私にとって日本は、安全で、戦争をしていない国というとてもいいイメージを持っていました」

  渡航資金を工面し、日本の観光ビザを得ると成田空港まで飛んだ。Mさんは成田空港での入国手続き時に正直に「難民申請をしたい」と訴えた。すると、入国管理局は、観光目的ではなかったとして観光ビザを取り消し、Mさんは「在留資格」を失った。ただし、本人が「難民です」と言っている以上は強制退去させるわけにもいかず、本当に難民かを判断するまでの間ということで、Mさんを即、牛久の東日本入国管理センターに送った。

  難民申請者を強制退去させられないわけを、難民支援協会(東京都千代田区)広報部チームリーダーの野津美由紀さんに取材した。日本も加入している、難民の保護を目的とした国際条約である「難民条約」(難民の地位に関する条約)で、締約国は、ひとたび受け入れた難民認定申請者を迫害の恐れのある国へ移すことができないとしているからだ。

 Mさんはここで1年2カ月を過ごす。

   その後、入国管理局は、Mさんを難民とは認めなかったが、日本国内で保証人と住所とが決まったことで、Mさんを「仮放免」した。

   日本では、不法滞在をしている外国人には、母国に帰国するまでの収容が原則となっている。だが、体調悪化や収容長期化などの情状を酌量し、保証人と保証金が用意できれば、暫定的に収容を解かれることがある。これが仮放免だ。

  だが、これはこれできつい。仮放免者は「就労が許可されない」し、「健康保険に入ることもできない」し、「居住する都道府県外への移動は事前申請が必要」だ。さらに、仮放免された人に子どもがいた場合、その子どもも「仮放免」での滞在と見なされ、通学はできても、将来、就職ができないという問題にぶつかる。

  人間、働かずには食べていけない。

  だからMさんはプラスチック生成工場でこっそりと働いた。しかしばれた。Mさんは再収容され、今、2回目の収容は2年11カ月にもなっている(2018年10月3日時点)。

   再びの仮放免はいつか? 入管の職員からもその類の情報はまったく入らないという。人生の先がまったく見えないことにMさんは希望を失いかけている。

  Mさんの話によれば、Mさんの恋人は、2014年にイランから逃げて渡米して難民申請をした。すると、その数カ月後には難民認定され自由な人間として生きている。Mさんは恋人に所内の公衆電話を利用して週に1、2度電話をするが、恋人は、犯罪を犯したわけでもないのにMさんが囚われの身となっていることをただ悲しんでいるという。逃げた国が違うだけで、恋人とはあまりに違う境遇。

 「日本は本当に難民にやさしい国だと思っていた。こんな扱いを受けるなら第三国に行きたいです。でも、その前にこの外に出たい。それがいつになるかまったくわからないんです」

 世界と比べ極めて壁が高い日本の難民認定

「正直者が馬鹿を見ます」

  こう語るのは前出の難民支援協会の野津さんだ。

   難民支援協会は1999年に設立以来、一貫して、来日直後に困窮状態に置かれている難民申請者の生活相談やシェルター(宿泊施設)の提供、医療支援、難民認定のための法的支援、そして日本の地域社会の一員として過ごせるよう自立を目指した就労支援やコミュニティー支援を展開している。2017年度は72カ国の人々に対して1349件の法的カウンセリングを実施し、19名への難民認定、1名への「人道配慮による在留特別許可」を得ることができた。

  「人道配慮による在留特別許可」とは、難民認定がされない場合でも、法務大臣の判断で、特別に滞在が許可される場合がある。最近の事例では、シリア出身の人々の多くが、本国の情勢が危ないことから、難民として認定されなかったものの人道配慮による在留特別許可をもらった事例がある。2017年で45人が認められた。

難民支援協会も牛久での面会を実施しているが、野津さんは日本の難民認定は極めて壁が高いと訴える。

   「観光ビザでそのまま入国し、在留資格の期限が切れる前に難民申請した人なら、「特定活動」という在留資格に切り替わり、認定されるかどうかの結果が出るまでは日本に滞在が許可されます。その間に私たちも含め支援する人とつながる可能性はある。でも空港で難民申請をしたいと申告し、そのまま入国管理センターに移送される人たちは、日本に知人がいないまま、日本語も話せず収容されてしまいます。そのため、仮放免のために必要な保証人や保証金を工面する上で極めて厳しい状況に置かれています」

 世界ではここ数年で多数のシリア難民やロヒンギャ難民などが発生。ヨーロッパでは、各国が数万人規模のシリア難民を受け入れた。だが日本では、2017年の難民認定申請者1万9628人に対して認定したのはわずかに20人(法務省入国管理局)。ほとんどの申請者は難民と認められず、人道配慮による在留特別許可を得た45人をのぞいて在留資格を失い、強制送還の対象となります。さらに難民申請の結果が出るまでに平均2年半、長い場合で10年近くかかるという。

 私はこの数に違和感を抱く。というのは、1970年代末、日本は、ベトナム、ラオス、カンボジアからのインドシナ難民を約1万1000人も受け入れた過去があるからだ。なぜ今難民を受け入れないのか。野津さんはこう説明する。

「インドシナ難民は日本政府も外圧で受け入れを決め、批判されない程度の人数を受け入れたんです。同時に、1981年、日本は『国連難民条約』を批准しましたが、問題は、インドシナ難民以降に難民をどう受け入れるかの方針を決めてこなかったことです。ただ、『偽難民を排除する』ことに力を割いているのが現状です。つまり、難民保護よりも管理を優先しています」

  その管理の象徴が入国管理センターだ。

国際的な条約として日本も批准した「国連難民条約」は、難民の保護や待遇などに関して取り決めたもので、1951年に採択され54年に発効した「難民の地位に関する条約」と、1967年に採択された「難民の地位に関する議定書」のことだ。日本は批准後の1982年に「出入国管理及び難民認定法」が成立しているが、難民を管理するという姿勢が強いものだ。

   前出のMさんも含め、難民はとにかく命を守るために生活基盤のあった地域や国から「逃げる」ことを優先する。その際、安全で、子どもがまっとうな教育を受けられる先進国へと願うのは当然であり、過去70年以上戦争をしていない日本に憧れる人は多い。だが、その日本でまさか長期間収容されるとは誰も想像していない。

 入国管理センターではどのような収容生活をしているのか?

   スリランカ人のPさんには、働いている日本人妻がいる。つまり、住所も保証人も有するのに、仮放免されないことが理解できない。

   Pさんはスリランカで反政府運動をしていたが、友人が何者かに殺されたことに危機感を覚え、2008年1月17日に来日した。生きるためにアルバイトをしていたが、2010年3月24日、オーバーステイがばれて入管に身柄を拘束された。仮放免されたのは2年半後の12年9月13日。その翌年に日本人女性と結婚する。

   その後、数カ月おきに仮放免を更新してきたが、17年10月の更新手続きの際、更新が認められずに即、東京都港区の東京入国管理局に収容される。Pさんはここで2回の仮放免申請をするが認められず、今年3月28日に牛久に移送された。ここでも2回の仮放免申請をするが、やはり理由を開示されずに仮放免は認められない。

 「もうストレスです」

  Pさんはくたびれている。「見てください」と頭を下げた。頭頂部に頭髪がない。

 「ここでは毎日同じ生活です。おなかが減るから食べるだけで、食事らしい食事とは言えません。ビールだって飲めません。いつ出られるのかもわからない不安で夜も寝られない。髪も抜けるし、ここでは私、動物よりも下の扱いです。なぜ仮放免が認められないのか、その理由すらもわかりません」

   Pさんはこれまでに3年半を被収容者として過ごしている。この失われた3年半を取り戻すことは誰にもできない。

「仮放免は簡単には出してもらえません」

   こう断言するのは、この入国管理センターに2年8カ月もの長期にわたって収容されていた韓国人の金毅中(キム・イジュン)さんだ。現在、仮放免中の金さんは同じような苦しみを味わう仲間を支援するために毎週のように面会行動を実施している。金さんはこう証言する。

 「私が収容されていたのは2010年頃ですが、当時は仮放免申請の結果が出るのはだいたい60日後が多かった。でも、今では75日が多く、ひどい人だと100日超えもあります」

   入国管理センターは刑務所ではないから、収容者に作業させることはない。差し入れのテレフォンカードで外に電話をすることもできる。だが、人によって強いストレスになるのは、6畳間の和室に5人が住むことだ。

 「それも、国籍も、宗教も違う人たちです」

  自由時間は9時20分から11時40分と13時から16時半まで。これに加え、1日40分の運動時間があるが、それ以外はこの6畳間にいなければならない。

  私が面会した複数人はただ「苦痛です」と訴えた。

 病気になってもすぐには医者に診てもらえない

 入国管理センターには様々な問題があるが、その中でも特に大きな問題として、金さんは「医療」をあげる。

 「管理センターには外から通いで来る医師や看護師はいます。でも、たとえば頭痛ひとつとっても、人によりその原因は様々なのに汎用薬を与えられることが多いのです。そして、具合によっては外の病院に行かねばなりませんが、すぐには行かせてくれない。これは絶対におかしいです」

   もし病気になり、外部の病院に行く必要があるとき、収容者は申請書を書かねばならない。ところが、それを書いたからといって、直後に診察を受けられるわけではない。申請書を書いてから外部の病院で実際の診察が受けられるには、平均14.4日。最長で54日もかかっている。

   金さんの収容中にこんなことがあった。収容者には1日40分の運動が許可されるが、あるインド人が転んで足を骨折した。すぐに手術をしなければならない。だが、そのときは金曜日の午後。申請書を書いても、管理センターの事務は土日は休みだから、許可が下りるのは月曜日以降になる。金さんは「せめて鎮痛剤を」とセンターに訴えたが、かなわなかった。そこで、韓国で軍隊経験のある金さんは自分のTシャツを破いて、応急的にインド人の足を固定した。結局、このインド人が外部の病院に行けたのはその翌週となったのだ。こんなことは刑務所でもあり得ないのではないのか。

 いつ外に出られるのかわからないという不安

 MさんやPさんがここからすぐに出られる方法がたった一つだけある。本国に帰ることだ。だが……。

  MさんもPさんも「帰れませんよ!」とアクリル板の向こうから声を上げた。Mさんは「帰ったら最後。間違いなく投獄され、拷問に遭う。下手すれば死刑です」と帰国を恐れている。

  2010年に来日して、そのオーバーステイがばれて、2016年7月26日から収容されている中国人のCさんは、1989年に世界的なニュースとなった天安門事件を機に設立された中国政府を批判する世界的組織「民主中国陣線」の理事を務めている。これは確かに帰国すれば逮捕と長期拘留が待っている可能性が高い。

 「劉さん、知ってますよね」とCさんは私に尋ねた。

   中国での民主化運動や人権活動を展開したことで、当局に何度も逮捕され、2010年にノーベル平和賞を受賞した劉暁波(リウ・シャオポー)氏のことだ。劉氏は危篤状態になるまで拘留されたままで、昨年7月13日に61歳という若さで死去する。

  中国では捕まったら刑務所生活は長い。だから帰れない。「でも」とCさんは言葉を続けた。

 「私には二人の娘がいます。上は14歳だから私の置かれている立場を理解している。でも下の8歳が、まだ状況を理解していません。早くここを出たい。確かに私はオーバーステイをしたけど犯罪は犯していない。なぜ2年以上もここにいるのでしょうか。仮放免申請はもう8回していますが、いつも不許可。もう心が疲れました……」

この状況を、毎週水曜日に被収容者への面会行動を実施している市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」(以下、「考える会」。茨城県つくば市)の田中喜美子代表は「それこそが法務省の狙いです」と断言する。

 「条件を満たしても仮放免を認めず、疲れ切った被収容者が帰国を願い出るのを待つ。そうしたら、翌日には国はもう帰国の手はずをとっていますから」

 収容者にとって最大の問題は「自分がいったいいつ外に出られるのか」ということだ。仮に収容者の身元特定や母国での活動履歴の確認などに時間がかかるとしても、長い人で5年も収容されているのは異常な事態と言わざるを得ない。

私が面会したブラジル人のKさんは、かつて何度も来日しては正規に就労していたが、あるとき、悪い仲間に誘われ窃盗に加わってしまった。Kさんは1年9カ月を刑務所で過ごし、出所後、在留資格を失っていたために入国管理センターに送られた。以後、2年以上収容されているが、Kさんの訴えは単純明快だ。

 「私は自分の犯した罪で刑務所での収監期間がわかっていました。まじめに過ごせば刑期も短縮される。実際、私は仮釈放されました。でも、ここでは収容期間の基準がまったく教えられません。まじめに過ごしても早く出られるわけでもない。私はいつここを出られるのでしょうか」

   文化も習慣も宗教も違う国の人たち5人との6畳での生活。外を見ることなく過ぎる毎日。日本に住む子どもに会いたいがために、ブラジル帰国を拒否しているが(帰国すれば再入国は難しくなるので)、子どもとはまったく会えていない。想像しただけで、凄まじいストレスにまみれた生活だ。

   そして、これに耐えきれなかったのか、入国管理センターではたびたび収容者の自殺や自殺未遂が起きている。

   2010年には2人が自殺、2014年には2人が病死、2017年にはベトナム人が病死。そして、今年4月13日にはインド人難民申請者が自殺した。

  じつはKさんも自殺未遂を2回起こしている。

  1度目の首つり自殺は失敗したが、意識を失ったKさんは、さすがに、すぐに外の病院に救急搬送された。そして、病院では当たり前のことだが、病室のドアが施錠されず、病院内を自由に歩けることに束の間の自由を味わった。しかし、また入国管理センターに戻ると、そこは自由が制限され、明日も見えない日々。Kさんはこう語った。

 「僕、今でも死にたいです。ここにいると、心がだんだん細くなります。首吊りに失敗したから、今度は手首切りたいです」

   だが、私と話すことでKさんのそういう気持ちが薄まっていくのを私は感じた。それくらい、外の世界との接触は大切だ。「考える会」が毎週面会行動を行っている理由はそこにもある。

 ところで、収容者の多くは現状に絶望しているが、いっそのこと、難民を当たり前に受け入れているヨーロッパやカナダなどに住もうと考えたことはないのだろうか? 私の問いに、MさんもRさんも「行きたい」と答えた。だが実現しない。前出の野津さんはこう説明する。

 「それは無理なんです。日本から難民申請のために第三国へ行きたいとなると、その国に入国するためのビザが必要になります。ビザを求めて日本にある第三国の大使館に出向いても、日本は難民条約を批准しているので、日本で難民申請してください、ということになります。まれに家族が第三国で難民認定されるなどして、その方が日本から呼び寄せてくれるという形で第三国へ行ける人もいますが、ほとんどの方にそのような機会はありません。」

 つまり、日本の難民認定申請者は日本で難民と認定される、あるいはその他の形で在留資格を得られなければ、帰国か、難民申請を繰り返して、就労は禁止されるなか、いつでも収容され得るリスクに怯えながら日本で生活を続けるしかないということである。

 難民が受け入れられ安心して暮らせる社会へ

 難民は毎年世界のあちこちで発生している。アフガニスタン難民、イラク難民、シリア難民、ロヒンギャ難民等々。そのつど、心ある人たちは、あちこちで募金運動をしたり、服や日用品を送る運動を展開したりしている。

  だが、自分たちのすぐ足元に住む難民(申請者を含む)にはあまりにも関心が低いのが事実だ。彼らの中にはいわゆる偽難民もいるかもしれない。母国への送還も私は否定しない。だが、正当な基準もなく、家族にも会わせず、外出の自由も認めず、医療からも遠ざけているのは人権問題に他ならない。じつは国民の一定数も「偽難民は来るな」との意識を有しているのかもしれない。だが考えるべきはそこなのだろうか?

   私事だが、私はかつてアフリカのソマリアの難民キャンプで2年間活動していたことがあるが、そこには食料配給を目当ての偽難民も一定数いた。私たちは彼らを追い出すことに力を割かなかった。今目の前で困っている人たちに可能な限りの支援をすることに力を割いていたからだ。

   偽難民であろうが、観光ビザであろうが、日本に住みたい人はどんな手を使っても来る。彼らの排除よりも、いかにして、母国に帰れば迫害を受けるであろう人たちを庇護してその生活を保障するのか。まずそれを考え、その実現にこそエネルギーを割くべきだと私は考える。

   とはいえ、国民の一定数に「偽難民は来るな」との意識があることも事実。しかしながらそれは、難民が置かれている環境やその実情を知らないことが大きな背景としてあるだろう。私も含めたメディアの役割が問われている。

   もし本稿を読んで少しでもこの問題に関心を持った読者は、「難民支援協会」には寄付や活動報告を月2回お届けしているメールマガジン(無料)への登録を、「牛久入管収容所問題を考える会」にはカンパや収容者への差し入れ(テレフォンカード、ノート、ペン、洗剤、レトルト食品、カップ麺、インスタントコーヒーなど)の支援をしてくれたら嬉しく思う。

 

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