郷が杜備忘録

旅行や読書と日々の行動の記録。
日常のできごとや思い出の写真が中心。 たまに旅行の記事も投稿します!

富山城

2021-05-31 | 

富山城(2014年10月撮影)

所在地    富山市

城の種別   平城

築城者    水越勝重(天文年間)、佐々成政(天正年間)

築城年    天文元年(1532)、天正7年(1579)

歴代城主   水越氏、神保氏、佐々氏、前田氏

遺構     復興天守閣、櫓

現在の富山城は1954年に模擬天守として建てられ、同時に富山市郷土博物館として

使われているという。

夕方だったので、すこし暗くなった。

 

 

富山城近くの国際会議場

富山商工会議所のビル、北陸新幹線の写真が見える。

街中散策用の自転車貸出場所(シェアリング)

・・・当時仙台にはなかったと思うので、興味深かった。

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高野長英記念館、後藤新平記念館

2021-05-30 | ミュージアム

2014年、岩手県奥州市水沢に出かけた。トップの写真は後藤新平記念館です。

奥州市は、かつては伊達藩の一部で、水沢といった。

水沢城は、伊達藩領の北辺鎮護の任に当たり、留守宗利が初代城主となり、明治維新まで約240年続いた。

 

高野長英、後藤新平、斎藤實(まこと)の故郷である。この3名は「水沢の三偉人」と言われています。

記念館前に「高野長英の碑」がある。

高野長英は、1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのために生涯をささげました。

17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。

その後江戸にもどり、開業しながら翻訳を続け、庶民の要求にこたえる学問を続けました。

1838年「夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。

1844年脱獄し、数多くの門人や宇和島藩主や薩摩藩主に守られ潜行千里その間も医療や天文学、兵学などの

著訳に力を傾けました。

そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年江戸で幕府の役人に襲われ自刃しました。

47歳でした。

上は、後藤新平の像

後藤新平は1857年水沢に生まれる。

1869年安場保和の学僕となる。1874年福島県の須賀川医学校に入学、

医学校卒業後、医師として愛知病院に勤めることになる。オーストリア人のローレツ博士から

西洋医術と衛生学を学びました。24歳で愛知病院長と医学校長を命じられました。

その後、内務省衛生局の仕事をし、ドイツへの私費留学により、衛生制度や社会政策を学び、

帰国後衛生局長となりました。

1898年、台湾総督府民政長官を命ぜられ、新渡戸稲造とともに製糖業の振興にあたりました。

1906年、南満州鉄道株式会社の初代総裁

1908年、逓信大臣となり、その後内務大臣、外務大臣をも務めました。

1920年、東京市長

1923年、関東大震災が起こると、帝都復興院総裁になる。

1924年、東京放送局初代総裁となる。

1929年、71歳で亡くなる。

近代日本を築くことに活躍し、東京の近代都市化、都市計画の推進、ラジオの普及と放送の活用に努力した

東北の生んだ偉大な巨人でした。

 

斎藤實の銅像

斎藤實は1858年水沢で生まれ、海軍兵学校を卒業、アメリカ留学を経て、

日清、日露戦争のあと海軍大臣、海軍大将となりました。

1919年朝鮮総督を勤め、1932年第30代内閣総理大臣となりました。

1935年、内大臣となりましたが、その翌年の2・26事件で凶弾に倒れました。78歳でした。

 

 

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トラブルな日々

2021-05-27 | 日記

その始まりは、日曜日の昼食でした。

お昼に食べたおこわが、口の中の歯から虫歯治療のあとにかぶせていた金属片をはがしました。

口の中でガチッと異質なものを感じました。

あれ、やっちゃった。

歯科医院には定期的に行っているので、悪いところはなかったはずでしたが、治療後大分たっているので、

老朽化したということもあるでしょう。

月曜日、歯科医院に電話しましたが、生憎その日の午後は先生が市のコロナワクチンの接種手伝いに出て、居ませんでした。

火曜日、歯科医院で見てもらい、すぐ直してもらうことになりました。

水曜日、午後遅くになりましたが、代わりにかぶせるものができて、元通り直していただきました。よかった。

トラブルはその日の夕方に来ました。

のどが痛くなり、耳のあたりも痛くなってきました。熱っぽくもなってきました。

ついにコロナに感染したかと、不安になりました。

宮城県ではこのところ感染者も下降気味なのに、今になって、と不安がよぎります。

その日は早めに寝ました。

のど、耳から頭のほうにもズキズキと時間を空けて響くようになりました。

でも眠ると痛さは忘れ、熱もそれほど出ませんでした。しかし、せき込んでいたようです。

熱はそれほど出ていなかったので、コロナではないなと思いましたが、翌日は会社を休むことにしました。

体調の悪い日は出社しないようにと言われていたからです。

木曜日、朝はゆっくり起きてみると、まずまず良くなっていました。

のどの痛みと違和感はありました。

耳鼻咽喉科に行くことにしました。

診断が下されました。

「急性鼻炎」と「急性気管支炎」でした。

それからが大変です。

「急性気管支炎」は、咳が出て、それから「うつる」ということで、

「隔離」と「仕事を休む」と「睡眠」が指示されました。そして、家でもマスク着用です。

「睡眠」は体が弱っていたからどこかでうつされたので、抵抗力をつけるために休みなさいということです。

薬が7種類とうがい薬イソジンが処方されました。

そのため、明日からの仕事は休み、妻と離れて安静にし、睡眠を十分にとるようにしました。

ここ数日は、家でゆっくり休養します。

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「島貫兵太夫伝」を読む(その6)

2021-05-25 | 読書・「島貫兵太夫伝」

しばらく読んでいなかったが、再度読みはじめた。

(1)上京と牧会

1894年、島貫は東北学院を卒業すると、救貧事業に着手しようとした。

しかし、日本基督教大会の準備や夏期学校の準備、北海道の巡回伝道などで多忙を極めていた。

とうとう札幌で倒れ死も覚悟したが、宮城に帰り養生すると体力も回復してきた。

健康が回復すると、さっそく仙台における貧民窟伝道に着手することにした。

しかし、彼は中央に出て救貧事業とともに直接伝道をしたいと思い、11月東京に向かった。

彼は貧民窟伝道に専念したかったのである。それは宣教師たちの理解を越えるものであり、

教壇派宣教師団との考え方の違いであった。

11月下宿を引き払い、徒歩で12日間の旅行を決行した。目指すは下谷区万年町である。

当時、四谷の鮫ケ橋、芝の新網、下谷万年町と山伏町が3大貧窟と言われていた。

島貫はこのような貧民街について、「キリステアンたるもの正に実際にこれらの救済に着手すべきなり。

吾人は唯聖書を弄して実際は其聖書と遠ざかり居るものを悪むや甚だし。」と書いている。

東京には着いたが、東も西もわからず靖国神社の境内に行くと、そこで東北学院長の押川正義先生に出会った。

押川は自分のところに来て、大日本海外教育会の仕事を手伝わないかと言われ、承諾して、そこで仕事をすることになった。

この仕事は朝鮮人教育を目的としたものであった。東洋救済は彼の宿願であり、朝鮮問題に深い関心を持っていた島貫は例のバイタリティで、

名士の賛同を求めて東京市中を駆け巡ることになる。

(2)結婚と苦学生救済事業の準備

明治28年(1895年)、島貫は日本橋元大工町教会の牧師に就任している。

この教会は合衆国リフォームド・ミッションの日本における最初の教会として、

明治17年5月に創立された由緒ある教会で、当時木曾五郎が牧会にあたっていた。

木曾が老齢で病弱であったので、同派宣教師団が島貫のこの教会への牧師就任を要望したのである。

老人の多いこの教会を青年の多い教会にしようと、島貫は月給12円をすべて雑誌の発行にあてる

ことにした。

そして創刊したのが、「救世」である。明治28年(1895年)3月3日創刊。

冒頭に発行の目的を「伝道のために発行する。伝道事業の進歩発達をはからんがために発行する。

余輩は唯伝道を論ずるをもって任となす。」と記している。

そして、海外教育会の問題、東洋伝道開始の一策、伝道者の勉強、東洋神学会の設立、朝鮮伝道、

教会の自給問題、日本キリスト教徒の大学校設立、安息日学校の緊急問題、教会音楽問題等々、

これらを縦横に論述した。

圧巻は第5号の「救世軍を論ず」である。

「中庸を得たる救世軍の組織を以て、貧民問題を正解し得るものと信ぜざるを得ない」

「空論に走らない実践的一大事業である」「救世軍こそ日本に必要な軍隊である」と述べ、

わが国に救世軍を必要としている証拠として、東京市内の貧民窟に関する統計を挙げている。

そして、「わが国の将来を思うとき、一日も早く救世軍の来日を熱望せざるを得ない」と結んでいる。

兵太夫は明治29年(1896年)7月25日にシカ(志賀子)と結婚している。

兵太夫30歳、志賀子20歳の時である。

志賀子は、兵太夫が宿痾で他界するまでの17年間、良き伴侶として夫の牧会と力行会の事業に献身することとなる。

明治29年は島貫にとって多忙な年となった。教会が元大工町から神田美土代町に新築移転することになった。

苦学生を放棄しておいてはならない。苦学生の霊肉を救済していかなければならない。

まず第一に、当面の急務たる救貧事業の一部である苦学生の霊肉救済から始めるのが自分の使命であると彼は自覚した。

そのために、神田教会を中心に、まず苦学生の救助に尽力しようと決意したのであった。

【年表を見ながら、読書者のコメント】

島貫の生きた時代は、明治の初めから現時点は日清戦争までのあたりである。

島貫は慶応2年(1866)に生まれているので、明治になる直前でした。

その間、10歳までの間に明治新政府の成立の時期がありました。

 1868年 五箇条の誓文・・・この時はキリスト教を禁止していた

 1869年 版籍奉還

 1871年 廃藩置県

 1872年 学制公布

 1873年 徴兵令公布

 1876年 秩禄処分

同時に殖産興業政策の展開がありました。

 1871年 郵便制度の開始

 1872年 鉄道開通、富岡製糸場開業、国立銀行条例制定

 1873年 内務省設置

 1874年 屯田兵制度制定

 1877年 第1回内国勧業博覧会開催

そして、同時期に自由民権運動も展開されています。

 1874年 民選議院設立建白書の提出

 1881年

 ~1882年 政党の結成(自由党、立憲改進党結成)  

 1882年

 ~1886年 福島事件、加波山事件、秩父事件等

 1889年 大日本帝国憲法発布

こうしてみると、明治の初めの10年間によくこの国の仕組みを作り変えたと思います。

もちろんその間には、士族の反乱や西南戦争もありました。

これらの出来事は国の中枢での出来事ですが、この間に一般の庶民は混乱の中でもしっかり生きていたのだと思います。

この本を読んでいくとともに、明治期の歴史も見ていきたいと思いました。 

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和歌山城

2021-05-24 | 

和歌山城(2013年2月撮影)

所在地   和歌山市一番丁3番地

城の種別  平山城

築城者   豊臣秀長(100万石)

築城年   天正13年(1585)

歴代城主  豊臣氏(100万石)・桑山氏(4万石)・浅野氏(37万6千石)・徳川氏(55万5千石)

遺構    岡口門(重要文化財)、城跡全域(史跡)、西の丸庭園(名勝)

天守閣の構造 鉄筋コンクリート造り3層3階・連立式天守(昭和33年10月再建)  

一の橋と大手門 ↓

北堀 ↓

ここからが天守郭になる。

最初の門は楠門と思われる。これを閉じると要塞化する連立式天守と言われる。

天守への入り口 ↓

天守からの眺め、連立式の櫓の一部が見える。

口の字型に天守から連立されているのがわかる。手前の今見ているところが天守。

天守から各方面の眺め

「紀州 南高梅」とあり、梅の花が少し咲いていた。

この和歌山城は、元和5年(1619)浅野氏が安芸国広島へ移封されると、徳川家の十男頼宣が入城し、

御三家紀州徳川家の居城となる。

ここから、徳川家の八代将軍となる吉宗が出て、その子孫が家重、家治、家斉、家慶、家定、家茂と

続くのである。吉宗は自分の息子たちを御三卿とし、清水、田安、一橋の3家を興した。

そして、家斉から続く将軍は一橋家の出である。

最後の将軍15代慶喜も水戸家から一橋家に入って将軍となった。

 

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