中国の詩に
「耳聞(にもん)は似(し)かず
心聞(しんもん)の好(よ)きに」
があります。
「耳で聞く」とは、
相手のしゃべっている言葉の表面的な意味
だけを理解をする
ということです。
これを耳聞(にもん)
といいます。
「心で聞く」とは
相手の言葉の裏に
隠れている相手の気持
ちを理解するという
意味です。
これを心聞(しんもん)
といいます。
耳聞では人間関係は深まってはいかない。
人は本心を必ずしも
言葉にしない。
大丈夫!
といいながら本心は
助けて!
の叫びがあるとか。
あなたなんて
大嫌い!
といいながら
内心では
あなたのことが好きで
好きでたまらない。
というように、
言葉の裏に隠れた、
本心を心聞によって
理解し合うことが大切です。
それでこそ人間関係が深まるということを述べています。
日本では、心眼(しんがん)という言葉があります。
「心聞と心眼」
で相手の言葉の裏の
叫びに気づきましょう。
私はしばしば、僕のこと
好きでしょう!
と裏を読みすぎて
ありえない!
と失敗していますが。
さて、私はよく夢を見ます。
今日の夢は短冊が
風という川に
ゆらゆらと
流れて来ました。
字が大きく見えて来ました。
一枚目
諸行無常
二枚目
諸法無我
なんという
意味だっけ?
と目が覚めました。
たしか、お釈迦様の言葉だったと思います。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)
諸法無我(しょほうむが)」
世のすべてはすぐに移ろいゆく。
これも過ぎ去る、
あれもまた過ぎ去る、
それもまた過ぎ去る。
すべてのものは、
自分のものではない。
すなわち、これもあれも、それも。
この身体も、この感覚も、この記憶、この好き嫌いも、
この意識も、この世界も、すべては自分のものではない。
それを体感するなら、
君は苦しみから離れ、
君の心は浄まり
安らぐだろう。
そのような意味でした。
悟りの言葉ですね。
今日の気づきになれば
合掌
「耳聞(にもん)は似(し)かず
心聞(しんもん)の好(よ)きに」
があります。
「耳で聞く」とは、
相手のしゃべっている言葉の表面的な意味
だけを理解をする
ということです。
これを耳聞(にもん)
といいます。
「心で聞く」とは
相手の言葉の裏に
隠れている相手の気持
ちを理解するという
意味です。
これを心聞(しんもん)
といいます。
耳聞では人間関係は深まってはいかない。
人は本心を必ずしも
言葉にしない。
大丈夫!
といいながら本心は
助けて!
の叫びがあるとか。
あなたなんて
大嫌い!
といいながら
内心では
あなたのことが好きで
好きでたまらない。
というように、
言葉の裏に隠れた、
本心を心聞によって
理解し合うことが大切です。
それでこそ人間関係が深まるということを述べています。
日本では、心眼(しんがん)という言葉があります。
「心聞と心眼」
で相手の言葉の裏の
叫びに気づきましょう。
私はしばしば、僕のこと
好きでしょう!
と裏を読みすぎて
ありえない!
と失敗していますが。
さて、私はよく夢を見ます。
今日の夢は短冊が
風という川に
ゆらゆらと
流れて来ました。
字が大きく見えて来ました。
一枚目
諸行無常
二枚目
諸法無我
なんという
意味だっけ?
と目が覚めました。
たしか、お釈迦様の言葉だったと思います。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)
諸法無我(しょほうむが)」
世のすべてはすぐに移ろいゆく。
これも過ぎ去る、
あれもまた過ぎ去る、
それもまた過ぎ去る。
すべてのものは、
自分のものではない。
すなわち、これもあれも、それも。
この身体も、この感覚も、この記憶、この好き嫌いも、
この意識も、この世界も、すべては自分のものではない。
それを体感するなら、
君は苦しみから離れ、
君の心は浄まり
安らぐだろう。
そのような意味でした。
悟りの言葉ですね。
今日の気づきになれば
合掌