昭和54年春・・・私は高校一年だった。
当時住んでいた場所は、カープ三篠寮の近く。
開幕前、暇を見つけては寮へと通った。
連日通いつめる私に、ある選手が親しく声をかけてくれた。
その選手は九州の高校から入団し、背番号もいい番号をもらっていた。
「おまえ学校は?」
彼が発した最初の言葉であった。
それから数日後、毎日ひとりで練習している彼に頻繁に出会うことになった。
「おまえ、前から気になったんじゃが、学校にいかんでええんか?」と彼が聞いた。
わたしは、彼に親しみを感じていたので本心を話した。
「受験に失敗したんよ。それでいま定時にいきようるから」と言うと、彼は「そうなんか。定時か・・・」と、答えた。
「オマエ野球好きか?」と聞く彼に、わたしは「大好きじゃね」と答えると、キャッチボールせんかと言ってくれた。
生まれて初めて、プロ野球選手とキャッチボールをした瞬間。今でも鮮明に覚えている。
彼は軽く投げてくれたのだろうが、私にめがけてくるボールは驚くほど速いボールだった。
そのとき、(これがプロなんだ)と感激というか、恐ろしさを感じた。
「どうしたら、あんな凄いボールを投げれるん?」と聞くと、「自分でも正直ようわからんのよ。手首の使い方とか肩が強いとか、昔から言われているんだが、こどもの頃からそうだったんで、何でと聞かれても説明できんのよ」と、言った。
「プロ野球選手って凄いよね。本当に憧れるよ」と聞くと、彼は「そうかなぁ?規則や色々なことが多すぎて、面白くないわ」と、語った。
それから数ヵ月後の夏、市民球場で行われていたウエスタンリーグを観戦した。
当時の二軍は強かった。
一軍は常勝軍団でレギュラーが固定されており、今のようなチャンスは当時のカープにはないと言っていいくらい、一軍昇格の切符はなかった。
ファームには長内や木本に木山、そして達川や山崎に小川がいた。
長内のパワーは凄かった。
山崎のショートも高橋慶彦よりうまく感じた。
木山の守備力や打率の高さ、木本のガッツなど、いまのファームとは全然比較にならないくらい、選手の目つきが違った。
特にサードの木山は、よく声の出る選手で、当時ファームの中心的な存在であった。
そんな選手を尻目に、彼はベンチでも存在感がなかった。
カープの選手が守備に着くときに、外野でキャッチボールの相手で姿をみせるくらいで、私がその後も観戦した試合で、レギュラーはおろか代役での出場機会もなかった。
ある試合の終了後、球場の表で彼の帰りを待っていた。
多くの選手が出てくるなか、彼は一番最後に出てきた。
そこで私は驚いた。
彼の姿は野球選手でなく、当時のツッパリ兄ちゃんに変貌していたからである。
また、大半の選手は自転車であったが、彼は球場前を流すタクシーを止め乗り込んだ。
あまりの変わりように驚いた私に、「元気にしとるんか」と彼が言った。
「どうしたん。変わったね?」と聞くと、彼は「大人になったんじゃ」と吐き捨てるように発してタクシーに乗り込んだ。
その年カープの一軍はリーグ優勝を飾り、日本シリーズでは伝説となった江夏の21球で日本一になり、連日報道はスターにばかり焦点が当たっていた。
彼の退団の記事も、見落としそうな小さなもので、ショックはなかった。
思えば幼少から野球一筋で、小さな町から独り立ちし、いきなり大きなお金を手にしたことで、彼の野球人生は、その瞬間に終えたのかもしれない。
それなりに野球に打ち込んだ春先から、プロの壁にあたり、試合にも出場できない挫折。
プロ入り前は常にレギュラーであり続け、挫折の経験もなかったはず。
それが、プロ入り後には一転し、気がつくとそれまでの反動からか、遊びをおぼえ 違う方向に進んだ結果、球団から早々と見切りをつけられたのかも知れない。
昨年末、カープOB会のコンペに参加させてもらったとき、ある人から「野球をやめたあと、いばらの道を歩む者が多い」と聞かされた。
そのとき見せられたOB会名簿には 彼の名前はなかった。