昭和54年開幕前のこと。
当時市民球場は、カープの練習をネット裏から見学できるサービスを行っていた。
全体練習終了後、居残り特打がおこなわれた。
そこに出てきたのは、衣笠・ギャレット・ライトルの3名であった。
衣笠は、しばらく打ち込んだのち自身で納得したのか、笑顔で球場を後にしたが、打てどもスタンドに飛び込まないギャレットはさかんにクビをかしげ、悩みが深そうであった。
衣笠のあとにゲージに入ったライトルも、ギャレットの打撃状態を見かねてか、何かしらアドバイスを送っていた。
しかし、ギャレットは一向に上向く気配がなかった。
するとゲージの後ろで見守っていた藤井打撃コーチが、ベンチの中に消えていった。
しばらくすると藤井コーチが、両手に数本のバットをさげ登場した。
ギャレットになにやら言葉をかけ、ギャレットは思わず「エッ…ウソダロウ」というゼスチャーをした。しかし藤井コーチは、観客にも聞こえるように広島弁で「ええから、これで打てやぁ」と説得し、ギャレットはイヤイヤ手にした。
次の瞬間、打撃投手が投げた球をギャレットが打った。
すると・・・「カキーン」という金属音が球場に響き、スタンド上段に吸い込まれた。
次の球も、その次の球も、どんどんスタンドに放り込み始めた。
藤井コーチの持参したバットは、金属バットであった。
これには隣のゲージにいたライトルも、大笑いをしていたのだが、ギャレットが数分前まで極度の不振を極めていたのに、バットを変えた瞬間、人が変わったように打ち込む様子に、自身も金属バットで打ち始めたものである。
しばらくし、ギャレットが気持ちよく打ち始めたのを感じた藤井コーチは、再びギャレットに自分の木製バットで打つように指示した。
すると、木製バットから放たれた打球も、次から次にスタンドに放り込み、数分後、藤井コーチの大きな声が響いた。
「ギャレット、ライトル…ラストボールじゃ」
最後はどんな打球だったか記憶にないが、二人はそれで打ち止めにした。
藤井コーチは打ち終えたギャレットに、通訳を交え何やら言葉をかけた。
ギャレットは藤井コーチの肩をたたきながら、盛んに「サンキュー・サンキュー」と満面の笑顔を浮かべていた。
いま思えば、藤井コーチは「ええかギャレット。バットを金属にしたらムダな力を入れんでもスタンドに飛んだじゃろう。最初は何をバカなことをさせるんじゃと、思ったろうが、しばらくして木のバットに変えても飛距離は変わらんかったよの。何でかわかるか?オマエの体格なら無理に力をいれんでも楽々スタンドインするんよ。要は気持ちよ。それでなくても、相手の投手はオマエにビビッとるんでぇ。たかが野球。されどベースボールよ・・・のぉギャレットさんよ。」のような言葉をかけたのかと妄想する。(笑)
当時のコーチ陣は、指導にメリハリがあった。
時には鬼のように厳しく叱咤激励しながらも、選手がどん底で苦しんでいるときは親身になり、試合終了後でも練習に付き合っていた。
現在の栗原や東出などがブレークする前にも、試合終了後のグランドで練習する彼らには、常に内田コーチが見守り続けていた。
いまのカープスタッフは、どうなんだろうか?
風の噂では、緒方ひとりと聞くのだが・・・