広島 家族葬 広島 葬儀 安芸葬祭・エキキタホールのブログ

広島の家族葬 広島の葬儀
どこよりもわかりやすく
取り組むブログです。
宜しくお願い申し上げます。

あの頃カープは強かった…NO・11

2012年03月29日 09時09分29秒 | カープ

昭和54年の開幕前・・・

開幕ベンチ入りが発表される前のこと。

私は高校入学まで暇だったので、市民球場や三篠の合宿所めぐりをしていた。

晴れた日は市民球場、雨天の日は三篠という具合に・・・

そして唯一の楽しみであるサイン集めをしていた。

 

開幕前は、どの選手も緊張感にあふれ、練習終了後に球場正面に待ち受けるファンに対し、様々な対応であった。

気さくにサインをしてくれる人や全く無視する人・・・

名前を出さないが、中には「寄るな・・・」と、怒鳴る選手もいたが、池谷、北別府、江夏、高橋慶彦、衣笠、三村、木下、水沼、道原などは。気持ちよくサインをしてくれものである。

 

そのなかで、もったいぶりながらサインをする面白い選手がいた。

あの年トレードでやってきた金田留広投手。

あれは、オープン終了後で傘を必要としない小雨が降っていた時である。

金田投手が出てきたのだが、ほとんどのファンは追いかけようとしない。

そこで私ひとり、金田投手のあとをつけ車まで行き、「すいません。サインもらえますか?」と聞いた。

すると、「ワシが野球選手に見えるんか?誰かわかるんか?」と、不機嫌な返事。

私は不覚にも、「金田じゃろう・・・」と呼び捨てをしてしまった。

すると、顔つきが変わり 「あのなぁ~呼び捨てはなかろうが。呼び捨ては、金田さんじゃろう・・・」と、怒らせてしまった。

車に荷物を積み込んだ金田投手は、私を無視するように再度球場正面のほうへ歩みだした。

私は追いかけ、「すいませ~ん」とイヤーブックの金田投手のページを開きサインを願った。

すると、しょうがない…と言いたそうに 「マジックを貸せ・・・」と一言。

マジックとイヤーブックも渡そうとしたら、「それはオマエが持って」と、イヤーブックは私が持ち、何とかサインをしてもらった。

しかしそのサインは、気の抜けたようなサインであった。(金田留広のみ)

 

数日後・・・また金田投手に遭遇した。

再度サインをお願いすると、この日はすこぶる機嫌がよかったのか、ナゼか笑顔の対応。

「広島東洋カープ 金田留広 44」と、先日のサインとは気の入り方も違い達筆なサインだった。

ここで私が要らぬ一言を発した。

「この前のサインとエライ違いますね・・・」

すると金田投手は、思い出したかのように・・・「あ~先日のオマエか。あの日のワシは機嫌が悪かったんじゃ。しかし今日は機嫌がええんよ。」とのこと。

その年、金田投手は、序盤こそファームで調整を図っていたが、8月のお盆に一軍入りし谷間で先発。自らホームランも放ち5回を投げきり勝ち投手になる。その後も中日キラーとして名を馳せ、優勝に貢献。

しかし2年後の…昭和56年限りで現役を引退した。

起用法をめぐり首脳陣と衝突し、ファームでも調子がよかったのに、一向に上からお呼びがかからず、やる気をなくしたとも言われた。

 

昭和57年の春・・・

私はスポーツ店に勤務していた。

その取引先に、ヒット・ユニオンという会社があった。

そこの営業担当の人が、「今日はうちの新入社員をつれてきました」と言われ、その新入社員の顔を見て驚いた。

何と・・・金田留広である。

私はまたもや不覚にも・・・「アッ、金田じゃ」と、呼び捨てをした。

すると昭和54年のカープ時代とは違い、金田氏はニコヤカな笑顔で、「金田です。よろしくお願い申し上げます」と、元気よく挨拶をされた。

スポーツ店の社長は、

「河内くん・・・あんた金田さんを知っているんかい?」と言われ、

「社長、この人は去年までカープの投手だったんですよ。お兄さんは400勝投手の金田正一さん」と、言うと…「金田正一さんは知っているけど・・・」と、困惑?されたものである。

 

その後、再度プロ野球のロッテオリオンズの投手コーチに就任され、数年前・・・何やら問題があった記憶があるのだが、それも金田留広さん ならではのトラブルという気がしたものである。