私は、いつもオタクをしていて、ひどい出不精であるけれども、あるとき、フランスへ行きたいと思う気持ちが強くなり、はっと気がついたら、八月に一人でエアーフランスのヒコーキに乗りこんでいた。
ふた昔前に、やっと2週間の時間をひねりだすことが出来て、わたしはプランを練り、一人旅にでかけました。
自由に海外旅行ができる時代になったというのに、独立した家業の都合上、休暇がとれないため、遠出ができないのです。
不可能だと思い込んでいたのですが、思いきると、可能になるものですね。労働人生のなかの、ささやかなプレゼントとして、ワガママをさせてもらいました。
不況時代に入り込む前でしたので、できたのですね。
早婚であったために、自分のしたいことがまったく出来ない状態で若い時期が過ぎました。それは、夫もまったく同じ状態です。
職種の都合上、常に同じ場所にいる必要があるのです。
生活をかかえた人は、みな同様でしょう。各自の任務を背負い込み、それぞれの制約のなかで、なんとか知恵をしぼり、できることをやるしかない。
もし、あれもこれも、やりたいことが出来なかったら、それは、本気でやりたいと思う気持ちがなかったということだ、と考えることにしています。
ハードルを越える力量がなかったと、ただそれだけの話です。
たかが、観光旅行ができない。まあ、その程度の実践能力なのです。
お笑い話ですが、2週間の遠出の時間をひねりだすのが、わたしにとっては至難のワザでした。(本当に、笑ってしまう)
話すだに、お恥ずかしいことですが、わたしは幼稚園生のように、フランス政府観光旅行局などを走りまわり、1ヶ月かかり具体的プランを練りました。
一番注意したのは、旅行によってトラブルをおこさないということ。家族・他人に迷惑をかけないように注意をしました。戦争勃発などという不可避のトラブルは別として、平和時に、しかも気楽な観光旅行で、トラブルをおこしたら、シャレにもならない。
フランス政府観光旅行局に、幼稚園生のように、具体的プランを持っていき、プラン実行にあたり、可能であるかどうか、問題点、注意事項はないか、などと根堀り葉堀り訊きました。本当は、旅行社におまかせして省エネをしたかったのですが、どうも旅行社も詳しい話になると、しどろもどろ。当てにはできないと思い、あきらめて自分で調べることにしました。わたしが、フランス政府観光旅行局に押しかけて粘っていたら、なんと旅行社の方々も、同じように旅行局に押しかけて質問をしていた。つまりは、同じ手づるで情報収集していたのですね。
まずはパリに乗り込みましたが、話が長くなるので、カットします。おのぼりさんコースを地下鉄を使って、ざざっとすませ、窒息しそうな都市を早々と飛び出し、鉄道を使って、フランス国土の外周まわりをはじめました。
旅行のテーマは「フランスの自然、人々の暮らしぶりを見る」でしたから(笑い)。
今、ふりかえるに、フランスは文明国であり、観光国でもあるので、ちょっとした時事問題に気をつけて、暗いあやしい場所は一人で歩かない、悪者に注意する、そのくらいで、安全に旅行できる国であり、しかも気楽な観光旅行、われながら、つっぱり具合がとても、おかしい。
長くなるので、途中もカット。
わたしは、やっとニースへ着いた。ご存知、地中海沿いのコート・ダジュールと呼ばれるこの界隈は、浜辺に大味の白人女がごろごろと、真っ裸で日光浴をしている。
そんなものは見たくもない。北欧の女性やロシアやペルシャの女性だったら、よかったのに!フランス女じゃあね。
やることがないので、地中海に足を浸してみましたが、ひどく冷たくて、海水浴なんてする気がおきない。太陽光線が弱い国なのですね。
太陽に飢えているので、ああして南に移動して真っ裸になって太陽の光をあびている。かわいそうですね。
しかも、ニースは観光地づれした嫌な街。後になって、ひょんなことで、フランス人に聞いたら、果物の砂糖漬けで、とてもおいしいお店があるとか。他にも観光地と外れたところに、味のある街の一角があるとか。残念無念。
当時のわたしは、時間があまって、しょうがないので、テーマにはずれるために、いっさい断念していた美術館に例外として、時間つぶしに行ってみました。それは、シャガールの「青の美術館」(美術館の名前は、たしか、こうだったと思いますが。間違っていたらスミマセン)
一歩足をふみこんで、わたしは、がーんと衝撃をうけた。
壁には、「子宮回帰願望」と言うのだろうか?母親の胎内の子宮内に、さかさまになって、はいっている胎児の絵がずらっと並んでいた。いかにも安心し、満足しきった胎児たちの絵。そのテーマも気になるが、問題は、そのバッックの「青」。すばらしい色彩の美が胸を刺した。なんとも言えない絶対的な愛とも呼ぶものが、しみじみと伝わってくる気がした。色彩に感動するとは、こういうことであるのかと、よろめきながら、わたしは、美術館のベンチにすわりこみ、じーんとして、シャガールの「青」に浸った。
結局、色々なところを歩き回り、いろいろなものが実際に見れた旅行だったのですが、一番強烈に、今でも心に居座っているのは、シャガールの青なのです。
解説書でも読めば、もっと明確になるのでしょうが、調べる気がおきない。シャガールの他の作品も見る気がおきない。
ただただ、美術オンチのこのわたしが、色彩に感動したことに驚いている。
ああ、シャガールの青が、周りの空間を青に染めつつ、拡がっていく。わたしの心も体も青に染まった。驚き、驚き。ささやかな、ささやかなお話でした。
ふろく:ネットで百科より
シャガール Marc Chagall 1887‐1985
エコール・ド・パリの画家。ロシアのビテプスクにユダヤ人として生まれ,ペテルブルグに学ぶ。 1910 年パリに出,アポリネール,M.ジャコブ, R.ドローネー,モディリアニら詩人,画家と知り合う。 14 年に帰国し,第 1 次大戦とロシア革命後も祖国にとどまるが, 23 年来再びパリに住む。第 2 次大戦中はアメリカに亡命,戦後は南仏で制作する。作風は初期にはキュビスムの影響を受けたが,シュルレアリスムの先駆者として,花束,ビテプスクの思い出,恋人たちなどのイメージを駆使し,愛,祝婚,戦争と平和などを豊かな色彩と奔放な幻想によって描き続けた。 J.de ラ・フォンテーヌの《寓話》,《ダフニスとクロエ》,聖書などの版画集や天井壁画,舞台装置の制作,自伝《わが生涯》の執筆など広範にわたる活躍が知られる。
中山 公男
ふた昔前に、やっと2週間の時間をひねりだすことが出来て、わたしはプランを練り、一人旅にでかけました。
自由に海外旅行ができる時代になったというのに、独立した家業の都合上、休暇がとれないため、遠出ができないのです。
不可能だと思い込んでいたのですが、思いきると、可能になるものですね。労働人生のなかの、ささやかなプレゼントとして、ワガママをさせてもらいました。
不況時代に入り込む前でしたので、できたのですね。
早婚であったために、自分のしたいことがまったく出来ない状態で若い時期が過ぎました。それは、夫もまったく同じ状態です。
職種の都合上、常に同じ場所にいる必要があるのです。
生活をかかえた人は、みな同様でしょう。各自の任務を背負い込み、それぞれの制約のなかで、なんとか知恵をしぼり、できることをやるしかない。
もし、あれもこれも、やりたいことが出来なかったら、それは、本気でやりたいと思う気持ちがなかったということだ、と考えることにしています。
ハードルを越える力量がなかったと、ただそれだけの話です。
たかが、観光旅行ができない。まあ、その程度の実践能力なのです。
お笑い話ですが、2週間の遠出の時間をひねりだすのが、わたしにとっては至難のワザでした。(本当に、笑ってしまう)
話すだに、お恥ずかしいことですが、わたしは幼稚園生のように、フランス政府観光旅行局などを走りまわり、1ヶ月かかり具体的プランを練りました。
一番注意したのは、旅行によってトラブルをおこさないということ。家族・他人に迷惑をかけないように注意をしました。戦争勃発などという不可避のトラブルは別として、平和時に、しかも気楽な観光旅行で、トラブルをおこしたら、シャレにもならない。
フランス政府観光旅行局に、幼稚園生のように、具体的プランを持っていき、プラン実行にあたり、可能であるかどうか、問題点、注意事項はないか、などと根堀り葉堀り訊きました。本当は、旅行社におまかせして省エネをしたかったのですが、どうも旅行社も詳しい話になると、しどろもどろ。当てにはできないと思い、あきらめて自分で調べることにしました。わたしが、フランス政府観光旅行局に押しかけて粘っていたら、なんと旅行社の方々も、同じように旅行局に押しかけて質問をしていた。つまりは、同じ手づるで情報収集していたのですね。
まずはパリに乗り込みましたが、話が長くなるので、カットします。おのぼりさんコースを地下鉄を使って、ざざっとすませ、窒息しそうな都市を早々と飛び出し、鉄道を使って、フランス国土の外周まわりをはじめました。
旅行のテーマは「フランスの自然、人々の暮らしぶりを見る」でしたから(笑い)。
今、ふりかえるに、フランスは文明国であり、観光国でもあるので、ちょっとした時事問題に気をつけて、暗いあやしい場所は一人で歩かない、悪者に注意する、そのくらいで、安全に旅行できる国であり、しかも気楽な観光旅行、われながら、つっぱり具合がとても、おかしい。
長くなるので、途中もカット。
わたしは、やっとニースへ着いた。ご存知、地中海沿いのコート・ダジュールと呼ばれるこの界隈は、浜辺に大味の白人女がごろごろと、真っ裸で日光浴をしている。
そんなものは見たくもない。北欧の女性やロシアやペルシャの女性だったら、よかったのに!フランス女じゃあね。
やることがないので、地中海に足を浸してみましたが、ひどく冷たくて、海水浴なんてする気がおきない。太陽光線が弱い国なのですね。
太陽に飢えているので、ああして南に移動して真っ裸になって太陽の光をあびている。かわいそうですね。
しかも、ニースは観光地づれした嫌な街。後になって、ひょんなことで、フランス人に聞いたら、果物の砂糖漬けで、とてもおいしいお店があるとか。他にも観光地と外れたところに、味のある街の一角があるとか。残念無念。
当時のわたしは、時間があまって、しょうがないので、テーマにはずれるために、いっさい断念していた美術館に例外として、時間つぶしに行ってみました。それは、シャガールの「青の美術館」(美術館の名前は、たしか、こうだったと思いますが。間違っていたらスミマセン)
一歩足をふみこんで、わたしは、がーんと衝撃をうけた。
壁には、「子宮回帰願望」と言うのだろうか?母親の胎内の子宮内に、さかさまになって、はいっている胎児の絵がずらっと並んでいた。いかにも安心し、満足しきった胎児たちの絵。そのテーマも気になるが、問題は、そのバッックの「青」。すばらしい色彩の美が胸を刺した。なんとも言えない絶対的な愛とも呼ぶものが、しみじみと伝わってくる気がした。色彩に感動するとは、こういうことであるのかと、よろめきながら、わたしは、美術館のベンチにすわりこみ、じーんとして、シャガールの「青」に浸った。
結局、色々なところを歩き回り、いろいろなものが実際に見れた旅行だったのですが、一番強烈に、今でも心に居座っているのは、シャガールの青なのです。
解説書でも読めば、もっと明確になるのでしょうが、調べる気がおきない。シャガールの他の作品も見る気がおきない。
ただただ、美術オンチのこのわたしが、色彩に感動したことに驚いている。
ああ、シャガールの青が、周りの空間を青に染めつつ、拡がっていく。わたしの心も体も青に染まった。驚き、驚き。ささやかな、ささやかなお話でした。
ふろく:ネットで百科より
シャガール Marc Chagall 1887‐1985
エコール・ド・パリの画家。ロシアのビテプスクにユダヤ人として生まれ,ペテルブルグに学ぶ。 1910 年パリに出,アポリネール,M.ジャコブ, R.ドローネー,モディリアニら詩人,画家と知り合う。 14 年に帰国し,第 1 次大戦とロシア革命後も祖国にとどまるが, 23 年来再びパリに住む。第 2 次大戦中はアメリカに亡命,戦後は南仏で制作する。作風は初期にはキュビスムの影響を受けたが,シュルレアリスムの先駆者として,花束,ビテプスクの思い出,恋人たちなどのイメージを駆使し,愛,祝婚,戦争と平和などを豊かな色彩と奔放な幻想によって描き続けた。 J.de ラ・フォンテーヌの《寓話》,《ダフニスとクロエ》,聖書などの版画集や天井壁画,舞台装置の制作,自伝《わが生涯》の執筆など広範にわたる活躍が知られる。
中山 公男