とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

脚本家の山田太一さん死去、89歳 「ふぞろいの林檎たち」など手がける| 2023/12/1

2023年12月01日 10時43分30秒 | 映画
 
脚本家の山田太一さん死去、89歳 「ふぞろいの林檎たち」など手がける|TBS NEWS DIG
 
 
読売新聞 によるストーリー  • 46 分 (2023/12/1)
 

脚本家・山田太一さんの訃報(ふほう)を受け、代表作「ふぞろいの林檎(りんご)たち」に出演した中井貴一さんが自身のブログで以下のように追悼した。

 「まだ、役者として右も左も分からなかった頃、『ふぞろいの林檎たち』の面接でお会いしたのが、今から42年前。その頃、既に大巨匠脚本家だった山田太一さんでしたから、さぞかし怖い方なのだろうと、かなり緊張しておりましたが、実際は、物腰柔らかで、とてもジェントリー(紳士的)にお話をして下さいました。出演が決まり、初日の本読み、顔合わせの時も、物腰柔らか。

 しかし、本読み終了時、『私の台本は、語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい』と、ピシャリ。物腰とは裏腹に、実に辛辣(しんらつ)にお話をされる方でもありました。台本を通して、私に芝居というものを教えてくださっただけでなく、その台本から、人としてのあり方までも教わった様に思います。言い尽くせぬお世話になりました。でも、もう一度、山田さんの台本で芝居がしたかった。心からご冥福を祈ります」

毎日新聞 によるストーリー  • 1 時間

「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、市井の人々の日常から人間や時代を描くテレビドラマを手がけた脚本家、小説家の山田太一(やまだ・たいち、本名・石坂太一=いしざか・たいち)さんが11月29日、老衰のため死去した。89歳。葬儀は家族のみで営む。

 東京都出身。早稲田大教育学部を卒業後、松竹を経て、1965年にフリーの脚本家になる。松竹で師事した木下恵介監督に請われ、TBS「木下恵介アワー」枠の「3人家族」や、「パンとあこがれ」などの脚本を執筆した。

 浅草で国民学校(小学校)の3年生まで過ごし、強制疎開で神奈川県湯河原町へ移住。11歳で敗戦を経験した。戦災孤児のその後の人生を描いた「記念樹」(TBS、66年)や戦争で夫を亡くしたヒロインを描いた72年のNHK連続テレビ小説「藍より青く」など戦争の影が色濃く残る作品を手掛けた。

 

76年にNHKが脚本家の名前を冠したドラマを開始した際、先発に選ばれた「男たちの旅路」は、鶴田浩二演じる特攻隊の生き残りの警備員が主人公。若い世代との相克などを描いて連続ドラマは第4部まで放送され、大きな反響を呼んだ。

 また多摩川の増水で民家が流された災害をモチーフに、家族のもろさを描いた「岸辺のアルバム」(77年、TBS)や“四流大学”の男子学生と看護学生の青春群像をとらえた「ふぞろいの林檎たち」シリーズ(TBS、83~97年)など、放送史に残るドラマを多数送り出した。

 晩年も、2011年の東日本大震災をテーマに「時は立ちどまらない」(テレビ朝日、14年)といった作品を残すなど、ドラマの可能性を探求し続けた。

 「空也上人がいた」など小説も数多く発表。「異人たちとの夏」で88年に山本周五郎賞、自伝的エッセー集「月日の残像」で14年に小林秀雄賞を受賞した。

 日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムの代表理事を務め、放送局にも映像が残っていない80年代以前の番組の記録を残そうと、脚本を収集・保管する活動にも尽力した。

 85年には「家庭や職場等のごく平凡な日常を、抜群のドラマに仕上げて、人間愛を訴えつづけている」として菊池寛賞を受賞。92年度には毎日芸術賞、08年には橋田賞特別賞を受賞した。

 

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山田 太一(やまだ たいち、1934年6月6日[1] - 2023年11月29日)は、日本脚本家小説家。本名:石坂 太一[1](いしざか たいち)。東京市浅草区(現:東京都台東区浅草出身[2]

松竹木下惠介助監督をした後、フリーとなり、テレビドラマの脚本に進出。以後『早春スケッチブック』『ふぞろいの林檎たち』など話題作を次々と生み出し、多くの賞を受けた。その後小説家としても地位を確立。映画や舞台も手掛ける。

来歴

生い立ち

父親は愛知県[3]、母親は栃木県真岡市出身[3][4]。両親は浅草六区で大衆食堂を経営していた[2][4]。小学校3年のとき、強制疎開神奈川県足柄下郡湯河原町に家族で転居する[4]

神奈川県立小田原高等学校を経て、1958年早稲田大学教育学部国語国文学科を卒業[2]。早稲田大学の同窓に劇作家寺山修司がいた[2]。在学中、寺山とは深い親交を結び、寺山がネフローゼで休学・入院すると山田は頻繁に見舞って話し合った[5]。寺山の母から見舞いを控えるよう叱責された後は手紙をやり取りした[2]。後に寺山脚本の映画『夕陽に赤い俺の顔』『わが恋の旅路』で山田は助監督を務めている。寺山の死去から32年が経過した2015年に、両者が学生時代に交わした書簡や寺山の日記を収めた『寺山修司からの手紙』が、山田の編著により岩波書店より刊行されている[

 
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