【地理的条件】
日本列島の大部分の地域では,気候が温暖で降雨量が多く,夏の湿度が高い。小河川がいたるところに発達し,山岳地帯は森林で覆われている。このような条件は,おそらく,大規模な治水事業を伴わない農業,ことに土地生産性の高い労働集約型の農業に有利であろう。現に日本では早くから,水田耕作が行われ,農地を私有する農家のムラが発達した。この状況は,多くの点で西ヨーロッパのそれに似ている。ナイル川流域や,ガンガー (ガンジス) 川流域,または黄河流域とは,自然的条件も異なり,農業の形態も異なる。
また豊富な森林,湿気,頻発する地震などの諸条件は,この島国での木造建築の発達に貢献したかもしれない。千数百年の歴史を通じて,日本では,住宅も記念碑的建築 (宮殿,寺院,城塞など) も,すべて木造であり,石造または鮭互造または,土製 (土蔵の例外はあるが) の建物は,ほとんどまったくなかった。木造家屋は,地震に強く,湿気に対しては風通しがよい。しかし木造建築をある程度以上に大きくすることは困難である (たとえば中国には高層の仏塔を見るが,日本の木造五重塔には,それほど高いものがない)。美的には,林の中の小型木造家屋は,自然的環境との鋭い対立よりも,むしろ調和的関係を示唆している。
アジア大陸の太平洋側に接する日本列島の位置が,日本の歴史に与えた影響は計り知れない。海に隔てられた大陸は,そこからの大規模な軍事的攻撃を困難にするのに十分なほど遠く,そこから高度の文明を輸入するためには障害とならぬ程度に近かった。日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができた。
中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術 (金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系 (仏教,儒教,道教) などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。しかし北方には日本に大きな影響を及ぼしうるような文化がなく,太平洋は日本の東側をあらゆる交通から遮断していた。要するに地理的位置は,ヨーロッパ人の立場からみての〈極東〉という言葉にも表れているように,日本を孤立させると同時に――日本側から大陸に与えた文化的影響はほとんどまったくない――,外部から煩わされることが少なく,中国文明の枠内で独特の文化を育てることを可能にした,といえるだろう。
19 世紀になって海洋がもはや決定的な障壁ではなくなると,日本の軍事的立場は弱くなった。大陸では帝政ロシアの,太平洋をはさんではアメリカの,潜在的な軍事的脅威に対抗手段をとらなければならなくなったからである。 20 世紀の日本は,まず帝政ロシアの影響力を極東から排除することに成功し,代わって中国を支配しようとして失敗し,最後に目的の明瞭でない戦争をアメリカにしかけて失敗した。 ⇒東アジア
【人種および言語】
おそくとも西暦の紀元前後から,日本列島の大部分には日本語を話す単一の民族が住んでいた。北部にアイヌがあり,その後朝鮮半島からの帰化人 (渡来人) の定着があったが,大規模な人種の混合は起こらずに今日に至る。人種と言語の単一性は,日本の歴史の特徴の一つである。
このような条件は,国家の文化的統一を,さらには政治的統一を容易にしたにちがいない。中央集権的な古代国家は,5 世紀から 12 世紀まで続く。その後に権力の分散傾向が現れたが (13 ~ 16 世紀), 16 世紀後半からは再び権力集中の過程が始まり, 2 段階を経て今日に及ぶ。すなわち江戸幕藩体制と明治官僚国家である。
政治的中央集権には,文化的中央集権が伴う。文化は中央から地方へ向かって伝播 (でんぱ) し,地方から中央へ向かうことは少ない。平安朝の宮廷文化は,しだいに地方へ拡散してゆく (勅斤集の美学,連歌,浄土教,平安仏の様式など)。 9 世紀に,地方官としての任地土佐から京へ戻る船旅の途中で,紀貫之は任地での経験を回想せず,道中の地方文化を観察せず,ただひたすら京都の生活のことを考えていた (《土佐日記》)。 13 世紀初めの将軍源実朝は,鎌倉と関東の地方文化になんらの関心を示さず,文化的にはまったく京都の貴族社会にあこがれていた。また,たとえば世阿弥の劇団は,その曲の題材を平安朝文学にとることが多く,主として京都を中心として活動していた。その地方巡業は,中央の能を地方へもたらしたので,地方演芸を中央へもたらしたのではない。
文化的中央は,17 世紀から京都に大坂を加え, 18 世紀後半からはしだいに江戸に移る。 19 世紀の前半に《東海道中膝栗毛》を書いた十返舎一九にとっては,江戸の言葉が唯一の文化的言語であり,各地方の方言は滑稽の種でしかなかった。この傾向は,明治以後の社会では,官尊民卑の風潮と絡んで,第 2 次大戦後の今日では,大都会を中心とする大衆文化と関連して,いよいよ強まった。現在,たとえば地方の町が目抜きの通りを称して〈○町銀座〉というのは,文化的な中央志向の表れである。
日本語は多くの点で朝鮮語に似ているが,その起源はわからない。中国語とは明らかに別の系統に属する。しかし中国語から文字を借りたばかりでなく (表意文字としての漢字,日本で漢字を簡略化した表音文字としての仮名),多数の単語 (ことに抽象的概念) をとり入れ,若干の文章法上の特徴までも消化し,その表現力を豊富にしてきた。その表現力の広がりは,何よりも必要に応じて表現をあいまいにし,含みをもたせることもできるし (ことに抒情的な文学において),また必要ならば,綿密で明瞭な叙述をすることもできる (たとえば歴史,法令,博物誌など) 選択の幅に表れている。 〈日本語はあいまいである〉というのは正しくない。そうではなくて,日本語はあいまいに用いることもできるし,明瞭に用いることもできるのである。また漢字の組合せによる造語能力は大きく,ことに 19 世紀末,近代西洋語の語彙を翻訳するのに,きわめて有効であった。このような日本語の表現力が日本文化の発達に役だったことはいうまでもない (その美的洗練,組織能力,適応性など)。
【社会・文化の特質】
[現世主義]
仏教や儒教が大陸から導入される前の日本の民間信仰の体系は,広い意味で〈神道〉と呼ばれる。その内容は,のちに宮廷を中心として組織された〈神道〉とは,大いに異なり,相互に関連するところの少ないアニミズム,祖先崇拝,シャマニズムの要素を含む。そこでは,あらゆるものに魂 (精霊,アニマ) があり,その魂が,本居宣長も指摘したように (《古事記伝》), カミとされる。山,樹木,川などの自然の対象もカミであり,家屋,かまど,什器などの人工の品物もカミであり,死者の魂もまたカミである。カミは地域によって違い,その系譜や上下関係の秩序は明らかでない (それを明らかにし,諸地域のカミを組織化しようとしたのは, 《古事記》以後の宮廷を中心とした神道である)。
生きた人間の住む世界へのカミの影響は,善悪二面があり,保護でもありうるが (たとえば農産物の豊かな収穫),災害でもありうる (干ばつ,疾病)。死んだ祖先の魂は,カミの中でもことに丁重に祭られ,そのことによって,家族への保護が期待される。カミのいる世界は,人の住む世界と別のところにはない。ムラの境の山は,それ自身がカミであり,死んだムラ人の魂も,その山の上にとどまる。他方,死者が地下の暗いところ,ヨミの国へ往くとされる場合にも,そのヨミの国と人の住むところの間に,決定的な断絶があるわけではない。一般にカミの世界と人の世界とは,同一であるか,前者が後者の延長であり,相互の交通は,しばしば困難とされるが,不可能とはされない。困難を克服し,カミと人との意思疎通を円滑にするためには,各種の儀式があり,儀式はしばしば神官 (神主) やシャーマン (巫) を中心として行われる。
このような信仰体系の基礎の上に成立した世界観は,唯一究極の現実を日常的な現世とし,それを超える第二の現実を認めない。彼岸は,此岸に影響するかぎりで,いわば此岸の遠い延長として認められるにすぎない。日常的世界に超越する権威はなく,その権威との関連において善と悪,正義と不正義が定義されるということもない。別の言葉でいえば,この世界観の現世主義は,超越的価値の不在と離れがたく結びついている。
現世=日常的世界は具体的には共同体である。ムラ共同体の中に住む人にとっての現実はムラであり,ムラ以外ではない。ムラ人は,ムラにとって善いことをカミに願い (たとえば降雨),ムラにとって悪いことが起こらぬように願う (たとえば疫病)。しかし何がムラにとって善く,何が悪いかは,カミが決めるのではなく,ムラ人が決めるのである。カミは保護し,脅迫する。しかし何かを定義し,何かを命令することは少ない。これは,たとえばユダヤ教,キリスト教の神が,善悪を定義し,ある種の行為を命令するのと,まったく対照的である。日本の土着世界観において,価値の根拠はムラに内在し,けっしてムラを超越しない。
このような世界観は,その後の仏教や儒教によって,どういう影響をうけただろうか。 仏教は神道と融合した。少なくとも民衆の水準では,奈良朝から平安朝まで,危機に臨んだ日本人は,ほとんどつねにカミとホトケの双方に助けを求めていた (たとえば《日本霊異記》から《沙石集》に至る仏教説話集が語る無数の挿話)。仏教は〈現世利益 (げんせりやく) 〉を提供したかぎりで,広く受け入れられたというべきであろう。例外は,鎌倉仏教,ことに浄土真宗である。その信徒は,穢土 (えど) =此岸と浄土=彼岸とを鋭く区別し,前者 (現世) における利益のためではなく,後者 (後生) における個人の救いのために,阿弥陀を信仰した。そこで仏教は,内面化されると同時に (信仰は内面の問題である),超越的な価値の根拠となった (阿弥陀は共同体を超える)。したがって,日本における唯一の宗教戦争 (一向一揆) も彼らによって戦われたのである。
しかしそれは例外である。なぜならそのとき以来日本の大衆の世界観に超越的な動機が加わって今日に至ったのではなく,江戸時代以降,仏教の寺院の組織が権力と結びつくとともに,超越的な権威への信仰はしだいに失われいったからである。江戸時代は文化を世俗化した。すると仏教以前からの世界観の構造が,仏教によって根本的に変わったのではないということが明らかになった。神仏融合は進展する。あまりに進展したので,政治的な理由から国家神道をつくろうとした明治政府が,その前提として神仏分離政策をとらざるをえなかったほどである。かくして今日から振り返れば,鎌倉仏教の影響が深かった時代こそが,例外のようにみえる。日本の土着の世界観を仏教が変えたのではなくて,日本の土着の世界観が仏教を変えたのである。
儒教は,仏教のように広範な大衆に影響を与えたわけではない。江戸時代の武士支配層は,たしかに儒教――より正確には宋学の体系――を,彼ら自身の価値や習慣を合理化するための知的枠組みとして採用した。その価値や習慣は,必ずしも宋学の説く倫理的価値や形而上学的秩序と一致するものではなかった。矛盾が明らかなときには,彼らは彼らの立場を固執する。彼らの立場は,戦国武士団の理想であり,仲間の団結と主君への忠誠である。彼らにとっては,その所属する共同体を超えるいかなる絶対的価値も存在しなかった。しかるに宋学の〈仁〉は,本来いかなる具体的な共同体にも超越する宇宙的秩序 (天,理),および絶対的な歴史的権威 (聖人) によって保証される価値である。主君が仁を体現せず,天命を保たなければ,優先するのは仁であり,天命であって,主君ではない。江戸時代の武士支配層と,その御用学者は,まさに宋学のその面を,すなわち土着世界観と矛盾する価値の超越性を無視した。
アニミズム,あるいはむしろアニミズムと関連して成立した日本の世界観は,仏教および儒教の影響のもとでも,なお生き延びて今日に及ぶ。
国家のために太平洋の戦に死んだ多くの日本人があり,会社のために犯罪を犯したり,責任を負って自殺する日本人もある。そういうことは,もちろん,いかなる文化の中でも起こりうるだろう。日本の文化に特徴的なのは,そういう青年にとって国家を批判する原理,そういう会社員にとって会社を超える価値が,原則として存在しなかったということである。 〈私が死んでも会社は永遠だ〉とある会社員は言った。イスラム教徒ならば,永遠なのは,会社ではなくて,コーランだと言ったことであろう。
日本列島の大部分の地域では,気候が温暖で降雨量が多く,夏の湿度が高い。小河川がいたるところに発達し,山岳地帯は森林で覆われている。このような条件は,おそらく,大規模な治水事業を伴わない農業,ことに土地生産性の高い労働集約型の農業に有利であろう。現に日本では早くから,水田耕作が行われ,農地を私有する農家のムラが発達した。この状況は,多くの点で西ヨーロッパのそれに似ている。ナイル川流域や,ガンガー (ガンジス) 川流域,または黄河流域とは,自然的条件も異なり,農業の形態も異なる。
また豊富な森林,湿気,頻発する地震などの諸条件は,この島国での木造建築の発達に貢献したかもしれない。千数百年の歴史を通じて,日本では,住宅も記念碑的建築 (宮殿,寺院,城塞など) も,すべて木造であり,石造または鮭互造または,土製 (土蔵の例外はあるが) の建物は,ほとんどまったくなかった。木造家屋は,地震に強く,湿気に対しては風通しがよい。しかし木造建築をある程度以上に大きくすることは困難である (たとえば中国には高層の仏塔を見るが,日本の木造五重塔には,それほど高いものがない)。美的には,林の中の小型木造家屋は,自然的環境との鋭い対立よりも,むしろ調和的関係を示唆している。
アジア大陸の太平洋側に接する日本列島の位置が,日本の歴史に与えた影響は計り知れない。海に隔てられた大陸は,そこからの大規模な軍事的攻撃を困難にするのに十分なほど遠く,そこから高度の文明を輸入するためには障害とならぬ程度に近かった。日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができた。
中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術 (金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系 (仏教,儒教,道教) などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。しかし北方には日本に大きな影響を及ぼしうるような文化がなく,太平洋は日本の東側をあらゆる交通から遮断していた。要するに地理的位置は,ヨーロッパ人の立場からみての〈極東〉という言葉にも表れているように,日本を孤立させると同時に――日本側から大陸に与えた文化的影響はほとんどまったくない――,外部から煩わされることが少なく,中国文明の枠内で独特の文化を育てることを可能にした,といえるだろう。
19 世紀になって海洋がもはや決定的な障壁ではなくなると,日本の軍事的立場は弱くなった。大陸では帝政ロシアの,太平洋をはさんではアメリカの,潜在的な軍事的脅威に対抗手段をとらなければならなくなったからである。 20 世紀の日本は,まず帝政ロシアの影響力を極東から排除することに成功し,代わって中国を支配しようとして失敗し,最後に目的の明瞭でない戦争をアメリカにしかけて失敗した。 ⇒東アジア
【人種および言語】
おそくとも西暦の紀元前後から,日本列島の大部分には日本語を話す単一の民族が住んでいた。北部にアイヌがあり,その後朝鮮半島からの帰化人 (渡来人) の定着があったが,大規模な人種の混合は起こらずに今日に至る。人種と言語の単一性は,日本の歴史の特徴の一つである。
このような条件は,国家の文化的統一を,さらには政治的統一を容易にしたにちがいない。中央集権的な古代国家は,5 世紀から 12 世紀まで続く。その後に権力の分散傾向が現れたが (13 ~ 16 世紀), 16 世紀後半からは再び権力集中の過程が始まり, 2 段階を経て今日に及ぶ。すなわち江戸幕藩体制と明治官僚国家である。
政治的中央集権には,文化的中央集権が伴う。文化は中央から地方へ向かって伝播 (でんぱ) し,地方から中央へ向かうことは少ない。平安朝の宮廷文化は,しだいに地方へ拡散してゆく (勅斤集の美学,連歌,浄土教,平安仏の様式など)。 9 世紀に,地方官としての任地土佐から京へ戻る船旅の途中で,紀貫之は任地での経験を回想せず,道中の地方文化を観察せず,ただひたすら京都の生活のことを考えていた (《土佐日記》)。 13 世紀初めの将軍源実朝は,鎌倉と関東の地方文化になんらの関心を示さず,文化的にはまったく京都の貴族社会にあこがれていた。また,たとえば世阿弥の劇団は,その曲の題材を平安朝文学にとることが多く,主として京都を中心として活動していた。その地方巡業は,中央の能を地方へもたらしたので,地方演芸を中央へもたらしたのではない。
文化的中央は,17 世紀から京都に大坂を加え, 18 世紀後半からはしだいに江戸に移る。 19 世紀の前半に《東海道中膝栗毛》を書いた十返舎一九にとっては,江戸の言葉が唯一の文化的言語であり,各地方の方言は滑稽の種でしかなかった。この傾向は,明治以後の社会では,官尊民卑の風潮と絡んで,第 2 次大戦後の今日では,大都会を中心とする大衆文化と関連して,いよいよ強まった。現在,たとえば地方の町が目抜きの通りを称して〈○町銀座〉というのは,文化的な中央志向の表れである。
日本語は多くの点で朝鮮語に似ているが,その起源はわからない。中国語とは明らかに別の系統に属する。しかし中国語から文字を借りたばかりでなく (表意文字としての漢字,日本で漢字を簡略化した表音文字としての仮名),多数の単語 (ことに抽象的概念) をとり入れ,若干の文章法上の特徴までも消化し,その表現力を豊富にしてきた。その表現力の広がりは,何よりも必要に応じて表現をあいまいにし,含みをもたせることもできるし (ことに抒情的な文学において),また必要ならば,綿密で明瞭な叙述をすることもできる (たとえば歴史,法令,博物誌など) 選択の幅に表れている。 〈日本語はあいまいである〉というのは正しくない。そうではなくて,日本語はあいまいに用いることもできるし,明瞭に用いることもできるのである。また漢字の組合せによる造語能力は大きく,ことに 19 世紀末,近代西洋語の語彙を翻訳するのに,きわめて有効であった。このような日本語の表現力が日本文化の発達に役だったことはいうまでもない (その美的洗練,組織能力,適応性など)。
【社会・文化の特質】
[現世主義]
仏教や儒教が大陸から導入される前の日本の民間信仰の体系は,広い意味で〈神道〉と呼ばれる。その内容は,のちに宮廷を中心として組織された〈神道〉とは,大いに異なり,相互に関連するところの少ないアニミズム,祖先崇拝,シャマニズムの要素を含む。そこでは,あらゆるものに魂 (精霊,アニマ) があり,その魂が,本居宣長も指摘したように (《古事記伝》), カミとされる。山,樹木,川などの自然の対象もカミであり,家屋,かまど,什器などの人工の品物もカミであり,死者の魂もまたカミである。カミは地域によって違い,その系譜や上下関係の秩序は明らかでない (それを明らかにし,諸地域のカミを組織化しようとしたのは, 《古事記》以後の宮廷を中心とした神道である)。
生きた人間の住む世界へのカミの影響は,善悪二面があり,保護でもありうるが (たとえば農産物の豊かな収穫),災害でもありうる (干ばつ,疾病)。死んだ祖先の魂は,カミの中でもことに丁重に祭られ,そのことによって,家族への保護が期待される。カミのいる世界は,人の住む世界と別のところにはない。ムラの境の山は,それ自身がカミであり,死んだムラ人の魂も,その山の上にとどまる。他方,死者が地下の暗いところ,ヨミの国へ往くとされる場合にも,そのヨミの国と人の住むところの間に,決定的な断絶があるわけではない。一般にカミの世界と人の世界とは,同一であるか,前者が後者の延長であり,相互の交通は,しばしば困難とされるが,不可能とはされない。困難を克服し,カミと人との意思疎通を円滑にするためには,各種の儀式があり,儀式はしばしば神官 (神主) やシャーマン (巫) を中心として行われる。
このような信仰体系の基礎の上に成立した世界観は,唯一究極の現実を日常的な現世とし,それを超える第二の現実を認めない。彼岸は,此岸に影響するかぎりで,いわば此岸の遠い延長として認められるにすぎない。日常的世界に超越する権威はなく,その権威との関連において善と悪,正義と不正義が定義されるということもない。別の言葉でいえば,この世界観の現世主義は,超越的価値の不在と離れがたく結びついている。
現世=日常的世界は具体的には共同体である。ムラ共同体の中に住む人にとっての現実はムラであり,ムラ以外ではない。ムラ人は,ムラにとって善いことをカミに願い (たとえば降雨),ムラにとって悪いことが起こらぬように願う (たとえば疫病)。しかし何がムラにとって善く,何が悪いかは,カミが決めるのではなく,ムラ人が決めるのである。カミは保護し,脅迫する。しかし何かを定義し,何かを命令することは少ない。これは,たとえばユダヤ教,キリスト教の神が,善悪を定義し,ある種の行為を命令するのと,まったく対照的である。日本の土着世界観において,価値の根拠はムラに内在し,けっしてムラを超越しない。
このような世界観は,その後の仏教や儒教によって,どういう影響をうけただろうか。 仏教は神道と融合した。少なくとも民衆の水準では,奈良朝から平安朝まで,危機に臨んだ日本人は,ほとんどつねにカミとホトケの双方に助けを求めていた (たとえば《日本霊異記》から《沙石集》に至る仏教説話集が語る無数の挿話)。仏教は〈現世利益 (げんせりやく) 〉を提供したかぎりで,広く受け入れられたというべきであろう。例外は,鎌倉仏教,ことに浄土真宗である。その信徒は,穢土 (えど) =此岸と浄土=彼岸とを鋭く区別し,前者 (現世) における利益のためではなく,後者 (後生) における個人の救いのために,阿弥陀を信仰した。そこで仏教は,内面化されると同時に (信仰は内面の問題である),超越的な価値の根拠となった (阿弥陀は共同体を超える)。したがって,日本における唯一の宗教戦争 (一向一揆) も彼らによって戦われたのである。
しかしそれは例外である。なぜならそのとき以来日本の大衆の世界観に超越的な動機が加わって今日に至ったのではなく,江戸時代以降,仏教の寺院の組織が権力と結びつくとともに,超越的な権威への信仰はしだいに失われいったからである。江戸時代は文化を世俗化した。すると仏教以前からの世界観の構造が,仏教によって根本的に変わったのではないということが明らかになった。神仏融合は進展する。あまりに進展したので,政治的な理由から国家神道をつくろうとした明治政府が,その前提として神仏分離政策をとらざるをえなかったほどである。かくして今日から振り返れば,鎌倉仏教の影響が深かった時代こそが,例外のようにみえる。日本の土着の世界観を仏教が変えたのではなくて,日本の土着の世界観が仏教を変えたのである。
儒教は,仏教のように広範な大衆に影響を与えたわけではない。江戸時代の武士支配層は,たしかに儒教――より正確には宋学の体系――を,彼ら自身の価値や習慣を合理化するための知的枠組みとして採用した。その価値や習慣は,必ずしも宋学の説く倫理的価値や形而上学的秩序と一致するものではなかった。矛盾が明らかなときには,彼らは彼らの立場を固執する。彼らの立場は,戦国武士団の理想であり,仲間の団結と主君への忠誠である。彼らにとっては,その所属する共同体を超えるいかなる絶対的価値も存在しなかった。しかるに宋学の〈仁〉は,本来いかなる具体的な共同体にも超越する宇宙的秩序 (天,理),および絶対的な歴史的権威 (聖人) によって保証される価値である。主君が仁を体現せず,天命を保たなければ,優先するのは仁であり,天命であって,主君ではない。江戸時代の武士支配層と,その御用学者は,まさに宋学のその面を,すなわち土着世界観と矛盾する価値の超越性を無視した。
アニミズム,あるいはむしろアニミズムと関連して成立した日本の世界観は,仏教および儒教の影響のもとでも,なお生き延びて今日に及ぶ。
国家のために太平洋の戦に死んだ多くの日本人があり,会社のために犯罪を犯したり,責任を負って自殺する日本人もある。そういうことは,もちろん,いかなる文化の中でも起こりうるだろう。日本の文化に特徴的なのは,そういう青年にとって国家を批判する原理,そういう会社員にとって会社を超える価値が,原則として存在しなかったということである。 〈私が死んでも会社は永遠だ〉とある会社員は言った。イスラム教徒ならば,永遠なのは,会社ではなくて,コーランだと言ったことであろう。