とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『あの戦争から 遠く離れて』 城戸 久枝著(情報センター出版局) 

2008年03月26日 13時38分34秒 | 時事問題(日本)
(写真は、今朝のスミレです。原種ではなく品種改良されたものだと思います。別名:ビオレック スミレ科の宿根草 花期:3~4月 自生地:平地、丘稜地、山地。スミレは北半球の温帯に分布し、日本の野生種だけでも、200に及ぶ。)by園芸百科

............抜粋・引用はじめ

 1945年8月のことだった。
 日本から遠く離れた中国の東北地方。ゆったりと流れる牡丹江(ムータンジャク)のほとり、(中略)トウモロコシの髭が茶色に変わり、その髭が心地よい風に乗ってさわさわと揺れていた。真夏の強い日差しの下、畑で農作業を手伝っていた9歳の杜太義(ドウタイイー)少年がふと顔をあげると、対岸の江東屯(ジャントンドン)の川沿いの道に、1本の長い帯のように続いている黒い列が目に入った。(中略)

 頭道河子(トウダオフーズ)村は満州国の一部ではあったが、日本人は1人も住んでいなかった。(中略)少年にとって、遠く視界に広がる日本人の黒い行列はあまりにも異様な光景だった。行列はやがてはるか上流の橋を渡り、50キロ近く先にある牡丹江(ムータンジャク)市の方向へ歩いていった。たいした食料を持っていなかったのか、彼らが通り過ぎたあとには生のトウモロコシの食べかすがだけが残されていた。

 同じころ、頭道河子(トウダオフーズ)よりも上流にある佛塔蜜(フオーダーミー)という村のはずれで、23歳の付淑琴(フースーチン)は牡丹江(ムータンジャク)に架かる柴河(ジャイフー)大橋の上を列を成して歩く日本人たちの姿を見かけた。淑琴(スーチン)は大人が幼い子供を河に放り投げるのを目撃していた。生きているのか死んでいるのか、小さな子どもがまるで荷物のように河へ落とされ、浮き沈みしながら流されていく。このあたりでは、川幅は150メートルも超え、夏のこの時期、水深は一番深いところで5メートルほどにもなった。もしまだ生きていたのなら、幼い子供が泳いで岸までたどり着けるものではない。
 あまりにも無残な光景に淑琴(スーチン)は思わず顔をそむけた。

 1931年の満州事変以降、翌年の満州国建国を経て、日本は国策として本格的に満州への移民を進めた。(その数は終戦までに約32万にのぼる)。多くは農民で、ソ連国境近くの入植者も約半数にのぼった。そこは終戦間際の1945年8月9日に開始されたソ連軍の満州侵攻の際に、もっとも危険にさらされた地域であった。
 その年の夏、戦況の悪化により開拓団の男たちは根こそぎ召集され、入植地には老人や女性、子供ばかりが残されていた。(中略)彼らは(祖国へ向かって)歩くしかなかった。しかし逃避行のなかで待ちうけていたのはまさに生き地獄というべき悲惨な運命だった。

 ソ連軍による爆撃や銃撃、暴行で命を落とす人、絶望の果てにやむなく集団自決した人、病で亡くなる人、現地の中国人たちに襲撃され殺害される人など、敗戦前後の混乱のなかで多くの人々が命を落とした(開拓移民のうち日本に帰国することができたのは11万人ほどだった)(中略)多くの日本人の子供たちが親を亡くし、あるいは家族とはぐれ、中国人の養父母にもらわれて中国人として育てられることになる。

「いくら日本人の子供だってかわいそうじゃあないか。許してやってくれ」
そういう中国人の人情のなかで(著者の父は)守られ助けられ、里親がみつかるまで、たらいまわしにされた。理由は、中国農民が貧しかったことと、日本人であることがばれたらどんなひどい目にあうか分からなかったいう恐怖心があったからだ。しかし1945年。8月下旬に、村の大地主から日本人の子供の引き取り手を捜していると聞いた付淑琴は、自分が引き取り手になると名乗りをあげた。


「私はこの子の母親になる。どんなことがあっても絶対に手放さない」

著者の父親は、当時数え年5歳だったという。

 中国では、新たな戦争が始まっていた。日常的にある小競り合いのような戦闘には慣れていたが、一度だけ大きな戦闘に巻き込まれたことがあった。

 「戦争がはじまった!逃げるよ!」
男の子は手をひかれて家を飛び出した。トウモロコシ畑のなかで身を隠していたが、二人のすぐ近くで、機関銃や鉄砲の銃ち合いがはじまり、男の子は体の震えがとまらなかった。すると養母が急に叫んだ。

「大砲がくる!走るよ!」
ドドーン ドドーン。
鼓膜が破れるかとおもうほどの大きな迫撃音がして、次の瞬間、二人の体はふわっと宙に浮かんだ。養母はとっさに男の子の上に覆いかぶさった。腹ばいに重なった二人の体はそのまま何度も地面に叩きつけられた。ほんの一瞬だった。すぐ近くに砲弾が落ちたのだ。幸い男の子も養母も無事だった。白い煙がもくもくとトウモロコシ畑を漂うなか、男の子は養母にしがみついて泣きじゃくった。体を小刻みに震わせながら泣く子を、養母はしっかりと抱きしめた。


「もう大丈夫だよ。これからもずっと母さんがお前を守ってやるからね」
 血のつながらない親子が本当の親子になった瞬間だった。
...............抜粋・引用おわり


................要約はじめ


(日本へ帰って、この人は実父母を見つけている。いや、自力で見つけたこそ、自力で祖国へ帰ったのだ) 日本へ帰ったあるとき、大人になった幹(この男の日本名)は、養母はいま元気に暮らしているだろうか――養母への募る思いを幹は日記に綴った。


〈母さんに手紙を書かなければならないけど、手紙を書こうと思うだけで涙があふれ出てきて、手紙を書き進めることができないのです。母さん、僕はなぜこんなにあなたから遠く離れてしまったのでしょうか........〉

...............要約おわり

著者城土久江は、一度だけ、この「中国のおばあちゃん」に父親とともに会っている。父親が家族を連れて「ふるさと」中国を訪れたからだ。
「中国のおばあちゃん」はハンケチを目にあて、ただ泣いていた。

養母が病に倒れたという電報が届いて幹(当時5歳だった子供の日本名)がかけつけた。

...............要約はじめ
養母の病状は幹が思った以上によくなっていた。いや、10年ぶりに息子に会えたことが、養母の生命力をよびもどしたのかもしれない。養母は幹の体をさすり、息子に会えたことを本当に喜んでいた。(中略)帰る日、養母は、弱った体をおして杖をついて駅まで見送りにきた。ゆっくりゆっくりと歩く養母の姿を、幹はしっかりと目に焼きつけた。
 これが、幹と養母が過ごした最後の時間だった。
.................要約おわり
 


この本をスタートに、これから、私なりに、ゆっくりと歴史をたどっていくつもりです。
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