URUK NEWS イラク情勢ニュース (転送・紹介歓迎)
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2008/03/27 (木)
[飛耳長目録 today's news list]
☆イラク帰還兵が語る戦争の実態
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☆★米国/イラク: 投げ捨てられた交戦規定
US/IRAQ: Rules of Engagement "Thrown Out the Window"
ダール・ジャマイルの中東速報 3月15日
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** Dahr Jamail's MidEast Dispatches **
** Visit the Dahr Jamail website http://dahrjamailiraq.com **
Inter Press Service
(インター・プレス・サービス)
By Dahr Jamail
メリーランド発、3月15日(IPS) -- ガレット・リーペンハーゲン
は、コソボに派遣されるときには、ジュネーブ協定と交戦規定について総合的訓
練を受けた。しかしイラク戦争では、「そんなものほとんどが窓から投げ捨てら
れた」と言う。
イラク戦争とアフガン戦争の体験を語る帰還兵の討論会場で、「彼らはアメリ
カを守るつもりでイラクに行ったが、そこですぐに気づいたことは、われわれは
恐ろしい遣り方でイラク人を殺しているということだった。だが自分たちの身を
守らねばならなかった。戦争とは残虐行為だ」とリーペンハーゲンは話した。
国際的なメディアの注目を集めたこの企画は、<戦争に反対するイラク帰還兵
>によって準備された。その狙いは、こうした悪行が少数の「腐ったリンゴ」に
よってなされる限定的なもの(ペンタゴンはそういう)ではなく、日常的に毎日
おこなわれていることだと知らせるためである。
この集まりの第1日目に催された「交戦規定(Rules of Engagement, ROE)に
関するパネル討論は、30年前にベトナム戦争からの帰還兵による同様の企画か
ら「越冬する兵士」と名付けられ、イラク、アフガニスタン、ベトナム帰還兵を
含む数百人を前にして開催された。創設者であるアメリカ人トーマス・ペインに
によると、<越冬する兵士>は自国の魂のために手さぐりで立ち上がった人々で
ある。
リーペンハーゲンは2004年2月から2005年までイラク(バクーバ市、
バグダッドの北東40キロ)に派遣された。彼がイラクで最初に体験したことパ
トロールであり、その任務中に夜間に農場で働いていた2人のイラク人農夫を殺
した。
「彼らが農場に出て来たのは、使っているポンプが電気でしか動かないからだ
と聞かされた。つまり彼らは電気がつくと暗闇のなかを外にでるということだ」
と彼は説明した。「私は軍曹に、それを知っていても男を撃つのかと尋ねた。軍
曹の答えは、男が夜間外出禁止令のなかを出て来たからだというものだった。私
はイラクに派遣されていた期間、それ以外の交戦規定を教えられなかった」。
このパネル討論には別のイラク帰還兵ビンセント・エマニュエルも参加してい
た。彼は2004年から2005年の期間、海兵隊員としてイラク北部のカイム
市近郊にいた。エマニュエルは、「通り過ぎる車を手当たり次第に撃つこと」は
常時あることで、「特に珍しいことではなかった」と説明した。
「橋を爆破しようとしているときに銃撃されたことがある。撃った者の多くは
一般市民のなかにまぎれていた。それで私の部隊は、市民をおしのけるように何
でもかんでも撃ちまくった。的を確かめることもなく、銃弾がなくなるまで撃っ
たことを覚えている。」
他のパネリストがうなづいているかなで、エマニュエルはさらに捕虜(被拘束
者)虐待について話した。彼はその人物が無実だと知っていた。「私たち自身の
腹いせのためで、彼らをハンビーに乗せて行って、蹴ったり殴ったりしながら砂
漠に放りだした」。
他の2人の兵士は、死んだのはレジスタンス戦士だとか道路脇爆弾を仕掛けよ
うとしていたとか言って殺人を正当化するために、間違って射殺した市民のそば
に武器やシャベルを置いたことを話した。
ジェイスン・ウォシュバーンは海兵隊の伍長で、イラクには3度派遣された。
最後の任務では2005年から2006年までハディッサにいた。
「間違って一般市民を射殺したときには、現場に武器やシャベルを残すことが
奨励された。死体の上に武器を置いて、彼らはゲリラだったという振りをした」
と彼は話した。「3度目の派遣までは、シャベルやバッグを持っている者がいた
ら、彼らを射殺してよかった。それで車にはそのための道具や武器を積んでいた
。一般市民を射殺したときには、そうした道具を遺体のうえに放り投げたものだ
。これは普通に奨励されていた」。
ウォッシュバーンはさらに、交戦規定が「ずいぶん」変わったことについて説
明した。
「危険レベルが高まるにつれ、もっと荒っぽく対応するよう命令された。<自
由発砲区域>とされた街があった。あるとき、ハディッサ近郊の町で町長が銃撃
されたが、銃撃がフロントガラスに集中していたことから、これは模範とされ、
海兵隊がやったような良いできだと言われた。そう言ったのが町長だった」。
ジェイスン・ウェイン・レミューはイラクに3度派遣された海兵隊員である。
彼は5年前のイラク侵攻時における最初の遠征について、「上官が私に言った
ことは、殺される必要のあるものは殺し、救う必要のある者は救え、それが最初
の派遣に際しての私たちの任務だった」と語った。
レミューはさらに、「交戦規定が変わってからは、シャベルを携行せよ、ある
いは携帯電話を使っている家の屋根に立て、外出禁止時間に外出する者が殺せだ
った。このせいでどれだけ多くの人々が死んだか数え切れない。3度目の派遣の
際には、人々を撃つのみだと命令され、上官がうまくかばってくれると言われた
」と話を続けた。
ジョン・マイケル・ターナーはイラクに派遣される海兵隊に機関銃の担当とし
て2度配置された。彼は聴衆に、「リングは芯まで食い尽くすのが海兵隊だと教
えられた」と語った。ターナーはその後、軍の徽章を服から剥ぎ取り、地面に投
げ捨てた。
「2006年4月18日は私が最初に人を殺した日付だ」と彼は暗い表情で言
った。「相手は無実で、私は彼に太ったヤツと声をかけた。彼は歩いて帰宅する
ところで、彼の父親と友人の目の前で彼を殺した。私の1発目の銃撃で彼が悲鳴
をあげる姿が目に入った。それで同僚の方を見て、俺のせいじゃないと言い、そ
してまた撃った。最初の殺人のあと、(同僚兵からは)おめでとうと言われた」
。
ターナーは米国における既成のメディア報道がひじょうに骨抜きになっている
理由の一端を説明した。「いつでも記者がエンベッド取材をしていて、われわれ
の行動は思い切って作り変えられた」と彼は言った。「われわれはすべてを規則
通りにやるので、それはひじょうに低調なものだ」。
感情をたかぶらせたターナーは、結論として、こう話した--「私と他のアメ
リカ兵が無実の人々に与えた憎しみと破壊について、私はおわびを述べたい。こ
れは今も続いているので、それで許されることはないが、(現地で)何が起こっ
ているかを国民が知らなければ、それはいつまでも続けられるだろう。私は一度
は人でなしになったが、もはやそうではない」。
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http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/index.html
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2008/03/27 (木)
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は、コソボに派遣されるときには、ジュネーブ協定と交戦規定について総合的訓
練を受けた。しかしイラク戦争では、「そんなものほとんどが窓から投げ捨てら
れた」と言う。
イラク戦争とアフガン戦争の体験を語る帰還兵の討論会場で、「彼らはアメリ
カを守るつもりでイラクに行ったが、そこですぐに気づいたことは、われわれは
恐ろしい遣り方でイラク人を殺しているということだった。だが自分たちの身を
守らねばならなかった。戦争とは残虐行為だ」とリーペンハーゲンは話した。
国際的なメディアの注目を集めたこの企画は、<戦争に反対するイラク帰還兵
>によって準備された。その狙いは、こうした悪行が少数の「腐ったリンゴ」に
よってなされる限定的なもの(ペンタゴンはそういう)ではなく、日常的に毎日
おこなわれていることだと知らせるためである。
この集まりの第1日目に催された「交戦規定(Rules of Engagement, ROE)に
関するパネル討論は、30年前にベトナム戦争からの帰還兵による同様の企画か
ら「越冬する兵士」と名付けられ、イラク、アフガニスタン、ベトナム帰還兵を
含む数百人を前にして開催された。創設者であるアメリカ人トーマス・ペインに
によると、<越冬する兵士>は自国の魂のために手さぐりで立ち上がった人々で
ある。
リーペンハーゲンは2004年2月から2005年までイラク(バクーバ市、
バグダッドの北東40キロ)に派遣された。彼がイラクで最初に体験したことパ
トロールであり、その任務中に夜間に農場で働いていた2人のイラク人農夫を殺
した。
「彼らが農場に出て来たのは、使っているポンプが電気でしか動かないからだ
と聞かされた。つまり彼らは電気がつくと暗闇のなかを外にでるということだ」
と彼は説明した。「私は軍曹に、それを知っていても男を撃つのかと尋ねた。軍
曹の答えは、男が夜間外出禁止令のなかを出て来たからだというものだった。私
はイラクに派遣されていた期間、それ以外の交戦規定を教えられなかった」。
このパネル討論には別のイラク帰還兵ビンセント・エマニュエルも参加してい
た。彼は2004年から2005年の期間、海兵隊員としてイラク北部のカイム
市近郊にいた。エマニュエルは、「通り過ぎる車を手当たり次第に撃つこと」は
常時あることで、「特に珍しいことではなかった」と説明した。
「橋を爆破しようとしているときに銃撃されたことがある。撃った者の多くは
一般市民のなかにまぎれていた。それで私の部隊は、市民をおしのけるように何
でもかんでも撃ちまくった。的を確かめることもなく、銃弾がなくなるまで撃っ
たことを覚えている。」
他のパネリストがうなづいているかなで、エマニュエルはさらに捕虜(被拘束
者)虐待について話した。彼はその人物が無実だと知っていた。「私たち自身の
腹いせのためで、彼らをハンビーに乗せて行って、蹴ったり殴ったりしながら砂
漠に放りだした」。
他の2人の兵士は、死んだのはレジスタンス戦士だとか道路脇爆弾を仕掛けよ
うとしていたとか言って殺人を正当化するために、間違って射殺した市民のそば
に武器やシャベルを置いたことを話した。
ジェイスン・ウォシュバーンは海兵隊の伍長で、イラクには3度派遣された。
最後の任務では2005年から2006年までハディッサにいた。
「間違って一般市民を射殺したときには、現場に武器やシャベルを残すことが
奨励された。死体の上に武器を置いて、彼らはゲリラだったという振りをした」
と彼は話した。「3度目の派遣までは、シャベルやバッグを持っている者がいた
ら、彼らを射殺してよかった。それで車にはそのための道具や武器を積んでいた
。一般市民を射殺したときには、そうした道具を遺体のうえに放り投げたものだ
。これは普通に奨励されていた」。
ウォッシュバーンはさらに、交戦規定が「ずいぶん」変わったことについて説
明した。
「危険レベルが高まるにつれ、もっと荒っぽく対応するよう命令された。<自
由発砲区域>とされた街があった。あるとき、ハディッサ近郊の町で町長が銃撃
されたが、銃撃がフロントガラスに集中していたことから、これは模範とされ、
海兵隊がやったような良いできだと言われた。そう言ったのが町長だった」。
ジェイスン・ウェイン・レミューはイラクに3度派遣された海兵隊員である。
彼は5年前のイラク侵攻時における最初の遠征について、「上官が私に言った
ことは、殺される必要のあるものは殺し、救う必要のある者は救え、それが最初
の派遣に際しての私たちの任務だった」と語った。
レミューはさらに、「交戦規定が変わってからは、シャベルを携行せよ、ある
いは携帯電話を使っている家の屋根に立て、外出禁止時間に外出する者が殺せだ
った。このせいでどれだけ多くの人々が死んだか数え切れない。3度目の派遣の
際には、人々を撃つのみだと命令され、上官がうまくかばってくれると言われた
」と話を続けた。
ジョン・マイケル・ターナーはイラクに派遣される海兵隊に機関銃の担当とし
て2度配置された。彼は聴衆に、「リングは芯まで食い尽くすのが海兵隊だと教
えられた」と語った。ターナーはその後、軍の徽章を服から剥ぎ取り、地面に投
げ捨てた。
「2006年4月18日は私が最初に人を殺した日付だ」と彼は暗い表情で言
った。「相手は無実で、私は彼に太ったヤツと声をかけた。彼は歩いて帰宅する
ところで、彼の父親と友人の目の前で彼を殺した。私の1発目の銃撃で彼が悲鳴
をあげる姿が目に入った。それで同僚の方を見て、俺のせいじゃないと言い、そ
してまた撃った。最初の殺人のあと、(同僚兵からは)おめでとうと言われた」
。
ターナーは米国における既成のメディア報道がひじょうに骨抜きになっている
理由の一端を説明した。「いつでも記者がエンベッド取材をしていて、われわれ
の行動は思い切って作り変えられた」と彼は言った。「われわれはすべてを規則
通りにやるので、それはひじょうに低調なものだ」。
感情をたかぶらせたターナーは、結論として、こう話した--「私と他のアメ
リカ兵が無実の人々に与えた憎しみと破壊について、私はおわびを述べたい。こ
れは今も続いているので、それで許されることはないが、(現地で)何が起こっ
ているかを国民が知らなければ、それはいつまでも続けられるだろう。私は一度
は人でなしになったが、もはやそうではない」。
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