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79回目の「終戦の日」 政府主催の全国戦没者追悼式(2024年8月15日)

2024年08月15日 19時59分52秒 | 戦争

79回目の「終戦の日」 政府主催の全国戦没者追悼式(2024年8月15日)

【近衛上奏文で、45年2月に、停戦要求が出されたのを、天皇と軍部が却下した後、東京大空襲、沖縄線の突入と多大な犠牲、神風特攻隊の若者たちの終戦直前の爆死、全国絨毯爆撃、広島、長崎の被爆、が起こった。天皇と軍部が停戦を却下したばかりに、その後、何十万人もの国民の犠牲が出た。】
 
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近衛上奏文(このえじょうそうぶん)は、太平洋戦争末期の1945年昭和20年)2月14日に、近衛文麿昭和天皇に対して早期終戦を上奏した文書」
 
 
東京大空襲東京都は1944年(昭和19年)11月24日から1945年(昭和20年)8月15日まで[5]合計106回もの空襲を受けたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日〜26日の5回は大規模だった。

その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。「ミーティングハウス二号」[6]。Meetinghouse 2[7]を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超え[10]、死者は9万5千人を超えたといわれる」

 
沖縄戦(おきなわせん)または沖縄の戦い(おきなわのたたかい)とは、第二次世界大戦末期の1945年昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍英軍を主体とする連合国軍日本軍との間で行われた戦いの総称である。沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、沖縄本島での組織的な戦闘は4月1日に開始、6月23日に終了した。
沖縄での両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[37]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の日本軍兵士が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人で28,228人が現地召集の将兵である[38][39][40]。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる[41]。アメリカ軍側は死者・行方不明者20,195人[42][43][注釈 4]となったが、これは1944年12月に戦われた、西部戦線最大の激戦の1つであるバルジの戦いの戦死者最大約19,000人[注釈 5]を上回り[45]、アメリカ史上でも、オーヴァーロード作戦第一次世界大戦におけるムーズ・アルゴンヌ攻勢に次いで3番目に死者が多い戦いであった」
 
 
神風特別攻撃隊 昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返した」
 
日本本土空襲にほんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦中に連合国軍が大日本帝国各都市や工場などに対して行った空襲である。

1944年昭和19年)11月24日から本格化し、1945年春頃から本格的な戦略爆撃となり、大規模な無差別爆撃も実施された。主力となったアメリカ陸軍航空軍B-29爆撃機、B-24爆撃機により日本の主要都市は焦土と化した」

日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦大東亜戦争/太平洋戦争)の末期である1945年昭和20年)8月に、連合国アメリカ合衆国枢軸国日本に投下した2発の原子爆弾による空爆。1945年7月マンハッタン計画によって史上初の核実験が行われた。

1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された(広島市への原子爆弾投下

1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。

年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなりました

原子爆弾が日本国民にもたらしたものは、反米感情ではなく、放射能放射線に対する「恐怖」であった[80]。そしてそれは戦後しばらくの間、被爆者に直接向けられた。新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の痕から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすようになっていった。今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に蔓延したためであったと分析・公表している。

被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、何の公的支援もなされない状況が長く続いた。国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である。

被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、何の公的支援もなされない状況が長く続いた。国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である」

 

全国戦没者追悼式。「深い反省」。戦争を煽るが、戦争を知らない党老人達。中国は靖国には文句を言って、全国戦没者追悼式には文句は言わない。この違いが分からない人達になったのが殆どでは。靖国とはA級戦犯が祀られているとこ。全国戦没者追悼式は戦没者の追悼。
昭和天皇からずっと天皇が参拝を拒否しているところへ 自民党政治家などがカルト参拝する日。 (1978年から拒否している)


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