とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

『 Command the Mornig 』 Pearl S ・Buck   ラスト

2007年11月08日 09時22分33秒 | 時事問題(日本)
 さまざまな、いきさつの末、アメリカと日本は、ついに敵同士になり、HIROSIMA,NAGASAKIに原子爆弾が投下されました。
 
 2007年6月、米国ボルチオワに於いて記された丸田浩氏の「解説」には、つぶさに史実が追われており、それは、こういう言葉でしめくくられておりました。


「最初の原爆の犠牲になってすら、原子力エネルギーにどっぷり浸り、戦後の経済成長のために「環境の破壊」(地球の温暖化)に目をつぶり続けてきた日本人たちは今、(二世代以上に前に起こった)原爆の悲劇を既に忘れて、平和憲法(特に第九条)を改悪して、自衛隊の海外派遣、再軍備を強化し、再び「世界の破壊」に加担するつもりなのだろうか?
 太平洋戦争中、日本軍から(原爆に勝るとも劣らない)酷い仕打ちを受けた中国、朝鮮、東南アジア諸国、そして沖縄の住民たちは少なくとも、それをいつも恐れている。「大和民族よ、喉もとが渇いても、熱さだけは決して忘れないでほしい」と、彼らは朝晩のごとく祈っている。彼らは、南京やマニラなどで受けた日本軍による仕打ちを絶対に忘れないからだ。アメリカ国民が日本軍による「真珠湾攻撃」を決して忘れないように、それと同様に、日本国民がアメリカ政府による「広島・長崎への原爆投下」を決して忘れないように、私を含めて(戦争を直に体験した)我々の世代は切に祈りたい。戦争の悲惨さを忘れた時、人々はまた戦争を始めようとするからだ。

 最後に、この訳本の出版に情熱を持って取り組んでくださった径書房の皆様に、深く感謝の意を表します。」

 (ラストに、この『神の火を制御せよ』を世に送り出した方々の人生につきまして、引用をさせていただきます。敬称略)

        著者  パール・バック(1892-1973)
 1982年(私注:1892年?)に米国のウェスト・バージニアで宣教師の娘として生まれるが、生後3ヶ月で両親の伝道先である中国大陸に渡り、その半生を過ごす。米国のランドルブ・メイコン女子大学を卒業後まもなく、中国で農業経済学を教えるロッシング・バック氏と結婚。長女キャロルを産むが、キャロルが重度の知的障害であったことから、結婚は遂に破綻に終わる。娘を米国の施設に預け、生涯面倒をみてもらうために必要な費用を自ら稼ぐ目的で執筆を始め、中国貧民の生活を描いた小説『大地』(1931年)を米国で発表。不朽の名作となる。小説は数年後に映画化され、1938年には、ノーベル文学賞を米国女性として初めて受賞。南京で教鞭をとっていたパール・バックは、日本軍による南京大虐殺(1937年)の直前に米国に帰国。以後ペンシルバニア州の郊外にある農場に永住して作家生活を続け、80以上の文学作品を発表する。執筆のかたわら、「東西文化の橋渡し」の役を果たすと共に、黒人、婦人、混血児など、当時「虐げられた人々」と呼ばれていた階層の代弁者として、社会改革運動に献身する。戦後、日本をはじめアジア諸国に溢れた米軍将兵として現地のアジア女性との間に生まれた「アメラジアン」(米亜)混血孤児たちを救済するために、私財を投じて「ウエルカム・ハウス」や「パールバック財団」を創設したのは、その有名な一例。1960年には、日本を舞台にした児童向け短編小説『THE BIG WABE(大津波)』(邦題『つなみ』(径書房刊)の日米合作映画のために来日。戦前の疎開先だった長崎雲仙地方でのロケに参加した。詳しくは『パール・バック伝』(舞字社刊)を参照。


       監修者 丸田 浩
 1972年(私注:1942年東京生まれ?)東京大学大学院薬学研究科で博士号を取得。翌年渡米して以来、ずっと海外で癌研究に従事。米国の最大医学研究所NHI、エール大学、および西独のマックス・プランク研究所などに勤務後、1988年に豪州にあるルードビッヒ国際癌研究所の中心(メルボルン支部)に制癌剤開発部長として勤務。2006年3月末に同支部を退職し、ドイツのハンブルグ大学付属病院に客員教授として勤務。主な訳書『免疫学者バーネット』(学会出版センター1995年)、『パール・バック伝』上下巻(舞字社2001年)、『テンジン、エベレスト登頂とシュルパ英雄伝』(晶文社2003年)、『エレガンスに魅せられて』(琉球新報社2005年)、著作『癌との闘い』(共立出版2001年)など。


       訳者  小林政子
 1972年(私注:好き勝手に訳文を使わせていただき、申し訳ありませんでした)明治学院大学英文科を中退し外務省に勤務。リスボン大学で2年間語学研修。主に本省では中近東アフリカ局、国際局原子力科など。在外ではブラジル、カナダに勤務。1998年に外務省を辞職し翻訳に従事。主な訳書『一瞬の夢 ギャンブル』(大田出版2005年)など。
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