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「表現の不自由展・その後」中止事件と「天皇の写真を燃やした」という誤解   篠田博之 | 月刊『創』編集長   8/8(木) 21:49

2019年09月28日 09時16分55秒 | 地理・歴史・外国(時事問題も含む)

「表現の不自由展・その後」中止事件と「天皇の写真を燃やした」という誤解

「天皇の写真を燃やした」という誤った情報

 私はウェブNHKで中継映像が流れるのを見ながら大浦さんと話していたのだが、その日までは「少女像の展示中止か」という話だったので、大浦さんもその前提で話していた。そして私が「大浦さん、これ少女像だけでなく企画全体が中止という発表だよ」と話すと、大浦さんは「え、それはありえない」とショックを受けていた。

 その後、8月4日か5日に津田さんから中止を説明する電話があったようだが、8月7日に議員会館での抗議集会で発言した別の出展者・中垣克久さんも、中止について出展者に事前説明がなかったことを問題にしていた。

芸術作品を政治的文脈で矮小化

 さて大浦さんについて言えば、8月4日付産経新聞は、こう報道している。

《元慰安婦を象徴する「平和の少女像」のほか、昭和天皇の写真を燃やすような動画作品に批判が殺到するなど議論を呼んだ》

 会場で見た客に話を聞いて記事にしたのだろうが、その動画で燃やしていたのは大浦さんの作品で、そこに確かに昭和天皇もコラージュされているのだが、「天皇の写真を燃やした」というのとは意味合いが違う。正確な報道にするために、せめて作品について説明する時に関係者に確認取材くらいはしてほしいと思う。

 なぜならば産経を見て4日に抗議電話を行った人もいたはずで、4日には抗議の約4割が大浦さんの作品に対してだったという。大浦さんはこう言っている。

「天皇制を批判するために天皇の写真を燃やしたという、そういう政治的な文脈で受け取られたのかもしれませんが、それは全く違います」

  

 大浦さんの作品とそれがどんなふうに受け止められてきたかを紹介するのは、今回の中止事件を考えるうえで参考になると思うので、ここで以前の『創』記事を収録した新刊『皇室タブー』の一部を引用しよう。

大浦作品に登場する昭和天皇の意味

 《大浦さんは若い頃から美術家を志し、ニューヨークへ渡る。10年ほどに及ぶニューヨーク滞在中の32~33歳の頃に描いたのが「遠近を抱えて」の連作だった。そこで昭和天皇がどんなイメージとして浮かび上がったのか、本人に改めて聞いた。

 「昭和天皇は、子どもの頃、学校から国体を観に行った時に実際に目にしたことがありました。僕は駒沢に住んでいたんですが、駒沢競技場で開催された国体を観に天皇・皇后夫妻が来ていたんです。でもそれに限らず、僕は戦後生まれですが、天皇は新聞とか雑誌で身近に見ている存在でした。学生運動をやってて、反権力の観点から天皇制を批判したとか、そういうイデオロギー的な関心じゃないんです。むしろニューヨークへ行っていたことで、子どもの頃とまた違う意味で天皇を相対化して見れたと思うんですよね。

 そもそも僕は、社会や現実と向き合わないところがある日本の美術界に疑問を感じて、ニューヨークで美術家をめざそうとしたのです。でも見知らぬ土地へ行って作品を描いていてのれんに腕押しみたいな感じがあって悩んでいたんですね。

 そうしたなかで、ある時、自分自身を描けばいいんじゃないかと思いついた。もちろんただ自分の顔を描くという意味ではなくて、自分の内なるものを描いてみたいと思ったのです。『心の問題としての自画像』ですね。なんかこう、心の中の変化・変遷してゆく自分を描きたい、と。

 あなたにとって昭和天皇とは何ですか? その問いをもう私は何度も大浦さんに投げているのだが、自画像だ、天皇も自画像だ、とわかったようなわからないような返事が返ってくる。しかし、話を総合すると、海外へ行って自分のアイデンティティを模索するなかで天皇に行き着いたということらしい。確かに天皇、特に昭和天皇というのは、一定以上の世代の日本人の深層心理に影を落としている可能性がある。我々にとってそういう存在なのかもしれない。

 戦前の人たちにとっては、天皇の写真は「御真影」だった。しかし、戦後生まれの我々の世代には、それとは別の意味で天皇の像が自分たちの中に埋め込まれている気がしないでもない。

 「遠近を抱えて」の14点の版画の中には、昭和天皇の若い頃のコラージュも登場する。たぶん平成以降の世代の人たちにとっては、それは昭和天皇であることもわからない。「これは誰?」という存在でしかないだろう。天皇のイメージはそんなふうに、同じ日本人でも世代によって異なる。》

 《その天皇のイメージと、それを畏怖するという皇室タブーとが密接に関わっていることは間違いない。それは本書がテーマにしている「皇室について日本人の持っているタブー意識とは何なのだろう?」という問いにも通じているような気がするのだ。

出展された作品について本来やるべきだったことは

 文中にある「右翼の攻撃を受け」云々というのは、1985年の富山県での事件で、全国の右翼団体が抗議に押し掛けるようなものだった。そういう事件についてある程度知識のある人にとっては有名な事件だ。

 そしてこの作品に対してこれまでどんな紆余曲折があったかを書いた『皇室タブー』の大浦さんについて書いた章(『創』から収録したもの)を特別にヤフーニュース雑誌で公開することにした。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190806-00010000-tsukuru-soci

8月22日に中止事件を議論するシンポジウム開催 

 この問題について議論するために、私たちは8月22日、下記のようなシンポジウムを企画した。「表現の不自由展・その後」に出品した作家たちに集まってもらい、作品や出品の意図を語ると同時に、今回の事件について表現者としてどう考えるのか、意見表明してもらって議論したいと思う。当日の出演者・発言者はまだ交渉中で、出展者全員にまだ連絡が取れていないのだが、この記事を見て連絡くださればもちろん当日の発言・出演可能です。

 

緊急シンポ!「表現の不自由展・その後」中止事件を考える

8月22日(木)18時15分開場 18時30分開会(予定) 21時終了

会場:文京区民センター3階A会議室 

https://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/kumin/shukai/kumincenter.html

定員:470名 参加費:1000円

 作品を出品していた人など当事者たちのほかに、金平茂紀さん(TVジャーナリスト)や香山リカさん(精神科医)など多くの人をまじえて議論を行う予定だ。

座席を確保したい人は下記より予約をしてほしい。

https://tinyurl.com/y3rzm8et

日本ペンクラブの声明、国際ペンも異例のコメント 

《日本ペンクラブ声明―あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」の展示は続けられるべきである

 制作者が自由に創作し、受け手もまた自由に鑑賞する。同感であれ、反発であれ、創作と鑑賞のあいだに意思を疎通し合う空間がなければ、芸術の意義は失われ、社会の推進力たる自由の気風も萎縮させてしまう。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」で展示された「平和の少女像」その他に対し、河村たかし名古屋市長が「(展示の)即刻中止」を求め、菅義偉内閣官房長官らが同展への補助金交付差し止めを示唆するコメントを発している。

 行政の要人によるこうした発言は政治的圧力そのものであり、憲法21条2項が禁じている「検閲」にもつながるものであることは言うまでもない。また、それ以上に、人類誕生以降、人間を人間たらしめ、社会の拡充に寄与してきた芸術の意義に無理解な言動と言わざるを得ない。

 いま行政がやるべきは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思を疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことである。国内外ともに多事多難であればいっそう、短絡的な見方をこえて、多様な価値観を表現できる、あらたな公共性を築いていかなければならない。       

2019年8月3日

 日本ペンクラブは国際ペンの日本支部にあたるのだが、この中止事件については国際ペンも関心を寄せ、ホームページに大きく取り上げた。この取り組みは異例のことと言ってよい。今やこの問題、国際的な事件になっているのだ。

 既に「あいちトリエンナーレ2019」に出品していた韓国の作家が抗議の意味をこめて作品を自ら取り下げたり、韓国でも作家や表現者がコメントをしているようだ。

なお拙著新刊『皇室タブー』は全国書店、ネット書店などで発売中だ。

『皇室タブー』創出版刊

定価:本体1500円+税 四六判 256ページ

ISBN 978-4-904795-58-3


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