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イスラエル建国|ユダヤ人の国家の成立,中東問題
イスラエルとは、ヘブライ語で「神の戦士」を意味する、ユダヤ人の独立国家である。ユダヤ人にとっては悲願の独立国家であったが、それに反対するアラブ諸国(エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラク)と建国以来、対立が続き、中東戦争が始まる。
イギリスによるアラブ独立国建設の約束
第一次世界大戦まで、パレスチナを含むアラブ地方は、オスマントルコ帝国の領土であったが、第一次世界大戦が始まると、オスマントルコ帝国はドイツ側について、イギリスやフランスと戦争し、中東は戦場となった。この戦場を打破するため、イギリスは、トルコの支配下にあったアラブ人を味方につけるための工作を行い、イスラム教の聖地メッカを守っていたアラブ人の有力者フセインに対して、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国を作る約束を与えた。これがマクマホン書簡と呼ばれ、この交渉のイギリス側代表がカイロ駐在のヘンリー・マクマホンによる、一連のやりとりの手紙は、「フセイン・マクマホン往復書簡」と呼ばれた。
アラブの反乱
フセインは、イスラム教の創始者ムハンマドの子孫で、「高貴な血筋をひく」として、アラブ世界で強い影響力を持っていた。イギリスとの確約を得たフセインは、1916年6月、アラブの独立を宣言し、トルコに対してアラブの反乱を起こした。
イギリスによるユダヤ人国家建設の約束
1917年11月、中東における親英国の建設を狙ったアーサー・バルフォア外相が、イギリスのシオニストグループの代表に書簡を送り、ユダヤ人の国家建設の約束を行った。(バルフォア宣言)書簡にはイギリス政府が、パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを支持すると書かれており、イギリス政府との確約を得たシオニズム運動に携わるユダヤ人は、続々とパレスチナに入り、「キブツ」(集団農場)の建設が始まった。
キブツ
キブツは、ヘブライ語で「集合」を意味し、イスラエル独自の共同体・集団農場である。1909年でから始まり、東ヨーロッパから移ってきた人たちが、社会主義の理想に燃えて、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原理で運営を始めた。メンバーは生活を保証する代りに無償で農作業に従事し、生活手段をもたずに帰還した人に働く機会を提供するとともに、開発を進めるという移民国家方式として定着した。
イギリスによるフランスとの分割支配の約束
イギリスは、極秘裏にフランスとの間で秘密協定を結んだ。第一次世界大戦の終了に伴い、旧オスマントルコの支配地域をイギリスとフランスで共同統治を行うというものであった。交渉に当たったイギリスとフランスの代表の名前からサイクス・ピコ協定という。戦時中の1916年5月に調印されたが、秘密条約であった。
イギリスの反故
イギリスはアラブ人にはアラブ人の建国を、ユダヤ人にはユダヤ人の建国を、フランスとは分割統治を約束したが、結果、イギリスはフランスとの秘密協定に基づき、中東を分割支配することになる。
ルダン川の西側
イギリスとの確約を信じたアラブ人は、独立国家を建設しようとしたが、フランス軍によって鎮圧。これを見たイギリスのチャーチル植民地相(後の首相)は、妥協策として、ヨルダン川の東側にトランス・ヨルダンという国を認め、ヨルダン川の西側がパレスチナ領土となり、その後もイギリスが統治を継続した。
イギリスの衰退
第二次世界大戦が終わると、戦争で国費を費やし、イギリスには、パレスチナを始めとした多くの植民地を統治する力が残されていなかった。イギリスはパレスチナを国連(国際連合)の判断に任せた。
パレスチナ分割
アラブ人が独立国を建設する一方、ナチスドイツのユダヤ人迫害で同情的な国際世論をつけたユダヤ人との間で摩擦が起こる。そんな最中、1947年11月29日、イギリスから判断を任された国連総会で「パレスチナ分割」が決議された。パレスチナの56%の地域に「ユダヤ国家」を、43%の地域に「アラブ国家」を建設し、両者にとっての聖地エルサレムを「国際管理地区」にしようという提案がなされた。
イスラエル建国宣言
1948年5月14日午後4時、テルアビブのテルアビブ美術館で、初代イスラエル首相ダヴィド・ベングリオンが、イスラエル建国を宣言した。
中東戦争
国際連合の分割案に反対したアラブ連合と自国を欲するイスラエルの間に中東戦争が勃発した。4回の大きな戦争と相次ぐテロやゲリラ戦のため、戦況は悲惨なものとなり、泥沼化した。最終的にはノルウェーの仲介によるオスロ合意がアメリカで調印され、一応の終結をみせるが、テロやゲリラ戦が続いている。