とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

「蓮(はちす)の露」良寛、貞心尼 1

2006年04月01日 10時20分24秒 | ことば・こころ・文学・演劇
良寛70歳、貞心尼29歳の時の出会い。この恋は日本人の心の故郷
のような気がいたします。

《良寛 りょうかん 1758‐1831 (宝暦 8‐天保 2)(ネットで百科から)

江戸後期の禅僧にして歌人,書家。本名は山本栄蔵,のち文孝。字
は曲 (まがり)。号は大愚 (たいぐ)。現在の新潟県,越後の出雲崎
で代々名主と神官を兼ねる旧家の長男として生まれた。屋号は橘屋,
父泰雄 (通称次郎左衛門) は俳号を似南と号する近在では知られた
俳人であった。長じて名主見習役になったが,1775 年 (安永4)18歳
の年に隣村尼瀬の曹洞宗光照寺に入って剃髪,
良寛を名のり,大愚と称した。 79 年光照寺に来た備中国玉島 (現,
岡山県倉敷市) 円通寺の国仙の得度を受け,国仙に従って円通寺へ赴
いた。以降 11 年間,同寺で修行し,90 年 (寛政 2)に国仙より〈附
良寛庵主〉の偈を受けた。
翌年国仙が入寂したため,良寛は諸国行脚の旅に出,以降 6年間,各
地を経巡った。父似南が京都桂川に身を投げて死んだのはこの行脚の
旅の最中 (1795) であったが, 良寛は上洛して七七日の法会に参列
している。行脚の旅を切り上げて越後に帰郷したのは,父の死の年,
あるいはその翌年かとされる。
帰郷した良寛は,出雲崎近辺の草庵を転々とする。 97 年から 1802年
(享和 2) までの 5 年間,および 1804 年 (文化 1) から 16年までの
12年間,合わせて 17年は,国上 (くがみ) 山の真言宗国上 (こくじよう)
寺の五合庵に住んだ。農民と親しく接触し,子どもたちとの交流のエピ
ソードを残したのは,帰郷後のこの時代のことである。
その後,江戸に出たり,東北地方を行脚したりもした。
26 年 (文政 9) 69 歳の折,三島郡島崎の能登屋木村元右衛門方に移っ
た (木村家は現在,土蔵を改造し,良寛記念館となっている)。
そして翌年,70歳の年に 29歳の貞心尼と出会った。貞心尼は越後長岡
藩士奥村五郎兵衛の次女で,医師関長温と結婚したが死別,23歳で尼と
なっていた。
短歌をよくし,良寛との贈答歌も多い。 良寛没後も長生きし,1872年
(明治 5) に 75 歳で没した。貞心尼は弟子として,女性としてひたす
らな愛を良寛にささげ, 良寛もまた晩年の愛弟子を深く愛した。
彼らの恋愛は,貞信尼が編んだ《蓮 (はちす) の露》(1835) に収められ
た 2 人の贈答歌によって知ることができる。貞心尼は長岡から5 里の道
を通ったのだった。
けっして泊まることはなく,彼女が泊まったのは良寛が死去した晩だけだ
ったという。貞心尼との出会いは,晩年の良寛の書や歌に,明るさと華や
ぎとをもたらしたのだった。
1831 年 (天保 2) 1 月 6 日,前年の秋にわずらった重い痢病 (赤痢の類)
がもとで,貞信尼らに介抱されながら円寂。

 良寛にはまとまった歌集はなく,前述の《蓮の露》のほかに自選自筆歌
稿《布留散東 (ふるさと) 》があるだけで,両者合わせても 200首ほどに
しかならない。ただし,遺墨として多くの歌を知ることができ,現在 1400
首ほどの作が知られている。万葉風と評されるが,書と同様にその作風は
自由自在である。

佐佐木 幸綱 》


『良寛・貞心尼の仮名を読む』。考古堂 2000年12月1日

、貞信尼が編んだ歌集《蓮 (はちす) の露》
「埋もれ木のように世の中から忘れ去られてしまうのが大変惜しいの
で、あちこち捜し求めて、ようやくそれらを収集し、それに私が禅師
の庵に通っていたとき、詠み交わした歌をも書き加えて一巻の歌集と
した。これは禅師の御形見として、常に自分の傍らに置き、朝夕それ
を見ながら今は亡き禅師のありし日を偲ぶ心のよりどころにしたいと
思う。」
            天保六年五月一日    貞心しるす
               (1835年)
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