「日本では第二次世界大戦の清算がまだ終わっていない」フランス文学者・水林章の指摘
水林章 フランス文学者、作家。東京外国語大学教授などを歴任後、現在上智大学名誉教授。フランス語で執筆した小説『Âme brisée(壊れた魂)』は、フランスでベストセラーとなる Courtesy of Akira Mizubayashi
水林章(72)はフランス語の著作『彷徨礼讃』(2014 未邦訳)のなかで次のように述べている。
「人は自分の出生の条件に関する一切を選ぶことのできないまことに不自由な存在だが、言語については母語以外の言語を選ぶ自由を行使できる」
水林は出自のうえでは紛れもなく日本人だが、2011年以降、18歳のときから学びはじめたフランス語で自らを表現する著作家になった。いまではフランス語表現作家の一人として、広く知られている。水林の著作の大半は白地の装丁が特徴のガリマール社から出ており、パリの書店の新刊コーナーでもひときわ目を引く。
パリと東京を行き来し2つの言語で夢を見る水林は、12年前からフランス語で書くことに専心している(註:12年にわたって日本語を「留守」にしたあと、水林は2023年9月に『日本語に生まれること、フランス語を生きること』という日本語と日本社会をめぐる評論を上梓している)。
2023年にスペイン語版が刊行された小説『壊れた魂』(2019)やそれに続く『心の女王』(2022 未邦訳)では、過去と現在のあいだを行き交う人物たちの物語が紡がれている。それと同時に、第二次世界大戦中の狂信的な天皇制ファシズムの災厄、西洋音楽(とりわけ弦楽器)への情熱、そして愛のテーマが繰り返し現れる。
水林の文体の特徴は、その際立った透明感だろう。
言葉の力によって「音楽」の等価物を作り出そうとする姿勢は非常に興味深い。水林はフランス語習得の過程、あるいは自分とフランス語との関係について語った『他処から来た言語』(2011 未邦訳)や、12年という年月をともに過ごした飼い犬メロディに関する『メロディ:あるパッションの記録』(2013 未邦訳)などのエッセイも書いている。『メロディ』は2013年に、動物愛護協会の「3000万匹の友だち」文学賞を受賞した。
このインタビューは、水林のパリの小さなアパルトマンでおこなわれた。水林は礼儀正しく温かな人柄だが、自らの確固たる信念を持つ人物である。彼は書くために、そして生きるためにもう一つの言語であるフランス語を選んだ。それは母国の負の側面、克服すべき問題を鮮明に意識化することを可能にしたようである。
天皇制の呪縛
──あなたは東京とパリの両方で暮らし母語は日本語ですが、文学作品をフランス語で書いています。2つの場所に同時に属すことはできるのでしょうか? 大きく異なる2つの文化、2つの国籍をどのように両立させているのでしょうか?
自分が日本とフランスの文化のどちらに属しているのか、よくわかりません。おそらく私は両方のあいだにいます。当然のことですが、私はフランス人ではありません。ある言語を話すからといって、自動的にその言語が支える公共社会のメンバーになるわけではありませんから。
国家的帰属の観点からいえば、私は単に一人の日本人です。日本が二重国籍を認めていないという事実とも関係しますが、私は日本のパスポートしか持っていません。けれども、人はパスポートによってのみ定義されるわけではないでしょう。そのうえで思うことは、フランス語で書くようになってからは、日本人であるという感覚が以前より薄れているように感じます。私は常にフランスから日本を見ているし、反対に日本からフランスを見ているからです。
──あなたは「彷徨う」こと、自分の過去や国籍にとらわれることなく「文化」や「価値」を選ぶことを擁護していますね。だから、フランス語で執筆することを選んだのですか?
その答えは非常にこみ入っていて簡単ではないのですが、あえてひとことで答えるとすれば、言語を通して「日本」を可能な限り対象化するためだったと言えると思います。その「日本」とは,何よりも狂信的な天皇制ファシズムによって蹂躙された「十五年戦争」(1931~1945)の「日本」です。どうして当時、あらゆる自由の圧殺が可能になったのか。
(注;十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月)にわたる日本の対外戦争、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと)
これは、丸山眞男など戦後思想を代表する知識人たちの共通の問いかけでした。 私の最近の三部作、すなわち『壊れた魂』『心の女王』そして『忘れがたき組曲』(2023 未邦訳)の歴史的背景が「十五年戦争」の時代なのは、この問いかけを意識してのことです。この時代は私にとって、そしてまた日本がほかのアジア諸国に対して負っている責任を意識している人たちにとっては、非常に大きな問題を孕んだ時代です。
この戦争によって「日本」はアジア・太平洋地域で2000万人、国内で300万人にも及ぶ人々を死に至らしめました。ところが、この悲惨な過去は私はまだ完全には清算されていないと思うのです。現在、権力の座にある政治家たちの多くは歴史修正主義者です。南京事件などの日本軍が犯した過ちを認めない立場の人々です。
(注:;朱字は管理人)
──天皇に命を捧げた兵士を祀る東京の靖国神社で聞かれる主張に近いものですね。
靖国神社は軍人を祀る社です。境内には、1947年に施行された日本国憲法と完全に矛盾する歴史観を提示する博物館があります。あの侵略戦争を正当化する歴史観です。当時の政治体制は、狂信的な天皇崇拝に根ざすものでした。神的存在である天皇に、身も心も捧げることが求められていたのです。
それはまた苛烈な軍事独裁体制でもあり、いっさいの自由(=基本的人権)を圧殺した時代でした。 問題は、日本がこの過去を完全には清算していないということ、この過去がいまだに過ぎ去っていないということです。
自民党は,2012年に「天皇を戴く国家」を理想化する「日本国憲法改正草案」なるものを発表していますが、この草案に描かれている復古的日本像がそのことをなによりもよく示しています。
──それで、あなたの小説では第二次世界大戦が重要なのですね?
私は1951年生まれですから、この時代を生きたわけではありません。しかし私の父はこの時代の狂気を、身をもって体験しました。
『心の女王』の冒頭に、非常に残酷な描写が出てきます。中国人の捕虜が斬首される場面です。私は、こういう極限的な状況を強いられた人間の物語を書きたかったのです。たまたま“発見”したショスタコヴィッチの第8交響曲の強烈な響きが「戦争」を喚起し、それが小林正樹監督のとてつもない作品『人間の條件』を再見する機会になりました。9時間に及ぶ大作です。ショスタコヴィッチの第8交響曲と『人間の條件』は村上春樹の『騎士団長殺し』にも繋がりました。 私の主人公も村上春樹の場合と同じように狂気に追いやられ、自ら命を絶つからです。
『心の女王』を書いていた私は、この時代を生きた父に思いを馳せていました。父は自由を圧殺した軍事独裁や常軌を逸した天皇崇拝の時代にあって、精神の明晰さを失うことがなかったと思うからです。ある意味では、軍隊で思想的理由によって虐待された父が、私を通して語っているのかもしれません。
──他方で、日本人は東京大空襲や広島、長崎の原爆投下の犠牲者でもあります。日本史のなかで日本は、戦争を引き起こした帝国主義の国であると同時に、大きな苦しみを味わった国でもあると見ることはできませんか?
それはそうです。しかしそれは当時の、あくまでも侵略戦争を推進するという政策があってのことです。十五年戦争時代の日本は正気を失った者が運転する、誰にも止められない機関車のようなものでした。米国の爆撃機が宮城の上を飛べば嵐が起きてみな落ちてしまう、などという戯言を国全体が信じていたというのですから。 ずるずると引きずられて、負けることが明白な戦争を誰も止められなかった。天皇の神聖性と精神力で戦争に勝てると最後まで本気で信じていたからです。原爆を投下したのは米国ですが、あの無謀な戦争を引き起こし、継続し、最終的な悲劇的な結末をもたらした人たちの責任を問い、そのうえで今日(こんにち)何をすべきかを考えることが大切なのだと思います。
──こうした歴史の足跡は、日本の言語に残っていますか?
難しい問題ですが、私はこのように考えています。江戸時代の幕藩体制によって、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従する垂直構造を本質とする法度(はっと)体制ができあがりました。この体制は8世紀に中国から継受した律令の日本的実質化といえるものですが、このような秩序が基本的には今日(こんにち)まで続いているのです。
日本語の問題を考える必要があるのは、このような命令的・隷従的秩序=非同輩者的秩序が日本語のなかに嵌入(かんにゅう)しているという事実があるからです。逆にいえば、日本語がそのような秩序を再生産する働きを担っているということです。言うまでもないことですが、「天皇」とは命令的・隷従的秩序=非同輩者的秩序の頂点にいる存在のことです。
──第二次世界大戦当時のヨーロッパも、日本よりいいとはいえません。狂信から脱することができた国はごくわずかです。
確かにそうです。独裁的な政権はヨーロッパにも存在しました。日本を特異な事例にしているのは、天皇自身が神性を帯びていることによって、天皇を超越する存在を思考できないことです。天皇自身が神格化され、自然法の伝統が稀薄であることもあって、天皇制批判の可能性が極小化してしまったのです。
ヨーロッパにも君主制があり、国王は社会的ヒエラルヒーの頂点にいると考えられますが、国王は一個の現世的存在にすぎません。彼らの上に位置する宗教的ないし自然法的価値が、ヨーロッパには存在しました。
そこが、根本的な相違点です。ですから、ヨーロッパの人々はその超越的価値に依拠して政治を対象化し、権力に抵抗することさえできたのです。日本との差異は明らかです
──現在、ヨーロッパや米国でアイデンティティに基づくナショナリズムが台頭していることに懸念を覚えますか?
さまざまな要素が絡み合っていて理解しがたいことも多々ありますが、日本でも同じ現象が起きているといえると思います。私の念頭にあるのは、憲法「改正」を最終地点とする右傾化です。
とはいえ、この点においても日本はヨーロッパと異なります。なぜならヨーロッパ、とくにフランスには自然法と社会契約の思想を核とする「啓蒙」の経験があり、やがてそれが公共社会(国家)は基本的人権=自然権を擁護し実現するためにこそ存在するのだ、という思想を定着させたからです。 それはいうまでもなく1789年であり、「人権宣言」です。人権宣言は、一字一句の変更されることなく、現在でも憲法的価値を持つものとして生き続けています。この点が重要です。
フランスには、人権宣言の廃棄を訴える政治家はいないでしょう。極右のエリック・ゼムールやルペンでさえそんなことは言えないはずです。
ところが、さきほど紹介した自民党の「日本国憲法改正草案」は人権宣言を真っ向から否定するに等しい内容なのです。パリから1万キロ離れた極東には、人権宣言の衣鉢を継ぐ憲法をあからさまに敵視する、驚くほど多くの政治家を国会に送り込む国があるのです。
Guillermo Altares
【参考】wikipedeia
山形県生まれ。東京外国語大学フランス語科卒、東京大学大学院仏文科博士課程満期退学、高等師範学校 (フランス)ENS Ulm留学。パリ第7大学博士課程修了。第三期課程博士。
明治大学文学部講師、助教授、東京外国語大学助教授、教授、2001年「<文明化の過程>と文学のエクリチュール :モリエールからバルザックへ」で東京外国語大学博士(学術)。2006年上智大学教授。2021年退職、名誉教授。
2013年、リシュリュー文学賞を受賞。2014年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章[1]。2017年、フランスレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章[2]。2022年『壊れた魂』で芸術選奨文部科学大臣賞受賞