とおいひのうた いまというひのうた

自分が感じてきたことを、順不同で、ああでもない、こうでもないと、かきつらねていきたいと思っている。

私の海は、敗戦後しばらく経った日本海です

2007年11月19日 13時28分55秒 | 時事問題(日本)
 (本当は、日本海の写真があればベストなのですが、11月の太平洋側の空の写真で代行します。北方の日本海側は今日の空のように、雲が多い、曇りがちな天候です。本当は雲の背景は、もっと青いのですが、また失敗して灰色っぽく映ってしまいました。が、今回の失敗は、成功です。新潟の空は、灰色が主役だと思いますから。冬になると、水分を多く含んだ灰色の雲は、低く垂れ込み、越後山脈にぶつかり雪を降らせます。太平洋側から上越新幹線に飛び乗り、越後山脈の下の長いトンネルをくぐると「トンネルをぬけると、そこは雪国だった」と川端康成になれます。) 

 新潟県とは「こしひかり」で有名な穀倉地帯ですね。どこへ行っても田んぼが多い所です。力をこめて手入れされた田んぼが広がっている所です。

 着のみ着のままで、東京から集団疎開をした私の両親とその仲間たちは、豊かな農業地帯で食料は確保できたらしいです。こうして生き延びているのですから。そりゃあ、乞食同然の姿だったでありましょう。新潟弁のまっただなかへ東京弁を話す乞食集団が、どやどやと入り込んだら、誰だって、ぎょっとしますよね。「鮭」を「シャケ」としか発音できない乞食集団なんか、誰だって軽蔑しますよね!「よそもの」だと、すぐばれてしまいますよね!そうです。すぐ、ばれたようです!

 外部からほとんど人が流入してこない町に、急に東京弁を話す乞食集団が来たものですから、「変なよそものが入ってきたぁ!」と拒絶反応がおきるのも、ごく自然な現象でありましょう。小さな町自体は細々と商いを営む人が多かったですが、周りは穀倉地帯、畑が多い農村でした。それゆえ、私の幼少時の世界は、海よりもススキの穂、田んぼ、クローバーの広がる野原でした。ちょっと北方にのぼる(?)と日本海でした。

 私の両親の郷里は、偶然新潟県だったのですが、一回覚えた「シャケ」という発音はとれず、東京出身者はもちろんのこと、「シャケ」「シャケ」と発音するものですから、よそものであることが、ばればれでした。

 敗戦後、東京焼け野原に呆然と立ちつくした父は、どうやら心のなかに「東京の街復興」の光景が希望のともし火として、天啓のようにくだったようです。無論、私には、なにがなんだか分かりません。まだ生まれていませんでしたから。
 
 先の記事にも書きましたように、父はエンジニアでした。戦中なのか?どんな飛行機を設計したのか分かりませんが、設計者としてパイロットの横に坐ったのは確かなようです。そして、おそらく設計者として神にこう祈ったことでありましょう。

 「どうか、うまく飛びますように」

 どうやら、うまく飛んだようです。現在生存しておりますから。もし飛んだとしたら、ひとえにパイロットの方の技術力の賜物だと、私は思います。父が操縦していたら、おそらく、すぐに墜落していたことでありましょう。私は、まだ生まれておりませんでしたので、飛ぼうが墜落しようが、そう関係ない話ですが。

 私には、ずっと父が何をしているのか分かりませんでした。疎開先でなにやら機械を黙々と作っていたようです。そして、途中から、なにか、東京弁よりも新潟弁よりも、もっと変てこな言葉をしゃべる茶髪で青い目の人が出入りするようになり、それには、きょとんとしました。

「あっ!私たちよりも、もっとひどいヨソモノだ。ひどい発音だ!ひどすぎる!」
と思いました。
 これは、今思うと、おそらく英語弁でしょう。たまにドイツ語弁も混じっていた可能性もありますが、ヨソモノ同士はほぼ英語弁で話すのは、現代社会と同じでしょう。現在では、世界中のヨソモノ同士は、すっかり英語弁で話すようになってしまいましたね。

 今なら理解できます。父は作った機械を恥ずかしげもなく、新潟の小さな町から、当時、先進国と呼ばれていた国々へ輸出しはじめていたのです。まあ、私にとっては、どちらにしろ、そう直接的に関係ない話ですが。(子供すぎましたから)

 父が黙々と作っていた機械は、くつしたを編む機械だったのです。なぜ、そのような機械を作ったのかの気持ちを最近になり、ちらりともらしたのですが、「東京は必ず復興する。そして、復興した東京の街を、女性が自分のつくった機械で編んだパンストをはき、”外国のように”、さっそうと歩き回る時代が必ず来る。それが夢だった」

 なぜ、飛行機から、くつしたの機械づくりに転じたのかの件に関しての私の質問に対し、父はじっと黙りこくって考えてから、やっと一言「天から地に落ちたのさ」としか答えられませんでした。

 はたしてか!東京の街は確かに復興しました。と、言うか、私も含め、復興した東京の街しか知らない子どもたちが、現在の人口率の多数派を占めております。

 東京復興を切なる願いとしたらしい父は、東京弁をしゃべる乞食集団のかなりのメンバーが、おおぴらに「シャケ」と発音できる東京回帰を果たしたのに反し、なぜか、日本海側にしぶとく残っております。逆に私は、なりゆきで、太平洋側に住むことになったという構図です。

 こう書いてきますと、私は深い感慨にひたります。

 幼い頃の海。それは、よく海水浴に行った柏崎です。それは、小さな頃の私の日本海でした。今は、蓮池薫さんの海なのでしょうか?

 もうすこし、意識がはっきりし、青春の思い出がこめられた、私の海とは、新潟市の裏手にある日本海です。それは、後に、横田めぐみさんの海になってしまいました。

 
 私は、やっと昨年、時間がとれ、久しぶりに新潟市の裏手の海、私にとっては、青春の海に、2時間ほど、ぼーっとして立つことができました。

 白浜の海岸の消滅した砂浜どころではなく、砂浜が侵食され、絶滅したコンクリートのテトラポットだらけの海になっていました!驚きのあまり、へたへたとコンクリートの浜辺にすわりこみ、じっと海を見つめてまいりました。すわりこむ私の横に、カモメや雀がとまってくれたのが、ささやかな慰めでした。ここにカラスも来ればいいと思ったのですが、来ませんでした。

 沖には、あいかわらず、大きく、佐渡島の姿がゆったりとそびえる日本海!
(追記:ごめんなさい、曽我さん!のちに曽我さん親子の海となった佐渡島と書くべきでした)

 砂浜が消滅しても、それでも、それが私の海であり続けてくれています!

私には、日本海は太平洋に比べ、狭く感じます。それは、背後にユーラシア大陸が迫っているからでしょうか?韓国と北朝鮮、中国、そしてロシアという国々が控えているせいでしょうか?が、そんな知識がなくとも狭く感じるのは、単純に前景に大きく佐渡島が横たわっているせいでしょうか?分かりません。

 佐渡島と日本海は永久なものとして、目に映りました。
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