渋沢栄一のロールモデルは徳川慶喜だった。
資本主義の父・渋沢栄一は、陽明学を学んだり、「帰一協会」っていう、宗教をすべて一つにしようって運動をしたりしていたので、いろいろ尊敬する人物がいたのでしょう。
でも、人間としての一つの見本のような、ロールモデルとして、かつての上司・主君の、徳川慶喜を仰いでいた。
渋沢栄一は、「人たらし」と言えるほどの魅力と技量を備えていたため、徳川慶喜の「最後の寵臣」だった。
慶喜は、江戸城無血開城などの結果を残し、明治維新において、国を戦乱に陥れなかった、平和主義者。
すべての批判を受け入れて、そして、一生涯、一つも言い訳をしなかった。
その、「全く言い訳をしない」ところに、人間としての、大きさ・器を感じていた。
すべての批判を感受する。
国のために自分が一人、犠牲になる。
その犠牲的精神が、渋沢栄一の、人生観に、大きく影響した。
↓ 渋沢の慶喜に対する肯定的評価の表現。
明治維新後の、慶喜の「生き様」から、渋沢は多くを受け取っていた。
渋沢は慶喜を以下のように表現して、持ち上げることを厭わない。
「一意国家のために身命を擲って顧みざる」。
それは「偉大なる御人格」「偉大な精神」ではないか。
慶喜が、大阪城で部下を捨てて逃げたのは、たしかに、褒められることではない。
しかし、いずれにせよ、明治になって、慶喜は一つも言い訳をしなかった。
歴史の批判に身を晒す「勇気」があった。
それが、部下の渋沢をして感銘せしめた。
渋沢栄一が、(下半身は行儀は悪かったが)豪奢な生活に溺れることがなかったのも、「そんなことをしたら旧主君徳川慶喜に申し訳が立たぬ」って矜持があったはずだ。
感銘を受けた渋沢は、20年かけて、5年ほど仕えた旧主君・徳川慶喜の事績を顕彰すべく、『徳川慶喜公伝』を刊行した。
大阪城遁走事件はともかく、人生を、歴史的見地からトータルで見ると、徳川慶喜の人生というのは、マイナスよりも、プラスに評価できる部分が多そうだ。
「もし自分が明治後の徳川慶喜だったら、どうする?」
そんな問いを自分に投げつつ、慶喜の偉大さを考え直してみたい。