論語・儒教は消極的。
キリスト教は積極的。
そう言われる。特にキリスト教界隈から。
論語に「己の欲せざるところを人に施すなかれ」とあり、
聖書に「隣人を愛せ」とある。
その表現の違いから。論語には500,聖書には何千何万の言葉がある。
その中の一語を比較してそこまでいえるのか、って気もしますが、両方をそれなりに読んできた私には納得することがある。
たしかに聖書のほうがエキセントリック。右の頬を打たれたら左の頬を出せとか。家族を捨ててオレに付いてこないとだめだよとイエスが言うとか。
そんな「儒教とキリスト教の対比」の文脈で、もう一つ、比較の切り口を思いついた。
儒教では「天は見ている」と考える。
人を相手にせず、天を相手にする(西郷隆盛)。私の愛読書『李陵』でも「点は見ている」ってフレーズは出てくる。お天道様に恥じない。俯仰天地に愧じず。
キリスト教では、経験な人は、「神は喜ぶか」って考える。一神教だけに神(造物主)を擬人化しやすい。特にオフィシャルな三位一体説だとイエスって大工あがりの聖者が神と同人格だし。
「天は見ている」はやや消極的。
「神は喜ぶか」は積極的。
「天は見ている」って言葉だけからは、「よし、積極的なことをやろう!」という湧き上がる情熱までは生まれない。
「神は喜ぶか」って言葉からは、「よし、神様を喜ばせるために積極的なことをやろう」という気持ちになりやすい。
私が単に思いついた2つの言葉だけから、儒教とキリスト教、ひいては日本的多神教と一神教との比較をするのは、まことに管見の誹りは免れまい。
でも、両宗教(儒教も宗教です)を代表するような言葉だけからは、キリスト教の方が積極的、という軍配を上げてもよさそうだ。
キリスト教に帰依しなくても、自分の中で神を勝手に擬人化するのがいいのかな。
父さん母さんとか、亡くなった人とか、尊敬する人とかを「神格化」して、擬人化して、「あの人は喜ぶか」って考えるのがいいのだろうか。