美しく生きるためには。
アタマの正しさではなく、ココロの美しさ。
私の執筆中の著作のテーマだし、最近、いろんなところで語っている。
じゃあどうすれば美しく行きていけるか。
醜さを認めること。
自分の中の醜さを認めること。
自分だって醜い人間だってことを認めること。
例は2つ。
戦後、満州からの帰還。露助に、たぶん、100人以上の日本女性が、侵された。何度も何度も。述べ1000回以上は、犯された。1000回じゃきかないかもしれない。
それを、周りの日本人が、申し訳無さそうに、ほっかむりをして、忍んで、何もできなかった。何か言えば、銃殺されて終わりだから。
保身のために、女性が犯されて凌辱されるのを、指を加えてというか、見ていた。見てなにもできなかった。
我々の戦後は、そういう女性の犠牲の上にある。
その場にいたら、私だって、露助と戦えたかどうか。否だろう。自分の命欲しさに、その女性が犠牲になるのを、申し訳なく、見過ごしていたのではないか。
悪の上に、我々がいる。
例の2つ目。
戦後、みんな、食うために、生きるために、ヤミ米を食っていた。
それを食わずに餓死した裁判官がいたくらい。
こちら(山口良忠裁判官)
その場に私がいたら、どうしていたろう。
3人の子供を食わせるために、ヤミ米に手を出していただろう。
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自分だって、その場にいれば、十分に、醜かった。
自分の中に、醜さがある。
それをまず認めること。
認めつつ、そうじゃいけないんだよ、どうすればいいんだろう、って考え続けること。
それが美しさに繋がるんじゃないか。
出張直前の取り急ぎですが。また続きを書くかも知れません。