ある村のお話。
その村には巨大な水瓶がある。
遠くにある水源から導水管が引かれてその水瓶に水を溜めている。
水瓶の水は村の人の為に分配され有効利用されている。
村の村長さんは水問題に関しては水瓶に溜められた水を村人にどう配分するかを気を付けていれば問題なかった。
しかし水瓶には傷が入っていて大量の水が漏れていることが判明。水瓶に充分な量の水が溜まらないことが分かってきた。それにヒビが大きくなると水瓶が壊れてしまう危険性も出てきた。
しかし水瓶の管理者は水瓶の傷を直す気が無い。代々の村の村長さんは水瓶の管理者を注意しようともしない。放任主義。
加えて水源の水の量も少なくなってきた。水が枯渇する可能性も村人の間で取り沙汰された。
今の村長さんは、前の村長さんが「導水管をもう一本増やして水瓶への水の供給量を上げよう」と主張していたのに対抗して、村長選で「水瓶の傷を直そう。同時に別の水源も探そう」と主張して選挙に勝って村長さんになった。
しかし当選後、村長さんは「導水管をもう一本増やし水瓶への水の供給量を上げよう」と言い出した。
「水瓶の傷は直したいし別の水源も探したいが先に水瓶への水の供給量を上げたい」と。
村人の頭の中は?マークでいっぱいになったが、前の村長さんの協力もあって導水管を増やすことが正式に決まった。
かくして水源の水の減少の問題や大量の水が無駄になっている水瓶の傷の問題は棚上げとなった。
騙し討ちのようなやり方に村人の不満や不信が渦巻く。
さあ、村の運命や如何に?
乞う! 御期待。
と言えないところが悲しいところですね。
公約を守る気がないなら何を目安に選挙に行けばよいのか分かんないっす。
怖いのは村人が水瓶の管理者を襲うような事態に発展すること。まだないとは思いますけどね。
明治維新とはキレた村人が水瓶の管理者を襲って水瓶の管理権を力ずくで奪って自分達で水瓶の管理をはじめたって解釈できるかもしんない。
水瓶の管理者は生き残りたかったら自ら率先して水瓶の傷を修理したほうがいいっすよ。
お偉いさんは責任なんて取りません。いざという時は、責任なんて下っ端が無理矢理取らされるのが世の常なのですから。
明治維新を例にとるなら、いざという時は生死が関わってきます。
水瓶の管理者は生き残りたかったら村長さん任せにしないで自ら率先して水瓶の傷を修理したほうがいいっす。
改革される側にいるより改革する側に居たほうが生き残る確率は高いですよ。
村長さんの言い訳なんて聞きたくないっす。
必要と思ってしたのなら堂々としていればよいのでは?
ちなみに公約を破ったのならこれからは何を言っても信用できないっす。