おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「茂原」~「上総一ノ宮」。その1。(「房総東往還」を歩く。第4日目。)

2023-11-25 13:38:35 | 房総東往還

茂原駅。右にモニュメント。

11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。

降りたとたん、強い風が。雲行きも怪しい。果たして「上総一ノ宮駅」まで歩けるか? 

本来なら前回のところまで戻って歩くのですが、旧市街地歩きをショートカットし、駅正面の広い道を進みます。

※茂原という地名は、平安時代藤原黒麻呂貴族)によって拓かれた荘園藻原荘)に由来しているとされ、字の通り湿地が多く「原」が江戸時代に現在の「茂原」という文字に変わったと言われている。

北西にある「藻原寺」は、「そうげんじ」と読みます。

          「房総横断道路」との標示。ここを左折します。

           「国道128号」となっています。

しばらく行くと、「野巻戸」交差点。

野馬の放牧場があったのか?

正面の大きな建物は、ソニー、東芝、日立が中・小型のLCDの事業を統合したジャパンディスプレイ(JDI)の茂原工場。

「大多喜ガス」。

                   隣には、「関東天然瓦斯開発株式会社」。

          「七夕飾り」のガスタンクが印象的。

「落合橋」からの「阿久川」。上流方向。

「一宮川」との間に、

                   「川中島下水処理場」。

「伊南房州通往還(房総東往還)」となる「国道128号」を進みます。

バス停「早野新田」。平日夕方に2本のみ。他は運休! 「茂原」~「一宮駅」。

              

農家の庭先に、花の名は?

槙の垣根。

「農水・両総」と記されたマンホール。

両総用水

千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、東金市茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給している。全取水量は14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。

幹線は、第1揚水機場から栗山川源流までの北部幹線と、第2揚水機場までの栗山川部分、第2揚水機場からの南部幹線により成り立っており、北部幹線と栗山川部分を房総導水路と共用している。

両総用水の事業はその後に着工された愛知用水の事業などでも参考にされた

《沿革》

かつて、九十九里平野は海岸線に平行に砂堆とその間の低地が列をなし、低地には縄文時代ラグーン湖沼群として残されていたが、明治以降の開発により湖沼群は姿を消した。そのため大きな川が無い南部の地域では、良港に恵まれず漁業が衰退して農業に移行したこともあって、用水不足が常態化していた。一方利根川東遷事業などのため、香取市佐原一帯の大須賀川及び小野川流域は排水不良地域となっていて、度重なる水害に悩まされていた[2]。このような状況の中で1933年昭和8年)、1934年(昭和9年)、1940年(昭和15年)と大旱魃となり、九十九里平野中央部では、大正時代から山武郡東部連合耕地整理組合の用水事業が行われていたこともあって、1943年(昭和18年)戦時の食料増産計画の一環として、用水不足解消と排水の改良を同時に考えた両総用水事業が計画、施工された。

(この項、「Wikipedia」より)

見事に剪定された槙。

幹線道路とあって、大型ダンプ等けっこう交通量が多い。

沿道には大きい農家。

この付近の今昔。

                                                                                                                                             

1880年代のようす。                        現在のようす。古今の道筋にはほとんど変化がない。

 

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JR外房線「大網」~「茂原」。その7。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-23 18:39:25 | 房総東往還

「茂原高師郵便局」。

           「高師」付近で茂原街道と出会うはずですが。

右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。

しばらく住宅地が続く。

茂原市のマンホール。

             市の木ツツジの花、三輪をデザイン。

別のマンホール。

           茂原市の頭文字「も」を図案化した市章を中央に配した規格型。

県立長生高校。

長生高校は、茂原市にある公立の高校です。通称は、「長高」。県内ではトップレベルの進学校で、全日制は「普通科」「理数科」、定時制は「普通科」があります。文部科学省よりSSHに指定され、理数科のSSHコースは独自カリキュラムを設けています。約9割が大学進学し、「早稲田大学」「慶應大学」「上智大学」「千葉大学」の実績があり、「東京大学」合格の実績もあります。 部活動においては、運動系、文科系ともに熱心に活動しています。文化祭をはじめ生徒の自主性に任せた行事が多くあり、生徒間の絆が深いです。海外からの留学生、短期訪問生徒を積極的に受け入れたり、留学する生徒をサポートするなど、国際感覚を育むことに力を入れています。

(この項、「」HPより)

振り返る。この交差点が茂原街道との合流点?

外房線のガードを抜けます。

「高師」交差点。

こちらが「茂原街道」との合流点? 「房総東往還」はまだ先の旧市街地に進みますが。

来た道(「房総東往還」)=右の道を振り返る。

今回はここで終了。「茂原駅」に向かいます。

        

                

「千代田町」。

茂原駅前。

          

七夕祭り。           

今年の夏の行事でしたが、

4年ぶりに開催!「茂原七夕まつり」へ行こう

<picture><source srcset="//de5c3ya1fcot1.cloudfront.net/uploads/content_image/image/9605/pc_show_webp_02.JPG.webp" type="image/webp" />なかには3mを超える飾りもあります</picture>
なかには3mを超える飾りもあります

例年7月下旬頃に開催される「茂原七夕まつり」は、関東三大七夕祭のひとつにも挙げられている夏の恒例イベントです。例年80万人もの来場者で賑わい、県内では最大規模のまつりになっています。

4年ぶりの開催となる2023年のテーマは、“こころ踊る再会の刻(とき) ~「やっと逢えたね…織姫」「ずっと逢いたかったよ…彦星」~”です。

会場であるJR外房線「茂原駅」周辺の商店街や特設ステージで、さまざまなイベントが行われます。

「茂原七夕まつり」の特徴は、会場全体を埋め尽くすように飾られる七夕飾り。手の込んだ豪華な七夕飾りが、まつり会場を彩ります。

また、約230店の露店が軒を連ね、さらにまつりムードを盛り上げます。

2023年は、7月29日(土)~30日(日)の2日間にわたって行われる「茂原七夕まつり」。今年で69回目の開催となり、来て、見て、参加して楽しい内容となっています。

市の木ツツジの花。

JR茂原駅。

             幼稚園児の御礼。

中央にガス灯。

次回は、茂原から上総一ノ宮まで。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その6。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-20 18:41:08 | 房総東往還

突き当たりで右折し、すぐ左折します。

                  草むらの向こうの道は、かつての貨物線の跡になっています。

                     (現在)○が上の写真のところ。

破線の緑道がかつての貨物線跡。

                「三井東圧(当時)」からの貨物線があります。(「今昔マップ」より)

この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。             (「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

「千葉県立茂原樟陽高等学校」。この学校も敷地もかつての基地の敷地。

 ※農業学科と工業学科を併置する専門高等学校。

       

来た道を振り返る。「文教通り」。

道の両側には、茂原市立茂原中学校や住宅地が続きます。

「萩原東公園」。

茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。

(この項、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 戦跡紀行ネット -日本の近代と慰霊の地を巡る‐ https://senseki-kikou.net/」HPより拝借)

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JR外房線「大網」~「茂原」。その5。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-19 13:57:28 | 房総東往還

静かな落ち着いた家並みが続きます。

      

土蔵。

来た道を振り返る。

                                  右は、宗延寺。

「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。

竹藪の向こう?

付近を歩き回り、見つけることができました。

農家の一角に。

            

森の中に隠れるようにあります。

住宅の裏手。

掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(Hardened Aircraft Shelter)と呼ばれる

                                       (「Wikipedia」より)

・・・

掩体壕について

掩体壕の写真

太平洋戦争開戦直前の昭和16(1941)年9月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約150戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。

司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約1,000mの道路で、基地の東端は東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。

この写真の掩体壕(3号掩体壕)は土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に鉄網等を張ってセメントを流して造られており、総面積365平方メートル、壕の中の面積286平方メートル、高さは最大6m70cmあります。築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。

戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。

(この項、「」HPより)

茂原市内には数多く「掩体壕」が残されています。

※中央が「茂原海軍航空基地跡」。

(「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝
 戦跡紀行ネット ‐日本の近代と慰霊の地を巡る‐URL: https://senseki-kikou.net/」HPより)

このうち、一ヶ所しか見て回ることが出来ませんでした。

掩体壕の築造方法は,完成後空間となる部分に土砂を盛って転圧し,その上に「むしろ」や板を並べ,さらに金網や鉄筋を張ってコンクリートを流して固めた後に,土砂を掘り出したものである。コンクリートの厚さは30から50cm程度と均等ではなく,また築造された時代を反映してか,かなり荒い骨材が用いられていることが確認でき,コンクリートに写し取られた型枠板の模様とともに,築造当時の様子を垣間見ることができる。

大きさは格納する機種によって異なった4種類のものが築造されたが,茂原市が管理しているものはその中では最大の規模であり,総面積は356㎡,壕の内部の面積は286㎡あり,零戦2機を格納することができた。

完成した掩体壕には盛り土をして芝を張ったり,木や竹を植えて偽装をしていたが,上空から見ると一目瞭然であったという。

終戦後,掩体壕は土地と共に返還されたが,取り壊しは行われなかった。そのため個人で壊すには多くの経費が掛かるために農業倉庫や物置として使用されており,その多くが現存している。

そして1995(平成7)年7月,戦後50周年事業の一環として茂原市は掩体壕の保存を決定,風化していく戦争の記憶をとどめ,平和への新たな願いを市民に対して訴えていくことにし,現存する中で最大規模の掩体壕を選び,土地を地主から借り上げるという形で管理することとなった。

「新茂原駅」。

駅前。現在はこぢんまりとしている。

「房総東往還」に戻ります。

洒落たお店。

左手に「阿久川遊水池」。

     沢井製薬 関東工場。

この建物の南側一帯に「茂原海軍航空基地」がありました。現在は、「三井化学」の広大な工場等になっています。

この先、歩く道筋の両側はかつての基地の跡になります。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その4。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-18 13:54:58 | 房総東往還

農道の先には、外房線の踏切。

              

振り返る。単調な歩道歩き。

ほぼ直線。

 長生郡市広域市町村圏組合章。制水弁。 

国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。

前方に「腰当」交差点。  

※地名は「こし(抉じ)・あて(洪水)」で豪雨後に洪水の危険性のある川沿いの浸食地という意味。(「未知の駅艘ふさ」HPより)

ここを左折し、外房線をくぐります。 

来た道を振り返る。強い日差しのもと、けっこう疲れた!

        歩行者専用道。

              

右手に外房線の鉄橋。

          「阿久(あく)川」。 

下流方向。

この付近の今昔。

                             (現在)旧道は一部消滅し、橋を越えた後に復活。

                             (1880年代)「至本納駅道」とあるのが「房総東往還」。

 「大多喜天然ガス」マンホール。

                  大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホール蓋。

千葉県は国内で天然ガスが産出する数少ない地域です。

葉県の天然ガスを葉県で費(千産千消)しているため、輸送時のコストや二酸化炭素排出量を抑えることができるので、

安定した価格で、かつ環境にやさしく、みなさまのご家庭にガスをお届けすることができます。

※「千産千消天然ガス」は大多喜ガスの登録商標です。

(この項、「」HPより)

千葉県の天然ガスは、明治時代の中頃から利用されるほど歴史が古く、現在では純国産の天然ガスの中でも全国第2位の生産量を誇っています。

             

 千葉県の天然ガスは、比較的深度の浅い地下水に溶解していることから、水溶性天然ガスと呼ばれています。また、この地下水は塩分を含んだ太古の海水で「かん水」と呼ばれており、通常の海水の約2,000倍ものヨウ素が含まれています。

 地球上のヨウ素生産地は偏在しており、日本はチリに次ぐ世界第2位の主要産出国であり、国内においては千葉県で生産されるヨウ素が国内生産量の約80%を占めています。

 千葉県で産出される天然ガスとヨウ素は、貴重な国産天然資源として様々な分野で利用され、重要な役割を果たしています。

水溶性天然ガス

 千葉県の天然ガスは、かん水に溶解して地中に埋蔵されています。主成分は地中に埋もれた有機物が微生物によって分解されて生まれたメタンガスです。
 
 この有機物の起源は、地質学的には第四紀と呼ばれる時代(氷河期が始まり、人類が出現した頃)に砂や泥と一緒に海底に堆積した動植物と推定されています。この有機物が分解されて天然ガスとなり、長い年月をかけて地層中のかん水に溶けて溜まり、濃度を増していったものと考えられています。

 このようにして誕生した水溶性天然ガス田は、千葉県を中心とする南関東一帯に広がり、可採埋蔵量は国がまとめた資料によれば3,685 億㎥といわれています。

(この項、「」HPより)

※房総台地は地下水も豊富で、水と火にはこと欠かない土地なのかもしれません。

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