「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。
本納(宿)へ向かいます。
街道筋らしい町並み。
高台をバックに家並みが続きます。
先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。
※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。
振り返る。
ここも「曲尺手」になっています。
※「曲尺(かねじゃく)」。
来た道を振り返る。
バス停「本納駅入口」。
ここも曲尺手の名残りか?
看板建築。
看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは,正式なギリシャ古典様式を踏襲したものではないが,むしろその違いこそが地方の看板建築の特徴といえる。無名の職人たちが,西洋の様式や意匠をもとに,在来の技術や技能によって新たに創り上げた,日本独自の庶民の建築様式である。
「水戸街道」歩きで石岡市内でたくさん見かけました。
ここも「曲尺手」になっています。
振り返る。
「公立長生病院」。
この先で、「国道128号」に合流します。
大きな幹線道路で車も多い。
「本納」地区について。
藩政時代には、房総東往還と呼ばれた街道上に定期的に市が立ち、町場が形成されていた。取引される品は日用品等の小規模なもので、ささやかながら在郷町的賑わいを示していたのだろう。宿駅機能があったかどうかははっきりしないが街道の要衝であったことは間違いないと思われる。
直角に二度折れ曲り遠見遮断が図られるなど、街道上の主要な集落らしい体裁が残っていた。あるいはこれは城下町時代に備えられていたものなのなのかもしれない。
ただ家並からはその歴史を感じ取りにくくなっているのが惜しまれる。平入り、一部に寄棟屋根も見られる伝統的な構えの建物が散見されるが、連なっている箇所はなく古い町並としての体裁は淡いものだった。地元も特に認識されていない様子で、今後これらの建物も徐々に失われ、町並風景から往時を偲ぶことは困難になっていくのではと思わせた。(この項、「郷愁小路」HPより)
この付近の今昔。
(現在)赤い線が「国道128号」。 (1880年代)町場が形成されている。