おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

JR外房線「大網」~「茂原」。その3。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-17 19:44:42 | 房総東往還

「子安神社(橘樹神社の摂末社)」。

本納(宿)へ向かいます。

街道筋らしい町並み。

             

                   高台をバックに家並みが続きます。

先に「曲尺手(かねんて)」が見えてきます。

※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。

 宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。

振り返る。

ここも「曲尺手」になっています。

※「曲尺(かねじゃく)」。

来た道を振り返る。

バス停「本納駅入口」。

ここも曲尺手の名残りか? 

看板建築。

看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは,正式なギリシャ古典様式を踏襲したものではないが,むしろその違いこそが地方の看板建築の特徴といえる。無名の職人たちが,西洋の様式や意匠をもとに,在来の技術や技能によって新たに創り上げた,日本独自の庶民の建築様式である。

            

「水戸街道」歩きで石岡市内でたくさん見かけました。

 

ここも「曲尺手」になっています。

振り返る。

        

「公立長生病院」。

この先で、「国道128号」に合流します。  

                           大きな幹線道路で車も多い。 

「本納」地区について。

藩政時代には、房総東往還と呼ばれた街道上に定期的に市が立ち、町場が形成されていた。取引される品は日用品等の小規模なもので、ささやかながら在郷町的賑わいを示していたのだろう。宿駅機能があったかどうかははっきりしないが街道の要衝であったことは間違いないと思われる。
 直角に二度折れ曲り遠見遮断が図られるなど、街道上の主要な集落らしい体裁が残っていた。あるいはこれは城下町時代に備えられていたものなのなのかもしれない。
 ただ家並からはその歴史を感じ取りにくくなっているのが惜しまれる。平入り、一部に寄棟屋根も見られる伝統的な構えの建物が散見されるが、連なっている箇所はなく古い町並としての体裁は淡いものだった。地元も特に認識されていない様子で、今後これらの建物も徐々に失われ、町並風景から往時を偲ぶことは困難になっていくのではと思わせた。(この項、「郷愁小路」HPより)

この付近の今昔。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                    

(現在)赤い線が「国道128号」。          (1880年代)町場が形成されている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

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JR外房線「大網」~「茂原」。その2。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-15 18:41:43 | 房総東往還

『Googleマップ』で、「伊南房州通往還(※「房総東往還」)」と記されている道を進みます。

バス停「永田駅入口」。

すばらしい槙の垣根が続きます。

           

垣根を立派にしつらえた、おうちが目立ちます。

満開のコスモス。

右に旧道が。

             

奥に森が広がります。

来た道を振り返る。

もとの道に戻ります。

            里山風景。

気が付いたら足元に「茂原市」の標石。茂原市に入りました。

豪華な長屋門。

               

刈入れを終えた田んぼが広がります。

飛び去るシラサギ(↓)。

外房線。

鋭角に折れる旧道へ。

合流するところに、「妙藏寺」石柱。顕本法華宗に属するお寺。

この付近の今昔。

                                                                                                                                                   

(現在)〇が残された旧道。                      (1880年代)本道として機能している。

 

この後、「本納宿」に入っていきます。

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JR外房線「大網」~「茂原」。その1。(「房総東往還」を歩く。第3日目。)

2023-11-14 18:34:19 | 房総東往還

外房線「大網駅」。

今回は、茂原駅まで歩くことに。

川沿いの前回歩いた道(「房総東往還」)。

この道を歩くことに。

この付近の今昔。

                             (現在)外房線沿いに南下するのが「房総東往還」。

                             (1880年代)

        太く記された道が「房総東往還」道。

この時期は、いったん「大網宿」に入り、東金~大網と続く道に合流し、南下していたようです。

短い距離ですが、右に旧道があります。

           「病院」脇の道。

合流。

大網白里市のマンホール。

太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。

左右に田園風景が広がります。

             

 外房線が遠くに。

「がまの穂」が密生。 

                

ガマとはガマ科ガマ属の植物で6月から8月にきりたんぽやソーセージ、フランクフルトに似た茶色の花を咲かせます。これをガマの穂と呼びます。

ガマの葉は最大で150cmから200cmにもなるほどの大きさで、川沿いや池の周りなどに自生します。

ガマの穂の茶褐色部分は雌花です。ガマの雌花は弾力があってふんわりと膨らんでいるのが特徴です。ガマの穂の上部には細長い棒があり、これがガマの雄花です。

ガマの穂は雄花も雌花も花弁がないのが特徴で、とても花のようには見えません。穂状なことからガマの穂と呼ばれています。

ガマの穂の大きさは10cmから20cmほどで、太さは2cmから3cmほどです。茎が細い分、太いガマの穂はよく目立ちます。群生しやすいのも特徴です。

膨らんだガマの穂を手でつぶすと勢いよく破れるため、爆発すると言われています。爆発したガマの穂からは白い綿毛が飛びだし、種を飛ばして繁殖します。ふわふわと舞う白い綿毛はとても美しくて見ものです

ガマの穂は食べることができます。地下茎は天ぷらにするとよいでしょう。海外では小麦粉にガマの穂の花粉を混ぜてパン、ビスケットにして食べることがあります。アボリジニが食用にしていたという記録もあるほどです。

ガマの新芽や若い穂はクセなく食べることができるでしょう。

ちなみに蒲鉾の名前の由来はガマ(蒲)の穂からです。見た目が蒲鉾に似ていたことからこのような名前になりました。

他にも花粉は蒲黄(ほおう)と呼ばれ生薬として利用することがあります。利尿作用があるとされ、さらに止血薬として使用されることがあります。

(この項、「Green Snap」HPより)

再び、右手に旧道があります。

        

「水準点」。

国土地理院が管理する水準点は、一等水準点、二等水準点などがあり、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されています。   

 肥料問屋のようです。                

小さな祠の脇にあった石塔。刻まれた内容は不明。

この付近の今昔。

                                                                                                                                  

(現在)「水準点」9.7と記されている。           (1880年代)旧道が残されている。

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向島百花園。菊花展。盆栽造りと野菊と・・・。のこんぎく。りんどう。ぶっそうげ。

2023-11-13 18:38:58 | 向島百花園

初冬の園内。

                 

11月12日(日)。曇り空。一気に冬の気配。薄着ではかなり肌寒い。

そんな中、向島百花園へ。菊花展が開かれています。丹誠込めた菊の盆栽。

                  真ん中の作品は、「村のお祭り」。

             

それぞれ凝った作品がずらり。

 

       

          

         

鉢植えも置かれています。まだ時期が少し早そうですが。

  

         職人さん達の丹誠込めた菊がたくさん。

地植えの野菊。こんぎく。

のこんぎく。

・北海道と沖縄を除く全国に分布するキク科の多年草。ヨメナと共に、いわゆる「野菊」と呼ばれるキクの代表。葉はヨメナと同じように食用になり、味もよく似る。別名をコンギク、ナンヨウシュンギクという。

・日向を好み、田んぼの畦道、山道あるいは林の縁などの開けた場所に多い。根はいわゆる地下茎であり、横に広がって群生する。

・野に咲く紺色の菊という意味合いでノコンギクと命名されたが、花の色は白~薄紫と個体差や地域差が見られバラエティに富む。紺色が濃い「紺菊」という園芸品種もある。

(この項、「庭木図鑑・植木ペディア」HPより)

りんどう(竜胆)。

リンドウは秋の山野草の代表的なものです。本州、四国、九州に分布し、人里に近い野山から山地の明るい林床や草原に見られます。人気が高く、薬草としても広く知られています。
春に細い芽が伸びてきて、ササの葉に似た細い葉をつけ、茎は次第に立ち上がります。夏が過ぎると茎は次第に横に倒れ、秋が過ぎたころから、先端に小さな蕾をのぞかせます。蕾は渦状に巻いた状態で、日を追うごとに伸びます。そして、暖かい日ざしのなかで、青紫色で5裂した筒状の花を数輪開きます。花後にはさや状の果実がつき、秋も深まるころには葉が枯れて休眠に入ります。
園芸的改良が盛んで多くの品種が見られ、鉢花や切り花などでも流通しています。

(この項、「」HPより)

           

ぶっそうげ。

・熱帯及び亜熱帯に自生するアオイ科フヨウ属の常緑低木。日本では沖縄、九州南部、伊豆諸島南部、小笠原諸島に分布し、江戸時代の慶弔年間以降に本州での栽培が始まった。ハワイを代表する植物「ハイビスカス」の原種の一つで、南国風の花を観賞するため、自生地以外でも温室等で栽培される。

・学名Hibiscus rosa-shinensisは「中国のバラ」を意味し、西洋人が中国で発見したことによる。中国南部~東インドを原産地とする説もあるが栽培品だった可能性もあり、正確な原産地は分かっていない。インド洋諸島~東アフリカで成立した雑種植物とする説もある。

・ブッソウゲという名は、中国名「扶桑」に由来する。扶桑は「日本」を意味する言葉でもあり、混乱を避けるためか「花」を付け加え、これを音読みしてブッソウゲとなった。沖縄ではアカハナー(赤花)あるいはグソーバナ(後世花)といい、後者は本種を仏花として墓前に供えることによる。

(この項、「庭木図鑑・植木ペディア」HPより)

ふよう(芙蓉)。

             

はぜのき。

ひときわ鮮やか。

今までの暑さのせいか、イチョウもモミジも色づくにはまだ早いようでした。

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JR外房線「誉田(ほんだ)」~「大網」。その4。(「房総東往還」を歩く。第2日目。)

2023-11-12 18:33:39 | 房総東往還

大網方向へ。切通しの下り坂。

けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!

眼下に民家。

眼下の左右が開けてくる。

右に下る道が旧道? 

          ※「Googleマップ」では「大網街道」と表示されている。

房総らしい谷戸、田園風景。

振り返る。

     北方向。

南東方向。

今度は上り坂。

          右奥に「圏央道」の橋脚。

南方向。

「大網白里市」に。

千葉市から大網白里市へ。

「圏央道(千葉区間)」をくぐる。

                  北方向。

      この右手に旧道?

来た道を振り返る。

この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。

この川沿いに大網駅へ。

      

大網白里市のマンホール。

            太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。

前方に「大網駅」。

          

西側方向。

※この川沿いが「房総東往還」道になっています。

来た道を振り返る。

大網駅改札口。

当駅開設当初は東金線の福俵駅方面に500 mほど進んだJR東日本大網保線技術センター付近にあり、東金駅方面から千葉駅方面と安房鴨川駅方面の双方向に分岐する線形であった。そのため、当駅を経由する房総東線(現・外房線)の列車はスイッチバックが必要であったスイッチバックが必要な線形については千葉駅も参照されたい。

1972年(昭和47年)5月に、当駅と房総東線の線路が移設のうえ高架化され現在の形態となった。かつての房総東線の線路は貨物列車用の短絡線として1996年平成8年)まで使われていたが、新茂原駅での貨物取扱終了により撤去された

スイッチバックの解消により、外房線と内房線を経由して房総半島を循環すると蘇我駅で列車編成の向きが逆転するため、このような列車の設定が困難となった。

                                     (「今昔マップ」より)

1974年時点の旧大網駅周辺空中写真(国土画像情報カラー空中写真(国土交通省)より)

駅の位置が異なっていることに注目。また、駅の構造上、外房線のホームは急カーブになっている。  

国鉄の旧千葉駅は現在の千葉市民会館付近にあり、東京方面から走ってきた総武本線の列車は内房線・外房線へと走るためにスイッチバックしなければならなかった。スイッチバックは大幅に時間をロスするだけでなく、列車の運転本数を増やす障害になっていた。

※千葉駅もかつては複雑な構造したスイッチバックでした。

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/84/da96206cdeecc5901e1ead005c6c2019.png">

                         (「今昔マップ」より)

            

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