nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

平和記念公園

2011-02-13 00:00:00 | 旅行記

平成23年2月13日(日)晴
 クラブツーリズム社の『安芸の宮島・萩・津和野・錦帯橋・秋芳洞3日間』というツアーに参加しました。
     *
Img_1889 昨日までの雪や雨とは打って変わって、抜けるような青空が広がる好天になりました。
 新幹線から見る大山、丹沢の山並みも素晴らしい雪景色となり、富士山も一段と雪化粧が映えてい
 ました。
 慌ててカメラを出しましたが、時既に遅く、ようやく三島を過ぎてから富士山を撮ることができま
 した。
     *
 名古屋を過ぎる頃から次第に雲が出てきて、問題の関ヶ原付近では曇となりました。
 東京駅を出発する時には、関ヶ原付近の積雪のため列車の速度を落として通過するので、10分ほど
 の遅れが出るとのことでしたが、我々の乗った列車が通過するまでに解除になりました。
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 昼食は名古屋駅で「花ことば」という駅弁が準備されていました。
 ビールを飲みながら、関ヶ原付近の雪景色を眺めての食事となりました。
     *
Img_1891 Img_1892                             *
 京都から大阪付近になると再び青空が広がり、広島
 では晴天となりました。
 広島駅からのバスは、34人乗りとゆったりシートで
 足元が楽なのが良い。
 出発前、ドライバーの挨拶で、
 「えらいことですが、昨日の大雪で中国自動車道の
  一部区間が通行止めになっているため、一般道を
  利用すると今日の旅館到着が大分遅くなりますの
  で、大変申し訳ありませんが、あらかじめご了承
                       下さい」と言われる。
 今冬の中国地方日本海側の大雪は、昨年末から話題になっていましたが、まさかこのツアーも影響されるとは思ってもいなかったので、少しばか
 り心配になりました。Img_1893
     *
 初日の今日は、広島の平和記念公園を見学しました。
 広島駅から公園に向かう途中、バスの車中から広島城が見えました。
 1589年、毛利輝元が築城し、別名鯉城と言われています。
 天守閣は原爆で倒壊後、1958年に再建され、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になって
 いるとのことです。
     *
 公園で待ち受けておられた、ボランティア・ガイドの方の案内で40分ほど園内を歩きました。
 先ず記念公園の説明がありました。
     *   
平和記念公園 公園設置日 1956(昭和31)年4月1日
 現在の平和記念公園一帯(中島地区)は、江戸時代から陸海の交通 の要衝として栄えていました。
 明治になると、市庁舎、県庁舎のほか、広島の物流の拠点となるなど、政治・行政・商業の中心となりました。
 被爆時のこの地区7町の住民は、合計で6,500人と推定されています。
 1945(昭和20)年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、この地区の頭上で炸裂しました。
 地区の住民はもとより、当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊や動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え
 去りました。
 1949(昭和24)年8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の
 平和記念公園に生まれかわりました。
 公園面積は約122,100平方メートル(約37,000坪)。設計は、丹下健三東大助教授(当時)ほか3名の共同作品で設計競技による145点の中から
 入選したものです。
 公園の南端には、広島平和記念資料館(東館・本館)と並んで、広島国際会議場があります。 [広島平和記念資料館]資料による
     *
 次いで太田川を挟んで見える原爆ドームの説明がありました。

Img_1895原爆ドーム
 竣工年月日 (広島県物産陳列館)1915(大正4)年4月5日
 建 立 者  広島県(1953(昭和28)年広島市へ譲渡)
 設 計 者 ヤン・レツル(現在のチェコ出身の建築家)
 形   状 レンガ(一部鉄筋コンクリート)モルタル仕上げ、玄関部分は石造りで地上3階一部
       5階建て、地下1階のセセッション様式と呼ばれる建築物で曲面を多用しているのが
       特徴。
     *
 原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々
 は全員死亡したと伝えられています。
 爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
 そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。

ドームの保存
 ドームの保存については、
 「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と、
 「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見が対立しましたが、1966(昭和41)年に永久保存を決定、広く募金
 を呼びかけ、これまで3度の保存工事が行われました。

世界遺産への登録
 人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして1996(平成8
 年)12月(世界遺産条約」に基づきユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。

広島県物産陳列館
 広島県物産品の販売促進を図る拠点として造られた広島県物産陳列館は、大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売のほか、博物
 館・美術館としての役割も担っていました。
 その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、
 内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていました。
     *
 園内を慰霊碑へ向かって歩きながら、【平和の鐘】【原爆供養塔】【被爆した墓石】【原爆の子の像】などの説明を聞きました。

【平和の鐘】
 この梵鐘・鐘堂は、鐘作りの重要無形文化財保持者(人間国宝)、香取正彦さんの作品です。
 鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。
 撞座(つきざ)は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、撞く人の己の心を写しだす鏡が入れられています。
 この鐘は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボル
 として、平和を願う万人の心と浄財を結晶させて、つくりました。(昭和39年9月20日建之 広島悲願の会)

【原爆供養塔】
 爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされました。1946(昭和21)年
 市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、その後10年経った1955(昭和30)年広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を
 改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めました。
 内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。広島市は、氏名が判明しながら
 引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955(昭和30)年に2,432柱あった遺骨のうち、今でも824柱の遺骨は引き取り
 手がなく、この供養塔に眠っています。(2007(平成19)年6月20日現在)
 1946(昭和21)年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれています。
  
【被爆した墓石】
 五輪塔(台座付き)。24枚の花弁で飾った台座の上に「地」の文字のある四角な石、その上にはそれぞれ「水」「火」「風・空」の文字を彫った
 三つの石が据えてあった。
 ここに慈仙寺という浄土宗の大きなお寺があり、爆心地から約200mで、全ての建物は壊滅、住職ほか2名は清掃中に即死、浴室で洗濯中の住職の
 妻も重傷で翌日死亡し、結局全員が亡くなりました。
 強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされ散乱しました。被爆当時の姿で残されているこの墓(爆心地から約270m)は、広島藩浅
 野家御年寄の岡本宮内のものです。
 平和記念公園の中で、被爆当時の地面をそのままとどめているのは、この墓地だけです。公園が盛り土して建設されたため、周囲を石で囲んで、
 池の底のようになってしまったこの部分が当時の地面です。

【原爆の子の像】
 三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい
 未来と希望を象徴)がある。(高さ9m)
 この像は、佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。
 碑文は「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」とあります。
 2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長しました。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診
 断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えました。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の
 包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴と
 して、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。
 禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけました。
 やがて、子どもたちによる募金活動が始まり、全国3,100校余りの生徒と、イギリスなどの国外からの支援により、像を完成しました。
 塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られ
 た銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。
 この「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002(平成14)年4月に、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブー
 ス)が整備されました。
     *
【平和の灯】
Img_1897 
建立年月日  1964(昭和39)年8月1日
建 立 者  平和の灯建設委員会
設 計 者  丹下健三(当時・東大教授)
形   状  台座は手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現している。
       (高さ3m、幅13m、奥行き8m)
建立の目的  水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。
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 灯の点火は、全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられ
 た“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
 この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上か
 ら姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
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【原爆死没者慰霊碑】(広島平和都市記念碑)

Img_1899建立年月日  1952(昭和27)年8月6日
建 立 者  広島市
設 計 者  丹下健三(当時・東大助教授)
形   状  材質:みかげ石「黒髪石」(石室部分)
          みかげ石「稲田石」(屋根部分)
          (1985(昭和60)年の改築工事まではコンクリート製)
形   態  屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの
                     型にした)
建立の目的  世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願
       して設立したもの。
碑   文  「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
                            (雑賀(さいか)忠義(ただよし)) 本人揮ごう
碑文の由来  諸霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつけることに苦慮した当時の浜井市長の命を受けた秘書係長が碑文の古典研究に造詣の
       深い広島大学の雑賀忠義教授に碑文の作成を依頼し、翌日即決しました。
碑文の趣旨  碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、
       「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え
        憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」
       と記しています。
原爆死没者名簿 中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。
        名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2010(平成22)年8月6日現在で、97冊(269,446人の名前が記帳された96冊と
        「氏名不詳者多数」と記された1冊)になっています。
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 ここまでで予定の40分となり、残念ながら資料館の見学はできませんでしたが、頂いたパンフレットに よる説明は次のとおりです。
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広島平和記念資料館
Img_1900 開館年月日  1955(昭和30)年8月24日
 改   修  1991(平成3)年8月(本館)改修
 建替年月日  1994(平成6)年6月(東館)建替
 建 立 者  広島市
 設 計 者  丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国
 形   状  東館:地上3階地下1階建、延床面積 10,098m2
        本館:地上2階一部中3階建、
           ピロティー式の本館下の空間は、 廃墟の中から立ち上がる人間の力強さを表
           わしたいという考えが込められている。

広島平和記念資料館の歩み
 1949(昭和24)年9月、広島市中央公民館に「原爆参考資料陳列室」が設置され、原爆被災資料の展示が始まりました。
 同年公布された「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館
 しました。
 1994(平成6)年6月、展示・収蔵機能や平和学習の場を充実するため、平和記念館を建替え、2館を一体化した新たな「平和記念資料館」として
 開館し、現在に至っています。
 2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定されました。戦後建築としては初めての重要文化財となります

東 館
 被爆前と被爆後の広島、広島に原爆が投下された経緯、核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて模型や映像、写真パネルなどで紹介し
 ています。
 原爆記録映画の視聴ができるビデオシアターがあるほか、地下には「市民が描いた原爆の絵」などの展示室、修学旅行生が被爆体験者の証言を聞
 くことができるホールや会議室、原爆・平和に関する図書などを閲覧できる情報資料室が設置してあります。

本 館
 原爆の熱線、爆風、放射線、高熱火災のすさまじさを物語る被爆者の遺品や被爆資料を展示し、1945(昭和20)年8月6日、広島に何が起こったの
 かを伝えています。
 被爆者による証言の視聴や来館者が感想や平和へのメッセージを記入するコーナーもあります。
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【地球平和監視時計】

Img_1901 建立年月日  2001(平成13)年8月6日
 建 立 者  NPO法人 広島からの「地球平和監視」を考える会
 設 計 者   岡本敦生
 形   状  高さ3.1m、幅0.8m、奥行き0.4mのみかげ石製。
        最上段には現在の時刻を示す丸い時計があり、中段には「広島への原爆投下からの
        日数」と「最後の核実験からの日数」のデジタル表示板、最下段には歯車装置が取
        り付けてある。
 建立の目的  被爆体験の風化を防ぎ、繰り返される核実験の実施をけん制する意図で制作され、
        広島市に寄贈された。
 歯車装置   日数表示の下にある歯車装置は、このままいけば人類が破滅へ向けての「刻限」を
        刻み続けることを暗示的に警告しています。
 歯車は縦に15個並んでおり、一番上の歯車の回転数(毎分100回転)が、地球の危機的状況の深刻化により早く回転し、固定されている一番下の
 歯車に達したとき、装置そのものも自壊するという発想で制作したものです。
 この歯車の回転を止めるため、核兵器廃絶に向けて英知を結集し、軍事力に頼らない共生の時代を求めていかなければならないことを訴えていま
 す。
     *
 これで広島平和公園での見学を終わり、今日の宿のある長門湯元温泉へと向かいました。
 小生にとっては2度目の見学でしたが、改めて原爆の悲惨さを知らされた一時でした。
 それにしても世界の平和は一体何時のことになるのでしょうか ? 未だに人の命を粗末に扱う國があることに、憤りとともに情けない気持ちにさせ
 られます。
       *
 バスは広島市内から抜け、廿日市 I .C.から山陽自動車道に入りました。
 車窓左手の厳島の山並みにも雪が残っており、果たしてこの先の通行止めはどうなっているのか、気掛かりでしが、途中のP.A.での情報で、たっ
 た今通行止めが解除されたとのことで、車内も一安心。
 車窓の山々の雪も次第に多くなり、路肩にも残雪が見られるようになり、中国地方ではタイヤを冬バージョンにする習慣がないとのことなので、
 なるほど通行止めも致し方ないと納得させられました。
 佐波川S.A.でトイレ休憩の後、山口J.C.T.で中国自動車道に入り、美祢 I .C.で一般道へ出ると、一段と雪の量が多くなりました。国道の除雪は
 しているようですが、県道になると1車線のみということが多いので、バスの運行が難しいとのことでした。
 ともかく夕闇迫る湯元温泉に到着したのは、午後6時近くになっていました。
       *
 長旅の疲れを温泉大浴場で流し、夕食は〈アンコウ会席、鮑添え〉とのことで、日本海の海の幸を美味しく頂きました。
 
     *
 長門 湯本温泉
 長門 湯本温泉は今からおよそ600年前。(西暦1427年)(応永34年)(室町時代)大寧寺の「定庵禅師」が座禅のなか、住吉大明神か
 らのおつげによって発見された、山口県ではもっとも古い歴史をもつ温泉と知られております。江戸時代には藩主も度々、湯治に訪れておりまし
 た。

長門 湯本温泉の云われ
 大寧寺の第3世住職、定庵禅師(1373~1432)の時代。
 ある月の明るい夜、定庵禅師が寺のまわりを散歩していると、石の上で座禅をしている老人に出会った。和尚が名前をきくと老人は歌でこたえた
 「松風の声のうちなる隠れ家はむかしも今も住吉の神」
 老人は長門一宮(下関)の住吉大明神であった。老人はその後、名僧、定庵の説法の席に通い、仏道を修めた。応永34年3月23日、定庵禅師
 から法衣を贈られた老人は法恩に報いるため、
 「山の奥に温泉を出しておきましたのでご利用ください。」と告げた。たちまち雷鳴が轟き、老人は大きな竜の姿になって雲の上に消えていった
 という…。
 これが「伝説」のあらましです。これを裏付けるように、湯本中心部の泉源は現在でも大寧寺の所有です。
 浴場は二つに分かれ、昔は上の礼湯(れいとう)を武士や僧侶、下の恩湯(おんとう)を一般の人が使っていました。江戸時代には温泉の近くに
 お茶屋「清音亭」(せいおんてい)が置かれ、藩主もたびたび入浴に訪れました。大寧寺の墓苑には「住吉大明神の座禅石」が今に伝わり、共同
 浴場の裏山には住吉の神をまつる社(住吉神社)が建っています。     [湯本温泉旅館協同組合]資料より

 9時50分 東京(のぞみ103号)→ 13時58分 広島(バス)→ 14時20分 平和記念公園 15時10分 → 廿日市 I.C.(中国自動車道)→ 16時45分
  佐波川S.A. 17時00分 → 美祢 I .C. → 17時50分 長門湯本温泉 白木屋グランドホテル 泊