nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

津和野

2011-02-15 00:00:00 | 旅行記

平成23年2月15日(火)曇、雨、雪
 何故か目が冴えて5時半過ぎに起床。桧露天風呂に入るべく温泉を注ぎ込む。
 こちらは夜の明けるのが遅く、外はまだ真っ暗。
 どうやら今日も天候が良くないようだ。
 のんびりとお湯に浸かって、眠気を覚ます。
 ようやく薄明るくなって、目の前の松本川のカモメたちが見えてくる。
 [ウミネコ][セグロカモメ][カワウ][オカヨシガモ][ヒドリガモ]上空には[トビ]が舞い始めている。
 雨が落ちているので、外への散歩も出来ない。山は雪で白くなっている。
     *
 朝食は2階のレストランで。今朝も和食だ。Img_1939 
 『ノドグロ』の干物が珍しい。それと『温野菜』も最近の流行のようだ。
     *
 出発前に部屋から見える萩城のあった指月山と、松本川に架かる雁島橋をカメラに収める。
 ここの従業員は総て、宿泊客に対する応対が素晴らしい。旅行社が最上級ランク指定ホテルとし
 ていることも良く分かる。
 今日がツアーの最終日なので、荷物の一部を宅急便で送ることにする。
     *
 雨の中、昨日の『萩焼窯元』まではマイクロバスで送ってもらう。
 ホテルまでの道幅が狭く、大型バスが通れないための措置だった。
 別のホテルへ泊った人たちも同時に到着して、津和野へ向かう。 
        雁島橋               指月山
Img_1941Img_1942 バスが山道に入ると、雨は雪となり、それも次第に強くなる。
 周囲の景観もすっかり雪景色となる。
 津和野への道も、県道では除雪が心配なので、遠回りとなるが国道を利用するという。
 途中で反対車線を来る除雪車と擦れ違ったが、こちら側は停止して行き過ぎるのを待つという

 状態だった。
 今日は一番前の座席だったので、その雪景色を撮ったものを下に載せることにする。

 


Img_1943Img_1944

 例によってガイドさんの名調子で『津和野』の紹介が始る。
 うっかりしていたが、津和野は島根県なのだ。

 山口県との県境、島根県の最西部になるとのことだ。
津和野の歴史
 「つわぶきの里」伝説
 津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツに持つといわれる。
 遠い昔、山紫水明 のこの地に住みついた人々は、群
 生する「つわぶき」の可憐な花に目を留め、その清
 楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・ 「つわの」と呼ぶようになったという。
 このような伝説をもつ当地域の歴史は古く、縄文時代まで遡る。町教育委員会の調査によれば、今から約9000年前の早期縄文時代から人々が住ん
 でいたことが確認されている。
 これまでに町内19ヶ所で遺跡が発掘されており、石斧、土器、石器などが採集されている。
 これらの発掘により、当地域は後期縄文時代には九州文化圏の影響 を受けていたこと、そして、約1700年前の前期古墳時代の土器により当時、山
 口地方と山陰地方を結ぶ交通の要所として両方の文化が交流する重要な場所であったことなどが分かっている。
 また、平安時代の前半頃(約1200年前)の土師器や須恵器、緑釉陶器とともに、4枚の承和昌宝という銅銭も発見されている。
 承和10(834)年には能濃郷の成立、稲作の水田開発が進み、津和野川流域で集落が形成されたことがうかがえる。
     *
地頭職吉見氏の着任と津和野城の完成
 弘安 5(1282) 年、元寇警備のため能登から石見に入部した地頭職吉見頼行は着任後、津和野城の築城にかかり正中(1324)年、二代頼直の代に
 約30年の月日をかけて 本格的な山城を完成させた。
 その後、吉見氏は大内氏家老としてその傘下に入るが、主家の大内義隆が家来の陶晴賢に討たれてしまう。
 10代吉見正頼は、弘治3(1557)年に毛利元就と計り、陶晴賢を滅ぼし、以来、吉見氏は代々毛利氏の部将として西石見二郡、長門阿武郡を所領する。
 吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつあった。
     *
坂崎出羽守の入城と津和野発展の礎づくり
 慶長 5(1600)年、関ケ原の戦で西軍が敗退すると、14代吉見広行は主家の毛利氏の萩移封に従い、津和野城を坂崎出羽守に明け渡し、萩に退転した。
 「千姫事件」で知られる坂崎氏は備前宇喜多氏の一族であり、在位16年の短期間に津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原
 料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いた名君であった。
     *
亀井氏11代の城下町として繁栄
 坂崎氏が「千姫事件」で失脚すると、元和(1617)年に因州鹿野城主であった亀井政矩が4万3千石の藩主として入った。
 以後、歴代藩主は産業開発と教育の振興に力を注ぎ、一時は実録15万石といわれるほど繁栄した。
 8代矩賢は藩校「養老館」を創設し、11代茲監は藩の機構改革を実施、人材育成の充実を図った。
 このような歴代藩主の人材育成重視の施策が、幕末から明治・大正期にかけて活躍した日本を代表する人物---国学者福羽美静、近代日本哲学の祖
 西周---文豪森鴎外などを輩出する礎を作った。
  明治に入ると明治4(1871)年の廃藩置県によって浜田県(のちに島根県)に属し、明治12年には現在の町役場に郡役所が設置され、郡の行改、
 経済、文化 の中心として発展した。
 そして明治22年の市町村制施行により津和野町が発足、昭和30年に津和野町、小川村、畑追村、木部村の近隣四町村が合併、さらに 平成17年、
 日原町と合併し、現在の津和野町が誕生した。                [津和野町観光協会]資料より
     *
 幸いにも、津和野に近づくにつれ雲が切れ、所々青空が覗くようになる。
 町のお土産屋の駐車場にバスを止め、その店の主人が町を案内する。
      *  殿町通り                                                        掘割の鯉
Img_1950Img_1951 とはいっても僅か40分ではと、津和野のメインストリートといわれる『殿町通り』へ。
 流石に観光の町だけあって、観光客の歩く場所は雪掻きがされている。
 この石畳の通りは、かって家老屋敷が隣接していたところとか。
 なまこ塀と掘割り泳ぐ鯉など、津和野のシンボル的
 スポットとされている。平屋建ての家が続いている
 ので、空が大きく広がり、折からの日差しが眩しく
 雪に反射している。
       *
  

     多胡家老門                                                           藩校養老館
 Img_1947Img_1948『多胡家老門』についての説明では、多胡家は亀井
 氏 11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢
 献した家柄。瓦葺きで、間口4m、長さ26mの立派な
 武家屋敷門が今も残っています。
 同じく家老だった太岡家が隣接しており、門を入る
 と古いたたずまいが印象的な町役場になっています
 『藩校養老館』は、森鴎外や西周など、数多くの優
 れた人材を輩出した藩校。
 藩校の一部は現在『民俗資料館』として使用されている。 
       *
Img_1952Img_1953 掘割の鯉は、11月から2月までは餌を食べないので
 今が一番痩せているとのことだが、見る限りではそ
 のようには思えないほど大きい。







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Img_1954Img_1955 短い見学が終わり、ガイド役の主人の経営するお土産店へ。
 津和野の名物の一つに『和紙』がある。妻もお土産に選んでいた。






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 かくして短い津和野の観光を終えて、次の目的地、岩国の錦帯橋へと向った。
錦帯橋

 岩国の錦帯橋までは、国道187号線を利用して中国山脈を越え、2時間ほどかかるという。
 最初は日本海側へ流れる高津川沿いに上り、峠を越えると今度は瀬戸内海に注ぐ錦川沿いの道を下って行く。
 この錦川に架かるのが錦帯橋なのだ。ここまで来れば雪は無くなっている。
 ツアーも3日目になり、そろそろ疲れが出てくる頃で、車内で居眠りをする方も出てくる。
 ガイドの末永さんも、先刻ご承知のようで、しばらく案内を中止している。
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イメージ 1                              
 やがて錦川の対岸、横山の山頂に『岩国城』が見えてくる。 
 ここで改めてガイドの説明が始る。
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 岩国城は、1608年 (慶長13年) に初代岩国藩主の吉川広家が、蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城しました。
 しかし幕府の一国一城令により、築城より僅か7年後の1615年 (元和元年) には取り壊しとなり、政務は山麓の居館 (現在の吉香神社付近) で行われました。
 現在の天守は1962年 (昭和37年) に外観復元されたもので、四重六階の桃山風南蛮造です。
 南蛮造(唐造)とは最上階をその下階より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。
 復元の際、錦帯橋からよく見えるよう、旧本丸の約50m南側に位置を変えています。
 現在、天守内には刀剣や武具甲冑類が展示されています。
 一国一城令による取り壊し後、幕府より石垣も破却するよう命じられ、天守台も破壊されました。
 しかし下部約1/4が地中に埋まって残っており、1995年 (平成7年) に古式穴太積 (こしきあのうづみ) 石垣が発掘復元されました
 また北ノ丸の石垣や空堀などの遺構が現存しているとのことです。 
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 バスは昼食のため、錦帯橋の前にあるお食事処『しろたい』の先で止まる。
 今日の昼食は岩国名物の『岩国寿司』だ。この岩国寿司は、押し寿司風に仕上げた保存食としてのチラシ寿司で、岩国地方なら
 ではの郷土料理として親しまれているという。
 一度に4~5升つけ込む豪快な作り方で、型の中で具と寿司飯を交互に重ねて押す。名産のレンコンや瀬戸内の新鮮な魚を入れ
 るのが特色。風味も良く、人気の名産品とのことです。
 また、名産のれんこんは、岩国藩主『吉川家』の家紋が九曜の紋で、れんこんの穴が同じ9つということが藩主を喜ばせたと言われています。
 岩国れんこんの特徴は、しゃきしゃきした歯触り、かじると糸を引くでんぷん質の腰のある粘り等、味の良さは格別です。
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 食事もそこそこに、目の前にある『錦帯橋』を見物かたがた渡る。
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錦帯橋 
 日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 は日本を代表する木造橋です。
 他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、1922年 (大正11年) には国の名勝に指定されています。
 橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m。また幅5m、橋台の高さ6.64mです。
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錦帯橋の歴史
 1600年 (慶長5年) に岩国の地に移封された岩国藩の初代藩主・吉川広家は1608年 (慶長13年) には蛇行した錦川に囲まれた天
 然の要害の地である横山の山頂に岩国城を築城しました。
 その麓に居館や上級武士の屋敷を配置、中下級武士の屋敷や町屋は錦川対岸の錦見に置き、岩国城下町を形成しました。
 横山と錦見は川幅約200mの錦川に隔てられており、藩政に橋は必須でした。
     * 
     吉川広嘉公の銅像
 イメージ 4                               
 第3代藩主・吉川広嘉は、暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意します。
 そこで、橋脚のない甲斐の「猿橋」に着目しますが、約30mの猿橋と約200mの錦川では条件が違いすぎ、技術の応用は不可能でした。
 その後、広嘉は明の渡来僧である独立(どくりゅう)が持つ「西湖遊覧誌」にある、島づたいに石橋が架かる図をヒントに、錦帯橋の構想を得ました。
 広嘉は家臣の児玉九郎右衛門に架橋を命じ、1673年 (延宝元年) 10月、岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成しました。
 翌年洪水により一部が流失しましたが、その年のうちに、敷石を強化し再建されました。
 以来276年の間、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、流失することはありませんでした。
 また、架け替えられていく中で改良が重ねられていきました。
 例えば、橋裏に整然と並んだ補強部材「鞍木」 は1682年 (天和2年) に追加されたものです。
 しかし長年不落を誇った錦帯橋も、1950年 (昭和25年) 9月、キジア台風による錦川の大増水により、多くの市民が見守る中、惜しくも流失してしまいました。
 その後、市民の熱意で1953年 (昭和28年) 1月に再建されましたが、それから約50年を経て、木部の傷みが全体的に目立つようになりました。
 そのため、2001年 (平成13年) 秋より「平成の架け替え」 が、伝統を受け継ぐ岩国の匠の手により、昔ながらの木組みの工法
 で行われました。総事業費約26億円をかけた大事業は、2004年 (平成16年) 3月、五つの反り橋はアーチの美しさにこだわって生まれ変わりました。
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      錦帯橋の構造
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 反り橋の構造は、頑丈な組木の技法により、橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっています。
 経間35mを無脚で渡した技術は、現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われ、300年以上も前の技術力には非
 常に驚かされると共に畏敬の念を抱きます。
 錦川の河原から錦帯橋の裏面を見上げると、精緻な組木を巻金と鎹 (かすがい) で補強したダイナミックな構造美を見ることができます。
 また水流に対して流線型をした橋台は、水の圧力を軽減する効果があり、橋台周囲に敷きつめられた敷石が橋台の根元を補強しています。
 錦帯橋の魅力は橋を取り巻く山紫水明の景観によって更に増幅します。
 2005年 (平成17年) 9月6日 に襲来した台風14号がもたらした未曾有の豪雨により、架け替え後わずか1年半しか経っていない新
 しい錦帯橋の橋杭が2本流失しました。
 しかしその後、2006年 (平成18年) 2月には修復工事が完了し、元の美しい姿を取り戻しています。
 2007年 (平成19年) 2月16日、財団法人古都保存財団により「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。
                                                [岩国観光協会]資料より
     *
 木造なので、靴の底から伝わる反動は優しく伝わってきます。それに反り橋部分は、一段毎の高さが低いので、子供でも楽に歩くことが出来ます。
 橋の中程から対岸を見ると、川沿いには桜並木が続いており、お花見の絶好の場所であることが分かります。
 ガイドの説明にもありましたが、その時期になると道路の大渋滞と駐車場が満杯になるとのこと、何処もお花見時の混雑は避けられないようです。
     *
 橋を渡った左手の土手下に『槍倒し松(やりこかしのまつ)』があります。
 昔の山陽道は、徳山から玖珂ー岩国御庄ー多田ー関戸ー小瀬ー大竹市中津原へ抜けるコースで、この上流にある岩国市御庄近
 くでは、渡し舟が利用されていました。
 ところが、大雨が続くと川が氾濫し、渡し舟が止まり、参勤交代などで江戸を往復する西国の諸大名は、吉川藩に願い出て、
 吉川家の所有である錦帯橋を渡してもらっていました。
 大名行列が藩の要所を通る時は、行列の槍を倒すのが礼儀となっていましたが、わずか6万石の岩国藩を馬鹿にして、誰も倒す者はいませんでした。
 悔しがった知恵者が、近くの山から枝ぶりのよい松の木を持ってきて錦帯橋の袂に植えたところ、行列の槍は嫌でも倒さなけ
 ればならなくなり、岩国藩士は手をたたいて大喜びしたそうです。
 しかし、本当に意識して植えたという記録はないとのことです。
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      槍倒し松                巌流ゆかりの柳
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     *     
 その松の下流近くに、巌流ゆかりの柳があります。
 「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また剣名を ”巌流” とも呼ぶ人間は、かくいう私であ
  るが・・・」吉川英治の小説『宮本武蔵』の一節です。
 吉川英治は、錦帯橋ー柳の木ーつばめーつばめ返しー巌流ーと連想して、
 「佐々木小次郎が、錦帯橋畔で柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得た」と、岩国に来て自ら創作し、剣聖・宮本武蔵の背景を見事に写し出したものです。
 これにちなんで、錦帯橋の袂の柳古木を「巌流ゆかりの柳」とし、新たな観光名所となっています。
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 橋を渡った正面には、岩国城へ行くロープウエイの山麓駅までの間に『吉川広嘉公銅像』や『吉香公園』、『香川家長屋門』、
 『旧目加田家住宅』などがあるが、時間の関係もありガイドの説明があった『白蛇観覧所』を見ることにする。
 この白蛇が野生で棲息しているとは知らなかった。
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 岩国のシロヘビは、長さ180cm、胴回り15cm余り、アオダイショウのアルビノが遺伝的に固定している種です。
 目はルビーのように赤く、全身は白く光沢があり、清楚な姿でとても神秘的です。
 性質はおとなしく温順で、人に危害を加えることもありません。
 アルビノは普通一世代限りの遺伝子異常ですが、岩国のシロヘビは形質が遺伝で維持されている個体群です。
 世界的にも非常に珍しく貴重で、学術的価値も高い。
 最初の記録として残っているものは、およそ270年前に書かれた「岩邑年代記【がんゆうねんだいき】」で、元文三年(1738)
 六月、千石原(横山三丁目付近)に出現と記されています。
 文久二年(1862)の「錦川誌」にも岩国藩の米倉に住み着いているという記録があります。
 シロヘビの誕生がいつ頃かは不明ですが、約400年前、関ヶ原の戦いの後、岩国へ移封された藩主吉川広家が錦見一帯で米作
 りに努めた頃、多くの米倉でネズミを餌にしていたアオダイショウが色素細胞のない変種となり、それが遺伝し生まれてきたとされています。
 当時の人々がこの珍しいヘビを有益で幸運を呼ぶ家の守り神として大切に保護したと考えられ、その数を増したといわれています。
 大正13年12月9日、錦川をはさんだ今津、麻里布、川下地区が国の天然記念物に指定され、昭和47年8月には「岩国のシロヘビ」と指定替えされました。
 この中で麻里布地区は昔からのシロヘビに加え、川下地区は旧家が多く、蔵や石垣、水路など生息条件が良いことが、この地区に多く見られる理由です。
 しかし、近年生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど、環境の変化により、その生息数は減少しつつあります。
 吉香公園内と今津町天神山には、シロヘビの観覧施設があり、いつでも美しい姿を見ることができます。
 (財)岩国白蛇保存会では岩国市と共に、官民一体の保護保存活動を進めています。 (財)岩国白蛇保存会資料より
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 錦帯橋見物が、この付近に棲息しているという白蛇まで見るというオマケが付いて、岩国を後にしました。 
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宮 島 
 ツアー最後の観光地は『宮島』です。
 岩国を出発したバスは、岩国 I.C.から山陽自動車道に入り、大野 I.C.で国道2号線に下り、宮島口の駐車場に到着。
 ここでガイドとドライバー氏とはお別れとなる。
 2日間ではあったが、ベテランガイドの末永氏の名ガイドぶりに感動し、また3日間の目まぐるしく変化する天候、特に山間
 部の雪道に抜群の運転技量を発揮してくれたドライバーに拍手で感謝の気持ちを表す。
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 私も妻も過去に来ている宮島ですが、久し振りのことなので、改めて厳島神社の参拝と島の散策を楽しむことにしました。
 連絡船の出航時間ギリギリだったので、走り込むようにして乗船。
 デッキでは風が冷たいので、船内へ入りましたが、前方の座席はほぼ満席なので、後方の座席へ。
 この時期は修学旅行の生徒で混雑しているようでした。
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 宮島に着くと、ガイド役の土産物店の女性が待ち受けていて、早速道案内がてら、先ず全体写真を撮るため、大鳥居をバックにした場所に着きました。
 ここには何故か鹿が多数屯しています。それは写真屋さんが、我々と一緒に写真を撮るために餌を与えるからでした。
 我々の位置が決まり、一頭の鹿に餌を与えると、何と写真を撮る間おとなしくしているではありませんか。
 これほど手懐けられているとは驚きでした。
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 ガイド役の店は、土産物店が立ち並ぶ、いわゆる宮島銀座通りの一番神社寄りの場所で、名物の[紅葉饅頭]の製造販売をしている店でした。
 そこで出来立ての[紅葉饅頭]を戴きましたが、なるほど美味しい !
 かっては[漉し餡]のみでしたが、現在では[粒餡]や[チョコレート][クリーム]などバラエティに富んだ紅葉饅頭が作られているようです。
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 ガイドの軽快な説明を聞きながら『厳島神社』に着きました。
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厳島神社 国宝・重要文化財
推古天皇元年(593)、佐伯鞍職[さえきくらもと]によりご創建と伝えられています。
説は、色々ありますが、「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都伎島[いつきしま大明神」、「厳嶋神社」」等呼称され、現在は「嚴島神社」となっています。
原始宗教のなごりで、島全体が神の島として崇められていましたので、陸地では畏れ多いと海中に社が建てられました。
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    回廊からの千畳閣と五重塔                厳島神社
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 造 り : 寝殿造桧皮葺
 御祭神 : 天照大神の娘である宗像三女神
       市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]、田心姫命[たごりひめのみこと]、湍 津姫命[たきつひめのみこと]
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 平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の氏神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇す
 る度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました。
 都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇、建礼門院を始めとする皇族や貴族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
 現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたものです。
     *
 社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。
 国宝・重要文化財の建造物は20基・美術工芸54点等261点。東廻廊45間、西廻廊62間。
 東廻廊入口は切り妻造り、西廻廊入口は唐破風造りで、廻廊幅は約4m・長さ262m(108間)・柱間約2.4m(8尺)・一間に8枚の床板が敷かれています。
 床板の隙間は、高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、また廻廊に上がった海水を流す役目をします。
 床板は、現在養生板が敷いてあり、本来国宝の一部である床板の上に敷いてあるところから土足で歩くことができます。
 本社の他に客神社・朝座屋・祓殿・高舞台・平舞台・左右門客神社・火焼前・大国神社・天神社・能舞台・反橋・長橋・揚水
 橋・内侍橋の建物構造群からなっています。 
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       五重塔                    能舞台
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 厳島神社に拝礼の後、回廊から『五重塔』や『能舞台』などを見学して、ちょうど引き潮なので『大鳥居』の下まで行くことになりました。
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大鳥居 国重要文化財
 嚴島神社の大鳥居は、木造で鳥居の種類としては両部鳥居(四脚鳥居)です。
 高さ約16.6m、棟の長さ24.2m、主柱周り9.9m、総重量は約60t、木部は丹塗り(光明丹[こうみょうたん])、主柱は楠の自
 然木を、袖柱[そでばしら]は杉の自然木を使っています。
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 現在の大鳥居は、平安時代から8代目にあたり、明治8年(1875)に再建されました。
 笠木は箱になっており、拳大の石が約7 t 詰められています。根元は海中に置かれているだけで、自重で立っています。
 主柱の基礎は、千本杭の工法が用いられ、45cmから60cmの松杭がそれぞれの柱に約30本から100本打ち込まれています。
 楠は、比重が重いことと、腐りにくく、虫に強いからです。
 棟の西側には三日月が、東側には太陽の印があり、陰陽道の影響がみられます。
 沖側の扁額には厳嶋神社、御本社側は伊都岐島神社[いつきしまじんじゃ]と筆書きされていて、現在の額は、明治8年の再
 建時のもので、有栖川宮熾仁親王の染筆です。   [宮島観光協会]資料より
     *
 大鳥居の下まで行くと、その大きさに圧倒されるようだ。沖側の扁額が『厳島神社』であることを確認する。
 これで一通りの見学が終わり、引き返すことになる。
 土産物店で一休みと言うことになったが、その隣の店で焼く牡蠣の匂いにたまらず、皆さんと同じように注文する。
 流石に名物、美味しい。アルコールがあればなお良かったが……。
     *
 かくしてツアーは総て終了。
 連絡船で宮島口へ、そしてJRの宮島口駅から普通電車で広島駅へ。
 新幹線の待ち時間に夕食のお弁当[かき弁当]と、勿論アルコールも購入して、一路東京へ。
     *
 7時55分 雁嶋別館(マイクロバス)→ 8時00分 萩焼窯元(バス)→ 9時10分 津和野 9時50分 → 11時50分 錦帯橋(昼食/見学)
 12時45分 → 13時20分 宮島口 13時30分(連絡船)→ 13時40分 宮島 15時30分(連絡船)→ 15時40分 宮島口 … 15時51分
   宮島口(JR)→ 16時20分 広島 17時01分(のぞみ132号)→ 20時56分 東京
     *
【確認した野鳥】  32種類
  1.カイツブリ         2.カワウ           3.ダイサギ
  4.コサギ           5.アオサギ          6.マガモ
  7.コガモ           8.オカヨシガモ        9.ヒドリガモ
10.トビ               11.ワシタカS.P.            12.ハヤブサ
13.セグロカモメ        14.ウミネコ           15.キジバト
16.コゲラ           17.キセキレイ          18.セグロセキレイ
19.ヒヨドリ          20.カワガラス           21.ルリビタキ
22.エナガ           23.ヒガラ             24.ヤマガラ
25.シジュウカラ        26.メジロ             27.カワラヒワ
28.ウ ソ           29.スズメ             30.カケス
31.ハシボソガラス       32.ハシブトガラス
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秋吉台・秋芳洞

2011-02-14 00:00:00 | 旅行記

平成23年2月14日(月)雨後雪後曇
 昨夜来雨が降ったり、止んだりしていたようで、外は濡れている。
      *
  市営公衆浴場・恩湯(おんとう)                              白木屋グランドホテル
Img_1907 Img_1908 朝食前、ホテルの前を流れている音信川(おとずれ
 川)沿いにある遊歩道を散歩する。
 ここには市営の公衆浴場があり、早い時間から町の
 人が入りにきている。(大人200円)
 この長門湯本温泉は、交通の便が悪いこともあって
 か、何軒かの旅館が閉鎖されている。



   *                                  
Img_1909 朝食のため一旦ホテルへ戻る。
 今日の出発が遅いので、食事後再び散歩へ。
 生憎と雨が落ちてきたが、ホテルの傘を借りて、先ほどとは反対の上流の川沿いの遊歩道を歩く。
 この川沿いには桜並木があり、その桜の新芽を食べている30羽余りの[ウソ]がいるのに気が付く。
 時折何に驚いてか飛び立つが、上空を旋回して再び元の桜に戻ってくる。しばしこの群れを観察して楽しむ。
 その他[ヤマガラ][ヒガラ][カケス][コゲラ][セグロセキレイ]などが見られた。
 また、上空高く2羽の[ワシタカ]が旋回していたが、種類の確認はできなかった。


     *
Img_1910 今日はこのツアーのハイライトの一つ、秋吉台と秋芳洞、そして萩市内の見物が予定されている。
 予報では朝方は雨または雪だが、その後は曇とされているが、とにかく雨の中の出発となる。
 また、今日から現地バスガイドの末永さんが乗る。勤続20年以上というベテラン、淀みのない名
 調子でその博識ぶりに驚かされる。 
 バスが山道に入ると雨が雪となる。しかも前方が見難くなるほどの本降りだ。
 これでは到底【秋吉台】の展望は見ることは出来ないと諦めムードとなる。



     *
 到着した展望台の駐車場には10cmほどの積雪。そこからは雪の上を歩くことになる。
 展望台までの斜面を登るのに、妻は靴底が滑るので断念。
     * 
Img_1911 Img_1912小生と2人ばかり展望台へ上がったが、雲が低く垂
 れ込めているため、遠望は全く効かない。
 雪景色も滅多に見られないので期待していたが、そ
 れもダメ !
  こればかりは普段の行いのせいと諦めるしかない。





     *
Img_1915・秋吉台
 秋吉台ははるか昔、遠い海でサンゴ礁として誕生しました。それから約3億5千万年、ドリーネや鍾
 乳洞が発達した石灰岩の台地、カルスト台地となりました。石灰岩の中にはサンゴ、ウミユリなど
 の地球と秋吉台の長い歴史を示す化石が見つかります。
 秋吉台はかっては森林でした。中世、農業の発展にともなって日本各地で草原が誕生しました。
 秋吉台でも木は切られ一面の草原となりました。草は家畜の飼料や有機肥料などに、また、ススキ
 は屋根の材料として大切にされ、良質の草原を維持するために山焼きが行われました。秋吉台の草
 原は人の営みによって生まれた自然なのです。
Photo01_2 秋吉台の自然の楽しみ方は人それぞれ。四季おりお
 りに訪ね、自分の足で歩き、風を空を岩を生き物を
 探検してください。きっと、知れば知るほど好きになります。 
 晩秋から冬にかけての、枯れた草原の美しさを、ぜひ楽しんで下さい。
 毎年2月第3日曜日には「山焼き」が行われ、草原を炎が駆けめぐります。今年は雪が多いので、3
 月に延期されました。山焼きの後の黒い地面に「センボンヤリ」や「ベニヤマタケ」が生えて、秋
 吉台の春が始まります。    [美祢市観光サイト]より  
        *
 僅か20分ほどの見物で、バスは『秋吉台案内所』へ。
 ここからはエレベーターを利用して入洞できるので、利用者が多いようだ。ただし、一番奥の『黒谷』までは往復することになる。
 ガイドさんの説明で、洞内の温度は年間を通して17℃と言われていたのに、ダウンのコートを着ていて失敗。少し歩いているうちに汗が流れ出るようになる。
     *
Img_191610 最初の鍾乳石は【黄金柱】、巨大な鍾乳石が黄金色
 に輝いています。
 ここで記念写真を撮る。
 「雪のために見られなかった『秋吉台』の写真も入
  っていますので、ぜひお買い求めを 」
 と写真屋さんの言葉に皆さんも苦笑い。   
 


                    *              くらげの滝登り
Map0112 その後は黒谷入口へ向かって、洞内を上り下りしな
 がら歩く。
 【大仏岩】【巌窟王】【くらげの滝登り】
 【龍の抜穴】【五月雨御殿】【マリア観音】と名付
 けられた鍾乳石を見ながら工事中の黒谷入口まで行
 って引き返す。
 【黄金柱】まで戻り、秋芳洞入口を目指す。



     巌窟王 
Map0211 
                                                       
       *
      千畳敷                                                            傘づくし
89 広い洞内の急な坂を下ると、【千畳敷】【幽霊滝】【空滝】【大黒柱】【傘づくし】








       *千町田                                                          百枚皿
735462aa0000002345_1 【千町田】【縮緬岩】【大松茸】【南瓜岩】
 【広庭】【百枚皿】【長渕】【青天井】
 【身代観音】とあって入口へ出る。 







     *         
秋芳洞
 秋吉台の地下100m、その南麓に開口する東洋屈指の大鍾乳洞「秋芳洞」は大正15年昭和天皇が皇太子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜ったものです。
 ひんやりと肌をさす冷気漂う杉木立を通り抜けると、秋芳洞の入口です。洞内からの水は三段の滝となり、飛沫を舞い上げながらコバルトブルー
 の川面へと流れ落ちています。                                                      長 渕
1 洞内の観光コースは約1km(総延長10km)、温度は四季を通じて17℃で一定し、夏涼しく冬は
 温かく、老人、子どもも快適に探勝できます。
 時間が凍結したような不思議な自然の造形の数々は変化に富み、私たちの心に大きな感動を呼び
 起こさせてくれます。

洞窟に住むいきもの
 洞窟の天井や壁、川やプールなどを懐中電灯で探してみると体長1~10mm前後の動物達を発見す
 ることができます。
 洞窟性動物の多くは、洞窟という特殊な環境に適応しながら生活してきたために、形態的にも生
 態的にも、また生理的にも地上の種類に比べて大きな変化をしてきました。そのほとんどは体は
 白く、目が退化しています。
 秋芳洞にはアキヨシシロアヤトビムシやアキヨシホラズミカニムシ等、この地方の洞窟固有の動物がたくさんいます。シコクヨコエビ、アキヨシチビゴミムシ。
 秋吉台には420に及ぶ洞窟があり、洞窟性コウモリの宝庫です。ユビナガコウモリ等6種15,000頭のコウモリが生息しています。

                                                    [美祢市観光サイト]より
     *
 洞内を出ると、相変わらず雪が降っている。
 長い年月によって様々な形になっている鍾乳石、その自然の造形美に驚嘆するばかりだった。
 入口で待ち受けていた土産物店の主人に案内されて、駐車場近くの店に入る。ここでお茶のサービスを受ける。
 この店の目玉は『梨あん餅』。この地方独特の糖度の高い梨の風味を活かした餅菓子で、試食すると爽やかな上品な甘味で、ほのかに梨の香りがするというものだった。
     *
 バスは昼食場所の長門市へ向かう。
 30分ほど走ると雪は止み、地上にも雪は無くなる。先ほどまでのあの雪は何処へやら、何か狐に摘まれたような感じになる。ガイドさんによれば
 この付近の海岸付近は雪が積もらないという。
 前方に青海島の見える海岸沿いの『北長門』で[焼きカニ御膳]の昼食となる。
     *
 Img_1923Img_1922秋芳洞で汗を流して歩いたので食欲は旺盛、渇いた
 喉にビールが染み渡り、焼きガニなどを美味しく
 頂戴した。







       * 
午後は萩へ向かう。
        青海島
Img_1924
 

 バスは海岸沿いの国道を進み、20分ほどで萩市中央公園にある駐車場に到着。
     *
 萩は400年前に、毛利輝元によって作られた36万9000石の城下町です。
 旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が 軒を連ねていた。
 現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並ん
 でいたため、横町には、それぞれの名が残されている。江戸時代の地図がそのまま使える街とのことだ。
 藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある。
 白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。
     *
 イメージ 1
     *
 ここで1時間ほどの自由時間となる。ここからは城下町の街歩きとなる。
 平屋建ての街並みがしっとりとした落ち着いた感じの雰囲気は良いが、難点は道幅が狭いことだ。
 この狭い道に車が通るので、その度に歩行者は身体を道端に避けなければならない。
 住んでいる方々は、歩行者の大半が観光客であることもあって、気を遣って運転されている様子が伺えるが、何か良い方策がないものだろうか ?
     *
 先ず『菊屋横丁』に入る角に『晋作広場』があり、ここに高杉晋作の銅像がある。
 その横丁に入ると間もなく左手に『高杉晋作誕生地』がある。
     *   
 イメージ 2
     *
高杉晋作誕生地

 幕末の風雲児・高杉晋作の生まれ育った家。建物は江戸期より縮小されているが当時の面影をよく残している。
 敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがある。
 晋作は、天保10(1839)年に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男として生まれた。
 藩校明倫館に通う一方、松下村塾に通い、久坂玄瑞と並び松門の双璧と称される。
 文久2(1862)年、外国に支配される清国(現:上海)を視察し危機感を抱いた晋作は、翌文久3(1863)年に身分を問わない我が国初
 の軍事組織 “ 奇兵隊 ” を功山寺(下関市)にて挙兵。
    討幕戦を勝利へと導くが、肺病が悪化し下関・吉田(現:東行庵)に隠居。
 慶応3年(1867)結核のため、享年29歳という若さでこの世を去った。
     *
 菊屋横丁から御成道を右折すると、右手に重要文化財の『菊屋家住宅』がある。
 入場料を払って家に入ると、早速年配の方の説明がある。
     *
 イメージ 3

     *
 藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。

 屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。
 藩の豪商・菊屋家は、大内氏時代には武士であったが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くした。
 主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地の約3分の1が現在公開されている。
 また幕府巡検使の宿として本陣としての役割も持っており、当時の様子を約20年前に復元し一般公開している。
 すばらしい庭や美術品など貴重な資料が数多く展示されている。
     *  
 菊屋家の見学に時間をとられ、後は伊勢屋横丁を急いで駐車場へ戻る。
 その他『江戸屋横丁』には、木戸孝允の旧宅や蘭方医・青木周弼の旧宅などが並び、黒板塀の風情ある横丁になっている。
     *
 次いで車で10分ほどのところにある『松蔭神社』へ。
 神社前にある駐車場から大鳥居を潜って境内へ入ると、その前方左手に吉田松陰の意思を継ぐ維新の志士たちを数多く輩出し
 た『松下村塾』がある。
     *
松下村塾
 幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。塾は天保13(1842)年、松陰の叔父である玉木文之進が自邸にて開設。
 後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、安政3(1856)年から同6年は、松陰が実家杉家邸内の納屋を増改築して開いた。
     *
 塾では身分の区別なく学ぶことができ、幕末維新期に活躍し、近代日本の原動力となった数多くの逸材が輩出された。
 この塾に通っていたのは主に近所の青年たちで、高杉晋作のような士 分の存在は稀な存在であった。
 外観は瓦ぶきの家で、講義室だった8畳の部屋には松陰の像と机が置いてある。
     *
 イメージ 4 イメージ 5
      *
 一番奥まったところに『松陰神社』がある。
        松陰神社 
 イメージ 6
     *
 明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てられた神社。
 松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立された。
 その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40(1907)年、
 県社の社格の神社創設が許可された。現在の社殿は昭和30年に新しく完成したもの。
     * 
 御神体は松陰が終生愛用した赤間硯と父兄宛に書いた文書が遺言によって納められている。
 旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っている。
 学問の神として信仰が厚く、境内には有名な松下村塾、松陰ゆかりの史跡や展示館などが点在。
 吉田松陰幽囚ノ旧宅も隣接している。
 また、境内にある「吉田松陰歴史館」では、短くも激しい吉田松陰の生涯を20シーン70余体の蝋人形で再現。
 説明版と音声ガイド付きで、松陰の一生が分かりやすく紹介されている。
     *
 この頃またまた雲が厚くなり、今にも降り出しそうな天候になる。まったく不安定な天候だ。
 この後の観光は、バスで10分ほどの『萩反射炉』へ。

 イメージ 7 
     *
 駐車場から階段を上った小高い場所にあり、反射炉の回りには桜が植えられ、ここでもその新芽を食べるかっこ【ウソ】が10羽ほど見られました。
 ガイドさんに双眼鏡を貸して観てもらうと「初めて見ました」と大層喜んでいました。
     *
萩反射炉
 安政5年(1858)に兵器製造等を目的に萩藩が築造したもので、国指定史跡です。
 煙突部分の中央から上部5mは2本にわかれ、基底部は長方形で、頂上に向かって9mまでは玄武岩と赤土とを用いていますが、
 先端の2.5 mは大きな煉瓦を使用しています。
 全体の高さは11.5mで、漆喰が石積みの全体に塗ってあったものと考えられます。
 近世の反射炉でわが国に現存しているのは、静岡県の韮山に築造されたものとここの2基だけです。
 わが国の産業史上、貴重な遺跡であるとともに、これによって萩藩の幕末における軍備充実の熱意がうかがわれます。
 世界遺産国内暫定一覧表登載。 
     *
 今日の最後の観光は『菊ヶ浜』で、日本の夕日100選に選ばれた場所で夕日を観に行く予定でしたが、この頃になって生憎と
 雨が降り出したので、やむを得ず中止となりました。
     *
菊ヶ浜
 菊ヶ浜は北長門国定公園内に位置し、萩城跡の東側から浜崎商港まで続く約1・6㎞の海岸。
 この菊ヶ浜、昔は「阿古ヶ浜」と呼ばれていましたが、江戸時代に萩藩の御用商人で大年寄格でもあった菊屋家が藩士や足軽
 たちの家を建てて住まわせたことから、菊ヶ浜と称されるよう になったそうです。 
 菊ヶ浜の夕景は「日本の夕陽百選」の一つに数えられ、指月山や笠山など海に浮かぶ島々のシルエットと相まって感動的なひ
 とときに出会うことができるとのことです。
     *
 これで今日の観光は終わり、最後に『萩焼窯元』に寄りました。
 ここから今日の宿へ2組に別れて、それぞれの迎えのマイクロバスで向かいました。
 私たちは『雁嶋別荘』へ。
 松本川が運河へと続く水辺にあり、僅か15室の和風モダンの旅館で、天然木と壁には珪藻土を使った客室は、全室にテラス・露天風呂付き。
 そのテラスからはお椀を伏せたような萩城趾のある指月山が望め、目の前の川には【カワウ】【ウミネコ】【セグロカモメ】 【オカヨシガモ】【トビ】などが見られました。
     *
 温泉で疲れを癒した後の夕食は、食事処で『フク会席』、地酒を飲みながら食事を楽しみました。
     *
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     *
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     *
萩 城
 萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれる山麓の平城と山頂の山城とを合
 わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていた。
 明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、ここ一帯は国の史跡に指定されている。
 旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建された際、総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備された。
     *
 城跡の構造をよく残していることが特徴で、園内には天守閣跡、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡がある。
 また、幕末13代藩主毛利敬親が安政年間に藩主別邸・花江 御殿に増築し、家臣とともに茶事に託して討幕の密議を凝らした
 茶室「花江茶亭」が明治22年に園内に移築され、現在、抹茶の接待を行っている。
 春には県の天然記念物に指定されているミドリヨシノを始め、600本余りのソメイヨシノが咲き誇り、桜の名所となっている。
                                              [萩市観光協会公式サイト]より
 
 9時00分 長門湯本温泉(バス)→ 9時40分 秋吉台 10時00分 → 10時20分 秋芳洞 11時30分 → 12時15分 北長門(昼食)
 13時10分 → 13時30分 萩城下町 14時40分 → 14時50分 松蔭神社・松下村塾 15時25分 → 15時35分 萩反射炉 15時50分 →
 16時10分 萩焼窯元 16時30分(マイクロバス)→ 16時35分 萩温泉  萩八景・雁嶋別荘 泊

 

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平和記念公園

2011-02-13 00:00:00 | 旅行記

平成23年2月13日(日)晴
 クラブツーリズム社の『安芸の宮島・萩・津和野・錦帯橋・秋芳洞3日間』というツアーに参加しました。
     *
Img_1889 昨日までの雪や雨とは打って変わって、抜けるような青空が広がる好天になりました。
 新幹線から見る大山、丹沢の山並みも素晴らしい雪景色となり、富士山も一段と雪化粧が映えてい
 ました。
 慌ててカメラを出しましたが、時既に遅く、ようやく三島を過ぎてから富士山を撮ることができま
 した。
     *
 名古屋を過ぎる頃から次第に雲が出てきて、問題の関ヶ原付近では曇となりました。
 東京駅を出発する時には、関ヶ原付近の積雪のため列車の速度を落として通過するので、10分ほど
 の遅れが出るとのことでしたが、我々の乗った列車が通過するまでに解除になりました。
     *
 昼食は名古屋駅で「花ことば」という駅弁が準備されていました。
 ビールを飲みながら、関ヶ原付近の雪景色を眺めての食事となりました。
     *
Img_1891 Img_1892                             *
 京都から大阪付近になると再び青空が広がり、広島
 では晴天となりました。
 広島駅からのバスは、34人乗りとゆったりシートで
 足元が楽なのが良い。
 出発前、ドライバーの挨拶で、
 「えらいことですが、昨日の大雪で中国自動車道の
  一部区間が通行止めになっているため、一般道を
  利用すると今日の旅館到着が大分遅くなりますの
  で、大変申し訳ありませんが、あらかじめご了承
                       下さい」と言われる。
 今冬の中国地方日本海側の大雪は、昨年末から話題になっていましたが、まさかこのツアーも影響されるとは思ってもいなかったので、少しばか
 り心配になりました。Img_1893
     *
 初日の今日は、広島の平和記念公園を見学しました。
 広島駅から公園に向かう途中、バスの車中から広島城が見えました。
 1589年、毛利輝元が築城し、別名鯉城と言われています。
 天守閣は原爆で倒壊後、1958年に再建され、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になって
 いるとのことです。
     *
 公園で待ち受けておられた、ボランティア・ガイドの方の案内で40分ほど園内を歩きました。
 先ず記念公園の説明がありました。
     *   
平和記念公園 公園設置日 1956(昭和31)年4月1日
 現在の平和記念公園一帯(中島地区)は、江戸時代から陸海の交通 の要衝として栄えていました。
 明治になると、市庁舎、県庁舎のほか、広島の物流の拠点となるなど、政治・行政・商業の中心となりました。
 被爆時のこの地区7町の住民は、合計で6,500人と推定されています。
 1945(昭和20)年8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、この地区の頭上で炸裂しました。
 地区の住民はもとより、当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊や動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え
 去りました。
 1949(昭和24)年8月6日の「広島平和記念都市建設法」の制定にともない、この地区一帯は平和記念施設として整備されることとなり、現在の
 平和記念公園に生まれかわりました。
 公園面積は約122,100平方メートル(約37,000坪)。設計は、丹下健三東大助教授(当時)ほか3名の共同作品で設計競技による145点の中から
 入選したものです。
 公園の南端には、広島平和記念資料館(東館・本館)と並んで、広島国際会議場があります。 [広島平和記念資料館]資料による
     *
 次いで太田川を挟んで見える原爆ドームの説明がありました。

Img_1895原爆ドーム
 竣工年月日 (広島県物産陳列館)1915(大正4)年4月5日
 建 立 者  広島県(1953(昭和28)年広島市へ譲渡)
 設 計 者 ヤン・レツル(現在のチェコ出身の建築家)
 形   状 レンガ(一部鉄筋コンクリート)モルタル仕上げ、玄関部分は石造りで地上3階一部
       5階建て、地下1階のセセッション様式と呼ばれる建築物で曲面を多用しているのが
       特徴。
     *
 原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々
 は全員死亡したと伝えられています。
 爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
 そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。

ドームの保存
 ドームの保存については、
 「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と、
 「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見が対立しましたが、1966(昭和41)年に永久保存を決定、広く募金
 を呼びかけ、これまで3度の保存工事が行われました。

世界遺産への登録
 人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして1996(平成8
 年)12月(世界遺産条約」に基づきユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。

広島県物産陳列館
 広島県物産品の販売促進を図る拠点として造られた広島県物産陳列館は、大胆なヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売のほか、博物
 館・美術館としての役割も担っていました。
 その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、戦争が激しくなった1944(昭和19)年3月には産業奨励館としての業務が廃止され、
 内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていました。
     *
 園内を慰霊碑へ向かって歩きながら、【平和の鐘】【原爆供養塔】【被爆した墓石】【原爆の子の像】などの説明を聞きました。

【平和の鐘】
 この梵鐘・鐘堂は、鐘作りの重要無形文化財保持者(人間国宝)、香取正彦さんの作品です。
 鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされています。
 撞座(つきざ)は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、撞く人の己の心を写しだす鏡が入れられています。
 この鐘は広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボル
 として、平和を願う万人の心と浄財を結晶させて、つくりました。(昭和39年9月20日建之 広島悲願の会)

【原爆供養塔】
 爆心地に近いこの付近には遺体が散乱し、また、川から引き上げられたものなど、無数の遺体が運ばれ、荼毘にふされました。1946(昭和21)年
 市民からの寄付により、仮供養塔、仮納骨堂・礼拝堂が建立され、その後10年経った1955(昭和30)年広島市が中心となり、老朽化した遺骨堂を
 改築し、各所に散在していた引き取り手のない遺骨もここに集め納めました。
 内部には納骨堂があり、一家全滅で身内の見つからない遺骨や氏名の判明しない遺骨約7万柱が納められています。広島市は、氏名が判明しながら
 引き取り手のない遺骨の名簿を毎年公開し、遺族を探しています。1955(昭和30)年に2,432柱あった遺骨のうち、今でも824柱の遺骨は引き取り
 手がなく、この供養塔に眠っています。(2007(平成19)年6月20日現在)
 1946(昭和21)年以後、毎年8月6日にはこの供養塔の前で、さまざまな宗教・宗派合同の供養慰霊祭が営まれています。
  
【被爆した墓石】
 五輪塔(台座付き)。24枚の花弁で飾った台座の上に「地」の文字のある四角な石、その上にはそれぞれ「水」「火」「風・空」の文字を彫った
 三つの石が据えてあった。
 ここに慈仙寺という浄土宗の大きなお寺があり、爆心地から約200mで、全ての建物は壊滅、住職ほか2名は清掃中に即死、浴室で洗濯中の住職の
 妻も重傷で翌日死亡し、結局全員が亡くなりました。
 強烈な爆風で境内にあったたくさんの墓石も吹き飛ばされ散乱しました。被爆当時の姿で残されているこの墓(爆心地から約270m)は、広島藩浅
 野家御年寄の岡本宮内のものです。
 平和記念公園の中で、被爆当時の地面をそのままとどめているのは、この墓地だけです。公園が盛り土して建設されたため、周囲を石で囲んで、
 池の底のようになってしまったこの部分が当時の地面です。

【原爆の子の像】
 三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい
 未来と希望を象徴)がある。(高さ9m)
 この像は、佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。
 碑文は「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」とあります。
 2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長しました。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診
 断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えました。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の
 包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴と
 して、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。
 禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけました。
 やがて、子どもたちによる募金活動が始まり、全国3,100校余りの生徒と、イギリスなどの国外からの支援により、像を完成しました。
 塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られ
 た銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。
 この「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002(平成14)年4月に、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブー
 ス)が整備されました。
     *
【平和の灯】
Img_1897 
建立年月日  1964(昭和39)年8月1日
建 立 者  平和の灯建設委員会
設 計 者  丹下健三(当時・東大教授)
形   状  台座は手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現している。
       (高さ3m、幅13m、奥行き8m)
建立の目的  水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。
       *
 灯の点火は、全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられ
 た“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
 この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上か
 ら姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
     *
【原爆死没者慰霊碑】(広島平和都市記念碑)

Img_1899建立年月日  1952(昭和27)年8月6日
建 立 者  広島市
設 計 者  丹下健三(当時・東大助教授)
形   状  材質:みかげ石「黒髪石」(石室部分)
          みかげ石「稲田石」(屋根部分)
          (1985(昭和60)年の改築工事まではコンクリート製)
形   態  屋根の部分は、はにわの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの
                     型にした)
建立の目的  世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願
       して設立したもの。
碑   文  「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
                            (雑賀(さいか)忠義(ただよし)) 本人揮ごう
碑文の由来  諸霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつけることに苦慮した当時の浜井市長の命を受けた秘書係長が碑文の古典研究に造詣の
       深い広島大学の雑賀忠義教授に碑文の作成を依頼し、翌日即決しました。
碑文の趣旨  碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、
       「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え
        憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」
       と記しています。
原爆死没者名簿 中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。
        名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2010(平成22)年8月6日現在で、97冊(269,446人の名前が記帳された96冊と
        「氏名不詳者多数」と記された1冊)になっています。
            *
 ここまでで予定の40分となり、残念ながら資料館の見学はできませんでしたが、頂いたパンフレットに よる説明は次のとおりです。
     *
広島平和記念資料館
Img_1900 開館年月日  1955(昭和30)年8月24日
 改   修  1991(平成3)年8月(本館)改修
 建替年月日  1994(平成6)年6月(東館)建替
 建 立 者  広島市
 設 計 者  丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国
 形   状  東館:地上3階地下1階建、延床面積 10,098m2
        本館:地上2階一部中3階建、
           ピロティー式の本館下の空間は、 廃墟の中から立ち上がる人間の力強さを表
           わしたいという考えが込められている。

広島平和記念資料館の歩み
 1949(昭和24)年9月、広島市中央公民館に「原爆参考資料陳列室」が設置され、原爆被災資料の展示が始まりました。
 同年公布された「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館
 しました。
 1994(平成6)年6月、展示・収蔵機能や平和学習の場を充実するため、平和記念館を建替え、2館を一体化した新たな「平和記念資料館」として
 開館し、現在に至っています。
 2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定されました。戦後建築としては初めての重要文化財となります

東 館
 被爆前と被爆後の広島、広島に原爆が投下された経緯、核時代の現状や広島市の平和への取り組みについて模型や映像、写真パネルなどで紹介し
 ています。
 原爆記録映画の視聴ができるビデオシアターがあるほか、地下には「市民が描いた原爆の絵」などの展示室、修学旅行生が被爆体験者の証言を聞
 くことができるホールや会議室、原爆・平和に関する図書などを閲覧できる情報資料室が設置してあります。

本 館
 原爆の熱線、爆風、放射線、高熱火災のすさまじさを物語る被爆者の遺品や被爆資料を展示し、1945(昭和20)年8月6日、広島に何が起こったの
 かを伝えています。
 被爆者による証言の視聴や来館者が感想や平和へのメッセージを記入するコーナーもあります。
     *
【地球平和監視時計】

Img_1901 建立年月日  2001(平成13)年8月6日
 建 立 者  NPO法人 広島からの「地球平和監視」を考える会
 設 計 者   岡本敦生
 形   状  高さ3.1m、幅0.8m、奥行き0.4mのみかげ石製。
        最上段には現在の時刻を示す丸い時計があり、中段には「広島への原爆投下からの
        日数」と「最後の核実験からの日数」のデジタル表示板、最下段には歯車装置が取
        り付けてある。
 建立の目的  被爆体験の風化を防ぎ、繰り返される核実験の実施をけん制する意図で制作され、
        広島市に寄贈された。
 歯車装置   日数表示の下にある歯車装置は、このままいけば人類が破滅へ向けての「刻限」を
        刻み続けることを暗示的に警告しています。
 歯車は縦に15個並んでおり、一番上の歯車の回転数(毎分100回転)が、地球の危機的状況の深刻化により早く回転し、固定されている一番下の
 歯車に達したとき、装置そのものも自壊するという発想で制作したものです。
 この歯車の回転を止めるため、核兵器廃絶に向けて英知を結集し、軍事力に頼らない共生の時代を求めていかなければならないことを訴えていま
 す。
     *
 これで広島平和公園での見学を終わり、今日の宿のある長門湯元温泉へと向かいました。
 小生にとっては2度目の見学でしたが、改めて原爆の悲惨さを知らされた一時でした。
 それにしても世界の平和は一体何時のことになるのでしょうか ? 未だに人の命を粗末に扱う國があることに、憤りとともに情けない気持ちにさせ
 られます。
       *
 バスは広島市内から抜け、廿日市 I .C.から山陽自動車道に入りました。
 車窓左手の厳島の山並みにも雪が残っており、果たしてこの先の通行止めはどうなっているのか、気掛かりでしが、途中のP.A.での情報で、たっ
 た今通行止めが解除されたとのことで、車内も一安心。
 車窓の山々の雪も次第に多くなり、路肩にも残雪が見られるようになり、中国地方ではタイヤを冬バージョンにする習慣がないとのことなので、
 なるほど通行止めも致し方ないと納得させられました。
 佐波川S.A.でトイレ休憩の後、山口J.C.T.で中国自動車道に入り、美祢 I .C.で一般道へ出ると、一段と雪の量が多くなりました。国道の除雪は
 しているようですが、県道になると1車線のみということが多いので、バスの運行が難しいとのことでした。
 ともかく夕闇迫る湯元温泉に到着したのは、午後6時近くになっていました。
       *
 長旅の疲れを温泉大浴場で流し、夕食は〈アンコウ会席、鮑添え〉とのことで、日本海の海の幸を美味しく頂きました。
 
     *
 長門 湯本温泉
 長門 湯本温泉は今からおよそ600年前。(西暦1427年)(応永34年)(室町時代)大寧寺の「定庵禅師」が座禅のなか、住吉大明神か
 らのおつげによって発見された、山口県ではもっとも古い歴史をもつ温泉と知られております。江戸時代には藩主も度々、湯治に訪れておりまし
 た。

長門 湯本温泉の云われ
 大寧寺の第3世住職、定庵禅師(1373~1432)の時代。
 ある月の明るい夜、定庵禅師が寺のまわりを散歩していると、石の上で座禅をしている老人に出会った。和尚が名前をきくと老人は歌でこたえた
 「松風の声のうちなる隠れ家はむかしも今も住吉の神」
 老人は長門一宮(下関)の住吉大明神であった。老人はその後、名僧、定庵の説法の席に通い、仏道を修めた。応永34年3月23日、定庵禅師
 から法衣を贈られた老人は法恩に報いるため、
 「山の奥に温泉を出しておきましたのでご利用ください。」と告げた。たちまち雷鳴が轟き、老人は大きな竜の姿になって雲の上に消えていった
 という…。
 これが「伝説」のあらましです。これを裏付けるように、湯本中心部の泉源は現在でも大寧寺の所有です。
 浴場は二つに分かれ、昔は上の礼湯(れいとう)を武士や僧侶、下の恩湯(おんとう)を一般の人が使っていました。江戸時代には温泉の近くに
 お茶屋「清音亭」(せいおんてい)が置かれ、藩主もたびたび入浴に訪れました。大寧寺の墓苑には「住吉大明神の座禅石」が今に伝わり、共同
 浴場の裏山には住吉の神をまつる社(住吉神社)が建っています。     [湯本温泉旅館協同組合]資料より

 9時50分 東京(のぞみ103号)→ 13時58分 広島(バス)→ 14時20分 平和記念公園 15時10分 → 廿日市 I.C.(中国自動車道)→ 16時45分
  佐波川S.A. 17時00分 → 美祢 I .C. → 17時50分 長門湯本温泉 白木屋グランドホテル 泊

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