nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

京 都 3

2010-11-25 00:00:00 | 旅行記
平成22年11月25日(木)晴

 カーテンを開けると穏やかに晴れ渡っている。
 今日は早くも京都の最終日だ。
 例によって、早めにレストランへ行くと、今朝は準備が遅れている。
 今朝も品数が多く、満足の朝食だった。
      *
 一人一個の荷物を宅急便で送ることができるとのことで、スーツケースと段ボール箱を宅配に依頼する。
 今日のバスの座席は中程、小生は昨日と同じく後方の座席へ。
 今日も予定を変更して、朝一番で[東福寺]へ行くことになる。
 ガイドの川上氏によれば、とにかく最高に混雑するところなので、朝一番にしたとのことだ。
 バスは河原町通から七条大橋を渡り、右手の三十三間堂と左手の国立博物館の前を通り、東大路通へ出て、東福寺の入口で止まる。
 混雑のため駐車場が利用できないので、ここで降りて10分ほど歩くことになる。
 この東大路通りに次々と観光バスが止まり、参拝客が一斉に歩きだすので、狭い道路は人で溢れている。
       *
Img_new東福寺 
 摂政・九条道家が嘉禎2年(1236)に祖父の菩提寺として建てられた。
 聖一国師を開山として、実に19年もの歳月を費やし造営した。
 京都五山の一つで、臨済宗東福寺派の大本山。
 奈良の「東大寺」のように大きく、「興福寺」のように盛大を極めた寺にと、それぞれ東と福
 の字を取り「東福寺」と命名された。
 寺域内には本堂(仏殿)・禅堂・開山堂・鐘楼・庫裏・浴室・東司がある。
 そのほか、周辺には龍吟庵など25の塔頭が点在する。  【東福寺パンフレット】による
     *
 いつの間にか途切れなく続く人波について行くと、亀山天皇御所の遺構とされる[月下門]
 ら境内に入る。
 急に歩く速度が遅くなったのは、少し先にある[臥雲橋]から、渓谷・洗玉澗の紅葉と東福寺
 名物の[通天橋]が 見えるためと分かった。この橋からの絶景をカメラに収めるため、立ち
 止る人が多いのだ。
 係員が「立ち止らないで、進んで下さい」と言っているが、それは無理と言うもの。
 小生も隙間を見つけて、ビデオを回す。
 ここから眺める紅葉は、やや盛りを過ぎているようだが、まだまだ見応え充分なのだ。
     *
通天橋(つうてんきょう)
 渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架かる本堂(仏殿)と開山堂をつなぐ廊橋。
 聖一国師が中国から持ち帰った唐カエデ(三葉もみじ)も珍しい。
 この通天橋の一帯は紅葉の見どころスポットとなっている。  【東福寺パンフレット】による     

 後ろからの参拝客に押されるようにして先へ進むと、[日下門]から[通天橋]の拝観受付へ出る。
 ここは本堂の脇に当たる場所で、国宝の[三門]を通らず、また[本堂]の拝礼などもせずに、ただ境内の紅葉鑑賞をするだけのことになる。
       通天橋                       本 堂
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     *
 通天橋に向かう渡り廊下の左側は紅葉の庭になっていて、色彩豊かな樹々に観光客は足を止めている。
 今日もまた素晴らしい紅葉の数々を見ることができそうだ。
 その廊下を右に曲がると、本堂の一部が見えてくる。
 さらに左に折れると、江戸中期の名園のある[普門院]へ入る。

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     *
 その後は庭園に降りて、心ゆくまで紅葉の鑑賞となる。
 [洗玉澗]の渓谷に降りて、紅葉の真っ直中の景観を楽しむことにする。
 ここでも、何処を切り取っても絵になるようで、夢中でシャッターを切る。
 ただ観光客が多いので、人影を避けて撮ることは極めて難しい。

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     *
 次の画像は[洗玉澗]を渡る橋から[臥雲橋][通天橋]を見たものです。 

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     *
 [洗玉澗]から再び庭園に出て、紅葉三昧となりました。

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     *
 最後に[経蔵]の前にある深紅の紅葉を撮って庭園を後にしました。

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     *
 表通りへ出るまでの混雑は、一段と酷くなっている。
 もっとも休日になると、境内を含めて一方通行になるというから、これでもまだ混雑度は低いということだ。
 バスに戻りいざ出発という段階で、2人の方が乗っていないことが分かった。
 麓添乗員が探しに行ったが、なかなか戻ってこない。
 しばらくして、バスが動き出したので、どうしたことかと思っていると、ガイドの川上氏から、
 「よその団体の後に付いて行っていたのを見つけたので、後からタクシーで追いかけますと、連絡がありましたので、出発しました。」と説明さ
 れる。
 年配者の多い団体のこと、恐れていたことが起こってしまったが、やはりグループの先頭と最後に係員がいてチェックしていないと、こんな結果
 になることを改めて教えられた。
     *
 今日の昼食は、洛北の[大徳寺]境内にある[泉仙(いづせん)]へ。
 今朝来た道を戻り七条通りで、本堂修理中の[東本願寺]を右手に見て、堀川通へ出ると左手に[西本願寺]が見られる。
 さらに進むと左手に[二条城]がある。この時期は観光客も少なく、駐車場も空いている。
     *
Img_new 40分ほどで大徳寺駐車場に到着。
 大徳寺も本堂修復中とあって、駐車場は空いている。

大徳寺

 元応元年(1319)に宗峰妙超、後の大燈国師が建てた寺が始まり。
 応仁の乱で荒廃したが、堺の商人らの援助を得て再興された。
 総門から勅使門、三門、仏殿、法堂が直線に並ぶ伽藍配置。聚楽第の遺構と伝わる唐門は国宝。
 秀吉が千利休に切腹を命じるきっかけとなった三門が知られている。
     *
 総門から境内に入り、塔頭の一つである[大慈院]にある[泉仙]に向かう。
 境内には紅葉は少ないが、大慈院の中には目の覚めるような紅葉が見られた。

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     *
 座敷に入ると、先ず抹茶とわらび餅が出される。
 次いで料理についての説明があり、いわゆる精進料理で肉類などは一切使っていないこと、七種類使用する器は一つに纏められること、などを話
 される。

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     *
「泉仙」の鉄鉢料理

 鉄鉢とは、僧が食物を受けるために用いた鉄製のまるい鉢のこと。
 遠くインドにはじまり、日本へは奈良時代に伝わり、托鉢の僧が用いたといわれています。
 「泉仙」の鉄鉢料理は、この鉄鉢を形どった器に、四季折々の味覚を盛り込み、禅のこころと、京料理の伝統を現代に生かしています。                                                    泉仙のパンフレットより

 食事が終わり、器の大きい順に重ねて行くと、なるほど見事に一つに纏まった。
 食器類の後片付けや、格納にも場所をとらず、合理的なものであることが分かった。
     *
 食後、大慈院の住職から、一休さんを中心とした法話を伺う。
 飄々としたお話ぶりが、まさに一休さんを彷彿とさせるものがあった。

  有遍路より 無遍路にいたる 一休(ひとやすみ)  ・有遍路 : 迷の社会、無遍路 : 悟りの世界
          雨ふらば降れ 風ふかばふけ

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     *
 午後からはツアー最後の訪問地、♪ きょうとぉ~ お~はら さんぜんいん……♪ と歌われている[三千院]へ。
 北大路通を東へ進み、賀茂川と高野川(この2つの川が合流して鴨川となる)を渡って、若狭街道を北へ40分ほどで到着。駐車場は観光バスで
 溢れている。ここの拝観も混雑は覚悟の上のことだ。
 ここも山の斜面を10分ほど登ることになる。右手には呂川の細い流れ、左手には土産物店が並び、
 「帰りにお寄りやす !」と声がかかる。細い道は、登り降りの参拝客で溢れている。

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     *
 境内の入口は階段になっおり、ここでも一般の観光客と団体の入口は別になっている。
 その[御殿門]を潜り、靴を脱いで[客殿]から[宸殿]を拝観する。

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Img_0002_new_0001 三千院

 三千院は、また梶井門跡と呼ばれ、古くは東坂本に里坊がありましたが、中世以降、大原魚山
 の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺々を管理するために大原に政所を設けたのが前身です
 明治になって三千院と公称するようになりました。
 三千院は、比叡山延暦寺を開かれた伝教大師が、東塔南谷に草庵を開いたのに始まり、その後
 寺地は時代の流れの中で、京都市中を幾たびか移転しました。
 その都度呼び名も円融房、梨本房、円徳院、梨本門跡、梶井宮と変え、特に応仁の乱後、梶井
 宮の政所であった現在の地を一時仮御殿とされたのでしたが、明治維新までは御所の東、河原
 町御車小路梶井町(現・府立病院)に御殿を構えておりました。
 元永元年(1118年)堀川天皇第二皇子・最雲法親王が梶井宮に入室され梨本の正統を継がれ
 て以来、皇族出身者が住持する宮門跡となりました。
 妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡の一つとして歴代の天台座主を
 輩出してきました。
 およそ2600�の境内には往生極楽院をはじめ、本尊薬師如来(秘仏)・救世観音・不動明王(伝
 ・慈覚大師作)を祀る宸殿、明治画壇に活躍した下村観山・鈴木松年・竹内栖鳳・望月玉泉・
 今尾景年・菊池芳文などの襖絵がある客殿、そして客殿の前には江戸初期の茶人として有名
 な金森宗和が手がけたと言われる池泉鑑賞式の庭園・聚碧園、宸殿前の庭園・有清園があり、
 四季折々の景観を楽しむことが出来ます。
 宸殿の柱に「等持定理青苔地、円覚観前紅葉林」と書かれた伝教大師の言葉が掲げられています。
 「修行僧は紅葉を見、青苔に接して、紅葉と和し、青苔に融け、一枚の散る紅葉を青苔とが一つになって同化し、自分の心にとけ込んでいく心境
 づくりをするのであります」(小堀光詮門主)。
 庭は心の修養の道場ということでしょうか。
 三千院には春の石楠花、初夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の積雪がよく似合います。
                                【三千院ガイド】より
     *
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     *
 [宸殿]から庭に降りて[往生極楽院]へ向かう。

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     *
 [往生極楽院]は、恵心僧都源信が父母の菩提のために建立したと伝えられているとのこと。
 お堂に比べて大きい【阿弥陀三尊像】が安置されています。
 右に観世音菩薩、左に勢至菩薩と、中尊の阿弥陀如来が、少し窮屈そうなお姿でおられるのを拝観しました。

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     *
 その庭先に【わらべ地蔵】が何体かあり、カメラの被写体になっていました。

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     *
 そこから斜面を登り、[金色不動堂][観音堂]を経て、庭園を一周する。
 ここの紅葉は大半が最盛期を過ぎたようでしたが、まだ一部がそれなりの美しさを見せてくれていました。
 下左の画像は、出口付近の[円融房]付近の紅葉で、最後に[円融蔵]で、極楽院の船底天井画の復元模写などを拝観して、三千院の外へ出る。
 
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     *
 上右の画像は、境内の外側に沿って流れる律川にかかる紅葉です。
 その先にある[後鳥羽順徳天皇大原陵]の紅葉を見て、引き返すことにする。
 境内の外側には飲食店やお土産屋が並び、多くの観光客が足を止めていました。
 中でも〈千枚漬〉の製造販売をしている店先は、大変な人だかりで、思わず中を覗いて、試供品などを口にしてしまいました。
     *
 2時間の自由時間を有効に使って、最後の紅葉見物を充分に楽しむことができました。
 これで3日間のツアーは終了、天候にも恵まれ、京都各地で素晴らしい紅葉の数々を見ることができました。
 バスは若狭街道から鴨川沿いの川端通りを経て、約1時間で京都駅に到着。
 ベテラン現地ガイドの川上氏、ドライバーの笠原氏に感謝。
     *
 列車の出発時間まで自由時間となったまでは良かったが、集合時間になっても2人の方が見当たらず、麓添乗員があちらこちら駆け回っていた
 が、結局発車10分前になって1人が姿を見せる。
 どうやら食事をしていたらしく、皆さんの前に来ても謝りもせず、平然とした態度にこちらが呆れる。
 後の1人は皆さんが改札に入りかけてから駆けつけて来たが、こちらも何の挨拶もない。
 個人旅行を別にして、団体旅行では、グループの方々に迷惑をかけることのないように行動してもらいたいものだ。年配者でもこんな自分勝手
 な、無礼な人間がいるのに情けない気持ちにさせられる。
     *
 改札後に夕食のお弁当を買うように、と麓氏から言われていた我々を含めた他の方々は、発車間際に慌てて購入する羽目になってしまった。
 最後になって後味悪いツアーの思い出ができてしまった。
 その嫌な思いが、東京近くになって強い雨が降り出したので、一層輪をかけることになってしまい、「終りよければ総て良し」にならなかった
 のが少しばかり残念だった。
     *
 9時00分ホテル発(バス) → 9時20分東福寺10時50分 → 11時30分大徳寺・大慈院・泉仙(昼食・鉄鉢料理)… 大慈院住職・法話
 … 13時00分 → 13時40分三千院15時30分 → 16時30分京都駅17時56分(ひかり482号)→ 20時40分東京駅着 
                                           【約18,000歩】

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京 都 2

2010-11-24 00:00:00 | 旅行記
平成22年11月24日(水)曇後晴

 ホテルは京都の下京区烏丸の都心にあるため、東側にある部屋の窓からの眺めはあまり良くない。
 天気予報では晴と言っているが、雲が多い。
 朝食はレストラン・アンバーコートで、バイキングスタイルの洋食、品数も豊富で言うことはない。
     *
 バスの今日の座席は最後尾、とはいっても後方は空きが多いので、一人でゆったりと座る。
 今日の最初の訪問地は、いわゆる洛西からさらに奥にある神護寺。
 都心から周山街道に入り、車窓からの紅葉などを楽しみながら、次第に高度を上げて40分ほどで、山あいの高雄に着く。
 問題はここから清滝川を隔てた対岸にある神護寺まで、標高差100mほど下り、そしてその分だけ登らなければならないことだ。
 ガイドの川上氏は、この上り下りに自信のない方は、近くにある西明寺へ行くようにと勧められる。
 とはいっても、清滝川の流れまで降りるのは一緒、結局帰りにはその分だけ登ることになるのだが……。
     *
Img_1695 ここでの自由時間は、1時間30分。のんびり歩くことにして出発。
 駐車場から、お土産屋さんが並ぶ道を進むと、いきなり急傾斜の降り口になる。
 この時間、すでに帰ってくる観光客がいる。
  皆さん息を切らしているのを見ると、容易ではないことが分かる。
 ただ、見下ろす道の両側には、いまや盛りの紅葉が見られ、これを眺めながら、写真を撮りながら
 ゆっくりと歩くことにする。
 空気が澄んで冷たいが、歩くのには最適、雲が次第に切れて陽が差し込むようになってくる。
     *
 清滝川に架かる高雄橋まで降りると、直ぐに階段の上りが始まる。
 この付近の紅葉も見事で、カメラの絶好の被写体となっている。
 自然石を使用している階段は、凹凸があって滑りやすく、慎重に一歩一歩登って行く。
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     *
 つづら折りの登り道の所々には、お休みどころがあり、その店の周囲には、これまた素晴らしい紅
 葉が眺められるようになっている。
 店に入らなくては、その素晴らしい眺めを見ることができないのは、致し方がないが、これが商法
 というもの、などと思いながら、流れる汗を拭きながら登って行く。
     *
 しばらく登ると、樹の間から我々の乗ってきたバスの駐車場など、対岸が見えるようになる。
 山の斜面にある紅葉が、樹々の緑に映えて一段と見栄えがする。
     *

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 行く手に山門が見えてきた、最後の曲がり角付近の一面の紅葉が見事で、多くのカメラマンが思い思いの場所でシャッターを切っている。全体的
 には最盛期を過ぎているようだが、濃い紅から橙色、そして黄色と薄い緑など、グラディーションになって柔らかい陽を浴びて輝いて見える。 

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 ようやく山門に到着、ここで拝観券を戴いて山門内に入る。
 山門を潜ると、広い台地状になっている。その右手に燃えるような赤い紅葉の側に[明王堂]がある。
 その奥左手には[五大堂]と[毘沙門堂]が並んでいる。
     *
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     *
神護寺(じんごじ)

 真言宗の古刹。もとは和気氏の氏寺。
 建立:781(天応元)年(奈良時代)。
 809年(大同4)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後荒廃したが、平安末期、文覚上人が再興。
 国宝の薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残る。
 梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つ。紅葉の名所。
 とパンフレットにあります。
     *
 金堂で拝礼の後、紅葉越しの多宝塔や、地蔵院へ行く途中の紅葉を楽しみながら、〈かわらけ投げ〉の場所へ。
 厄除けになるとのことで、前面に開けた谷に向かって2枚の素焼きのかわらけを投げる。
 小さなかわらけの底を上にして、スナップを利かして投げるようにと言われたが、思うようには飛んで行かなかった。
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     *
 地蔵院から引き返し、帰りは楼門から階段を下ることになる。

    [毘沙門堂]                  [楼門]
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     *
 往路で見た紅葉を、改めて見直しながら階段を下り、そして清滝川に架かる高雄橋を渡って、今度は上りに息を切らし、汗を流しながらどうにか
 駐車場に到着した。
 その駐車場から[西明寺]を見下ろすと、ここの紅葉はどうやら最盛期を過ぎているようだ。

                             [西明寺]
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[西明寺]
 天長9年(832)に空海の高弟・智泉大徳が神護寺の別院として開いた寺。
 その後荒廃していたのを、鎌倉時代に自証上人によって再興された。
 本堂は、徳川5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によって、元禄年間に再建されたとのこと。
     *
 次いで向かったのは、昼食場所の洛西の嵐山、混雑するとはガイドの川上さんから聞かされていたが、桂川沿いの道に出ると大変な人出で、特に
 渡月橋を渡るのに時間がかかる。
 昼食はその渡月橋を渡った所にある[渡月亭]、湯豆腐を中心にした京料理でした。

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     *
渡月橋

 大堰川にかかる全長155mの巨大な橋。渡月橋の下流側は桂川となる。
 嵐山のしっとりとした景観を引き立てるべく、橋は木造である。
 亀山天皇が曇りのない夜空に月が橋を渡るような様を見て、
 「くまなき月の渡るに似る」と感想を漏らしたことから、その名が付けられたという。
     *
 昼食後は、徒歩で渡月橋を渡り、[宝厳院]を拝観の後、自由行動になると添乗員の麓氏から言われる。
 橋を渡り、大堰川(おおいがわ)沿いの道を宝厳院に向かったが、とにかく観光客が多く先頭について行くことが困難なほど。
 しかしながら、対岸の嵐山などの紅葉が見頃で、それをカメラに収めたりしていたことも遅れる原因でした。

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     *
 宝厳院に入ると、直ぐに紅葉が目の前に飛び込んできます。
 どこを撮っても絵になるようで、拝観の方々が至る所で立ち止ってカメラを向けています。
 心が癒されるという「獅子吼の庭」では、言葉に尽くせぬ見事な紅葉の園に入った感じで、陶然として見惚れていました。そのうち気持ちが落ち 着いて、どうにか撮った写真が下のとおりです。
   
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Img_1723 Img_1724 Img_1725 宝厳院(ほうごんいん)

 臨済宗大本山・天龍寺の塔頭寺院のひとつで、寛正2年(1461年)室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、天龍寺開山・夢窓国師
 より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されました。
 【獅子吼の庭】
 庭園は夢窓国師の法孫である策彦禅師の作とされ、嵐山を巧みに取り入れた回遊式山水庭園。
 「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを「無言
 の説法」というが、心が大変癒される庭である。
 春は桜や新緑、秋は紅葉、庭園を覆う苔など1年を通じて楽しませてくれます。
                              宝厳院パンフレットによる。
     *
 獅子吼の庭の鑑賞を終え、天龍寺へ向かうべく出口を出ると、その塀沿いの景色がまたまた素晴らしく、歩みを止めさせられました。

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     *
 何故か次の[天龍寺]は、自由参観(?)とのことで、個別に参拝券を購入することになる。
 ここも大変な混雑、本堂に入っても落着いて拝観することができないほどだ。
 本堂を一回りして廊下から[曹源池]を眺める。参拝客を避けて写真を撮ることはできない。
 それでもこの池の奥に広がる紅葉は、今真っ盛りだ。

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     *
Img_new天龍寺(てんりゅうじ)

 暦応2年(1339年)に吉野で没した後醍醐天皇の霊を鎮めるため、夢窓国師を開山として、足利
 尊氏が亀山離宮を禅寺に改めたのが当寺の創始であるとされている。
 当初は建設のための資金調達に苦慮したようであるが、天龍寺船による対明貿易により利益を
 上げ、貞和元年(1345年)に完工したようである。
 当寺は至徳3年(1386年)に足利義満により京都五山の第一位に格付けされた。
 因みに、第二位以下は相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の順であり、南禅寺は五山の上とされ
 ている。
 天龍寺は15世紀前半に最も栄えたが、足利家の没落や、戦乱により次第に衰退したようである
 建築物は何回かの戦火のために焼失し、創建時のものは殆ど残っておらず、建物は明治以降に
 再建された。
 明治2年(1869)に滴水宜牧らが復興に努め、現在の規模になったのは1900年頃といわれている
 平成6年(1994)世界文化遺産に登録。       天龍寺パンフレットによる
     * 
 書院から改めて[曹源池]と、床の間の[達磨]の掛け軸を拝観して庭に降りる。

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     *
Img_1733_3  大方丈の裏手を回り、曹源池の左側から入る拝観コースを巡ることにする。
 ここも丘陵地に造られているので、登り降りがある。
 紅・黄葉は、やや最盛期を過ぎたようだが、まだまだ見るには充分だ。
 [望郷の丘]から京都市内の一部を見て、[天龍寺]の拝観を終える。
     * 
 北口から出て背の高い竹林の中の道を[常寂光寺]へ向かう。
 この竹林は、手入れが良く、夜間照明の設備もあるので、夜間に訪れる拝観者も多いと思われる。
 その先左手には、かって時代劇で人気を集めた名優、大河内伝次郎の元別荘[大河内荘]がある。
 30有余年をかけて造園したという約2万�の見事な回遊式庭園があるとのことだが、時間の関係で
 パス。
     *
 やがて右下には[嵯峨野トロッコ列車]の嵐山駅が見えてくる。
 先に進むと、左手に小さな[小倉池]があり、10羽余りのマガモと2羽のカイツブリ、帰りにはカワセミも見られた。
     *
 狭い道の左手に[常寂光寺]の山門があり、中に入って拝観券を購入。
 
Img_1734常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
 開山は究竟院日禛上人(くきょういん・にっしんしょうにん)、字は尊覚と号す。
 権大納言広橋国光の息男として永禄4年 (1561) 京都に生まれた。
 幼少にして京都六条堀川の大本山本圀寺第15世日栖上人に師事し、わずか18歳にして同寺第1
 6世の法灯を嗣いた。
 宗学と歌道への造詣が深く、加藤清正、三好吉房、小出秀政、小早川秀秋、瑞竜院日秀 (秀吉の実
 姉)、その他京都町衆の帰依者も多数であった。
 文禄4年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、
 京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本
 圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
 当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆか
 りの地であったからと思われる。

 ‘小倉山 しぐるゝころの 朝な朝な 昨日はうすき 四方のもみじ葉’ 定家 
                            【常寂光寺パンフレツト】による
     *
 仁王門を潜ると、小倉山の斜面に建てられた本堂や多宝塔を巡るのに、階段を利用することになる。
 午前中から斜面の登り降りを続けているので、いささか足が疲れてきている。
 それを忘れさせてくれるのが、境内の紅・黄葉と本堂の右手からの京都の街の展望だ。
 
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     *
 多宝塔から本堂の左手の階段を降り、紅葉の林を抜けて拝観を終える。
 とにかく参拝客が多く、ゆったりとした気分にはなれなかった。
     *
 集合場所の[嵯峨野トロッコ列車・嵐山駅]付近は、大変な混雑だ。
 駅の案内板によると各列車とも満席で、僅かに5時過ぎの列車の立席の販売をしている。
 ここでも階段を利用して狭いホームに降りると、乗客で溢れかえっている。
 列車が到着して、どうにか狭い座席に落着くまでに時間がかかる。

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     *
 列車は保津川の渓谷沿いに走るが、車窓からの眺めも始めは左側、鉄橋を渡ると右側となりどちら側に座っても景色は眺められるようになってい
 る。
 しかしながら、立席の方がいるので反対側を見るのは容易ではない。

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嵯峨野トロッコ列車

 嵯峨野観光鉄道は、JRの旧線(嵯峨嵐山~馬堀間)を利用して、京都市~亀岡市を結んでいます。
 その昔、この旧線の電化・複線化が計画された時、渓谷に沿って蛇行して走るこの区間がネックとなりました。
 このため、トンネルで山を貫く新線へと切り替えられ、旧線の嵯峨嵐山~馬堀駅間は1989年3月に廃線となりました。
 しかし、保津峡に沿った風光明媚な景観を有するこの区間を、このまま放置して朽ち果てさせるには惜しい財産であることから、この自然美・渓
 谷美を有効に活用するために、この旧線を観光用に創り上げたのです。
 このような背景のもと、平成3年4月27日にトロッコ列車が誕生しました。
                           嵯峨野観光鉄道パンフレットによる
     *
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 車窓から見られる紅葉は、思っていたほど多くはない。
 トロッコ列車の沿線には若い樹が多く、将来が期待できるようだ。 
 木津川の川下りの船が通ると、お互いに手を振るようにとアナウンスがある。
 鉄橋を渡り、反対側が川沿いになると、座席を立たなければ景色が見えないのは致し方がない。
 20分ほどで[亀岡駅]に到着。ここでもホームには乗客が溢れている。まさにフル運転の列車なのだ。
     *
Img_0003_new_2 これで今日の観光は終わり、ホテルへ戻る。
 夕食時間が早く、その後の時間がもったいないので、麓添乗員に相談すると、ライトアップしてい
 る寺院の候補を教えて頂く。
 このホテルから比較的近い[青蓮院]などが候補の一つだった。
     *
 その夕食は、6時からホテル内にある日本料理の『嵯峨野』で。
 メニューは右の画像のとおりで、ゆつくりと寛ぎながら、今日の観光などを振り返りながら戴くと
 いうことになる。
 ところが、料理と料理の間が如何にも時間がかかるので、支配人にライトアップの寺院見学に行く
 予定を告げて早めに出して貰うことにする。
 それでも食事が終わったのは、7時を大きく回っていた。
     *

   【前 菜】       【煮物椀】      【造 り】      【焚 合】
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  【焼 肴】       【合 肴】       【酢の物】     【水 物】
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     *
 支配人に夜間拝観に行くことを告げたことから、[知恩院]の特別招待券を頂戴したので、行き先を[青蓮院]から変更する。
 タクシーで20分ほどで到着。
 人影が少なく、ひっそりと静まり返っている大きな三門が、ライトアップされて一段と輝いて見える。
     *
知恩院

 華頂山を背に大小106の堂宇を構える浄土宗の総本山。
 法然がこの地に設けた坊舎に始まり、法然の死後に弟子が廟堂をを建立。
 後に徳川家の庇護を受けて華頂山の麓を切り開き、壮大な伽藍を形成していった。
 日本最大の三門、千畳敷と呼ばれる衆会所、日本三大梵鐘の一つに数えられる巨大な銅鐘など、見どころは多数。
 名工左甚五郎が残したという忘れ傘など、知恩院七不思議を訪ね歩くのも楽しい。
 
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     *
 入口から坂道を上がると、右手に[友禅苑] があり、庭園がライトアップされているので、入ってみる。
 友禅苑は、友禅染の始祖宮崎友禅生誕300年を記念して、昭和29年に改修造園された庭園とのこと。
 東山の湧き水を引き入れた庭園と、枯山水の庭園とで構成された昭和の名園です。
 苑内には裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と当山第86世中村康隆猊下の白寿を記念して移築された茶室「白寿庵」があり、深い緑のなかで、日本の
 心を表した名園にふさわしい風情を添えています。 

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     *
 友禅苑を出て、石造りの階段を上がると、広い台地上の左手に大きな本堂がある。
 来年が元祖法然上人800年大遠忌に当たるので、その立て看板が目につく。
 微かに読経の声が聞こえる大きな堂内に入って、拝礼。参拝客も少なく一段と身が引き締まる思いだ。
     *
 本堂を出て[方丈庭園]に入る。
 方丈庭園は、江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられている。
 池泉回遊式の庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸します。
 方丈の一室に掲げられている[華頂山]の掛け軸が目に入り、カメラに収める。
 庭園の紅葉の数は少ないが、周囲の風景にマッチして彩りを添えていた。

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     *
 これで長い一日の観光を終え、ホテルへ戻ったのは9時を回っていた。
 
      【ホテル・ロビー】
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 8時40分ホテル発(バス) → 9時20分高雄・神護寺10時50分 → 11時30分昼食
 (渡月亭)12時25分 … 宝厳院 … 天龍寺 … 常寂光院 … 15時10分嵐山駅
(トロッコ列車)→ 15時40分亀岡駅(バス)→ 16時40分ホテル着 
 18時00分夕食(嵯峨野)19時30分(タクシー)→ 19時50分知恩院21時00分
 (タクシー)→21時20分ホテル着            【約20,000歩】

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京 都 1

2010-11-23 00:00:00 | 旅行記
 11月23日(火)から25日(木)まで、クラブツーリズム社主催の[錦繍の京都紅葉全周]に参加しました。
 23日の朝、東京は小雨模様でしたが、途中から晴れて絶好の行楽日和になりました。
     *
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
Img_1670 京都駅から観光バスに乗り、最初に訪れたのは[金戒光明寺]でした。
 この秋のJRキャンペーン『そうだ 京都、行こう』のポスターに掲載されているので、JRの駅
 でご覧になった方も多いと思います。
 光明寺のパンフレットによりますと、
 『くろ谷(京都市左京区黒谷)の地は、法然上人(浄土宗祖源空)43歳の承安5(1175)
 年、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時、紫雲全山にたなびき、光明があたりを照らし
 たことから、浄土宗最初の念仏道場を開かれた場所である。浄土宗7大本山の一つで、[山越阿弥
 陀仏(重文)]など、数多くの文化財を所蔵する』とあります。
 バスを降り、参道を歩くと、早くも紅葉の一部が見えてきます。
 早速それを撮る方々がいて、前へ進むのに苦労するほどです。

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 昭和19年に再建されたという大きな[御影堂【大殿】]の拝観のため内陣に入ると、座像の法然上人75歳の御影が奉安されています。
 御影を拝観の後、御庭を巡ることにしました。
 心憎いばかりの紅葉の配置が、御庭の景観を一層引き立たせています。

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Img_1667 JRのポスターにある[山門]は、急な階段の中程にあり、万延元(1860)年落成、楼上正面
 には後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。
 この楼上からは、京都市内が一望できます。
 そのためか、幕末には京都守護職、会津藩1000名の本陣になったとのことでした。
     *
 光明寺の境内は、西山連峰、黒谷の西2kmの京都御所、西10kmの小倉山を望み、山門、阿弥陀
 堂、本堂など18もの塔頭寺院が建てられています。
     *
 拝観の後、これらの塔頭を眺めながら、歩いて10分ほどのところにある[真如堂]へ向かいまし
 た。
     *
真如堂(しんにょどう
Img_1674 その総門前は参拝客で大混雑、総門の写真を撮るのに一苦労でした。
 総門前で、現地ガイドの川上氏から真如堂拝観についての案内があり、約1時間の自由時間となり
 ました。
 総門を潜ると右側に、紅・黄葉に囲まれるようにして三重塔があり、これを撮るカメラマンが大勢
 いて、通行の邪魔になるほど。無理もない、この景観はどうしても画像に収めたい場所なのです。
 本堂への参拝の気持ちもあるが、その前にも一枚ということのようです。
 
 こうなると群集心理で、小生もとカメラを構える。それにしても観光客が多い。
 人影なしで撮影するには、三重塔の上部だけ写すしかないような状態でした。

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 入場券とともに頂いたパンフによると、真如堂は、正式には鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらく)寺といい、真如堂は大本堂
 のことをいうとのことです。
 永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいざん)が、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、現在の地近くにあった、東三条女院(藤原詮子(せん
 し)、円融天皇女御・後一条天皇の御母)の寝殿に堂荘厳を施して安置したのが始まりとのことです。
 その後、一条天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として浄土宗の開祖法然上人や、浄土真宗の開祖・親鸞上人を始めとする多くの念仏行者
 や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきたという。
 1万2,000坪の境内には、15間四方の堂々たる本堂の他、総門、元三大師堂、鐘楼堂などが並び、文化年間に再建された三重塔が趣を添えていま
 す。
     *
 ここで靴を脱ぎ、本堂へ入り、阿弥陀如来を拝礼。
 本堂から渡り廊下を経て書院へ。ここに[涅槃の庭]がある。
 この庭は、1988年、曽根三郎氏によって作庭された。ガンジス川支流の沙羅の林の中で、北(左手)を頭にしたお釈迦様が入寂され、その回
 りを弟子や生類が囲んで嘆き悲しんでいる様子が、石組や白砂、植栽などによって表現されているという。垣根の向こうには大文字山などの東山
 が横たわっています。

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 再び渡り廊下を経て本堂の裏手に回ると、御庭の紅葉が見頃になっており、多数の参拝客(?)が思い思いの場所でカメラを構えている。何処を
 構図しても絵になるように思え、シャッターを切る。
 ここで外へ出て、三重塔付近の紅葉を眺めながらそぞろ歩く。
 その近くの[吉祥院]も、紅葉に囲まれて静かに佇んでいました。

Img_1684 Img_1686
     *
 真如堂からバスまでの急な階段と坂道を下るのに汗が流れる。予定では真如堂を先に回るようになっていましたが、現地ガイドの話で、逆に回っ
 た方が楽であると分かったので金戒光明寺を先にしたとのことでした。
 なるほど、この坂道を苦労して登ってくるツアーの方が多かったので、これは大助かりでした。
     *
 2カ所の寺院を回っただけで、すっかり紅・黄葉に酔い痴れて、[ホテル日航プリンセス京都]へチェックイン。
     *
 一休みの後、夕食のため鴨川沿いにある料理旅館の[幾松]へ。 
 食事の前、料亭の支配人から、幾松の部屋で、この建物にまつわる次のような説明がありました。
     *    
 当[幾松]は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子
 夫人)の木屋町寓居跡です。
 木戸孝允が没した翌日、松子夫人は剃髪染衣し翠香院と号し、お二人の想い出に溢れた当屋敷で余生をお過ごしになりました。
 国土の歴史的景観に寄与しているものとして、二棟が国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
 幾松は若狭小浜生まれ。小浜藩士の木崎市兵衛と、医師の細川益庵の娘との間に生を受けました。しかし幼少の頃、藩内
 の事件から父、市兵衛が妻子を残して出奔。8歳の時に京都に出てそののち三本木の芸妓になりました。
 桂小五郎とのロマンスは文久のころから始まったと伝えられております。
 当時、反勢力より、常に命を狙われていた桂小五郎を自らの命をかけ、機転を利かせ護りぬいた幾松の気丈さと愛の深さ、また2人の信頼関係
 の強さは、維新後の明治時代の人々にも多くの尊敬を集めました。
 明治維新後、桂小五郎は木戸孝允と改名し、参議など要職を歴任、政府内の進歩派の中心として、廃藩置県、藩政奉還に尽力しました。
 幾松は山口藩士の岡部富太郎の養女となり松子と改名、正式に木戸孝允の妻となりました。
 殺伐とした幕末動乱期に花を咲かせた2人のロマンスは、時を経た現代の私たちにも深い共感を呼ぶあでやかなエピソードとして名高いもので
 す。
 幕末当時、幾度となく当時の長州藩の尊王攘夷派の反勢力により詮議を受けたと伝えられている当屋敷でございますが、今も尚、抜け穴、飛び
 穴、のぞき穴、つり天井など出来る限り当時に近い状態で保存いたしております。
 当時は、不意の敵にそなえて、幾松の間の天井には大きな石が仕掛けられておりました。
 新撰組に踏み込まれた際に、桂を衣装箱に匿い、その前で平然と三味線をつま弾きながら小唄を歌っていたという部屋での説明の後、別室で京
 料理を楽しみました。
     *
 下右の画像は【本日のお献立】、下左の画像はそのうちの【八寸】。
 その他、食前酒・柚子酒、先付・くみ上げ湯葉・煎雲丹・オクラ、がありました。
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     *
 今日の最後は[高台寺の夜間ライトアッブ特別拝観]です。
 バスが東大路通を下るうちに、次第に渋滞が激しくなり、ノロノロ運転から遂にはしばしストップするようになりました。この時期、夜間拝観で
 きる寺院が多く、高台寺やその先にある清水寺へ向かう観光客の車が原因です。
 特に高台寺へ向かう車が左折すると、狭い道路の両側に車が連なり、動きが取れなくなるほどでした。
 問題はこの付近に住んでいる方々で、家からの出入りに困っていると、川上ガイドの説明に、さもありなんと思われました。(翌朝の京都新聞
 に、高台寺から付近住民に対するお詫びの広告が出ていました) 
 とにかく、一般車両の駐車場が満杯なのでどうにもならない状態です。ただ観光バス専用の駐車場は空いているので、道路が三叉路に来ると、
 延々と続く一般車を通り越して駐車場に入ることができました。
 ところが、今度は入場券を買う人たちの長い行列にびっくりさせられました。ここでも観光バスで来た場合は、待ち時間も無く、優先的に入場す
 ることができました。
 この観光バスを利用することを広く周知して、一般車の利用をストッブさせることは、できないものなのでしょうか?
     *
高台寺(こうだいじ)
 東山霊山(りょうぜん)の山麓にある、正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して
 高台院湖月尼と号す)が慶長元年7月(1624)建仁寺の三江和尚を開山として迎え、高台寺と号した。
 造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので、寺観は壮麗さを極めたという。
 しかし、寛政元年(1789)以後、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在残っているのは開山堂、霊屋(おたまや)、傘亭、時雨
 亭、表門、観月台などで、現在国の指定重要文化財となっている。
 なお北政所は天正16年(1588)に従一位に叙せられ、慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、寛永元年(1624)9
 月6日76歳で亡くなられた。
 霊屋は、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像が安置されている。須弥壇や厨子には、華麗な蒔絵が施さ
 れ、世に高台寺蒔絵と称され、桃山時代の漆工芸美術の粋を集めている。
 小堀遠州作の庭園はハギの名所として知られ、傘(からかさ)亭と時雨(しぐれ)亭の2茶室、観月台は伏見城の遺構で、国の重要文化財に指定さ
 れている。          [高台寺パンフレット] 
     *
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 上左の画像は、庭園から見た霊屋と、折からの月の出を撮ったもので、右は臥龍池に映る紅葉です。
     *
 これで第一日の観光を終わり、未だ混雑の続く東大路通りからホテルへと戻りました。

 9時33分東京(ひかり507号) → 12時15分京都(観光バス)12時30分 … 12時50分金戒光明寺14時00分 → 14時10分真如堂15時00分 → 15時30分ホテル日航プリンセス京都16時30分 → 17時00分幾松(夕食)18時45分 → 19時10分高台寺20時05分 → 20時40分ホテル
【約13000歩】
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紅 葉

2010-11-07 21:48:53 | 日記・エッセイ・コラム
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 今日は暦の上では[立冬]でしたが、穏やかな1日でした。
 午後から近所を散歩しましたが、葛西用水沿いの桜並木が紅葉の見頃になっていました。
 上左の写真がそれです。また右の写真は、近くの団地内の楓ですが、これも色づき始めていました。
 今年の夏の猛暑で、全国的に紅葉が一週間ほど遅れているそうですが、寒さが駆け足でやってきているようです。

 Img_1632左の写真は、我が家の[柚子]です。
 あの夏の暑さでは、今年は実が成るのかと心配していましたが、ご覧のとおり細い枝に沢山の実を
 付けています。
 少し間引きをしないと、枝が保たないのではと心配しています。

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