nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

津和野

2011-02-15 00:00:00 | 旅行記

平成23年2月15日(火)曇、雨、雪
 何故か目が冴えて5時半過ぎに起床。桧露天風呂に入るべく温泉を注ぎ込む。
 こちらは夜の明けるのが遅く、外はまだ真っ暗。
 どうやら今日も天候が良くないようだ。
 のんびりとお湯に浸かって、眠気を覚ます。
 ようやく薄明るくなって、目の前の松本川のカモメたちが見えてくる。
 [ウミネコ][セグロカモメ][カワウ][オカヨシガモ][ヒドリガモ]上空には[トビ]が舞い始めている。
 雨が落ちているので、外への散歩も出来ない。山は雪で白くなっている。
     *
 朝食は2階のレストランで。今朝も和食だ。Img_1939 
 『ノドグロ』の干物が珍しい。それと『温野菜』も最近の流行のようだ。
     *
 出発前に部屋から見える萩城のあった指月山と、松本川に架かる雁島橋をカメラに収める。
 ここの従業員は総て、宿泊客に対する応対が素晴らしい。旅行社が最上級ランク指定ホテルとし
 ていることも良く分かる。
 今日がツアーの最終日なので、荷物の一部を宅急便で送ることにする。
     *
 雨の中、昨日の『萩焼窯元』まではマイクロバスで送ってもらう。
 ホテルまでの道幅が狭く、大型バスが通れないための措置だった。
 別のホテルへ泊った人たちも同時に到着して、津和野へ向かう。 
        雁島橋               指月山
Img_1941Img_1942 バスが山道に入ると、雨は雪となり、それも次第に強くなる。
 周囲の景観もすっかり雪景色となる。
 津和野への道も、県道では除雪が心配なので、遠回りとなるが国道を利用するという。
 途中で反対車線を来る除雪車と擦れ違ったが、こちら側は停止して行き過ぎるのを待つという

 状態だった。
 今日は一番前の座席だったので、その雪景色を撮ったものを下に載せることにする。

 


Img_1943Img_1944

 例によってガイドさんの名調子で『津和野』の紹介が始る。
 うっかりしていたが、津和野は島根県なのだ。

 山口県との県境、島根県の最西部になるとのことだ。
津和野の歴史
 「つわぶきの里」伝説
 津和野は「つわぶきの生い茂る野」をその名のルーツに持つといわれる。
 遠い昔、山紫水明 のこの地に住みついた人々は、群
 生する「つわぶき」の可憐な花に目を留め、その清
 楚で高雅な風情に魅せられ、自分たちの住む里を「つわぶきの野」・・・ 「つわの」と呼ぶようになったという。
 このような伝説をもつ当地域の歴史は古く、縄文時代まで遡る。町教育委員会の調査によれば、今から約9000年前の早期縄文時代から人々が住ん
 でいたことが確認されている。
 これまでに町内19ヶ所で遺跡が発掘されており、石斧、土器、石器などが採集されている。
 これらの発掘により、当地域は後期縄文時代には九州文化圏の影響 を受けていたこと、そして、約1700年前の前期古墳時代の土器により当時、山
 口地方と山陰地方を結ぶ交通の要所として両方の文化が交流する重要な場所であったことなどが分かっている。
 また、平安時代の前半頃(約1200年前)の土師器や須恵器、緑釉陶器とともに、4枚の承和昌宝という銅銭も発見されている。
 承和10(834)年には能濃郷の成立、稲作の水田開発が進み、津和野川流域で集落が形成されたことがうかがえる。
     *
地頭職吉見氏の着任と津和野城の完成
 弘安 5(1282) 年、元寇警備のため能登から石見に入部した地頭職吉見頼行は着任後、津和野城の築城にかかり正中(1324)年、二代頼直の代に
 約30年の月日をかけて 本格的な山城を完成させた。
 その後、吉見氏は大内氏家老としてその傘下に入るが、主家の大内義隆が家来の陶晴賢に討たれてしまう。
 10代吉見正頼は、弘治3(1557)年に毛利元就と計り、陶晴賢を滅ぼし、以来、吉見氏は代々毛利氏の部将として西石見二郡、長門阿武郡を所領する。
 吉見氏時代の末期、津和野は中世の市場的集落から近世の城下町形成へと進みつつあった。
     *
坂崎出羽守の入城と津和野発展の礎づくり
 慶長 5(1600)年、関ケ原の戦で西軍が敗退すると、14代吉見広行は主家の毛利氏の萩移封に従い、津和野城を坂崎出羽守に明け渡し、萩に退転した。
 「千姫事件」で知られる坂崎氏は備前宇喜多氏の一族であり、在位16年の短期間に津和野城の大改築、城下町の骨格づくり、新田開発、和紙の原
 料である楮苗の栽培、灌漑用水路の建設、鯉の養殖など、今日の津和野の礎を築いた名君であった。
     *
亀井氏11代の城下町として繁栄
 坂崎氏が「千姫事件」で失脚すると、元和(1617)年に因州鹿野城主であった亀井政矩が4万3千石の藩主として入った。
 以後、歴代藩主は産業開発と教育の振興に力を注ぎ、一時は実録15万石といわれるほど繁栄した。
 8代矩賢は藩校「養老館」を創設し、11代茲監は藩の機構改革を実施、人材育成の充実を図った。
 このような歴代藩主の人材育成重視の施策が、幕末から明治・大正期にかけて活躍した日本を代表する人物---国学者福羽美静、近代日本哲学の祖
 西周---文豪森鴎外などを輩出する礎を作った。
  明治に入ると明治4(1871)年の廃藩置県によって浜田県(のちに島根県)に属し、明治12年には現在の町役場に郡役所が設置され、郡の行改、
 経済、文化 の中心として発展した。
 そして明治22年の市町村制施行により津和野町が発足、昭和30年に津和野町、小川村、畑追村、木部村の近隣四町村が合併、さらに 平成17年、
 日原町と合併し、現在の津和野町が誕生した。                [津和野町観光協会]資料より
     *
 幸いにも、津和野に近づくにつれ雲が切れ、所々青空が覗くようになる。
 町のお土産屋の駐車場にバスを止め、その店の主人が町を案内する。
      *  殿町通り                                                        掘割の鯉
Img_1950Img_1951 とはいっても僅か40分ではと、津和野のメインストリートといわれる『殿町通り』へ。
 流石に観光の町だけあって、観光客の歩く場所は雪掻きがされている。
 この石畳の通りは、かって家老屋敷が隣接していたところとか。
 なまこ塀と掘割り泳ぐ鯉など、津和野のシンボル的
 スポットとされている。平屋建ての家が続いている
 ので、空が大きく広がり、折からの日差しが眩しく
 雪に反射している。
       *
  

     多胡家老門                                                           藩校養老館
 Img_1947Img_1948『多胡家老門』についての説明では、多胡家は亀井
 氏 11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢
 献した家柄。瓦葺きで、間口4m、長さ26mの立派な
 武家屋敷門が今も残っています。
 同じく家老だった太岡家が隣接しており、門を入る
 と古いたたずまいが印象的な町役場になっています
 『藩校養老館』は、森鴎外や西周など、数多くの優
 れた人材を輩出した藩校。
 藩校の一部は現在『民俗資料館』として使用されている。 
       *
Img_1952Img_1953 掘割の鯉は、11月から2月までは餌を食べないので
 今が一番痩せているとのことだが、見る限りではそ
 のようには思えないほど大きい。







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Img_1954Img_1955 短い見学が終わり、ガイド役の主人の経営するお土産店へ。
 津和野の名物の一つに『和紙』がある。妻もお土産に選んでいた。






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 かくして短い津和野の観光を終えて、次の目的地、岩国の錦帯橋へと向った。
錦帯橋

 岩国の錦帯橋までは、国道187号線を利用して中国山脈を越え、2時間ほどかかるという。
 最初は日本海側へ流れる高津川沿いに上り、峠を越えると今度は瀬戸内海に注ぐ錦川沿いの道を下って行く。
 この錦川に架かるのが錦帯橋なのだ。ここまで来れば雪は無くなっている。
 ツアーも3日目になり、そろそろ疲れが出てくる頃で、車内で居眠りをする方も出てくる。
 ガイドの末永さんも、先刻ご承知のようで、しばらく案内を中止している。
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イメージ 1                              
 やがて錦川の対岸、横山の山頂に『岩国城』が見えてくる。 
 ここで改めてガイドの説明が始る。
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 岩国城は、1608年 (慶長13年) に初代岩国藩主の吉川広家が、蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城しました。
 しかし幕府の一国一城令により、築城より僅か7年後の1615年 (元和元年) には取り壊しとなり、政務は山麓の居館 (現在の吉香神社付近) で行われました。
 現在の天守は1962年 (昭和37年) に外観復元されたもので、四重六階の桃山風南蛮造です。
 南蛮造(唐造)とは最上階をその下階より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。
 復元の際、錦帯橋からよく見えるよう、旧本丸の約50m南側に位置を変えています。
 現在、天守内には刀剣や武具甲冑類が展示されています。
 一国一城令による取り壊し後、幕府より石垣も破却するよう命じられ、天守台も破壊されました。
 しかし下部約1/4が地中に埋まって残っており、1995年 (平成7年) に古式穴太積 (こしきあのうづみ) 石垣が発掘復元されました
 また北ノ丸の石垣や空堀などの遺構が現存しているとのことです。 
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 バスは昼食のため、錦帯橋の前にあるお食事処『しろたい』の先で止まる。
 今日の昼食は岩国名物の『岩国寿司』だ。この岩国寿司は、押し寿司風に仕上げた保存食としてのチラシ寿司で、岩国地方なら
 ではの郷土料理として親しまれているという。
 一度に4~5升つけ込む豪快な作り方で、型の中で具と寿司飯を交互に重ねて押す。名産のレンコンや瀬戸内の新鮮な魚を入れ
 るのが特色。風味も良く、人気の名産品とのことです。
 また、名産のれんこんは、岩国藩主『吉川家』の家紋が九曜の紋で、れんこんの穴が同じ9つということが藩主を喜ばせたと言われています。
 岩国れんこんの特徴は、しゃきしゃきした歯触り、かじると糸を引くでんぷん質の腰のある粘り等、味の良さは格別です。
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 食事もそこそこに、目の前にある『錦帯橋』を見物かたがた渡る。
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錦帯橋 
 日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 は日本を代表する木造橋です。
 他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴で、1922年 (大正11年) には国の名勝に指定されています。
 橋の長さは、橋面にそって210m、直線で193.3m。また幅5m、橋台の高さ6.64mです。
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錦帯橋の歴史
 1600年 (慶長5年) に岩国の地に移封された岩国藩の初代藩主・吉川広家は1608年 (慶長13年) には蛇行した錦川に囲まれた天
 然の要害の地である横山の山頂に岩国城を築城しました。
 その麓に居館や上級武士の屋敷を配置、中下級武士の屋敷や町屋は錦川対岸の錦見に置き、岩国城下町を形成しました。
 横山と錦見は川幅約200mの錦川に隔てられており、藩政に橋は必須でした。
     * 
     吉川広嘉公の銅像
 イメージ 4                               
 第3代藩主・吉川広嘉は、暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意します。
 そこで、橋脚のない甲斐の「猿橋」に着目しますが、約30mの猿橋と約200mの錦川では条件が違いすぎ、技術の応用は不可能でした。
 その後、広嘉は明の渡来僧である独立(どくりゅう)が持つ「西湖遊覧誌」にある、島づたいに石橋が架かる図をヒントに、錦帯橋の構想を得ました。
 広嘉は家臣の児玉九郎右衛門に架橋を命じ、1673年 (延宝元年) 10月、岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成しました。
 翌年洪水により一部が流失しましたが、その年のうちに、敷石を強化し再建されました。
 以来276年の間、老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの、流失することはありませんでした。
 また、架け替えられていく中で改良が重ねられていきました。
 例えば、橋裏に整然と並んだ補強部材「鞍木」 は1682年 (天和2年) に追加されたものです。
 しかし長年不落を誇った錦帯橋も、1950年 (昭和25年) 9月、キジア台風による錦川の大増水により、多くの市民が見守る中、惜しくも流失してしまいました。
 その後、市民の熱意で1953年 (昭和28年) 1月に再建されましたが、それから約50年を経て、木部の傷みが全体的に目立つようになりました。
 そのため、2001年 (平成13年) 秋より「平成の架け替え」 が、伝統を受け継ぐ岩国の匠の手により、昔ながらの木組みの工法
 で行われました。総事業費約26億円をかけた大事業は、2004年 (平成16年) 3月、五つの反り橋はアーチの美しさにこだわって生まれ変わりました。
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      錦帯橋の構造
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 反り橋の構造は、頑丈な組木の技法により、橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっています。
 経間35mを無脚で渡した技術は、現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われ、300年以上も前の技術力には非
 常に驚かされると共に畏敬の念を抱きます。
 錦川の河原から錦帯橋の裏面を見上げると、精緻な組木を巻金と鎹 (かすがい) で補強したダイナミックな構造美を見ることができます。
 また水流に対して流線型をした橋台は、水の圧力を軽減する効果があり、橋台周囲に敷きつめられた敷石が橋台の根元を補強しています。
 錦帯橋の魅力は橋を取り巻く山紫水明の景観によって更に増幅します。
 2005年 (平成17年) 9月6日 に襲来した台風14号がもたらした未曾有の豪雨により、架け替え後わずか1年半しか経っていない新
 しい錦帯橋の橋杭が2本流失しました。
 しかしその後、2006年 (平成18年) 2月には修復工事が完了し、元の美しい姿を取り戻しています。
 2007年 (平成19年) 2月16日、財団法人古都保存財団により「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。
                                                [岩国観光協会]資料より
     *
 木造なので、靴の底から伝わる反動は優しく伝わってきます。それに反り橋部分は、一段毎の高さが低いので、子供でも楽に歩くことが出来ます。
 橋の中程から対岸を見ると、川沿いには桜並木が続いており、お花見の絶好の場所であることが分かります。
 ガイドの説明にもありましたが、その時期になると道路の大渋滞と駐車場が満杯になるとのこと、何処もお花見時の混雑は避けられないようです。
     *
 橋を渡った左手の土手下に『槍倒し松(やりこかしのまつ)』があります。
 昔の山陽道は、徳山から玖珂ー岩国御庄ー多田ー関戸ー小瀬ー大竹市中津原へ抜けるコースで、この上流にある岩国市御庄近
 くでは、渡し舟が利用されていました。
 ところが、大雨が続くと川が氾濫し、渡し舟が止まり、参勤交代などで江戸を往復する西国の諸大名は、吉川藩に願い出て、
 吉川家の所有である錦帯橋を渡してもらっていました。
 大名行列が藩の要所を通る時は、行列の槍を倒すのが礼儀となっていましたが、わずか6万石の岩国藩を馬鹿にして、誰も倒す者はいませんでした。
 悔しがった知恵者が、近くの山から枝ぶりのよい松の木を持ってきて錦帯橋の袂に植えたところ、行列の槍は嫌でも倒さなけ
 ればならなくなり、岩国藩士は手をたたいて大喜びしたそうです。
 しかし、本当に意識して植えたという記録はないとのことです。
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      槍倒し松                巌流ゆかりの柳
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     *     
 その松の下流近くに、巌流ゆかりの柳があります。
 「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また剣名を ”巌流” とも呼ぶ人間は、かくいう私であ
  るが・・・」吉川英治の小説『宮本武蔵』の一節です。
 吉川英治は、錦帯橋ー柳の木ーつばめーつばめ返しー巌流ーと連想して、
 「佐々木小次郎が、錦帯橋畔で柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得た」と、岩国に来て自ら創作し、剣聖・宮本武蔵の背景を見事に写し出したものです。
 これにちなんで、錦帯橋の袂の柳古木を「巌流ゆかりの柳」とし、新たな観光名所となっています。
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 橋を渡った正面には、岩国城へ行くロープウエイの山麓駅までの間に『吉川広嘉公銅像』や『吉香公園』、『香川家長屋門』、
 『旧目加田家住宅』などがあるが、時間の関係もありガイドの説明があった『白蛇観覧所』を見ることにする。
 この白蛇が野生で棲息しているとは知らなかった。
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 岩国のシロヘビは、長さ180cm、胴回り15cm余り、アオダイショウのアルビノが遺伝的に固定している種です。
 目はルビーのように赤く、全身は白く光沢があり、清楚な姿でとても神秘的です。
 性質はおとなしく温順で、人に危害を加えることもありません。
 アルビノは普通一世代限りの遺伝子異常ですが、岩国のシロヘビは形質が遺伝で維持されている個体群です。
 世界的にも非常に珍しく貴重で、学術的価値も高い。
 最初の記録として残っているものは、およそ270年前に書かれた「岩邑年代記【がんゆうねんだいき】」で、元文三年(1738)
 六月、千石原(横山三丁目付近)に出現と記されています。
 文久二年(1862)の「錦川誌」にも岩国藩の米倉に住み着いているという記録があります。
 シロヘビの誕生がいつ頃かは不明ですが、約400年前、関ヶ原の戦いの後、岩国へ移封された藩主吉川広家が錦見一帯で米作
 りに努めた頃、多くの米倉でネズミを餌にしていたアオダイショウが色素細胞のない変種となり、それが遺伝し生まれてきたとされています。
 当時の人々がこの珍しいヘビを有益で幸運を呼ぶ家の守り神として大切に保護したと考えられ、その数を増したといわれています。
 大正13年12月9日、錦川をはさんだ今津、麻里布、川下地区が国の天然記念物に指定され、昭和47年8月には「岩国のシロヘビ」と指定替えされました。
 この中で麻里布地区は昔からのシロヘビに加え、川下地区は旧家が多く、蔵や石垣、水路など生息条件が良いことが、この地区に多く見られる理由です。
 しかし、近年生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど、環境の変化により、その生息数は減少しつつあります。
 吉香公園内と今津町天神山には、シロヘビの観覧施設があり、いつでも美しい姿を見ることができます。
 (財)岩国白蛇保存会では岩国市と共に、官民一体の保護保存活動を進めています。 (財)岩国白蛇保存会資料より
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 錦帯橋見物が、この付近に棲息しているという白蛇まで見るというオマケが付いて、岩国を後にしました。 
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宮 島 
 ツアー最後の観光地は『宮島』です。
 岩国を出発したバスは、岩国 I.C.から山陽自動車道に入り、大野 I.C.で国道2号線に下り、宮島口の駐車場に到着。
 ここでガイドとドライバー氏とはお別れとなる。
 2日間ではあったが、ベテランガイドの末永氏の名ガイドぶりに感動し、また3日間の目まぐるしく変化する天候、特に山間
 部の雪道に抜群の運転技量を発揮してくれたドライバーに拍手で感謝の気持ちを表す。
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 私も妻も過去に来ている宮島ですが、久し振りのことなので、改めて厳島神社の参拝と島の散策を楽しむことにしました。
 連絡船の出航時間ギリギリだったので、走り込むようにして乗船。
 デッキでは風が冷たいので、船内へ入りましたが、前方の座席はほぼ満席なので、後方の座席へ。
 この時期は修学旅行の生徒で混雑しているようでした。
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 宮島に着くと、ガイド役の土産物店の女性が待ち受けていて、早速道案内がてら、先ず全体写真を撮るため、大鳥居をバックにした場所に着きました。
 ここには何故か鹿が多数屯しています。それは写真屋さんが、我々と一緒に写真を撮るために餌を与えるからでした。
 我々の位置が決まり、一頭の鹿に餌を与えると、何と写真を撮る間おとなしくしているではありませんか。
 これほど手懐けられているとは驚きでした。
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 ガイド役の店は、土産物店が立ち並ぶ、いわゆる宮島銀座通りの一番神社寄りの場所で、名物の[紅葉饅頭]の製造販売をしている店でした。
 そこで出来立ての[紅葉饅頭]を戴きましたが、なるほど美味しい !
 かっては[漉し餡]のみでしたが、現在では[粒餡]や[チョコレート][クリーム]などバラエティに富んだ紅葉饅頭が作られているようです。
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 ガイドの軽快な説明を聞きながら『厳島神社』に着きました。
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厳島神社 国宝・重要文化財
推古天皇元年(593)、佐伯鞍職[さえきくらもと]によりご創建と伝えられています。
説は、色々ありますが、「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都伎島[いつきしま大明神」、「厳嶋神社」」等呼称され、現在は「嚴島神社」となっています。
原始宗教のなごりで、島全体が神の島として崇められていましたので、陸地では畏れ多いと海中に社が建てられました。
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    回廊からの千畳閣と五重塔                厳島神社
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 造 り : 寝殿造桧皮葺
 御祭神 : 天照大神の娘である宗像三女神
       市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]、田心姫命[たごりひめのみこと]、湍 津姫命[たきつひめのみこと]
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 平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の氏神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇す
 る度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました。
 都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇、建礼門院を始めとする皇族や貴族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
 現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたものです。
     *
 社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。
 国宝・重要文化財の建造物は20基・美術工芸54点等261点。東廻廊45間、西廻廊62間。
 東廻廊入口は切り妻造り、西廻廊入口は唐破風造りで、廻廊幅は約4m・長さ262m(108間)・柱間約2.4m(8尺)・一間に8枚の床板が敷かれています。
 床板の隙間は、高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、また廻廊に上がった海水を流す役目をします。
 床板は、現在養生板が敷いてあり、本来国宝の一部である床板の上に敷いてあるところから土足で歩くことができます。
 本社の他に客神社・朝座屋・祓殿・高舞台・平舞台・左右門客神社・火焼前・大国神社・天神社・能舞台・反橋・長橋・揚水
 橋・内侍橋の建物構造群からなっています。 
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       五重塔                    能舞台
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 厳島神社に拝礼の後、回廊から『五重塔』や『能舞台』などを見学して、ちょうど引き潮なので『大鳥居』の下まで行くことになりました。
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大鳥居 国重要文化財
 嚴島神社の大鳥居は、木造で鳥居の種類としては両部鳥居(四脚鳥居)です。
 高さ約16.6m、棟の長さ24.2m、主柱周り9.9m、総重量は約60t、木部は丹塗り(光明丹[こうみょうたん])、主柱は楠の自
 然木を、袖柱[そでばしら]は杉の自然木を使っています。
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 現在の大鳥居は、平安時代から8代目にあたり、明治8年(1875)に再建されました。
 笠木は箱になっており、拳大の石が約7 t 詰められています。根元は海中に置かれているだけで、自重で立っています。
 主柱の基礎は、千本杭の工法が用いられ、45cmから60cmの松杭がそれぞれの柱に約30本から100本打ち込まれています。
 楠は、比重が重いことと、腐りにくく、虫に強いからです。
 棟の西側には三日月が、東側には太陽の印があり、陰陽道の影響がみられます。
 沖側の扁額には厳嶋神社、御本社側は伊都岐島神社[いつきしまじんじゃ]と筆書きされていて、現在の額は、明治8年の再
 建時のもので、有栖川宮熾仁親王の染筆です。   [宮島観光協会]資料より
     *
 大鳥居の下まで行くと、その大きさに圧倒されるようだ。沖側の扁額が『厳島神社』であることを確認する。
 これで一通りの見学が終わり、引き返すことになる。
 土産物店で一休みと言うことになったが、その隣の店で焼く牡蠣の匂いにたまらず、皆さんと同じように注文する。
 流石に名物、美味しい。アルコールがあればなお良かったが……。
     *
 かくしてツアーは総て終了。
 連絡船で宮島口へ、そしてJRの宮島口駅から普通電車で広島駅へ。
 新幹線の待ち時間に夕食のお弁当[かき弁当]と、勿論アルコールも購入して、一路東京へ。
     *
 7時55分 雁嶋別館(マイクロバス)→ 8時00分 萩焼窯元(バス)→ 9時10分 津和野 9時50分 → 11時50分 錦帯橋(昼食/見学)
 12時45分 → 13時20分 宮島口 13時30分(連絡船)→ 13時40分 宮島 15時30分(連絡船)→ 15時40分 宮島口 … 15時51分
   宮島口(JR)→ 16時20分 広島 17時01分(のぞみ132号)→ 20時56分 東京
     *
【確認した野鳥】  32種類
  1.カイツブリ         2.カワウ           3.ダイサギ
  4.コサギ           5.アオサギ          6.マガモ
  7.コガモ           8.オカヨシガモ        9.ヒドリガモ
10.トビ               11.ワシタカS.P.            12.ハヤブサ
13.セグロカモメ        14.ウミネコ           15.キジバト
16.コゲラ           17.キセキレイ          18.セグロセキレイ
19.ヒヨドリ          20.カワガラス           21.ルリビタキ
22.エナガ           23.ヒガラ             24.ヤマガラ
25.シジュウカラ        26.メジロ             27.カワラヒワ
28.ウ ソ           29.スズメ             30.カケス
31.ハシボソガラス       32.ハシブトガラス