nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

松之山 1

2014-05-31 00:00:00 | 探鳥記
平成26年5月31日(土)

 鳥仲間と久し振りに松之山へ出かけました。
 お目当ては勿論《アカショウビン》と《ブッポウソウ》です。
 関越道も比較的スムースに流れており、六日町 I .C.で降り、11時前に『美人林』に着きました。
 日差しが強く気温も平年より高いとのことでしたが、林の中は心地良い風もあって別天地のようでした。
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 ただ主役の野鳥は声も無く、姿を見ることはできませんでしたが、囀りを頼りにキビタキやシジュウカラなどを
 見ることができました。また、ホトトギスの鳴き声が聞こえていましたが、姿を見ることはできませんでした。
 1時間ほど森の中を歩いた後,温泉街にある【日之出屋】で昼食を採ることにしました。
 その温泉街の入口にある〈キバナツツジ〉が目立っていました。
     *
 
     *
 この店の名物は『アゴだし』を使った『つけめん』とのことで、それを注文しました。
 やや塩味の強いつけ汁は、この暑さには最適の栄養補給材と美味しく戴きました。
 また、漬物として出されたわらびは、新鮮なものとあって柔らかく優しい味で皆さんの評判も良いものでした。
 その他ウドの煮物も……。
     *
 
     *
 午後からは先ず標高 700mほどの『大厳寺高原』へ向かいました。
 現地へ着くと所々に残雪がありました。豪雪地帯と言われる松之山は平均 3m以上にもなるとのことですが,
 大厳寺高原では 7 ~ 8 mになるとのこと。
 なるほど持田用水池の畔では、水芭蕉の花が見られるものもあり、〈オクチョウジザクラ〉が花をつけていました。
 また蕗の薹が出たばかりとか、ショウジョウバカマやオオイワカガミなども見られ、ギフチョウが2頭飛び交っ
 ていました。
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 肝心の野鳥はツバメとムクドリが多く、その他はニュウナイスズメが見られた程度でした。
     *
 次いで近くにある『留山ダム』に向かいました。
 留山ダムは新潟県所有の灌漑用水専用アースダムで、山中にポツンとした形で静まり返っていました。
 このダム湖の奥の方に1羽のマガモが寂しげに水面を進んでいました。その他2羽のキセキレイが現われ、追い
 つ追われつの激しい動きを見せてくれました。
 ダムの往復で目に付いたのは急斜面にある田植前の棚田で、水が張られ田植の準備が進められているようでした。
 この付近の杉の木の天辺に、サシバが止まっているのを見ることができました。
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 また〈フタリシズカ〉も見ることができました。
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 今日の最後は小学校の裏手です。ここはブッポウソウが期待できる場所です。
 到着すると溜め池の奥にある杉林からサンショウクイの囀りが聞こえており、その姿を見ることができました。
 しかしながら肝心の主役の姿はありません。
 池から少し下がった場所にいたグループの話では、先程まで3羽のブッポウソウがいたが、飛び去ったとのこと。
 もう少し早ければとタイミングが悪かったようでした。
     *
 さらに坂を下った所で、少し遠くの樹の上で囀っているノジコを見て、宿へ引き上げることにする。
     *
 今日の宿は、じょうもんの湯『おふくろ館』。
 無色透明単純硫黄鉱泉の湯は、ここ黒倉地内で縄文時代の遺跡(十文字遺跡)が発掘されたことから「じょうも
 んの湯」と名付けられたということです。
 そしてその名のとおり、地元のおふくろさん方によって運営されている宿泊施設ということです。
     *
      
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 この旅館の前にある杉林の樹でサンショウクイが囀っており、我々を歓迎しているようでした。
     *
 少し温めの温泉にゆっくりと浸かって疲れを取り、食事処での夕食は、地元で採れた山菜料理が主役。
 種類が多く充分楽しめた夕食でした。画像の他に食後の果物は西瓜でした。
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 10.00.六日町 I .C. → 11.00. 美人林 12.10. → 12.20. 昼食(日之出屋)13.20. → 13.50. 大厳寺高原 15.00. →
 15.10. 留山ダム 15.40. → 15.50. 小学校裏 17.30. → 17.40. おふくろ館 泊

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東欧紀行 6

2014-05-12 00:00:00 | 旅行記
平成26年5月12日(月)

 5時起床。カーテンを開けると雨は止み、青空も出ている。
 部屋の窓からは交差点を行き来する路面電車が眺められる。
     *
 
     *
 朝食も今までと較べて品数が少なく、何とも気分が良くない。
 出発までの 30分ほどの間ホテルの近くを散歩する。市の中心部と反対方向に行ったが収穫なし。
 ホテルまで戻り、中心部方向を見ると、グラーツの名物・時計台が遥か遠くに見える。ホテルの画像とともに
 載せることにする。
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 スーツケースは自分で運んでバスへ。
 ウィーンまで約 200km、約 3時間のバスの旅。
 途中、画像のS.A.でトイレ休憩。
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     *
 ウィーンに近づくにつれて畑などに冠水している所があり、昨日の大雨の影響があったようだ。
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 チェック・インの後、クロアチア・クーナをユーロに両替してショッピング。思うような品物も無く、結局ユー
 ロを余すことになった。
     *
ウィーン・シュヴェヒャート国際空港
 オーストリアの首都ウィーンの南東 18kmに位置する空港。
 年間の旅客数は 2,100万人ほどであり、ヨーロッパで 18位に位置している。
 オーストリアが冷戦時代に中立国であったため、歴史的に東西陣営の各地を結ぶハブ空港として機能し、今日で
 も旅客数の 3割が東欧や中東方面への乗り換え客とのことだ。
     *
 
     *
 8.00. ホテル(バス)→ 9.00. S.A. 9.15. → 10.50. ウィーン空港 13.20.(OS 51便)→


5月13日(火)
 機内食の朝食が和食とは珍しい。
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     *
 成田出発の8日は雨だったが、帰国の今日も雨でした。
 おまけに京成線船橋駅を過ぎてから、車内放送で、
 「地震警報が出ましたので、電車は停車します」とアナウンスがあり電車はしばし停車。
 その後時速25kmの徐行運転となった。
 この結果、電車は予定より20分ほど遅れたとのこと、とんだハプニングでした。
 帰宅後調べると、震源地は千葉県沖で震度4とのことでした。
     *
 7.10. 成田空港着
     *
【観察した野鳥】
 1.アオサギ    2.コブハクチョウ 3.マガモ     4.ト ビ     5.チョウゲンボウ
 6.キアシセグロカモメ 7.カワラバト 8.シラコバト   9.カッコウ V   10.アマツバメ
11.ヨーロッパアマツバメ 12.ニシイワツバメ 13.ツバメ 14.キセキレイ  15.クロウタドリ
16.シジュウカラ  17.ゴジュウカラ  18.カササギ    19.ハシボソガラス 20.イエスズメ
21.スズメ     22.ズアオアトリ  23.ゴシキヒワ   24.アオカワラヒワ  




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東欧紀行 5

2014-05-11 00:00:00 | 旅行記
平成26年5月11日(日)

 ドゥプロヴニク空港発1番のザグレブ空港行のフライトに乗るため、3時起床、4時出発と慌ただしい一日が始まりました。
 空港で搭乗チェックインの後、ホテルで用意された朝食用のお弁当を待合所で戴きました。
 サンドイッチを始め、ジュース、ヨーグルト、バナナなどと量が多く、勿体ないが半分ほど捨てざるを得ませんでした。
     *
 
     *
 この便は利用者が多く、満席。一時間ほどでクロアチアの首都・ザグレブ空港着。
 待ち受けていたバスで、市内観光の出発点である大聖堂前に向かう。
 予定時間より少し早く着いたので、今日のガイドさんのを来るのを待つ。
     *
 
     *
 ガイドさんはザグレブの説明から始める。
 「カプトルとグラテツという二つの集落がこの町の始まり。
 互いにライバル関係にあったが、17世紀に統合してザグレブとなり、1776年に首都が移されると大いに発
 展して行った」という。
 そして目の前にある『聖母被昇天教会』を案内する。
     *
聖母被昇天大聖堂
 カプトル地区の丘に建つザグレブのシンボル的存在で、高さ105mの二つの尖塔が印象的。
 元々はロマネスク様式の大聖堂があったが、1242年のモンゴル来襲により破壊されました。
 その後ゴシック様式で再建されましたが、1881年の大地震で損壊し、20世紀初頭にネオゴシック様式の現
 在見られる姿になったという。
 内部には、ルネッサンス様式の祭壇やバロック様式の説教壇などが残っているとも。
      * 
 日曜の朝とあって、礼拝のための市民が続々と集まってくる。
 ここ数年補修工事が行われており、現在は右側の尖塔上部が工事用の布で覆われている。
 大聖堂を囲む白い壁は、オスマン朝軍から守るために造られたものという。
     *
 
     *
 次いで『ザグレブの胃袋』とも呼ばれている『青果市場』へ。
 1926年から旧市街にあり、現在ザグレブに残っている市場の中では最も古いという。
 ここで同行の一人の方がイチゴを購入。皆さんと試食したが、小粒だが甘くて美味しい。
     *
    
     *
 この市場周辺の細い路地には、雑貨や骨董品を売る屋台が並び、手作りの土産物を売る店も多い。
 青果市場から離れた場所にある『魚市場』も見学。
 何故かタコが目立っていた。
 この青果市場の地下には『肉の市場』があり、坂道の下には『生花市場』が並んでいました。
     *
 
     *
 青果市場から狭い坂道を下り、急な坂道を上がるとゴルニイ・グラード。中世にはグラテツという王国自由都市
 で、敵の侵入を防ぐために城壁で囲まれていた。
     *
 
     *
 『石の門』は当時のグラテツの数少ない出入口の一つで、当時は木造だったが、18世紀に石で固められ現在の姿
 になったという。門の内部には、聖母マリアの肖像が納められた礼拝堂があり、ロウソクや花を捧げて祈る人々
 の姿が絶えないという。
 城門が1731年の大火で焼け落ちたときにも、このマリア像は無傷だったといわれている。
     *
 
     *
 左へ行くと『聖マルコ教会』がある。グラテツの丘の上に建つ教会で、13世紀にゴシック様式で建てられ、18
 世紀に再建されて現在の形になったという。
 1880年に造られたモザイクの屋根が特徴的。3つの紋章が一つになっているのが、クロアチア王国の紋章で、
 城が描かれているのがザグレブ市の紋章とのこと。この教会の右手に国会議事堂、左手に首相官邸がある。
     *
 
     *
 坂を下る途中の四つ角に、赤い傘を差した女性がハート型のマグネットを売っている。可愛らしいスタイルなの
 でカメラの被写体になっている。
 この『ハートのアイテム』は、「リツィタル」と呼ばれる赤いハートのオーナメントは、伝統菓子のクッキーに
 由来しており、そのレシピと技術はユネスコの無形文化遺産に登録されているとのこと。
 ザグレブなどの町ではハートをモチーフとしたアクセサリーやマグネットを売る店が多いという。
     *
 
     *
 坂の終わる右手に『ロトルシュチャクの塔』がある。13世紀に建てられた見張り塔で、ここからのザグレブの街
 の見晴しが素晴らしい。
 ここで毎日正午に打ち鳴らされる大砲の音は、びっくりするほど大きいとのことだ。
     *
 
     *
 坂を下ったところにあるのが『共和国広場(イェラチッチ広場)』。
 カプトルとグラデツの丘の中間にある広場で町のほぼ中心にある。クロアチア独立運動家の名前をとってイェラ
チッチ広場とも呼ばれ、広場の中央には彼の像が立っている。
 広場の周囲はカフェテリアやレストランが取り囲み、ザグレブ市民の憩いの場となっている。
     *
 
     * 
 ここで市内観光が終り、自由行動となる。小生はT.D.のO氏に昼食場所を紹介してもらうことにしてそれまで
 街を散策することにする。
 日曜日とあって大半の店はお休み。土産物店などでお土産品を物色しましたが、気に入った物が無く共和国広場
 に戻り、オープン・カフェでコーヒーを飲むことにする。
 目の前では、青色のトラム(路面電車)が頻繁に行き交い、利用者も多い。
 下の画像右は,市内遊覧列車。
     *
 
     *
 『ザグレブ』とは ‘ 堀 ’ とか ‘ 溝 ’ という意味で、丘の上に広がった旧市街から見ると、広場やイリツァ通りが
  ‘ 溝 ’ に当たるというのが地名の由来といわれている。
 また、イェラチッチ総督が戦から戻った際、広場にあるマンドゥシェヴァッの泉の畔で美しい娘に「ザグラビ
 (水を汲んで)」と言ったから『ザグレブ』と名付けられたという説もあるという。
     *
 昼食時間となり、O氏の案内で大聖堂近くのレストラン『P i v o』へ。
 小生はタラのフリッターを注文。生ビールで喉を潤し、まずまずの昼食となる。
     *
 
     *
 これで今回のツアー日程は総て終了し、バスは今日の宿泊地オーストリアのグラーツへと出発する。 
 ところが、クロアチアとスロヴェニアの国境では出国検査のため、バスが数台停まっており、乗客
 一人づつパスポートのチェックをするため、延々と40分ほど待たされる。
 他国からの不法滞在者が多いため厳重に検査しているとのこと。
     *
 バスがグラーツに近づくと、異様に黒い雲に覆われてくる。遂には大粒の雨が降り出す。
 ホテルに着く頃には本降りとなり、雷も鳴り出す。行動中の好天が幸いだった。
     *
 ツアー最後の夕食はホテルのレストランで。
 その内容はスープ、スパゲッティ、ケーキと誠にお粗末な内容にがっかり ! !
 従前のツアーでは “ さよならパーティ ” で盛り上がったのに……。
     *
 空しい気持で部屋に戻り、帰国のパッキングをする間も雷雨が続いていました。
     *
      
     *
 4.00. ホテル → 4.50. ドゥプロヴニク空港 6.25. (OU 661便)→ 7.20. ザグレブ空港 8.00.(バス)→
 8.30. ザグレブ旧市街 … 市内観光 … 13.30. → 14.25. S.A. 14.40. →16.05. クロアチア税関 16.40. →
 17.40. グラーツ・アメディアホテル 214号室 泊
     *
 最近のニュースから。
コウノトリ
 
 【3月26日 AFP】つがいになって12年目の2羽のコウノトリが24日、1年ぶりの再会を果たした。
 オスのコウノトリが長い渡りを終え、クロアチアで待つ体の不自由なメスのもとに戻ったのだ。
 オスの「クレペタン」は越冬地の南アフリカから1万3500キロメートルの旅を終え、羽が傷ついているために飛ぶことがで
 きない「マレーナ」のもとに帰ってきた。 
 同国東部のブロドスキーバロシュ(Brodski Varos)に暮らす元小学校の管理人のスチェパン・ボキッチ(Stjepan Vokic)
 さんは20年前にハンターによって羽を撃たれたマレーナを保護し、それ以後マレーナの世話を続けている。
     *
グラーツ Graz 人口 : 約25万人、 面積 : 127.56?
 オーストリアの人口第 2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。
 郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、グラーツ=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。
 1999年に街の中心部がグラーツ歴史地区として世界遺産に登録された。2003年の欧州文化首都。
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東欧紀行 4

2014-05-10 00:00:00 | 旅行記
平成26年5月10日(土)

 晴天が続く。アドリア海を眺めながらの具沢山の朝食、オムレツも注文する。
 食後、静かなアドリア海の砂浜を散歩する。海鳥は少ない。
     *
 
     *
 ドゥブロヴニク観光のハイライトなのに出発時間が9時とは遅い。
 車中から右手に広がるアドリア海の展望を楽しんだまでは良かったが、現地まで 50分ほど掛かったのは市内へ
 入る車の大渋滞のためだった。
     *
 
     *

 バスは旧市街の外側を通り抜け、旧市街を見下ろす展望台でカメラタイムとなる。
 アドリア海に突出しオレンジ色で統一された屋根の旧市街が見下ろせる。右手にはロープウエイのあるスルジ山。
 まさに絵になるスポットだ。
 『アドリア海の真珠』と呼ばれ、ベネチア共和国と覇権を争った海洋都市。バーナードショウは、「地上の楽園
 を求める者、ドゥプロヴニクに来たれ」と記している。
     *
 しかしながら過去には幾度も大きな被害を受けてきた。最も甚大な被害を被ったのは1667年の大地震のときで、
 街の中心プラツァ通り沿いにある建物で残ったのはスポンザ宮殿のみで、それ以外は総て瓦礫と化した。
 また、1991年のユーゴスラヴィア連邦軍による攻撃も、街の歴史を語るには避けられない悲劇的な出来事だった。
 このとき『危機にさらされている世界遺産リスト』に載るほど街は破壊されたが、その後精力的な修復がなされ、
 1994年にはリストから削除された。
 2010年にはスルジ山のロープウエイも復旧、現在は紛争の傷跡は見られない。
 下の画像は街に貼ってあった 1991年の被害状況のボスター。
     *
 
     *
 バスを降り、先ず行く先は公衆トイレ。というのも街中では公衆トイレが少ないこともあって……。
 ところが、そのトイレの管理人の女性の態度の横柄なことに驚かされる。典型的なお役人という感じで料金を
 徴収している。
     *
 バスを降りた場所に戻り皆さんが集まるまでの間近くの景色をカメラに収める。海上右手と左手に城壁の跡が
 あり、左手は旧市街を囲む城壁の海を見下ろす『ボカール要塞』と分かる。
     *

     *
 我々は西の入口にある『ピレ門』前で、今日のスケジュールとガイドさんの紹介がある。もう大変な混雑であ
 る。
     *
 
     *
 
     *
 『ピレ門』を入ると、真っ直ぐ延びている『プラツァ通り』、中心部の『ルジャ広場』まで続く200mほどの目
 抜き通りだ。
 その通りの両側には銀行、旅行会社、土産物店、カフェなどが立ち並び、狭い路地が網の目のように延びている。
 これらの細い路地がカメラマンの被写体になっている。
 この通りはかっては水路であり、ここより南側が本来の旧市街だったという。
 ピレ門を潜って直ぐ右側にある建造物は、1438年に造られた『オノマリオの大噴水』で、美味しい天然の湧き水
 を味わうことができるというが……。
     *
 
     *
 
     *
 左側には『フランシスコ会修道院』がある。
 ロマネスク様式の修道院で、1337年に建造が始まり、15世紀に完成。しかし1667年の大地震で崩壊その後再建
 されたという。
 後期ロマネスク様式の回廊は、ダルマチア地方を代表する建築といわれている。内部には1391年創業というヨー
 ロッパで3番目に古い薬局がありました。     
 付属の博物館には修道院の宝物の他、陶器の薬壷や処方箋、薬学書が展示されています。
     *
 
     *
 プラツァ通りを半分ほど進み右手の路地に入ると『セルビア正教会』がある。ドゥブロヴニクにはセルビア正教
 徒が古くから住んでいましたが、教会が建てられたのは 1877年になってのことという。
     *
 
     *
 プラツァ通りの東端にあるのは『ルジャ広場』。周囲は『スポンザ宮殿』、『聖ヴラホ教会』などに囲まれ、非
常に華やかな雰囲気。広場の中心には『オルランドの柱』が立っている。
 オルランド(ローラン)は、8世紀にカール大帝に仕えた騎士の一人で、自由の象徴としてこの像は多くの町に建
 てられたという。
     *
 
     *
 聖ヴラホ教会の裏手に『青空市場』があり、ここも大変な混雑だ。ラベンダーや干しイチジク、ハンドメイドの
 品々など数多くの土産物が売られている。妻は干しイチジクを購入。
     *
 
     *
 その先にある『大聖堂』に入る。
 ここは沖合で難破した英国王リチャード獅子心王が助けられたお礼に建てたと言われている。
 12~14世紀にロマネスク様式に改築されたが、1667年の大地震で倒壊。その後イタリア人建築家によってバロ
 ック様式で再建され、1713年に現在の姿になったという。
 祭壇の奥にあるティツィアーノ作の『聖母被昇天』は必見。
     *
 
     *
 『ポンテ門』を潜り旧港へ出る。ここはドゥプロヴニクでも最も古い歴史をむ誇る場所。かってはこの小さな港
 に世界各地を結ぶ交易船がひしめき合い、ドゥブロヴニクの繁栄を支えていたとのとだ。
 北は聖ルカ要塞、南は聖イヴァン要塞に挟まれており、防衛にも万全を期していたことが伺える。
     *
 我々はこれからグラスボートに乗って、アドリア海のミニクルーズを楽しむことになる。
     *
 
     *
 港は北は聖ルカ要塞、南は聖イヴァン要塞に守られていたと分かる。
     *
 
     * 
 穏やかな青色のアドリア海の海風を受けながら、ドゥブロヴニクのオレンジ色の屋根が後景のスルジ山の緑に映
 える美しい風景を眺めているのだ。何とも至福な時が流れていく。
     *
 
     *
 ボートは旧市街の沖合 700mにあるロクルム島に沿って進んでいく。
 この島には3つの美しいビーチがあるリゾートアイランドだ。
 島の歴史は古く、十字軍の時代からの伝説が残っているという。その後ベネディクト会修道院が置かれナポレオ
 ンが解散するまで活動を続け、ハプスブルグ帝国の支配下になると、島は皇族たちに愛されたという。
 岩礁の所々にヌーディストの姿が見られたのも話題になった。
 この舟の船頭さんに声を掛けてみたがナシノつぶて。尤もクロアチア語は分からないが……。
     *
 
     *
 港に入る前には、旧市街から離れた場所にある別荘地帯の様子を見ることができた。
     *
 
     *
 午後は自由時間となって解散。とは言っても事前調査不十分なので、何処で何をしたら良いかが分からず、先ず
T.D.のO氏の案内で日本語のメニューがあるというレストラン・ロザリオで昼食を採ることになる。
 そのレストランでは魚料理を注文。渇いた喉に生ビールとまずまずの味だった。
     *
 
     *
 食後はスルジ山からの展望を楽しむためにロープウエイ乗場へ。
 旧市街を一望できる標高 412mのスルジ山。山頂にはナポレオンが贈ったという白い十字架が立っている。夜に
 なるとライトアップされて、旧市街からよく見えるとのことだ。
 山頂から眺めるアドリア海とオレンジ色一色の旧市街の眺めは素晴らしい。展望所でその美しい眺めを脳裏に焼
 き付ける。
     *
 
     *
 午前中にグラスボートから見たロクルム島も見える。
 また、戦争の際に破壊されたこの山頂にあった砦は『独立戦争展示館』として利用されていました。
     *
 

 スルジ山を降りてドゥブロヴニク最後の観光に、聖ルカ要塞の入口から城壁の遊歩道に上がりました。
 旧市街を取り囲む城壁は全長 1,940mあり、高さは最高で 25mあるという。
     *
 
     *
 城壁の途中にはミンチェタ要塞を代表に、要塞や見張り塔、稜堡が築かれており、見るからに堅牢だ。
 旧市街の大部分を破壊した 1667年の大地震の際も、城壁だけは殆ど被害が無かったという。
 ドゥブロヴニクが城壁に囲まれたのは、町の誕生間もない8世紀のこと。現在見られるような形になったのは、
 15世紀から16世紀にかけての大工事によってのことという。
 城壁からの眺めはアドリア海の青と瓦屋根のオレンジが対比されて、非常に美しい。
 ただ問題は階段の上り下りが思った以上に急で、しかも折からの日差しが強く、すっかり汗をかかされてしまっ
 たことだった。
     *
 
     *
 
     *
 特にミンチェタ要塞の展望台に上がる階段の傾斜が急で厳しかったが、ここからは旧市街やロクルム島が総て眺
 められる絶好の場所だった。
 これ以上は無理と一周を諦め、ピレ門の脇に降りる。
     *
 
     *

 
     *
 我々を案内して頂いた丁.D.のO氏とともに、プラツァ通りの入口にある喫茶店のアイスクリームで喉を潤す。
 気が付くと妻の顔が日焼けで赤くなっていた。    
     *
 それぞれの自由行動を楽しんだ一行を乗せたバスは、夕食場所のレストラン『TEATAR』へ。
 海鮮料理ということで期待したが、ムール貝2個が乗ったリゾットだけだったのにはがっかりだった。
     *
      
     *
 残念な気分の我々を乗せたバスは、暮色の濃くなりつつあるアドリア海を見せながらホテルへと戻りました。
 両足のふくらはぎが痛くなるほど歩いた、心地良い疲れの一日でした。
     *
 9.00. ホテル → 9.50. ドゥブロヴニク旧市街 … アドリア海ミニクルーズ … 昼食(ロザリオ)…
 スルジ山(ロープウエイ)… 城壁半周 … 17.30. → 17.50.夕食(ティアター)19.20. →
  19.50. グランド・ホテル アドミラル 泊
     * 
ドゥブロヴニク Dubrovnik 面積 : 21.35?、人口 : 42,615人 
 アドリア海に面した城塞都市ドゥブロヴニク。「アドリア海の宝石」と呼ばれ、ヨーロッパではもっとも美しい
 地中海都市のひとつとされています。1979年に世界遺産に登録されました。
 街の歴史は古く、ローマ帝国時代またはそれ以前に溯るとされています。そして、15~16世紀には地中海の海上
 交易で繁栄し、最盛期を迎えます。街には聖堂や宮殿が建ち並びました。
 しかしながら、20世紀末の内戦で2000発の砲弾、爆弾を浴び、街は壊滅状態に陥り、危機遺産に登録されました。
 1995年以降、市民たちの手によって再建され、1998年に危機遺産リストから除外されました。
 オレンジ色の屋根で統一された建物が立ち並ぶ美しい市街は、15~16世紀に貿易で栄えた当時の面影が今も残っ
 ています。
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東欧紀行 3

2014-05-09 00:00:00 | 旅行記
平成26年5月9日(金)

 朝食前、ホテルの付近を散歩する。工場・倉庫街とあって雰囲気は良くない。
 何故このような場所のホテルを選んだのか、折角のツアーの印象をマイナスにしてしまう。
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 今日の最初の訪問地は、バスで30分ほどの世界遺産登録地でもあるトロギールへ。
 紀元前 3世紀にできたギリシャ人植民都市が町の始まりという。
 11世紀には司教地区ができ、ハンガリー王の支配下に入るが、自治権を持つ都市として繁栄したという。
 その後は 1420年から1797年までベネチア、19世紀にはハプスブルグ家に支配された。
 島ではあるが、陸地と橋で繋がっており、周囲は城壁で囲まれている。
 中世そのままの旧市街は世界遺産に登録されており、市庁舎や時計塔、数々の教会があるが、最大の見どころ
 は聖ロヴロ大聖堂。扉に彫られたアダムとイブの像は、クロアチアの宗教美術の代表作といわれているそうだ。
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 バスは島の手前にある駐車場に止まる。そこから橋を渡って島に入り、待ち受けていたガイドさんの案内で歩
 くことになる。午前中早い時間でも大変な混雑だ。
 下の画像左は駐車場から見たトロギール、右は北門。
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 橋を渡ると北門がある。門を潜ると突然中世の時代に紛れ込んだような雰囲気の街並となる。
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 この北門の先にあるのが『トロギール博物館』。
 先史時代から近代までのトロギールに関する展示品を集めているという。建物の1階ではギリシャ時代の城壁の
 跡がある。
 博物館の前の道を東へ進むと『イヴァン・パヴォア・ドゥルギ広場』に出る。ここが観光の中心地で『聖ロヴロ
 大聖堂』、『市庁舎』、『時計塔』などがある。
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聖ロヴロ大聖堂 
 トロギールを代表する建築物。建築が始まったのは13世紀初頭だが、完成したのは17世紀になってからという。
 そのため教会内には様々な建築様式が組合わされている。
 鐘楼の窓を見ると各階層毎に異なる様式になつているのが分かるようだ。
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 広場から南に進むと南門があり、門を出て東にはチオヴォ島とを結ぶ橋があり、西はカメルレンゴの砦へと通じ
 ている。
 棕櫚の並木が海岸沿いにあり、並木に並ぶように屋台が出ている。既に多くの観光客が来ており、真夏のような
 太陽の日差しを受けて、南の國にいる感じだ。
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 ガイドさんがこの通りにある地図で街のポイントを説明し、自由時間となる。
 小生は海岸通を西に進んでカメルンレンゴの砦に向うことにする。
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 強い日差しの中『ドミニコ会修道院』の前から、停泊中の船舶が並ぶ海岸通を砦へと歩く。
 『カメルンレンゴの砦』は、15世紀にベネチア人によってそれまであった塔を改築したものという。
 1420年に始まるベネチアのダルマチア支配に対して、トロギール市民はしばしば反乱を起こしており、ベネチア
 人にとってこの砦は外敵だけではなく、市民から身を守ることも目的とされていたとのことだ
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 その後裏通りを歩いて古き時代の街並を見ながら集合場所へと戻りましたが、暑さにたまらずアイスクリームで
 喉を潤しました。
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トロギール TROGIR 面積 : 39.10?、人口 : 13,322人
 トロギールは 2300年に亘って続く植民都市としての伝統で人々を魅了してきた。
 豊かな文化は古代ギリシャ、古代ローマ、ベネチア共和国の影響から生み出されたものである。
 トロギールには小さな島の中に宮殿、教会、塔が多数、そして要塞もある。
 トロギールには、アドリア海沿岸のみならず中欧でももっとも保存状態のよいロマネスク=ゴシック建築群
 がある。
 中世から続くトロギールの中心部は城壁で囲まれ、城、塔、住居、宮殿など、ロマネスクからゴシックルネ
 サンス、バロックといったさまざまな時代の建物が保存されている。
 トロギール最大の建物は聖ラウレンティウス教会で、その西正門はラドヴァンによる傑作であり、同時にク
 ロアチア国内でもっとも顕著なロマネスク=ゴシック様式の作品である。  【ウィキペディア】より
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 バスは宿泊したスプリットへと戻り、改めて古代要塞都市の市内観光をすることになりました。
 スプリットの街へ入ると、露店で帽子を売る店が目立ちました。また地元の子供達の遠足でしょうか、先生
 に引率されたグループもありました。
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 我々は海岸通にある案内図の前でガイドさんから街の概要について説明を受け、宮殿の地下から観光することに
 なりました。
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 スプリットは、アドリア海沿岸の中心都市で、クロアチア第2の都市。
 293年にディオクレティヌス帝が神殿を建てたところの近くにあった主要都市サロナが異民族の侵入により放棄
 され、市民が宮殿の周囲に移住してきたのが町の始まりだったとのことだ。
 12~14世紀には自由都市として繁栄し、その後ベネチアの支配下に入ったという。
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ディオクレティアヌス宮殿 : Dioklecijanova pala�a
 3世紀末から 4世紀初頭にかけてディオクレティアヌス帝によって建てられたものである。
 旧市街と同化しており、宮殿の一部は民家やカフェになっている。
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 海岸通にある南の門から入るとショップがあり、その先に地下が続いています。
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宮殿の地下
 
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 ディオクレティアヌス宮殿の南半分は皇帝の私邸として使われていましたが、その地下には巨大な空間が広がっ
 ています。建築上の地下室の役割は宮殿の上部を支えることで、そのため地下と地上階は同じ造りになっている
 という。
 つまり宮殿の本来のプランが、地下を見ることによって分かるようになっているという訳だ。
 中世になると、倉庫として使われたり、ワインやオリーブオイル造りなどににも使われたが、都市化が進むにつ
 れて、ゴミ捨て場として使われるようになったという。
 地下室にはディオクレティアヌス帝の胸像や、中世に使われた圧搾機が置かれているほか、歴史を紹介したパネ
 ルなどが置かれているが、展示品数はあまり多くない。
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 現在は花の展示会が催され、華やかな雰囲気に溢れており、見学する人も多い。
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大聖堂
 ロマネスク様式の聖ドムニウス大聖堂。元々ディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられたが、後にキリスト
 教の教会として利用されるようになったという。   
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ジュピター神殿
 洗礼室となっているジュピター神殿。天井部分は美しい文様の彫刻が施されており、中央に置かれている洗礼盤
 には、中世クロアチア王国の国王(クルシェミル4世、もしくはズヴォニミル)が彫られている。
 入って正面には、イヴァン・メシュトロヴィッチ作の洗礼者ヨハネの像が置かれている。
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前 庭
 青銅の門から北へ向かうと、まず地下を通り,その後円形の形をした広間に抜けます。
 この広間が前庭で、皇帝の私邸の玄関の役割をしていた場所。現在は天井に穴が開いていますが、かってはモザ
 イクで装飾されたドームで覆われ壁の所々に開けられた窪みには彫像が置かれていたという。
 ここでは男声合唱のクラバ(アカペラのコーラス)が行われていました。
 その階段下の隅ではギター演奏をしている人がいて “ アルハンブラの思い出 ” を演奏していました。
 ふと上空を見上げると、パラグライダーで空から見物している人を見かけました。
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青空市場
 ディオクレティアヌス宮殿の東側にある青空市場。銀の門を出て南東に行くとある。早朝からオープンし、昼前
には閉店となるとのこと。品揃えは豊富、野菜・花が中心で、見応えたっぷり。
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 また、金の門を出たところに巨大なグルグール・ニンスキーの像があり、左足の親指に触れると幸運が訪れると
 いわれており、その部分がピカピカになっている。皆さんも早速触れている。
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 遅くなった昼食は、アドリア海に面したレストラン『グサール』で。
 渇いた喉には生ビールが何より、それにアドリア海の海の幸、イカのグリルが美味しかった。
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 レストランの前にはアドリア海が広がり、ロケーションもいうことはありませんでした。
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 食後、今日の宿があるドゥブロヴニクへと向かいました。距離約 227km、約 4時間半のバスの旅です。
 車窓右手にはアドリア海が見えつ隠れつして目を楽しませてくれます。
 途中、トイレ休憩したG .S .は3Knのチップが必要でした。
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 スプリットからドゥブロヴニクへ行くにはボスニア・ヘルツェゴヴィナのネウムを通過することになる。
 つまり、ドゥプロヴニクはクロアチアの飛び地ということになるとは知らなかった。
 ここネウムのS.A.でトイレ休憩した際には、近くにあるスーパーでショッピング・タイムとなる。
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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 人口 : 388万人、面積 : 51,129 ㎢
 長い間オスマン朝の支配下にあったためトルコの文化的影響が強く、東西の要素が交じり合う魅力にあふれる國。
 20世紀末の戦争の悲劇を乗り越え、新たな道を歩み始めている。
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 ようやく19時近くになってドゥブロヴニク・スラノ地区にあるグランドホテル・アドミラルに到着。
 デラックスホテルなので、アドリア海に面した部屋は設備など申し分なし。
 夕食はバイキングスタイルで、品数も豊富でした。
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 8.10.ホテル(バス) → 8.40. トロギール 10.30. → 11.10. スプリット 13.00. → 13.15. 昼食 グサール 14.35. →
 15.35. G.S. 15.50. → 17.35. S.A. … 17.45. スーパー 18.15. → 18.50.グランドホテル アドミラル 115号室 泊
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