るるの日記

なんでも書きます

行政の怠慢は、28年過ぎてやっと表にでた

2020-10-07 12:00:23 | 日記
昭和48年
広島市周辺部で「黒い雨」の影響が問題になっていた。

原爆被爆者は「原爆医療法」によって医療の特別な援助を受けられるようになっているが、黒い雨による放射能の影響を受けた人たちの多くは、医療援助から除外されていた。

原爆医療法によれば
※爆心地から3キロ以内て被爆した人
※原爆投下から2日以内に爆心地から2キロ以内に入った人
※黒い雨が降った残留放射能濃厚地区(特別被爆地域)で被爆した人

など、放射能の影響を強く受けた人は「特別被爆者手帳」を交付され、医療の無料化が図られている

黒い雨の「特別被爆地域」に指定されているのは、わずかに広島市西部の草津町と、北部の祇園町だけであった
このため、同じように黒い雨の降った広島市西方、北ほうにかけての住民は、指定地域の拡大を要求しているが、広島市や厚生省はこれらの地域は放射能汚染のデータがはっきりしないなどの理由で「特別被爆地域」の指定から外していた

当時、気象台では山村まで出向いて実地調査をし、それをまとめた報告書があることは、行政も知っているはずだった。
原爆直後に黒い雨が豪雨となって降った地域は、広島の北西19キロの山村にまで及んだことを、降雨域の地図をつけてその報告書に記した。にもかかわらず行政は、黒い雨の「特別被爆地域」を一部の草津町と祇園町だけに限定していた

理由があるとすれば、山村地域には残留放射能データがないということだ。山村での放射能測定は行われなかった。だが降ったものは同じ黒い雨。

たとえ放射能の測定記録がなくても、気象台員たちが調べた「聞き書き」には、山村でも川の水が真っ黒になって魚類が死んだり、牛が下痢したり、草刈りの女の人の手が放射能による火傷を負い、雨に打たれた後寝ついて死んだ農夫、、などが記されていた

黒い雨の問題は28年間放置されていた。気象台の科学的データは生かされておらず、行政は怠慢だった

原爆による後遺症・津村正樹の場合

2020-10-07 11:15:56 | 日記
終戦後の広島地方気象台

本科生だった津村正樹(仮名)
原爆で全身火傷を負い、肉が滑り落ちるほどの苦しみを味わったが、奇跡的にその年の秋までに治癒し、中央気象台の養成所に帰っていた。

終戦の翌年春、養成所を卒業すると北海道内の気象台に配属。秋には広島に転勤になった。間もなく、岩国の進駐軍基地の気象隊に出向

当時人員整理が始まった頃で、進駐軍に出向すると、いずれ人員整理の対象にされるという噂があったが、津村は自ら出向を買って出たのだ。津村は人が嫌がることをあえて引き受ける性格だった。自分が損をすることでも進んでやるので、同僚からは「お前は変わっている」と言われたりした。津村はそう言われても無頓着に「いいんだよ」と答えていた

昭和25年津村は中央気象台職員に身分が戻り、翌年には遥か「鳥島」の測候所に発令された。

津村な鳥島に勤務してしばらく経ったとき、鳥島から中央気象台に入電する気象情報が時々明らかに間違っている数字になっていることがあった。
中央気象台では奇妙な気象情報に驚き調査をした結果、発信者は津村であり、ナマの観測値を規定通りに更正せず打電していたことが明らかになった。

本科を出て、4年も現場経験を積んだ津村が突然こんな誤ちを犯すのはおかしいというので、中央気象台では津村に事情を聞いた。津村の態度や口ぶりから異常なところがあると感じた中央気象台の幹部は、津村を精神神経科の病院に連れて行き、診断を受けさせた。
津村はやはり病に侵されていた。精神分裂病に侵されていたのだ。津村は入院することになった

広島から姉が駆けつけた。電気ショック療法を受けている津村の姿を見た姉は耐えられず、津村を連れて帰った。それから3年ほど経ち見舞いに訪ねたが、津村の表情は動かなかった。忘却、、

被爆者の精神障害が原爆に起因するものかわからないが、津村の場合、被爆によって受けた肉体的精神的打撃の大きさを考えると、原爆が精神神経の領域まで後遺症を残すことは十分ありえるように思う



観測精神

2020-10-07 10:34:59 | 日記
呉の測候所は海軍用の観測所であり、中央気象台の組織とは関係がなかった。民間への天気予報とは関係のない測候所であり、敗戦後は閉鎖の運命にあった。

にもかかわらず、台風の中に欠測なく観測記録を取り続けた四人の測候所員がいた。木村芳晴(30歳)の技手。伊藤、川村、新田という若い技生だ

木村技手は呉鎮守府軍属の測候技手だったが、中央気象台測候技術官養成所に委託学生として派遣され、そこで半年間学んだ経験を持っていた。

養成所では「欠測してはならない」という観測精神をたたきこまれていた。木村技手は、日々観測を守り続けていた

こうして枕崎台風の際に呉市に大災害をもたらした豪雨データ(9月17日午後6時から10時までの4時間に113.3ミリという呉測候所開設以来の記録的豪雨だった)が残され、この地方の豪雨災害研究の貴重な資料となった

その後呉鎮守府測候所は、昭和21年4月広島管区気象台呉臨時出張所となり、昭和24年には呉測候所となった

枕崎台風災害は人為的災害

2020-10-07 10:06:28 | 日記
枕崎台風の豪雨によって、急斜面の呉市では山津波や山崩れや河川の決壊が無数に発生し、二千戸近い住宅が全半壊または流出。1154人が犠牲になった。広島県の死者行方不明2012人のうち半数以上は呉市の犠牲者であった。

災害の後、呉市民の間には「戦争で火攻めにあい、今度は水攻めにあった。正月頃には食攻めにあって餓死するだろう。なぜ天はこうまで我々を苦しめ抜かねばならぬのか」という悲痛な叫びが聞かれた

呉市における枕崎台風災害を大きくした人為的な誘因がある

※戦時中の山林の伐採、松根の採取、軍用道路の建設、防空壕の掘削、爆弾の投下、などによって山が荒廃していた

※呉市は軍港都市として、特異な発展をしたため、山腹や渓谷沿いに無計画に家屋が建てられ、渓流がゆがめられて、河川としての取り扱いがなされていなかった

※終戦直後のことで、気象予報がなかったために市民はこのような大災害が起きることを予知できなかった。また人心が不安定で弛緩しており、災害に対して備える心構えなど全くなかった

あの災害は自然災害ではなかった。戦争、敗戦という時代に広島という場所におこった枕崎台風は、広島県だけで二千人を越える犠牲者を出さなければならなかった必然性を持っていた

広島管区気象台の機能回復の遅れ

2020-10-07 09:39:22 | 日記
気象管制が昭和20年8月22日解除され、東京では即日ラジオの天気予報が再開され、新聞には翌日朝刊から天気記事を載せた

広島管区気象台はいつから天気予報を再開させたのか?気象台に記録は残っていない。
新聞の天気欄は他県の分ばかり。広島地方の天気予報を新聞で見ることができたのは、翌21年3月13日になってからであった。

この事柄だけでも、広島管区気象台の機能回復がいかに遅れていたかを物語っている。枕崎台風来襲当時、予報業務は満足に行われていなかった