るるの日記

なんでも書きます

枕崎台風は原爆災害の延長線上にある

2020-10-07 09:25:57 | 日記
北は広島市が編纂作業する「広島原爆戦災誌」のための報告をまとめるにあたって
■当時の気象台の置かれた状況を浮き彫りにしたい。
■気象台としての原爆の記録には、【枕崎台風の災害を原爆災害の延長線上にあるもの】として併記しなければならないと思った

広島気象台へ戻った北の使命

2020-10-07 09:10:24 | 日記
北が昭和41年、50代半ばを越えようとしていた頃、各地の気象台や測候所の勤務を経て広島地方気象台に戻った。

北は定年まで数年。自分の人生が砂時計のように見えてきた。失われていく砂の速さを思ったとき、今のうちに何かをしなければならないという苛立ちを覚えた。広島に戻ったのは何かの巡り合わせかもしれない。この機会に当時のことを記録にまとめて残しておくのだ。北は決意した。

この頃広島市では、「広島原爆戦災誌」の編纂が始められていた。これは機関別と町別の被災状況や体験記をすべて記録しようという画期的な事業であった。

北は編纂委員から気象台の被害状況と、当時の気象記録について執筆を依頼された。北は個人的にもまとめようと思っていた折りでもあったので、編纂委員からの依頼を進んで引き受けた



気象台改革による組織整理

2020-10-07 08:48:37 | 日記
戦後数年間は気象台にとって激動の時代であった。

終戦直後、藤原咲平中央気象台長は軍気象部や戦地の気象隊からの復員者をできるだけ吸収する方針をとったが、その結果気象台職員は大幅にふくれ上がった

これに対しGHQは、国家公務員や公共企業団体の職員の人員整理の一環として、中央気象台に対しても大幅な人員整理を指定してきた。

藤原の後を継いだ和達中央気象台長時代は、人員整理と労働争議と組織の立て直しの苦難な時代だった

和逹は昭和24年11月1日、全国の気象官署の大規模な改革を行った
東京、大阪、福岡、仙台、札幌の5つの管区気象台を地方中枢として、すべての地方気象官署を所属させるというもの。

時代はめまぐるしく変わった。昭和24年9月にはソ連が原爆実験に成功。翌25年6月には朝鮮戦争勃発した。日本の前途は多難に見えていた。

GHQと気象台

2020-10-07 08:26:47 | 日記
昭和22年3月
藤原咲平は中央気象台長を辞職し、参議院選挙に出馬しようとしたが、その意思表示した直後に公職追放の指定を受けた。戦時中大本営の幕僚であったことが追放の主な理由であった。この追放によって藤原は悲運の晩年を送ることになった

昭和22年11月
広島気象台の北は「原爆災害調査報告」を、市内の印刷屋に500部印刷するように依頼。広島の関係機関や中央気象台の研究者などに配ろうとしたのだ。

33頁の小冊子が出来上がって気象台に納入され、翌日いよいよ各方面に発送しようとしたところへ、どこかでかぎつけたのか進駐軍が現れた。原爆災害に関する文書を許可なく印刷配布することはダメだと言って、せっかく印刷した「原爆災害調査報告」を没収して行った

北は以外と平然としていた。
「こんなこともあるかと、百部だけ別に隠しておいたんだ。これだけでも残しておけば、いつか役に立つときが来るだろう」
北はそう言った。

GHQは連合国が不利益になる、原爆に関する報道規制をしていた

2020-10-07 08:05:28 | 日記
昭和20年11月広島。原爆焦土の復興は遅く、焼け野原は寒々と広がっていた。

11月29日気象台会議室で原爆調査の報告会が開かれた。この報告会は台長や技術主任らが、なぜ日常業務の一部を犠牲にしてまでもあちこち出歩いて調査に没頭していたかを無言のうちに説明していた。

若い台員の中には上級者の不在について面白くない空気が流れていた。しかしこの日、原爆災害調査の報告会が終わるとそうした空気は払拭されていた

ところが、中央気象台からの連絡によると、GHQが日本による原爆研究の国民への発表は許可しないという方針を明らかにした。

これより先、すでに9月19日にはGHQから「連合国に不利益となるような報道」を禁止したプレスコードが指令され、原爆に関する報道も影を潜めていた。そこへさらに学術的なものでも発表を禁止する命令が出されたのだった。

広島の気象台でまとめられた原爆災害の調査報告がいつ日の目を見られるのか、全くわからない状態になった