るるの日記

なんでも書きます

立正安国論 2 (るる訳)

2020-10-17 16:06:39 | 日記
法然という者「選択集(せんちゃく集)」を作り、一代の聖教を破し、衆生を迷わす

【道綽禅師】は聖道と浄土の二門を立てて、聖道を捨てて、正しく浄土に帰する

【曇鸞法師】菩薩を求むるに二種の道あり
一に難行道これ聖道門
二に易行道これ浄土門

【善導和尚】正・雑の二行を立て、雑行を捨て、正行に帰す
読誦雑行とは往生浄土を除いた諸経
礼拝雑行とは阿弥陀如来以外の諸仏菩薩、諸天を礼拝すること

【観無量寿経】速やかに生死を離れようと欲せば、しばらく聖道門をおいて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入ろうと欲せば、しばらく雑行をなげうち、選んで正行に帰すべし

■道綽・曇鸞・善導は聖道・浄土・難行・易行を建て、大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩、諸天たちを皆、聖道・浄土・難行・雑行として、「捨て・閉じ・おき・なげうつ」この四字をもって多くの衆生を迷わした

十方の仏を皆、群賊と号し
浄土三部経の「唯除五逆誹謗正法」の誓文に背き、法華経の「もし人信ぜずして、この経を誹謗せば、その人命終って阿鼻地獄に入る」の経文に迷う者なり

直道を忘れ、徒(いたずら)に邪心を催す。故に国王より土民に至るまで皆、経は浄土三部の外なく、仏は阿弥陀仏の他無しと思っている

法然の選択集によって、教主を忘れて西土の仏を貴び、付属をなげうち、妙典をなげうち、皆念仏の者となる。故に仏閣零落し、瓦松の煙老い僧房荒廃して、庭草の露深し。しかりといえども護る心を捨て建立の思いを廃す。これをもって住持の聖僧出て行き帰らず、守護の善神去って来ることなし。これひとえに法然の選択による。悲しいかな数十年の間魔縁にとろかされ多くの人仏教に迷えり



立正安国論 1 (るる訳)

2020-10-17 14:37:04 | 日記
【1296年日蓮が駿河国・実相寺にて執筆し鎌倉幕府事実上最高権力者・北条時頼に提出した手紙。当時は地震、暴風雨、飢饉、疾病が続いた】

近年より近日に至るまでの天変地異、飢饉、流行り病は天下に充ち、人々を死に招く

ある者は阿彌陀佛の名を唱え
ある者は東方如来の経を唱え
ある者は法華真実の経を唱え
あるいは七難即滅七福即生を信じて百座百講の儀式を行い
あるいは秘密真言の教えによって五升の水をそそぎ
あるいは座禅入定の儀をまっとうし空観の心となり
もしくは七鬼神の名を書して門に張り
もしくは五大力の形を描いて戸にかけ
もしくは天神地祇を拝して四角四界の祭祀を行い
もしくは万民百姓を哀れんで国主徳政を行う

しかし、いよいよ飢饉・疫病にせめられた貧しき者はあふれ、臥せる屍は路に充ちる

この世が、このように衰え廃れていくのは、これ如何なる禍により、これ如何なる誤りによるか

出家して道に入る者は、法によって仏を期待する。しかし今神術もかなわず、仏威も験(しるし)なし

今の世を具(つぶさ)に見ると、愚かな故に疑いの思いを起こしている。恨みを呑み、うらおもいを深くしている。世はみな正に背き、人ことごとく悪に帰す。故に善神は国を捨てて去り、聖人は所を辞して還らず。これをもって魔が来、鬼が来、災起こり、難起こる

世の人々はみだりに邪説を信じて正教を弁えず。故に諸仏、捨離の心生じて擁護の志なし。よって善神聖人国を捨て、去る。これをもって悪鬼災いを成し難を致す

【仁王経】「諸の悪比丘多く、名利を求め、国王の前に於いて、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説く。国王わきまえずして此の言葉を信じて、邪に法制を作る。これを破仏・破国の因縁となす」

【法華経】「悪世の中の比丘は邪智にして慢の心充満す。あるいは自らだけが真の道を行していると思い、人間を軽賎す。乃至常に大衆の中に在って我ら法華経行者を誹謗中傷しようと欲し、国王及び比丘衆に向かって法華経行者の悪口を言い、悪を説く。これ『邪見人の論議を説く』と言う。悪鬼その身の中に入り我ら法華経行者をいっそう憎みたたく」

【涅槃経】「正法滅して後、像法の中に於いて比丘あるが、少し経を読誦し、飲食を楽しみ、その身を保養し、外には賢善を現し、内には貧嫉を懐く、実は沙門にあらずして沙門の像を現し邪見強情にして正法を誹謗する」

経文について世を見ると、誠にもって然りなり。悪僧侶をいましめなければ、善事を成さん


宗教は幸せに生きるための手段

2020-10-17 10:02:07 | 日記
日常生活で「何でもよい」ということはありえない。必ずAよりもB、BよりもCというように価値のより高いものを求めるのが当然。学問として、知識として、知っておく程度なら何でもよいが

スーパーの店頭で、たくさんの牛肉が並んでいる。それをただ眺めているなら何でもよい。しかし実際自分が買うとすれば、安くて良い牛肉で今自分が一番食べたいと思う物を買うに決まっている

宗教は生活と無関係であるわけではない。実際に自分が信仰すれば、その教えの是非、善悪がただちに生活の上に現れてくる。イワシの頭でもキツネでも孔子でも釈尊でも何でもいいのは、実際に信仰せずに見ているならよいだろうが

何事を成すにも目的を確立してかからなければ盲道を歩く。目前の目的と大目的を持つ。目前の目的だけだとすぐ行き詰まる。最大の目的の手段が小目的である

目的の確立には、幸福の内容をはっきり掴まねばならない。人間は誰でも幸福を求めている。

信仰によって自分を知るのも手段であり、自分を知ることで宗教を越えた大きな生きる目的を知ることができると、るるは信じている

認識と評価

2020-10-17 09:30:37 | 日記
■評価とは、対象と自分との力関係を意識すること(対象が主観を感動させた量)。主観的

※評価は対象を見て、美か醜を感じ、利か害か感じる。その判断で、主観的気分や個人の生活状態に支配され、客観的標準は成り立たない

※評価の対象は、主観の自分に何らかの反応を与える。したがって評価主体の自分は冷静な態度でいることなく、強い感情的主観反応を持つ

■認識とは、対象が自分の主観に映った印象を補足する。客観的

※認識は客観的な標準があり、それに当てはめて有・無・同・異を確かめて判定する
何人が見ても真偽・正邪の判定は異ならず同じ。真理は一つ

※認識の対象は、主観の自分に対して直接関係がないか、軽微な関係しか持たない。したがって認識主体の自分は対象に対して冷静に眺めて客観的にとどまる

■このように認識と評価の両作用は異質の精神作用であり、認識して評価する場合と、評価してから認識する場合がある。

認識のない評価は、食わず嫌いや、盲信
評価のない認識は、対岸の火事。生活に直接実証されない学問

■認識と評価の混乱する弊害
「これは何ですか」という質問に「そんなことが判らないのか!バカなやつだ」と答えたとする。質問者は何であるかの認識を求めているのに、答える者は質問者の人格を評価しているので、これでは答えにならない。社会の混乱は認識と評価の混乱から起こっている